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 『差別と日本人』(野中広務・辛淑玉、角川oneテーマ21)

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●「ダメですよ、それじゃ」「ヘヘヘ」

 被差別部落出身の野中(1925年生)と在日朝鮮人の辛(1959年生)が、これまでの経験を語り合う対談集。辛による解説文が対談と同量あるところから見ても、実際には辛による野中へのインタビュー記事といっていい。《私は自分のことを「朝鮮人」と言います。これは、朝鮮人って呼び方が差別的に使われているので、敢えて使っているんです。》しょうねがすわっている。辛は元内閣官房長官を前にして少しも臆するところがない。「ダメですよ、それじゃ」なんて説教までしている。

 辛の野中に対する感情はいかなるものか。《野中氏に関して出されたいくつかの書籍は、彼がどれほどひどい差別を受けたかについて記すことはあっても、彼がどんな思いでそれを受け止めてきたかは書いていない。(中略)差別を受けた者が経験する、心の深い部分からこみあげてくる"根源的な不安"を理解しようとする姿勢はほとんどないように思えた。》だから《彼の言葉の背景に横たわるこの社会の深くて暗い荒野を旅してみようと思った。》という。

 野中の「在日」に対する感情はどうか。子どものころ、すなわち戦時中、朝鮮半島から連行されてきた多くの朝鮮人が《日本人にムチで叩かれたり、重い荷物を運ばされたりして、ひどい目に遭わされているのを見知っていた。》両親は朝鮮人に対して同情的だった。日本における2大差別を肌で実感してきた人物なのだ。辛に対して深い共感があるのだろう、説教されても「へへへ」なんて照れ笑いしている。

 辛は政治家野中広務をどう見ているか。《「野中広務」という政治家は、談合で平和をつくりだそうとする政治家だった。/オバマは、演説で平和をつくるのかもしれないけれど、野中氏は、そんなものは信じない。人間の欲望や利権への執着といった行動様式を知り抜いているからこそ、それらをテコに、談合と裏取引で、平和も、人権も、守ろうとしたのではないだろうか。それも生涯をかけて必死で。/私は、その姿に、胸の痛みを覚えるが、これはこれであっぱれな生き方だと思えてならない。》「これはこれで」と辛は留保を付けるけれども、還暦を過ぎたわたしは、結局それしかないと思っている。もともと日本には演説の伝統などない。両方とも兼ね備えた政治家が望ましいのだが。

 さらに人間野中広務について《永六輔さんが、「あの人(野中さん)が、あちら(権力側)にいてくれるだけで、なぜか気持がホッとしていた」と語ったことがあった。/同じように、この人なら、私たちの気持ちをわかってくれるのでは、と多くのマイノリティが野中氏にすがった。それはマイノリティだからこそわかる「におい」が野中氏にはあるからだ。》と親しみをこめて語っている。重箱の隅をつつくようだが、ここで「におい」ということばをつかうことには賛成できない。子供どうしのいじめから人種差別に至るまで、差別侮蔑をあらわすとき必ずつかわれる表現だからだ。

●同和対策事業に反対したのはなぜか

 野中は中学2年生のとき下校途中うしろから来る連中に「あいつは部落の人間だよ」といわれ、初めて自分が部落出身者だと知る。そのときは部落出身者であることをバネにしてがんばればいいのだと思ったが、のちに仕事場で目をかけていた後輩が「野中さんは大阪におったら飛ぶ鳥落とす勢いだけど、地元に帰ったら部落の人だ」と陰口きいているのを耳にして意気消沈、それをきっかけとして差別をなくすために政治家になろうと志したという。

 差別される側を一方的に手篤く保護する施策に力を尽くしたわけではないと野中は胸を張る。むしろ町会議員時代から国会議員の時代をとおして、被差別部落関係の土木業者が優先的に仕事を受注する「同和対策事業」に反対してきた。《なぜなら、部落出身者ではない人たちの中に、部落に対する悪い感情を生み、差別対策であるにもかかわらず、むしろ差別を助長してしまう危険性があるからだ。》

●エタ差別発祥の地、京都

 外国人差別ならまだ想像はつく。だが東京に住むわたしにはどうも部落差別というものがよくわからない。書物で勉強すればある程度はわかるだろうが、肌で知るということがない。屠畜や皮革に関係するひとびとを指すというような単純な話ではなさそうだ。本書でも差別の淵源までは触れていない。辛は《西日本を中心に今なお続く「部落差別」は、古くは朝廷政治の歴史の中から生み出されていった。》と述べるにとどまっている。歴史をさかのぼるより今現在の差別をなんとかするほうが急務だという考え方なのだろう。

