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 『できそこないの男たち』(福岡伸一、光文社新書)

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 男にしかできないことは何だろう。わたしが子供のころマラソンは男にしかできないことだった。もし女がフルマラソンを走ったら死んでしまうといわれていた。いまでも世界記録では男のほうが上だが、女子マラソンの速いこと速いこと、並の男なんか目じゃない。兵隊だけは男の仕事だと有史以来いわれてきたのに、いまや女の軍人は珍しくない。では男にしかできないことは何なんだろう。種付けしかないとわたしは思う。もっとも女にしかできないことといえば出産だけだから、男と女は五分五分だ。だが福岡はそうではないと主張する。

●わが意を得たり「考える管」

 《イブはアダムの肋骨から造りだされたのではない。アダムこそがイブから創りだされたのだ。》これが本書のテーマ。福岡はこのことを分子生物学の立場から証明していく。

 男より女のほうが高等であることを示す証拠の一つが「分化」であるという。《生物の高等・下等は何で決まるか。女性側から次のような発言が出た。それは分化の程度である。分化、すなわち目的に応じてより専門化が進んでいること。その視点から見ると答えは明らかである。女性は、尿の排泄のための管と生殖のための管が明確に分かれている。しかるに男性は、尿の排泄のための管と生殖のための管がいっしょくたである。つまり女性の方がより分化の程度が進んでいる、と。》どうだかねえ。分化すなわち高等といえるのかどうか。神様(あるいは淘汰)は最小の努力で最大の成果を得ようとしただけではなかろうか。

 「人間は考える管」という小見出しに行き当たったとき、おやと思った。いつだったか『世界屠畜紀行』(内澤旬子、解放出版社)を論じたときわたしはこう書いたからだ。「食道から直腸まで内臓はひと続きに連なっている。ごっそり取り出せるという。『人間は考える管である』というわが思想に裏付けを得た思いだ。筋肉や脳は一本の消化管が生きていくうえでの補佐役だと思う。脳が生きていくために内臓があるという頭でっかちの考えかたでは、ミミズのようなほとんど消化管で占められる生物の存在理由が説明できないではないか。」

 福岡はいう。「おなか」は自分の体の中だと思われているが、《生物学的にいうと、消化管の内部も、子宮の内部も、実は、身体にとっては外部なのである。》人間の身体に空いている穴は、耳の穴も尿道もすべて一種の袋小路であり、本当の内部ではないという。ではどこが「内部」なのか。《外部である消化管内で消化され、低分子化された栄養素が消化管壁を透過して体内の血液中に入ったとき、初めて食べ物は身体の「内部」、すなわちチクワの身の部分に入ったことになる。》

 わが思想は不徹底ではあったがまちがいではなかった。福岡も《人間の身体は単純化するとほんとうにチクワのような中空の管に過ぎない。消化管以外の穴はすべてチクワの表面に爪楊枝を刺して作った窪みでしかないことになる。》さらにつづけて《だが、これは全く驚くにあたらない事実なのである。私たちの遠い祖先は、現在のミミズやナメクジのような存在だった。》とうれしいことをいってくれる。

●生命の基本仕様は女

 だがそんなことは前置きにすぎない。1個の受精卵が2個、4個、8個と倍々に分裂して、ついには男か女になっていくさまを描写しながら、男が女の「できそこない」であると主張するのが彼の狙いだ。《瞬く間に細胞は膨大な数となり、球状の細胞塊となる。》球は球でも中空のボールの形だ。

 ついで《ボールの皮の一部が内側にめり込むように侵入していく。発生学者たちはこの侵入路に原腸と名前をつけた。その名のとおりこれが身体の中心を貫く腸の原器になるのだ。/U字形にめり込んだ皮はやがてボールの向こう側の皮にまで達する。皮と皮が融合し、そこに口が開く。その瞬間、侵入路は開通し、最初に侵入が始まった部位が肛門になる。ミクロなチクワの誕生である。》ヒトは肛門からはじまるのか。ならば肛門神社というのをつくって参拝してもいいくらいだ。ひょっとしたら菊の御紋章は……。ウーン、奥が深い。

 受精後2週間で体長2センチになる。もう頭・首・手足などができ、尾が消えておなか・おしり・太ももがはっきりする。《仮にもしこの時点で、不謹慎ながら、太ももの間をのぞき見ることができたとしたら、染色体型がXXであろうとXYであろうと、そこには同じものが見える。割れ目。これを見た人はおそらくおしなべて皆こう思うだろう。ああ、この子は女の子だと。/そう、そのとおり。すべての胎児は染色体の型に関係なく、受精後約7週目までは同じ道を行く。生命の基本仕様。それは女である。》

 最初は女の形をしており、割れ目を閉じることによって男の形になっていくから、男は「できそこない」だと著者は主張するのだが、なんだか腑に落ちない。《睾丸を包む陰嚢を持ち上げてみると、肛門から上に向かって一筋の縫い跡がある。それは陰嚢の袋の真ん中を通過してペニスの付け根に帆を張り、ペニスの裏側までまっすぐに続いている。》これを「蟻の門渡り」といい、縫い合わせてつくった証拠だといわれてみれば、へえとは思うものの、「できそこない」という価値観のからんだ事柄の証明とは考えられない。

