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 『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』(岸田秀、新書館)

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 (つづき)

●欧米人の傲慢をたしなめたバナール

 本書はマーティン・バナールの『黒いアテナ』(1987年ラトガーズ大学刊、邦訳2004年藤原書店)に対する共感的批評と自説の展開というかたちをとっている(Bernalはバーナルと読むべきではないか)。これは書評にありがちなことだが、ある記述がバナールの意見なのか岸田の意見なのか判別しがたいところもある。だいたい意を同じくしているようだからかまわないのだろうけれど。

 バナールは「ギリシア文明はギリシア人自身が独自に築いたものではなく、エジプト文明およびフェニキア文明を起源とする借り物だ」と唱え、欧米の反発をくらった。ギリシャ・フェニキア・エジプトの3地域は狭い地中海を囲んでいるから、互いに影響を与えあっていたとしても何の不思議も感じられないのだが。じつはそれだけでなく「エジプト文明は黒人文明だった」と主張した。それで白人の顰蹙を買ったのだ。自分たちの文明の起源はギリシア文明だと思い込んでいるヨーロッパ人にとって、ギリシア文明がどこかよその文明の影響を受けているというだけでも許せないのに、それをさらにさかのぼると黒人文明だったなどといわれたひには絶対に認められないらしい。バナール自身は「『黒いアテナ』の政治的目的は、もちろん、ヨーロッパ人の文化的傲慢をたしなめることである」と表明しているのだから、顰蹙を買って本望だったろう。

 『黒いアテナ』に対し多くの欧米知識人が徒党を組んで反論したのが『黒いアテナ再考』という本で(邦訳は未刊のようだ)、岸田はそれについても十分に紹介している。ただし批判的紹介だ。「それぞれの民族はそれぞれの文化を持っているのだから、ヨーロッパ文明に劣等感などいだかずにそれぞれの生き方をしていればいいのだ」という彼らの意見を紹介したうえで、欧米がアジア・アフリカを侵略する以前ならそういう論理も成り立つが、さんざん搾取しておいてそれはないだろうと反論する。

 エジプトはアフリカ大陸にあるのだから古代エジプト人が黒人だったということはあり得ないことではない。南部へ行けば行くほどネグロイドも増えていっただろう。しかしアフリカというより地中海沿岸といった印象をわたしは受けるし、現在のエジプト人の平均的な顔色は日本人よりは黒いが、いわゆる黒人ではない。ツタンカーメンもマスクを見るかぎりではネグロイドの顔のようには見えない。数千年も続いた文明だから途中でいろいろな交代があったとも考えられる。

 そんなこんなでバナールの意見を聞いておもわず膝を打つほどの共感はできないものの、とにかく欧米の白人にとってはすべてにおいて白人が一番でなければならないのだという主張にはさもありなんと思う。わたしが有色人種だからだろうか。

 エジプト文明とギリシア文明との関係は、中国文明と日本文明との関係に似ていると岸田はいう。日本文明は日本人が独自につくりだしたもので、中国の亜流であることは認めがたい。そこで天孫降臨神話を生み出したり、戦時中ことさら中国人を蔑視したのだという。なるほど。今でも多くの日本人が蔑視はしないまでもどこか中国人や朝鮮半島人を低く見たがるのは、古代から連綿とつづく劣等感の裏返しなのかもしれない。もし旧占領地のひとびとゆえに低く見るということなら、東南アジアや南方諸国を蔑視してもいいはずだが、日本人のなかにそういう意識はない。となると岸田のいうように、かつて、それも大昔その支配下にあったからこそ、いま見返す必要があるのだろう。

 これであれだなあ、もし「蒙古襲来」が成功していて日本がモンゴルの支配下に置かれていたなら、いまごろ大相撲のモンゴル人力士には生卵でもぶつけられるのだろう。いやそのまえにモンゴル相撲が国技になってるか。

●コロンブスより鄭和のほうが100年も昔

 痩せた土地、絶えざる戦争、ペストの大流行……近代までのヨーロッパは世界中で最も不幸だった。《世界各地の「未開」民族がのんびりと豊かな生活を楽しんでいた時代にヨーロッパ民族は貧しさと惨めさのどん底を這いずり回っていた。他の民族には見られないこの類いまれな悲惨さが近代においてヨーロッパ民族を特異な飛躍と発展へと向かわせた最大の動機であると言えよう。ここにヨーロッパ民族のひときわ強い被害妄想、屈辱感、劣等感、復讐欲、残忍性、攻撃性の起源を見ることができる。》雪辱の熱望こそ民族をうごかすという、これが岸田の唯幻史観だ。

