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 『文人暴食』(嵐山光三郎、マガジンハウス)

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 (つづき)

 【尾崎放哉】(1885〜1926)

 一高、東大を出て《東洋生命保険会社(のちの朝日生命)に入社し、三十七歳で朝鮮火災海上保険会社の支配人として赴任したが、突然会社を辞めて寺男となり、行乞(コウキツ)流転の旅に出て四十一歳で死んだ。》冒頭の略歴を読んで、お、エリートの道に嫌気がさしてドロップアウトしたのか、とちょっとかっこいいような気もしかけたが、じつはちがう。酒が原因だ。

 《放哉は手に負えぬ酒乱で、酒を飲みだすと人が変り、あたりかまわずからんだ。》 学生のころからの大酒飲みで30を過ぎると飲んで暴れたと、書いたすぐあとで嵐山は、放哉は部下の裏切りが許せずわざとクビになるような飲みかたをしたのだという。このあたりの記述は筋が通らないと思うが、ふたつの理由が安易に重なったというところだろう。

 とにかくダメな男で、《朝鮮から長崎へ帰る船上で、放哉は、妻のかおるへむかって「一緒に海に飛び込んで自殺してくれ」と頼んだ。》妻は激しく拒否したというから愛想を尽かしたのだろう。別居して寺男になる。「漬物桶に塩ふれと母は産んだか」未練たらしい句を作っているところを見ると、寺に入ったのも自分を鍛えなおすといったような殊勝な心がけからではなさそうだ。

 寺の粗食に耐えられず、友人知人に手紙を書いては菓子を送ってくれ、鰻をおごってくれとねだり、金を無心している。「せきをしてもひとり」は、粗食がたたって肋膜炎を悪化させたときの句だ。こういった句は、友人に借金の申込みをするときに添えると効果があったようだ。

 「夜更けの麦粉が畳にこぼれた」「水を呑んでは小便しに出る雑草」「入れものが無い両手で受ける」貧窮をうたった句だが、では貧乏すれば誰でも作れるかといえば、そうはいかない。《放哉が寺男になったところに文芸世界があり、普通の人が寺男になれば、それだけのことである。》そのとおり。

 《放哉には風雅や枯淡や美意識は無用であり、自己を救済する捨てゼリフのカタルシスのみが生きる力となった。投げやりな句風が放哉の破綻であるのだが、その破綻ゆえに、放哉が投げつける言葉は、灰色の光彩を放った断片となって虚空へ飛散するのである。》すばらしい評言。《放哉にあっては、五七五の定型では心情が伝わらない。ゴロがよくては気持がまっすぐに届かないのである。瞬時につかまえた生あたたかい光景を、わしづかみにして示す。技巧は無用であった。》一高時代には定型の俳句を作っていた。定型に飽きたという一面もあるのではないか。

 【若山牧水】(1885〜1928)

 牧水の章には「酒仙歌人の実像」という見出しが付いている。まことにキタナラシイ実像でがっかりする。「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにもそまずただよふ」というロマンチックな歌を愛唱してきたおのれがバカのようだ。

 生年・没年が放哉とほぼ同じなのが興味深い。こちらは早稲田大学英文科卒だが、処女歌集『海の声』を23歳で出している。その中には「幾山河(イクヤマカハ)越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」などの代表作がすでに含まれている。《牧水はデビューのときに代表作を詠んでしまった歌人なのである。その後、歌境を求めて流浪する日々になるのだが、二十代にして詠みきってしまった孤絶をこえるのはつらい作業であった。自らのうちに潜む孤独をつかまえるために酒の力にたよった。》20代でアルコール中毒だった。

 27歳で結婚するとちょっと禁酒などもしてみるのだが、うまくいかない。28歳のときには歌壇の花形になっていたというから、読者の要望を断れないという心理もはたらいて、せっせと酒の歌を詠んだのではないか。《生活が安定し、人気が出てくると、牧水調の絶唱嗚咽歌が生まれない。》それでさらに破滅的な呑みかたをする。これは私小説作家もおちいりやすい陥穽だ。

