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 『文人暴食』(嵐山光三郎、マガジンハウス)

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●食欲から見た近代文学

 文学部に入れば「文学」を教えてくれるだろうと思っていたが、わたしが入ったころの早稲田大学文学部の教養課程には文学と名が付く講座はほとんどなかった。経済学部を志望する者は経済学の、法学部を志望する者は法学の授業を期待して当然だろう。文学部に文学の授業がない。1年坊主はめんくらった。

 専門課程のフランス文学科も、ほとんどの授業は「読解」というのだろうか翻訳作業みたいなものばかりだ。4年間いたが文学の何たるかはわからずじまいだった。学生運動の激しいころで、学生側はストライキだといってはバリケードを築き、大学側はロックアウトだといっては校門を閉ざしていたので、ほぼ3年分の授業しか受けていない。わからないのは1年分「学」が足りないせいかもしれない。いや、弁解弁解。

 本書は『文人悪食』(マガジンハウス、1997)の続編として2002年に出たもの。ともに400ページ以上ある。両者に副題を付けるとすれば「食欲から見た近代文学」といったところか。本書では小泉八雲から寺山修司まで37人をとりあげ、飲み食いという切り口からそれぞれの作家と作品を分析している。嵐山はこの2冊を書くために50代の10年間をついやしたというが、そのあいだにやはり大部な『追悼の達人』(新潮社、1999)を出しているから、きっとほかにもたくさん上梓しているにちがいない。畏れいったエネルギーだ。

 ひとりの作家を論じるのに全集を読むだけでは飽きたらず、全集以外の文献も渉猟している。なぜなら《文人の食欲に関しては、古雑誌の囲み記事などにさりげなく書かれたものも多く、それらは全集の類には収録されない。》からだという。いままでの文人評のうえに屋を架すようなものであってはならないという気迫が感じられる。少年時代にこの本に出会っていればもうすこし賢くなれたかもしれない。

 【小泉八雲】(1850〜1904)

 明治23(1890)年、40歳のとき来日。その年松江の小泉節子と結婚。八雲のほうはちょいと現地妻でもというつもりだったのが、節子はそれを見抜き、八雲が54歳で没するまで添いとげた。東京大学で英語を教えるため牛込に移り住み、上野の精養軒にしょっちゅう通った。嵐山は長男一雄の『父「八雲」を憶う』(恒文社)から「あの頃の上野には今日よりも遙かに古木が多く、塵埃も少なくて精養軒は静かな処でした」という一節を引用している。そんな上野に行ってみたいものだ。

 いま西洋美術館や国立博物館で目の保養をしたあと、精養軒で昼食を摂ろうなんて考えたらとんでもない目にあう。長蛇の列だ。「行列のできるラーメン屋」みたいなさわぎ。それがかつては「大仏脇の鐘楼で時を告げる鐘の音の響きと鳥の声と、ナイフとフォークが皿の上で立てる微かな音と我々一行の話声の他、何ら聞えるものがないほどに静寂な食堂でした」いまでは信じられないような静かさだったのだ。

 嵐山はこの一節を単なる今昔の比較のために引用しているのではない。16歳で視覚障害者になった八雲の聴覚が鋭かったこと、それが彼の作品にどう影響したかを証すための伏線なのだ。たとえば八雲は白魚の吸物を出されたとき、椀のふたをあけたまま静かに耳をかたむけ、節子に「この魚泣く」と言った。漆器のお椀に熱い汁を入れると時にこんな音がするのだと節子はわけを聞かせた。また八雲は、下駄の音が左右わずかにちがった音で響くことまで聞き分けたという。それをふまえて《『怪談』を読みかえせば、どの一編からも、さざなみのように、あるいは風のように、音が聞こえてくるのがわかる。》これぞ文学の「講義」だろう。

 嵐山は俳句にも造詣が深い。芭蕉の「古池や蛙飛込む水の音」をサイデンステッカーは「An old quiet pond ... A frog jumps into the pond Splash ! silence again」と訳し、これが定訳となっているが、芭蕉の俳句を最初に翻訳したひとである八雲は、「Old pond, flogs jumping in, sound of water」と訳しており、こちらのほうがいいのではないかと言っている。賛成だ。

 【坪内逍遙】(1859〜1935)

 『当世書生気質』『小説神髄』の2点を上梓した翌年、逍遙は27歳で根津遊郭の娼妓センと結婚。当然親戚は大反対だったし、世間は「東大卒のうぶな書生がやり手の娼婦の罠にはめられた」と噂したが、終生仲が良かったとのこと。