 かくて「大航海」という名の世界征服が始まり、のんびりした非ヨーロッパの諸民族はまたたくまに征服され、《ヨーロッパと非ヨーロッパとの貧富の差は逆転し、ヨーロッパ民族は、それ以後、世界各地から搾取した富で世界一豊かな民族となった。》

 北京オリンピックの開会式では中国の誇る4大発明として紙・火薬・活版印刷のほかに羅針盤が挙げられていたが、本書を読むとあれはヨーロッパ製世界史に対する異議申し立てであったことがわかる。ヨーロッパの「大航海」より100年も前に明の鄭和は60数隻3万名ちかくの規模で《ペルシア湾、東アフリカまで達したが、渡航先の住民と平和的に文化交流や商取引(朝貢貿易)を行っただけで、住民とのトラブルはなかったし、船員がその地に住みつくこともなかった。しかし、コロンブスやヴァスコ・ダ・ガマなどの一団は、渡航先の住民を拉致し、虐殺し、女を強姦し、物品を強奪し、街に放火し、犯罪集団さながらであった。そのため、マゼランもキャプテン・クックも住民に殺されている。》そうか、それで殺されたのか。説得力のある見解だ。野蛮な土人に殺されたのだというわたしの思いこみは、ヨーロッパ製世界史による洗脳の結果だったのだ。3万名の鄭和の航海(1405年)が第1回とされず、100名たらずのコロンブスの航海(1492年)が「大航海」の幕開けとされているのだから、岸田でなくても義憤に駆られるだろう。

 引用文中の「朝貢貿易」が気になった。どちらが上なのだろう。いまネットで調べると、鄭和がおこなったのは「厚往薄来」(ギブが多くテイクが少ない)の貿易であるという。相手が上なのだ。ずいぶん美しい中国人像だが、それはともかくこういうときネットは便利だとつくづく思う。

●植民地を正当化するために始まった白人至上主義

 16世紀までは西洋人もまだマトモだった。コペルニクスの地動説もエジプトの太陽神信仰に影響を受けたものだとコペルニクス本人が認めている。謙虚なものだ。ところが17世紀にアメリカ大陸やアフリカ大陸の植民地化が始まると、《これらの犯罪行為を正当化する必要が生じ、ヨーロッパ中心主義、白人の優越を掲げる人種差別思想が形成される。》(ここは本書のキモだろう。)そうなると西洋文明が他人種の影響を受けていることなど認められないだけでなく、われわれ白人が劣った他人種を支配し搾取するのは当然だというふうにエスカレートしていく。《キプリングのように、野蛮人を支配するのは彼らのために白人が背負わなければならない「重荷」だと言う者すら現れた。》キプリングは20世紀イギリスのノーベル賞作家。

 18世紀になるとヨーロッパにおける人種差別が本格化する。カントでさえ初期の論文では「ネグロは本質的に白人に劣る」と述べていたそうだ。19世紀には人種を軸として歴史の流れを説明することが流行したという。

 「無知で貧しく哀れな未開人」という神話をつくりあげた近代ヨーロッパ人は、また「進歩史観」というものを生みだした。たとえば古代エジプトは当然いまより劣った社会で、絶対的な権力を持つ王様が奴隷たちにピラミッドを建設させたなどという神話をつくりあげた。彼らがデッチあげた大嘘の世界史を《日本の高校の世界史の教科書がまだそのまま受け売りしているし、現代の人々の多くは、昔々のその昔の人々が壮大な石の建造物を築いていたり、精巧な道具をつくっていたり、とてつもない遠距離を航海していたりするのを知ると驚くが、驚くというのは彼らがそういうことができるほど「進歩しているはずがない」と思って馬鹿にしているからで、そろそろ近代人のそういう誇大妄想的先入観は精算していいのではなかろうか。》

 わが意を得たりという気がする。『古事記の宇宙論(コスモロジー)』(平凡社新書)で北沢方邦は、有史以前にポリネシア人の大航海時代があったこと、またインド最古の宗教文献『リグ・ヴェーダ』は地球が丸いと記していることなどを挙げ、古代人の地理学的認識能力はきわめて高かったと述べている。

●インド・ヨーロッパ語族なんてウソ

 「アーリア人種」という項目の冒頭でつまずいた。岸田は《けだし、最も過激な人種差別主義はやはりナチス・ドイツのアーリア人種至上主義であろう。》というのだが、そういうからには、ドイツ人はアーリア人なのかと思ったら、常識の代表『広辞苑』に「アーリア人」は「インド‐ヨーロッパ語族の人々の総称。特にインド‐イラン語派に属する人が自らをアーリア(高貴)と称した」とあり、要するにインドやイラン方面のひとびとのことだ。ドイツ人などどこにも出てこない。アーリア人至上主義って、なんでまたドイツ人がインド人にひざまずいたりしたのか、それをまず疑問に思った。