 《野中さんが生まれたころ、部落差別は日常の生活に深くしみついていた。》どうやら野中の生まれた京都はエタ差別発祥の地らしく、いまでも《どこが被差別部落なのかといった話になると、私が京都で出会った人の多くが、密やかに小声で被差別者やその居住空間を特定できた。》華やかな観光都市にはじつはこんな一面があるのだ。

 当時は医師ですら「これ(4本指を出して)のかたのは……」といって献血の血を捨てた。部落出身者とわかると就職にさしつかえ、あるいは解雇された。マスコミも差別むき出しの表現を堂々と使い、地図には「穢多山」「穢多ガ峠」と記された。《また、死んでも一般人と同じ墓地には埋葬されず、戒名も与えられず、与えられても「卜(下のまた下の意)」「畜男」「畜女」などと記されることがあった。しかもこれらは、寺々に連綿と受け継がれる風習として、無自覚的に継承されていた。》

 関東大震災のときに在日が虐殺されたのは誰もが知るところだが、千葉県では香川の被差別部落から来た行商人、女子供妊婦を含む10人が自警団によって虐殺され、しかも加害者たちは村のヒーローになったという。いったい被差別部落のひとと非・被差別部落のひとを分けるものは何なんだろう。どうやって見分けるのか。エタとよばれるひとは何をもって侮蔑されるのか、わたしにはその根拠がわからない。

 被差別部落の子供は貧乏ゆえ学校に行けず字が読めなかった。識字率の高い日本でこれが侮蔑の原因になったことは容易に想像がつく。軍隊では「歩兵操典」や「軍人勅諭」を暗記できぬ者は毎晩顔が腫れ上がるほど殴られつづけたとか。

●嗚咽をこらえながらの対談

 《辛 「あいつは部落だ」と言われた時のこと、親には言わなかったんですか。
野中 言わなかった。
辛 なぜ?
野中 なぜって、知らんわ、そんなこと(笑)。》  野中は本音を語らない。代わって辛が解説する。《自分自身の経験を振り返って言えることだが、侮蔑の眼差しを浴びた子どもの大半は、そのことを口にしない。(中略)なぜなら、それを認めたら親が哀しむことを多くの子どもは身にしみて知っているからだ。/だからこそ、部落差別は「家族を撃つ」と言われている。》

 《おじいちゃんもそういう中から一人前の社会人になったんだから、克服してくれよといま願っているだけ。言うたことはないけど。》と野中は孫に対する思いを語る。それを聞いた辛は、DAIGOも小泉孝太郎も石原良純も祖父や親の七光りで実力以上に芸能界を闊歩しているのにくらべ《野中さんのお孫さんが、祖父の名を使って、例えば芸能界で活躍することは可能だろうか》と女性らしいこまやかな感想をもらす。この発言の背景には野中の娘が劇団をつくってがんばっているにもかかわらず、野中の出自が知れわたるにつれて「つめたーい目で見られる」という事実がある。在日やセクシャル・マイノリティはテレビでカミングアウトできるようになったが、「被差別部落出身」を明かした者はいまだかつていない。

 《野中 女房には婚約するときにはっきりと言ったんです。/「僕は言うておかなければならないことがある。それは僕が部落の出身者だということだ。後でそのことがわかってはいかんから、あんたには言っておかなければ、と思って打ち明けた。それをあんたがどう選択するかは別の話だ」/そしたら女房は言うんですね。/「それは私が理解しておればいいことです。親や兄弟まで了解を得なければいけない話ではありません」》

 これがいかに気丈な発言であったか。当時は女性側の親たちが二人の仲を引き裂いたうえ、男性と仲人を不法監禁、営利(結婚目的)誘拐などの罪で告発するという例が絶えなかったからだ。結婚差別によって自殺の道を選ぶ男女もかなりいたようだ。