 もともと胃腸の弱かった逍遙は粗食だったが、センは料亭に詳しく評判の店へ逍遙を連れて歩いた。子宝にめぐまれなかったので4人の養子をとった。そのうちのひとり士行が「逍遙夫妻にまつわる雑説」という文の中でセンが逍遙にはごちそうしても子供たちや書生にはろくな食事を与えなかったといっている。「無学、無教養、それらは全然夫人の責任ではないが、猜疑、嫉妬、ミエ、負けず嫌い、競争心、それら普通女性に共通といわれる欠点はみな持っていた。いや、一段と強かった」と証言している(坪内逍遙研究資料第五集、昭和49年)。早稲田大学教授ともあろう者がずいぶんなことを言う。義理とはいえ母は母だろうに。「セン夫人としては耐えがたい日夜であったろう。つまり肉体の苦界を脱け出しはしたが、それより遙か以上に苦しい精神上の苦界にとびこんだ」からだといちおう同情をしめしてはいるのだが、相手は表現手段を持たぬひとだ。勝負にならない。

 不思議なのは《センは、自分の前身を知られることへの猜疑の念から離れられず、晩年も、前身を暴露されることをおそれて、かえって尊大になった。》という点だ。無理だろうそんなの。いまなら「苦界」の女性でも結婚前から週刊誌やスポーツ新聞の餌食になることぐらい予想できる。明治のひとは隠しきれると思ったのだろうか。

 【伊藤左千夫】(1864〜1913)

 わたしは本書に収められた作品をほとんど読んでいない。『野菊の墓』も題名は知っているが読んだことはない。数え年15歳の政夫と2歳上の民子の悲恋物語だ。《民子は政夫と交際することをとがめられ、心ならずも別の男と結婚するが、流産して病没してしまう。政夫は民子の新墓に民子が大好きであった野菊を植える。》いまではとても通用しそうにない小説だが、当時は婦女子の紅涙をしぼったのだろう。

 「牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる」という歌はおぼえていたが、実際に牛乳搾取業者だとは知らなかった。1日18時間労働で、どんぶり飯に牛乳をかけて何杯も食べた。《左千夫はデブで赤ら顔で、極度の近眼で、着る服にも無頓着》だった。正岡子規の門下生だが、歌人たちはこぞって嘲ったという。

 茶の湯にも通じているのだが、嵐山もよくは言わない。《左千夫はかなりの横着者であって、茶の美学とは別のところに生きており、なりふりかまわぬバンカラで、茶の湯に必要な感性に欠けていた。着物を着て歩くとすぐにはだけて、前が八の字になった。そのまま座ると男の一物がまる見えになったという。茶の湯の侘(ワビ)、寂(サビ)は左千夫とはまるで無縁のようにみえる。》と言い、《ようするに貧乏性でケチで田舎者で、粋なところがない。》とまで言う。

 どうしてそこまでくさすのだろう。ロマンチックな作品をひとつふたつ読んだぐらいで作家を理解した気になってはいけないと言いたいのか。それとも作品と作家は別もので、作家そのひとの実人生を知ったうえで作品を読むとさらに感興が増すと言いたいのか。実態を暴露してみんなを驚かせたいというジャーナリスト魂かもしれない。

 【幸徳秋水】(1871〜1911)

 幸徳秋水と聞くと、何も知らないのになんとなく危険人物のような気がするのは、「大逆事件」で死刑になったという受験問題対策用の知識しかないからだろう。教科書以外の知識で知っていることといえば田中正造との関わりだけだ。足尾鉱毒事件を天皇に直訴するための文章を田中正造は秋水に書いてもらった。天皇に見せるほどの文章が書けるのは秋水をおいて他にないと見込んだのだと、これは山本夏彦の文で知った。

 教科書で見おぼえのあるあのヒゲのお爺さんが代筆をたのむぐらいの人物だから秋水もまけずおとらずの老人だと思いこんでいたら、なんと代筆したのは30の時だ。

 ちなみに「直訴状」の一部を引用すると(「青空文庫」から。底本は岩波書店の『田中正造全集』)、「伏テ惟ルニ東京ノ北四十里ニシテ足尾銅山アリ。[近年鉱業上ノ器械洋式ノ発達スルニ従ヒテ其流毒益々多ク]其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ毒水ト毒屑ト[之レヲ]澗谷ヲ埋メ渓流ニ注ギ、渡良瀬河ニ奔下シテ沿岸其害ヲ被ラザルナシ。」[ ]内は正造の加筆。気持ちはわかるがないほうがいい。このあと、村人が役所に訴えても警察に逮捕されてしまうというありさまを述べたのち、「嗚呼四県ノ地亦陛下ノ一家ニアラズヤ。四県ノ民亦陛下ノ赤子ニアラズヤ。政府当局ガ陛下ノ地ト人トヲ把テ如此キノ悲境ニ陥ラシメテ省ミルナキモノ是レ臣ノ黙止スルコト能ハザル所ナリ」とつづける(正造は衆議院議員だから臣なのだ)。