 36歳(大正10年)、ついに医者から「このまま酒を断たずば近くいのちにも係るべし」と宣告される。「萎縮腎」だという。さっそく一首詠む。「飲み飲みてひろげつくせしわがもののゆばりぶくろを思(モ)へばかなしき」ゆばりぶくろは膀胱のことで医者の見たてとは異なるが、萎縮腎では歌にならないのだろう。「酒やめてかはりになにかたのしめといふ医者がつらに鼻あぐらかけり」医者は医者でアルコール依存症の深刻さを認識していない。《牧水のアルコール中毒は無惨なもので、十メートル近づいても腐ったゴミ箱のような強烈な匂いがした。口中はただれ、目は充血し、酒がきれると手がふるえた。》ウウ、やだやだ。

 『みなかみ紀行』は紀行文の傑作であると評価してから嵐山はこうつづける。《酒を飲んで紅葉の渓谷を歩き、枯葉散る山里の学校をのぞき、澄んだ空の風を浴び、きつつきの淋しい声に涙し、花鳥風月をめでて山の古湯につかるというのだから、こんな風流な旅はない。それで「ひと夜寝てわが立ち出づる山かげのいで湯の村に雪降りにけり」という歌が出てくると、読んだ人はみんな行きたがる。/『紀行』は読者の旅心をそそるが、それはひとえに牧水の文章力によるもので、実際には朝から泥酔した汚い中年男が酒の匂いをぷんぷんとさせながら山野をうろついていた。》普通のひとが寺男になればそれだけのことであるように、凡人が酒を飲んでも酔っぱらった凡人になるだけだ。文芸は生まれない。

 【平塚らいてう】(1886〜1971)

 平塚雷鳥と聞いても思い浮かぶのは「原始女性は太陽であった」というせりふぐらいで、市川房枝とは別人だよなあという程度の認識しかなかった。いやはやブットンダ女性。嵐山は本書に登場するひとびとについていろいろな暴露話を書いているが、それはいわゆる「愛情に裏打ちされた」表現だ。ひとり雷鳥に関しては嫌悪しているとしか思えない。

 「青鞜」にしても発行のきっかけは私怨を晴らすためであって、教科書に出てくるような理由からではない。明治40年、21歳のとき恋心ひとつない青年僧に「不意に、なんのためらいもなく」接吻するという事件を起こし、22歳のときには通学している英語学校の教師森田草平と心中未遂事件を起こした。こちらも肉体関係のない「観念」の心中だったという。漱石の弟子である森田がこの顛末を「煤煙」という小説に書いて一躍人気作家となるのだが、らいてうは《「煤煙」に書かれたことが不満で、森田へのさらなる不信をつのらせていく。「自分の立場を表明するには、自ら雑誌を持たねばならない」と思い知らされて、雑誌『青鞜』を発刊したのである。》と嵐山は見る。

 さらに28歳で「青鞜」の表紙絵画家とねんごろになり同棲。それはいいとしても、らいてうに惚れていた男装の女性編集者が嫉妬のあまり自殺未遂を起こした。らいてうと何もなければそこまではしないだろう。男心だけでなく女心をももてあそんだのだ(まあ女心といっていいのかどうか微妙だが)。

 【折口(オリクチ)信夫】(1887〜1953)

 歌人釈超空としても有名な大学者折口は女性的なひとだったようだ。三島由起夫は、折口に会ったとき、眉根を寄せてホホホという声で笑ったことを、「笑いや優雅というものの、深い暗い本質まで、見抜かずにはいられなかった」と書いているそうだ。婉曲的な表現で何をいわんとしているのかわかりにくいが、要するにおのれと同種の匂いを嗅ぎ取ったということだろう。女嫌いはそうとうなもので、末期の床で看護婦が体に触るのさえ嫌がったという。

 わたしは折口の作品も折口に関する評論も読んだことがないので、こういう話には新鮮な驚きをおぼえるが、知っているひともたくさんいるにちがいない。しかし以下の話を知る者は少ないのではなかろうか。嵐山は興奮して書いている。折口は極度の潔癖性で、襖や障子を開け閉てするさいには取っ手に着物の袖をあて、電車の吊り革をにぎるときはハンチングをはさんだ。そんなひとは世間にいくらでもいるが、旅に出るときは旅館の茶がまずいからといって自前の茶を持参するほど茶の味にうるさかったのに、《折口は抹茶茶碗や茶筅までクレゾール液で消毒して、その臭いのぷんぷんしている茶を平気で飲んでいた、という。》こうなると常軌を逸している。