 家族の話にはほんとうに胸が痛む。在日朝鮮人の辛の苦悩も深い。小さいころ初めて自分が朝鮮人だと知ったとき、それがすごく素敵なことに感じられて近所に言いふらした。そのとたん一家は猛烈ないじめに遭うようになった。《辛 私、二十歳の時に「これからは本名で生きる」って両親に言ったんですよ。父は黙ってた。しかし母は、「お前は日本の怖さを知らない」って言ったのね。》それ以来母親は体調を崩し、毎日薬を飲まないと怖くていられないようになる。

 「朝まで生テレビ!」に出るようになると、どこで調べたか実家にまで嫌がらせの電話がかかってきて家族を怯えさせる。姉からは「あんたが正義感を貫こうとするために、家族がどんな思いをして生きているのかわかってるのか」といわれ、兄には「本名で生きているお前は親戚中から嫌われてるんだぞ」といわれた。

 《辛 私は、親がもっと楽に生きられるように、朝鮮人でもこの社会で生きていきたいと思えるように、そして自分自身も、私は朝鮮人だけど、日本で生まれて幸せだったって言って死んでいきたいと思って頑張ってきたつもりだったけど、でも、なんか負けちゃったなって思ったんです。》と珍しく弱音を吐く。

 野中も「わかるなあ。僕も同じだから」と共感する。娘の劇団を見にいくことも、孫の入学式にも卒業式にも行けない。目立ちすぎるのだ。「うちの女房は買い物も映画も僕と一緒には行かないんです」おれの83年間の努力は何だったんだろうと寂しさをもらす。「僕、こんな話したの初めてです」

 辛は堰を切ったように自分の一番つらかった体験を語りだす。日本国籍の男性と事実婚の生活を送っていたが、しばらくすると、彼は「なんでもかんでも君が問題にするからいけない」と言いだした。《辛 「君が我慢してそんなの気にしなければいいんだ」ってずっと言われたのね。そうしたら私は、外で闘ってうちに帰ってきて、夫にまで説明しなきゃいけないじゃないですか。もうだんだん耐えられなくなっちゃって。(中略)わかってもらえない人と一緒にいたら、もっと寂しいなあと思って、一人のほうがいいなあと思ったんですよね。》嗚咽をこらえながらの対談だったようだ。

●関東大震災の教訓がいきた阪神大震災

 阪神淡路大震災のとき最も多くの死者を出したのは長田地区だった。辛は長田がどういう地域か知っていたのですぐ駆けつけた。あそこは「朝鮮人の密集地」であり、同時に「被差別部落」の指定を拒んだ地域であったのだ。《震災の時の在日の死亡率は日本人の一・三五倍以上。つまり、戦後の復興の際の差別によってあそこに取り残された人、それから被差別部落の指定を拒んだところの人たちから、たくさんの死者が出たんです。》指定を受ければ道路は整備されるが、差別にあう。「差別が人を殺した」と辛は言う。

 それに対し当時自治大臣をしていた野中は、長田は消火しようにも水道管が全部壊れて水一滴出なかったのだと弁明する。《スイス犬が海外から援助にやってくるという話も弱った。世論が使えとやかましいが、犬一頭にドイツ語とフランス語の通訳を二人付けてくれと。おまけにお犬様と通訳が泊まるところを作れ、でしょ。》海外のボランティアは衣食住すべてを装備してくるのだからどんどん受け入れるべきだというテレビの解説者のことばに、そうだそうだ政府は何をためらっているのかとわたしも憤った記憶がある。付和雷同だった。

 あのときは朝鮮人と日本人が手を取り合って助け合ったのが、関東大震災と違うところだと二人は口をそろえる。長田をよく知る國松孝次警察庁長官が「関東大震災の二の舞にしてはならぬ」と兵庫県警に厳命したのだそうだ。そんなに偉いひとだったのか。オウムに狙撃されたので憶えている。役人に転勤が多いのは意味のあることなのだと知る。

 《震災の後、被害が少なかった部落の人たちの間で、入浴できずにいる避難所の人たちを、部落と被災地との間のピストン輸送でお風呂に入れてあげようという話になった。そのとき、(中略)「部落とちゃう人から、『部落のおにぎりなんか食われへん』『部落の風呂なんか入れるか』言われたらどうする?」と誰かが言った。それはみんなが一様に持っていた不安でもあった。/これは、マジョリティには決して理解できない、差別されてきた歴史の上に蓄積された不安である。そして、彼らは、「もし、そういう発言が出ても、『差別や!』『糾弾や!』というのは、今回は無しや」「絶対、やめとこね」と、確認しあいながら被災者への食事を用意し、公衆浴場までの送り迎えをした。》