 当時国民はすべて陛下の赤子であるという教育がされていた。そこを突いた。うまい。じつに巧みなレトリックで、政府としてはこんなに腹立たしい危険人物はなく、なんとしても死刑にしてやろうと冤罪をでっち上げたのだ。

 同じく30歳のころ政府が出した「未成年禁酒法案」に対し、「老人禁酒法案」なる一文を発表した。法案の理由書にアルコールはモルヒネと同じでたいへんな毒薬だと書いてあるが、博識な議員さんが「毎日モルヒネと同じ毒薬を飲用って、コリャコリャなぞと浮かれて居られる」のはどういうわけだと皮肉っている。敵の痛いところを突くのがうまいのだ。板垣退助を生んだ土佐は自由民権運動が盛んで、秋水も12歳のころから自由民権を掲げて手書きの新聞を発行していた。12歳から始めたのは新聞だけでなく酒も女もこのころから。土佐はそういう土地柄のようだ。

 豪傑でなければ後世に名を残すことはできないと本書を読んでつくづくそう思う。秋水の時代、社会主義者は「不良青年男女の一団」と呼ばれていた。単に社会主義思想が危険だというだけでなく、やはり旧来のモラルを破壊するような行動もとっていたからのようだ。同志の荒畑寒村が入獄中、寒村の同棲相手管野須賀子を寝取ってしまう。《性交依存症の管野にみそめられたのが秋水の運のつきで、二人の同棲が知れるや、同志の多くが反発し、秋水と絶交して運動から離れていく者も少なくなかった。秋水は思想家でありつつも、思想的ディレッタントで、文士特有の女にだらしがない一面があった。》

 多くの作家を知る嵐山が、文士は女にだらしがないというのだからきっとそうなのだろう。品行方正な凡人が傑作をものするわけがない。

 【柳田国男】(1875〜1962)

 『文人暴食』というタイトルは「ボウインボウショク」に掛けたものではないか。それほど登場人物は無闇に食い、無茶な呑みかたをする。わたしは負傷する前から暴飲暴食するほうではなかったが、近年糖尿病になってからはアルコールを含めても1日1200キロカロリーという禁欲的食生活だ。そのせいか体をこわすほど呑む文人の気が知れない。

 柳田国男は暴飲暴食とは無縁のひとだ。嵐山は柳田に「うまいもの嫌い」という見出しを付け、その由来を述べている。国男の生まれた松岡家は代々清貧の医者の家系だった。明治18年10歳のころ飢饉を体験、近所の貧民窟の惨状をつぶさに見ている。「その経験が、私を民俗学の研究に導いた一つの動機ともいえるのであって、飢饉を絶滅しなければならないという気持が、私をこの学問にかり立て、かつ農商務省に入らせる動機にもなった」と自伝『故郷七十年』に書いているそうだ。

 「うまい」だの「まずい」だのという言葉をつかわない。《柳田にあっては、人間が生きていくうえの食のみが問題であって、味などどうでもよかった。》どうでもいいというより柳田にとって味覚の検定は禁句ですらあった。

 なぜ味覚に対してそれほど禁欲的だったのか。飢饉を目撃したからこそ食えるときに腹一杯うまいものを食っておこうという考えかたに至る者もあるだろうに。生い立ちが原因だろうと嵐山は分析している。《柳田が料理の味に対して意図的に無関心を装うのは、若き日から食客であった者につきまとう防御心に起因しているように感じられる。十歳にして三木家へ預けられ、十二歳で茨城県布川町の長兄宅に寄宿し、二十六歳で養子となった柳田は、生涯のほとんどが食客であって、食事がうまいのまずいのを言える立場になかった。(中略)「飢饉からの脱出」を前面に押し出したものの、その裏には「食客の哀しい格闘」があった。》作家の本音を忖度するのも文学の楽しみの一つだ。

(つづく)