 《こういった折口の日常生活は、岡野弘彦の回想録によってわかるのだが、あまりにも過敏なる性癖はなにに起因するのだろうか。(中略)岡野の回想のなかに、コカインという文字を発見したとき、ようやく、その謎の一端がとけた。折口は若いころコカインを乱用し、鼻の粘膜が痛められ、嗅覚をほとんど失っていた。折口信夫とコカイン! これは私が予測しえぬ事実であった。折口とコカインは、仲間うちでは公然の秘密で、何人かがふれている。》

 小島政二郎が折口に、先生の作品には理解できないものがだいぶあるというと、「それは私がコカインを用いて書くからでしょう」と答えたと証言している。かなわんなこういうひとは。読者はよもやそんな事情だとは思わないからおのれの脳を疑って煩悶するではないか。

 嵐山は「若いころコカインを乱用し」と遠慮がちな言いまわしをしているが、コカインというものは若いころだけですむものなのだろうか。胃癌で亡くなる1週間前《幻覚に襲われ、伊馬春部と岡野を枕もとに呼びよせ、「今やっと万葉集と皇統譜の問題がとけた。よく聞いてほしい」と話しだした。それはまるで意味が取れないものであったという。》その場にいた者が文学者だからおかしいと気づいたが、もし直筆で書き残していたらまた後世の者が迷惑したかもしれない。損傷していたのは鼻の粘膜だけではあるまい。

 【室生犀星】(1889〜1962)

 近代文学においては貧乏と病気が創作の原動力であったと言われる。もちろんそこに才能がなければ何も始まらないのだが。犀星は生まれ育ちからして文学者になるしか救いがないような人生だ。

 《犀星は金沢に生まれた私生児であった。父は加賀藩の足軽頭、母ははるという女中であった。父は老年で女中に子を産ませたことを恥じ、生後七日のまだ名をつけぬうちに、近所の赤井ハツに渡した。/ハツは犀川ぞいにある貧乏寺雨宝院住職室生真乗の内縁の妻であった。》ここまで読めば、ああひどい親のもとに生まれたけど慈悲深い僧侶に引き取られたのだなよかったよかったと誰しも思うだろう。むかしは社会福祉制度がなかったかわりに有徳なひとが育ててくれたのだと。

 とんでもない。ハツは《昼間から大酒をのむ性悪女で、内縁の夫である真乗を尻に敷いていた。犀星が貰われたとき、姉のおてい、兄の信道がおり、いずれも貰い子であった。ハツは、人買い屋でもあり、若干の養育費を貰って事情ある子をひきとり、男ははやく勤めに出し、娘は娼婦として売って遊興費を稼いでいた。血のつながらぬ母子、兄妹との奇妙な共同生活が、ハツの専制のもと、雨宝院の庫裡のなかで日夜くりひろげられた。犀星は生まれながらにして怪奇因縁話の苦界に放りなげられた。》

 しかしどうなんだろう。犀星は母の命令により13歳で金沢地方裁判所に給仕として勤めさせられたとか、姉が女衒に売り渡されたとき号泣してあとを追った犀星少年にハツは「姉を売った金でおまえが食うことができるのだ」と説明したという例などを挙げて嵐山はハツをオニハハのようにいうのだが、当時の捨て子にそれ以外に生きる道があったのだろうか。娼婦はあんまりだが裁判所なら上等ではないか。しかも裁判所の上司に俳句を教わったのが犀星にとって文学修行の始まりだったと聞けば、幸運なほうだと現今の就職難を見ると思わずにはいられない。

 戦時中は軽井沢に疎開したものの食料はほとんどない。それでも生き延びることができたのは子供時代の極貧生活のおかげだったかもしれない。《まま母に虐げられた幼年期の経験は、戦時下の非常事態をものともしない。野をあさり、わずかな草を摘みとり、農家より集めた野菜を漬けこみ、凍った漬物を鉈で砕くのである。》生きていればこそ名声を得る機会もある。

 15歳で「焼芋の固きをつつく火箸かな」、17歳で「何の菜のつぼみなるらん雑煮汁」という句をものしている。初々しくもあり、また老成の感もあるうまさだ。ところでプロレタリア川柳の鶴彬も同じころ金沢に生まれて少年期に川柳を始め16歳で「暴風と海との恋を見ましたか」を作っている。偶然ではあるまい。古都金沢が二人の才能をはぐくんだのだ。才能だけでもダメなようだ。