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 『鶴彬(つるあきら)こころの軌跡』(神山征二郎監督、岐阜教育映画センター)

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 鶴彬生誕100周年を記念して製作されたドキュメンタリードラマ『鶴彬 こころの軌跡』のパンフレット。監督の神山征二郎も脚本の加藤伸代も、仕事が来るまで鶴を知らなかったという。本書に有益な一篇を寄せた澤地久枝は、鶴の知名度の低さを悔しそうに嘆いている。及ばずながら一筆したためたい。

 若いころから鶴彬が好きで追い求めているのだが、まとまった評伝がない。唯一田辺聖子の『道頓堀の雨に別れて以来なり』(中央公論社)に1章が割かれているのを知るのみだ。『鶴彬全集』(一叩人編、たいまつ社、1977)もあるが、とうに絶版。さらに澤地久枝が1998年に増補版の全集500部を自費で出しているが、それも入手不可能だ。

●格好の入門書

 2009年に鶴彬に関する映画ができると知った。ぜひ見にいきたい。しかし重度障害者が映画館に行くにはさまざまな障害を乗り越えなければならない。「障害者」は「障害にかこまれている者」という意味でもある。そこへ重度がつけば、幾重にも取り囲まれているということになる。それについて語るのは別の機会にするとして、ともかく2009年7月「ポレポレ東中野」で映画を観た。上映前の一瞬、ほかの客が開いているパンフレットを見て、これだと思った。長年印刷物を見ているから遠目の一瞥でも内容のよしあしぐらい判断できる。700円。

   帰宅後開くと、B5判で60ページばかりある堂々たるもの(鶴の顔写真が1枚だけ掲載されている。何歳のときのものか不明だが、鶴役の俳優が気の毒になるほどの好男子だ。なによりも気骨に満ちている)。句の表記が新仮名になっている点は残念だが、内容はもうこれ1冊あれば鶴彬は十分といっていいほど充実している。特に年譜と作品をくみあわせたページがすばらしい。小林多喜二と同じころ治安維持法で逮捕され野方警察に殺されたということぐらいしか知らず、ずっと作品の時代背景を知りたいと思いつづけていた。

●略年譜と作品

 1909年(明治42年)1月1日、鶴彬、本名喜多一二(きたかつじ)、石川県河北郡高松町(現在はかほく市)に生まれる。鶴が生まれてまもない1914年には第1次世界大戦勃発。欧米列強はきそって帝国主義政策をおしすすめ、なんと地表の84%が植民地になった時代、ついに世界規模での戦争が始まったのだ。日清戦争に勝って朝鮮・台湾をわがものにし、日露戦争に勝ってサハリンの南部を獲得した日本は、さらに大陸の領土を拡大しようと画策していた。鶴は戦争の時代に生まれた。

 1917年(大正6年)8歳のとき父喜多松太郎病死。《プロレタリアの世界に入っていったのも、父親が何度も兵隊にとられて8歳のときなくなったことが影響しているようで、そういう経験から戦争に対する憎しみが自然に芽生えていったのではないでしょうか。》と、鶴役の俳優池上リョヲマは語っている。どういう資料にもとづいての発言か不明だが、よく勉強しているようだ。母スズは上京して再婚。再婚しか生きる途がなかったのだろう。鶴彬は伯父喜多喜太郎の養子となる。10月ロシア革命。

 1918年(大正7年)、シベリア出兵。朝鮮・中国の各地で抗日運動盛んになる。

 1923年(大正12年)14歳、高等小学校卒業。勉強ができたため師範学校進学を希望していたが、養父の経営する機屋で働くことに。

 1924年(大正13年)15歳、「北國柳壇」に3句採用される。
   「静かな夜口笛の消え去る寂しさ」
といった感傷的なもので、どうということはない。とても犀星少年には及ばない。犀星に天賦の才ありとすれば、鶴は思想の苦闘を経て次第に成長していくタイプなのだ。つくづく早世が惜しまれる。