 《アダムがイブを作ったのではない。イブがアダムを作り出したのである。》と福岡はくりかえす。基本仕様が女性型であり、それのカスタマイズされたものが男性型であることはわかったが、なぜそれができそこないであるのかは理解できない。バナールがヨーロッパ人の文化的傲慢をたしなめるために『黒いアテナ』を書いたように、福岡は男性中心社会をたしなめるために本書を書いたような気がする。

●生命誕生から10億年はメスのみ

 オスがメスのできそこないであることを証明するため、福岡はアリマキを例にとる。アリマキは原則としてメスがメスを生む単性生殖だが、秋が深まって気温が下がり夜が長くなるとオスを生む。Y染色体を持たないアリマキがいかにしてオスを生むのか。ホルモンのバランスが変化することにより通常2本一組の染色体が1本減ってX染色体1本の個体が生まれ、これが疑似オスになる。これはXX型に比べ、性染色体に載った遺伝子の情報量が半分しかなく、遺伝子の作用量もおおむね半減する。ほらごらん、オスはメスのできそこないだろうと福岡はいう。さらに、アリマキは人類出現のはるか昔、2億年前から存在する大先輩で、ヒトはアリマキの方法を踏襲したのだと強調するところなどは、やはり男の傲慢をたしなめるのと同じ筆法で人類の傲慢をたしなめているのだろう。

 その思想には賛成なのだが、ひとつ気になることがある。わたしがむかし読んだ魚の本には、クロダイは生まれたときはすべてオスだと書いてあった。これにもとづいて、関東でクロダイの幼魚をチンチンと呼ぶのはそのためだろうとコラムに戯れ言を書いた。戯れ言はどうでもいいが、基礎的な事実に誤りがあっては困る。平凡社の『世界大百科』でクロダイを引いてみると、「雄性先熟型の性転換をし,幼魚はすべて雄である。その後精巣中に卵細胞が出現し両性型となるが云々」とある。「雄性先熟型」の正確な意味はわからないが、なんでもかんでもメスが先といわれるとアヤしい感じがする。

 ……と少々悦に入っていたら、さらに福岡はこんなことをいう。《地球が誕生したのが46億年前。そこから最初の生命が発生するまでにおよそ10億年が経過した。そして生命が現れてからさらに10億年、この間、生物の性は単一で、すべてがメスだった。》ここまでいわれたらもう降参だ。生命の基本仕様がメスであることは認めざるをえない。

●日本人男性のY染色体は4種類

 お話かわって――。十数万年前アフリカに湧いて出た現生人類の祖先のY染色体は、いまA〜Rの15種類に分類されているとのこと。日本列島に最も早く到達したのはC3型のひとびとで、現在の日本人のなかにもわずかに見出される。

 《D型の男たちは途中立ち止まることなくひたすら東を目指した。そしてインドシナ半島に達したあと北上して一部はモンゴルへ、別の一部はチベットへ、そして最後の一団は朝鮮半島からおそらく日本の南部へと到達した。日本に来たD型の子孫はD2型と呼ばれ、ここに安住の地を見出し繁栄を開始した。D2型は日本固有のタイプである。(中略)現在の日本人のY染色体として最も高い頻度で見つかるのがこのD2型である。》特にアイヌ・東北・日本海・沖縄に多く、アイヌの男の88%はD2型Y染色体の持ち主。彼らこそが縄文時代の主要なメンバーだという。縄文人も朝鮮半島から来たという指摘もさることながら、日本人男性の中に縄文の血が最も多くうけつがれているという指摘がわたしの目を引いた。というのも、縄文人は弥生人によって辺境に駆逐されてしまったと思っていたからだ。

 一方O2bと分類されるひとびとが約2800年前に稲作と金属類を持って日本列島に入ってきた。これが弥生人だ。《O2b型に分類されるY染色体は、朝鮮半島で極めて高い頻度で見出され、日本でも南琉球、八重山諸島で高頻度に見出される。東京など日本列島の諸地域でも中程度の頻度で見られる。》この文脈は弥生人は朝鮮半島から来たという説を裏付けるものだ。しかし八重山諸島に高頻度ということは何を意味しているのだろう。東南アジアから陸路北上して朝鮮半島に到達した集団と、海路北上して琉球弧に上陸した集団があったという見方もできるのではないか。

 O2bにきわめて近いO3型も2割ぐらいいて、これは漢民族系。要するに日本人男性は以上の4種類から成る。《Y染色体から見ても、日本人は全くといっていいほど"単一民族"ではない。》この1行は他の文章のあいだにひっそりとまぎれこんではいるが、おそらく福岡はこの1行をいうために、本章「Yの旅路」を書いたにちがいない。ここでもまた彼は蒙昧なひとびとをいさめようとしているのだ。慎重ないいまわしで。