 つぎに、インド・ヨーロッパ語族がわからない。これはむかしからよく目にはするが腑に落ちない言葉で、そういえば『語源でわかった!英単語記憶術』(山並陞一、文春新書)という本に載っていたなと思いだし、読み返してみた。「英語・ギリシア語・ラテン語などの祖語のことであり、ヨーロッパからインド北西部に広がる言語に共通する祖語を、言語学では印欧祖語とよんでいる」とある。要するに大昔はヨーロッパからインドまでみな同じ言葉をつかっていたという意味だろう。だが、つづく解説に「18世紀後半、カルカッタに赴任した英国の高級官僚ウイリアム・ジョーンズ卿は、サンスクリット語がヨーロッパの言語と同じ系列であることを発見した」とある。うさんくさい。ここまで本書『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』を読んできた読者は、「18世紀」、「イギリス人」ときたら眉に唾をつけなければいけないことを学習している。それが本書の最大の功績だろう。要するにイギリスがインドを支配するために考えだした壮大な思想戦略だったのだ。

 岸田によれば、19世紀に人種と語族とが同一視され、このインド=ヨーロッパ語族が特定の人種ということになり、「アーリア人種」と呼ばれるようになった。しかしアーリア人は架空の存在だろうと岸田は考えている。なぜならヨーロッパからインドまでを長期間にわたって統一し支配していた人種や民族が太古の昔にいただなんて信じられないからだ。《これは近代ヨーロッパ人の大がかりな誇大妄想ではなかろうか。》と言語学会の定説をひっくり返す。たしかにそれほど広大な地域をそれほどの長きにわたって支配していた帝国があったなら(いや、権力でなく「高貴な」思想でまわりの国々を服従せしめたというのでもかまわないが)、必ず物的な証拠が残っているはずだ。それも大量に。にもかかわらず「アーリア人」の遺跡など聞いたこともなければ見たこともない。

 アーリア人が存在したという考古学的証拠はどこにもない。だからアーリア人発祥の地に関する説もバラバラで、ドイツ人は西北ヨーロッパだと唱えた。古代大帝国の嫡子であると称したかったのだ。無茶なことをいう。インド・イランとは離れすぎだろう。なによりもアーリア人種そのものが妄想なのだ。これでふたつの疑問は解けた。

 ここで話は一神教キリスト教を押しつけられた多神教ゲルマン民族の反攻に及ぶ。ヨーロッパ人は、ローマ人に蛮族とさげすまれた恨みを忘れなかったが、その恨みには濃淡があり、ローマ帝国に迎合する者もいた。現在ヨーロッパでラテン語系の言語(イタリア語・フランス語・スペイン語・ポルトガル語・ルーマニア語)を使っているひとびとは迎合派の末裔で、ゲルマン語系の言語(ドイツ語・オランダ語・アルザス語・フラマン語・北欧語)を使っているひとびとが反抗派の末裔だという。《またおおまかに言うと、ほぼ、前者はカトリック教徒、後者はプロテスタント教徒に重なるであろう。》すばらしい。言語地図と宗教地図の分布がこれによって説明できる。ちなみにラテン語は古代イタリア語。

 16世紀に起こった宗教戦争、《カトリック教徒とプロテスタント教徒とのすさまじいいがみあい、殺し合いは、ある意味では、ローマ帝国とゲルマン民族との争いの再燃であった。宗教改革の火の手が最初に上ったのは、かつての辺境、ローマ軍と蛮族が攻防を繰り広げた北ドイツ地方であったことは、そのことを示していると考えていいであろう。》宗教改革を唱えたルターがドイツ人であったのは、偶然ではなかったのだ。

 その後ドイツ人はアーリア神話を利用し、ゲルマン民族至上主義に陥ることになる。ゲルマン民族の誇りを踏みにじったのはキリスト教を国教とするローマ帝国だが、もはやあまりにも生活に根付いてしまったキリスト教を否定しきることはできないものだから、その大本であるユダヤ教を殲滅する方向へ進んだのだろう。ドイツ人によるユダヤ人大量虐殺は、元をたどればイギリス人のあみだした「インド・ヨーロッパ語族」という怪しげな説にたどり着く。げにおそるべきは帝国主義、植民地主義だ。