 1925年(大正14年)16歳、
   「暴風と海との恋を見ましたか」
映画はこの句を重視し、垂れ込めた暗雲のしたに広がる荒海をしばしば登場させる。この年にはのちに鶴を逮捕する治安維持法が公布されているから、監督はそれを暗示したかったのかもしれないが、句自体はたいしたものとは思えない。

 1926年(大正15年・昭和1年)17歳、養父の機屋倒産、大阪に出て町工場で働く。
   「みゝずのた打てどコンクリ固い」
都会生活になじめず仕事もうまくいかない。句にはプロレタリア意識の萌芽が感じられるが、まだまだ鶴の本領はこんなものではない。

 1927年(昭和2年)18歳、プロレタリア川柳の森田一二(このひともかつじと読む)に出会い、東京で「柳樽寺川柳会」を主催し川柳誌「川柳人」を発行する井上剣花坊・信子夫妻を紹介される。井上夫妻はその後鶴の後援者になる。鶴は母親の再婚先を頼って東京に出てくるのだが長居もできず、折からの金融恐慌で職も見つからず、どんどん左傾していく。それにつれめきめき腕を上げていく。
   「都会から帰る女工と見れば病む」

 1928年(昭和3年)19歳、いったん帰郷、ナップ(全日本無産者芸術連盟)高松支部を結成。驚くべきはその服装で、町の掲示板にビラを貼る若者たちが着るはっぴの背中には大きく「ナップ」と染め抜いてある。実際のことなのか映画上の演出なのか。共産党の活動家たちは全国一斉に検挙されるわ(3.15事件)、治安維持法は最高刑を死刑に改悪するわ、特高は創設されるわというご時世にだ。狭い田舎町のこと、養父も迷惑したのだろう、鶴は養子縁組の解除を申し出る。
 4月30日、治安維持法違反で逮捕される。その後も特高につけねらわれ、剣花坊をたよって上京。剣花坊夫妻には鶴という美しい娘がおり、この出会い以降鶴彬というペンネームを使用するようになったと映画は描いている。
   「ロボットを殖やし全部を馘首する」
   「遂にストライキ踏みにじる兵隊である」

 1929年(昭和4年)20歳、治安維持法改悪に反対した共産党の山本宣治代議士が右翼に刺殺される。10月、ニューヨークの株式市場大暴落、世界恐慌はじまる。
   「食堂があっても食えぬ失業者」
   「出征のあとに食えない老夫婦」

 1930年(昭和5年)21歳、1月、金沢第七連隊に入隊するのだが、しょっぱなから無茶をする。連隊長が軍人勅諭奉読の最中、「連隊長殿、質問があります」と言ったのだ。わたしは『道頓堀の雨に別れて以来なり』でこのくだりを読んだとき戦慄した。重営倉覚悟の行動だ(映画にもそのシーンはあったが、事前に知っていたせいか、低予算で群衆場面が作れないせいか、書物ほどの迫力は感じられなかった)。
 『道頓堀』原文から引用してみよう。《入営して間なしの三月十日、これは陸軍記念日で陸軍の祝日である。この日、金沢第七連隊では全隊を前に連隊長が軍人勅諭を奉読する。(この軍人勅諭も若い世代には馴染みがなくなった。明治十五年に明治天皇が陸海軍人に与えた勅諭で、旧日本軍の精神教育の根幹とされ、新兵は必ず暗記させられる)。その最中、鶴は進み出て大声で言った。/〈連隊長殿、質問があります!〉/前代未聞の椿事で、兵営中、色を失う。新兵が連隊長に直言するさえ破天荒な反抗なのに、勅諭奉読中に遮ったのだ。不敬のきわみ、というわけで、このときが鶴の第一回の重営倉入りとなった。》
 さらに私物の中から「無産青年」という日本共産青年同盟の機関誌が発見されたことで軍法会議にかけられる。鶴の反軍的活動で中隊長が4人も交代したという。命をかけた反軍活動はそれに見合う効果を上げたと見るべきだろう。

 1931年(昭和6年)22歳、共産主義と反軍思想の普及に努めたという嫌疑により懲役2年の判決を受け、大阪衛戌監獄(陸軍の監獄)に投獄、寒中水風呂などの拷問を受ける。出獄後は突然の痛みに襲われ、全身に紫色のかたまりが盛り上がるという後遺症に苦しめられるようになったという。

 1933年(昭和8年)24歳、小林多喜二虐殺、満州事変勃発、新聞は「湧き立つ祖国愛の血全日本にみなぎる!」と煽り立てる。12月除隊。除隊後は友人宅を転々とする。本書には22歳から24歳のあいだの作品が掲載されていない。軍隊にいたのでは投句できないからだろう。

 1934年(昭和9年)25歳、東北地方、大凶作。
   「目かくしされて/書かされてしまう/□□書」
転向書か。映画に鶴の句を伏せ字にして「川柳人」に掲載する井上剣花坊の苦悩と、その苦悩を知りながらなお抗議する鶴、二人を取りなす信子の姿が描かれる。9月最大の後ろ盾であった剣花坊死去。
   「地下にくぐって/春へ、春への/導火線となろう」
もはや非公然活動しかない。
   「飢饉とは知らず/胎内の闇に/生まれる日を待っている」

 1935年(昭和10年)26歳、生活に窮した鶴のために信子は「鶴彬に生活を与えるための会」」という募金活動をおこなう。
   「ふるさとは病いと一しょに帰るとこ」
   「玉の井に模範女工のなれの果て」
   「吸いに行く 姉を殺した綿くずを」
   「これからも不平言うなと表彰状」
このあたりから鶴のプロレタリア川柳は成熟してきたとわたしは見る。

 1936年(昭和11年)27歳、2.26事件。
   「ざん壕で読む妹を売る手紙」
   「修身にない孝行で淫売婦」
 北九州工業地帯の柳誌には「半島の生まれ」と題する連作を寄稿した。
   「ヨボと辱められて怒りこみ上げる朝鮮語となる」
強制的に連れて来られたのか、己の意志で来たのか、いずれにしても日本に来た朝鮮人は徹底的に日本人から辱められた。戦前の朝鮮人には「ヤクザに入る自由」すらなかったと『近代ヤクザ肯定論――山口組の90年――』(宮崎学、筑摩書房)は証言している。
   「母国掠め盗った国の歴史を復習する大声」
鶴の目は虐げられたひとびとに向けられる。

 1937年(昭和12年)28歳、日中間に全面的な戦争はじまる。《再度の召集で郷里に帰る。入隊したその日に除隊を命じられ、上京し井上信子宅に身を寄せる。「川柳人」に発表した作品が反戦的との理由で検挙され、中野・野方署に留置される。》ここで鶴の創作活動は途絶する。

 1938年(昭和13年)29歳、国家総動員法施行。留置中に赤痢にかかり豊多摩病院に入院、ベッドに手縄でつながれたまま死去。入院中も借金申込みのはがきを書いていた。遺骨は兄孝雄によって盛岡の光照寺に埋葬される。
 晩年の絶筆ともいうべき川柳に秀逸なものが多いのはなぜなのだろう。あたかも残り時間のわずかなことを悟って最後の命を燃焼させているかのようだ。

●「手と足をもいだ丸太にしてかえし」

 鶴の川柳は時代と密接に結びついている。
   「稼ぎ手を殺してならぬ千人針」
   「エノケンの笑いにつづく暗い明日」
こんな時代でも浅草は大にぎわいだったことが荷風の日記にしるされている。案外世間はのんきだった。日本が破滅にむかって進んでいることに気づいた者はごく少数だったようだ。
   「高梁の実りへ戦車と靴の鋲」
   「屍のいないニュース映画で勇ましい」
   「胎内の動きを知るころ骨がつき」
 そしてわたしが鶴彬の最高傑作だと思う
   「手と足をもいだ丸太にしてかえし」
が掲載されたのは「川柳人」昭和12年11月号だ。これによって「川柳人」は発禁処分をくらい、鶴は逮捕されるのだが、川柳を低俗な庶民遊戯としかとらえていなかったはずの警察が川柳雑誌にまで目を光らせるものだろうか。

 現代の目で見ればまっとうなこれらの作品も、当時の川柳界では異端だったようだ。大阪の川柳誌「三味線草」(森鶏牛子ケイギュウシ編集発行)は、昭和12年9月号から11月号にかけて鶴の川柳とそれを掲載する「川柳人」をつぎのように攻撃した。

 9月号「こういう時局にあってから、こういう反戦の詩を詠むことは一体何事だ。時局に処する日本人としての愛国の至情に欠くるものなきやを憂う。」まあなんとも粗雑な文章だこと。もともと川柳をイキな遊びととらえているのだろう。時局柄あまり下ネタに走るわけにもいかなくていらいらしているところへ、そうだ忠君愛国の川柳を作ればいいのだとおのが活路を見出したところへ、プロレタリアだかなんだか知らないがアカ野郎がいい気になっているので説教をたれてやろうと思ったのだ。ところが「川柳人」はいうことを聞かない。

 そこで10月号でも「現下、国民精神総動員、遵法週間等の叫ばれる時、吾等の柳壇を暗くするこれらの徒に対しては、更に更に監視を要するのである。」さらにさらに監視せよとは、誰に向かっていっているのか。ここが問題だ。

 文筆では効果がないと見た森は、文筆以外の手段をとりたくなる。11月号「依然として反省せざる場合は、我らは別の手段によって善処したいと思う」12月、鶴は検挙される。

 この時期、《森鶏牛子が呼びかけたこともありましたでしょう。川柳史に大きな足跡を残す河上三太郎が鶴彬の逮捕に協力加担していることが後にわかってきました。》と木津川計(「上方芸能」発行人)は寄稿している。鶴彬は川柳作者に裏切られて逮捕されたと言ってさしつかえないだろう。これほど気の滅入る話はない。

 さて最後に「手と足をもいだ丸太にしてかえし」の着想について触れておきたい。「川柳人」の同じ号には
   「万歳とあげて行った手を大陸において来た」
という類句も発表している。そのような傷病兵が帰還したのは事実だろうが、鶴はそれをどのようにして知ったのだろう。新聞にでも載ったのだろうか。

 ここで江戸川乱歩の短篇小説「芋虫」を想起しないわけにはいかない。まさに大陸の戦闘で手足をもがれた傷痍軍人の話で、1929年(昭和4年)「新青年」に発表されているから鶴より乱歩のほうが早く、鶴がこの小説を読んでいる可能性はある。「芋虫」(角川ホラー文庫)の文中には次のような一節がある。《この様な姿になって、どうして命をとり止めることが出来たかと、当時医界を騒がせ、新聞が未曾有の奇談として書き立てた通り、須永廃中尉の身体は、まるで手足のもげた人形みたいに、これ以上毀れ様がない程、無惨に、不気味に傷けられていた。》じっさいに新聞が書きたてたかどうか、そこは小説だからわからないが、「手足のもげた」というフレーズがある。

 ただし乱歩の小説に反戦の意図はあまり感じられない。四肢切断と顔面破壊のうえ聴覚と話す能力を失った夫の重度障害に動転した妻が、世間の援助がない状況で二人暮らしをしていくうちに追いつめられ嗜虐が昂じていくという猟奇に重点を置いた内容だ。DV小説あるいはPMS小説ともいえる。対して鶴の句は、国民を戦地に送った国家が手と足をもいで返してきたという悲憤、弾劾を表現する思想川柳だ。

 さらに剣花坊がそれより早く大正の末か昭和の初期に「手足をもがれ牙でかみつき」という句をものしていることも見逃せない。この2つが鶴の絶唱につながったことは確かだろう。