●日本人さえよければいい遺族会

 辛は「従軍慰安婦」を差別用語とし、「日本軍の軍用性奴隷」とことばを選ぶ。野中が自治大臣のとき彼女らに対する賠償金を政府が「アジア女性基金」という形で出したことに辛は異議を申し立てる。「セカンドレイプではないか」と。それに対し野中が「そうではないんだよ」と実情を話して聞かせるさまは、まるで学生運動にのめり込む孫娘をさとすおじいちゃんのようだ。

 「あの頃、政治の中には、日本が法的に従軍慰安婦に賠償するためのお金を出せる雰囲気はまったくなかったんです」中には売春婦もいたのではないかと、どうしても自国につごうのいい見方が政治家の大勢を占めてしまう。《野中 僕はそうじゃないと考えていた。/僕らが聞いてきたのは、兵隊から帰ってきた連中が自慢をたらたら言っていたこと。つまり、ベニヤ板で造ったような箱物の中に女性が一人寝かされておって、そこにふんどし一丁の男が五十人も六十人も順番待ちしている。それを聞いて罪悪感があったから、国家賠償としてやるべきだという話をしたんですよ。》しかしそんな話はまったく通用しなかったので、村山首相が中心になって基金を設立したとのことだ。

 それ以上に気がかりなことがあると野中はいう。日本の軍人としてシベリアに抑留された朝鮮人は、戦後国籍条項でなんの恩給もつかなかったというのだ。厚生省に調べさせると「恐ろしいような数」が出てくるので「戦死者」と「戦傷で苦しんだひと」に限定せざるを得なかった。対象者が多すぎてカネが保たないということだろう。

 《辛 私、こういう言い方するとすごくきついかもしれないけれども、日本の遺族会っていうのはなんて卑怯なんだろうって思うのね。つまり日本人さえよければいい。「日鮮同盟」とか調子のいいことを言って朝鮮人を引っ張り込んでおきながら、いざ補償する段になったら朝鮮人を全部切ったわけですよね。》

 路上で物乞いをしていた傷痍軍人はみな、補償のない「第三国人」だったと初めて知った。「傷痍軍人はみんな年金をもらっているのだから、路上であんなことをやっているのはニセモノだ」と聞かされそう信じていた。抗議を込めた跪座だったのだろう。不明を恥じる。

●新井将敬を殺したのは誰か

 1998年、証券スキャンダルで逮捕される寸前、新井将敬衆議院議員が首をつって自殺した。とされているが、野中は自殺ではないと見ている。現場に駆けつけた警察官僚出身の亀井静香も、新井は口封じをされたといっているようだ。

 新井が国会で「自分は朝鮮人だから、在日だから差別されている」と発言したのを辛は死の直前に激しく非難した。《辛 彼は、政治家になっても、在日の問題は何一つやってこなかった。(中略)なのに、自分が叩かれた時になって初めて在日ってことを持ち出すのはとんでもないって言ったんです。(中略)そのラジオをとても多くの在日の先輩たちが聴いていて、「新井将敬を殺したのはお前だ」っていう言い方をされたんです。だけど、私は新井将敬を精神的に殺したのは石原慎太郎だと思ってるんですね。》

 なんでまたこんなところで石原が出てくるのだろうと思って読みすすめると、とんでもない事実が暴露される。東大卒の新井が大蔵官僚から転じて議員に立候補したとき、同じ選挙区だった石原は新井のポスター3000枚に「北朝鮮から帰化」という黒いシールを貼った。秘書は逮捕されたが石原は無傷だった。酔っぱらって選挙ポスターを1枚破っただけでも逮捕されるというのに、なぜ石原は逮捕されなかったのか。承服しかねる事実だ。

 本書の出版は麻生政権の末期。麻生財閥が朝鮮人1万人をいかに酷使し、部落民をいかに差別したか、辛はこちらも激しく攻撃する。総理になる前の2001年、大勇会(たいゆうかい。自民党の一派閥)で「野中やらAやらBは部落の人間だ。あんなのが総理になってどうするんだい。わっはっはっは」と笑ったと野中は暴露する。ウーン、目に浮かぶ。

 《辛 麻生さんというのは、自民党の中でもそういう発言をする人なんですか。
野中 そうだろうね。実際そう思ってるんでしょ。朝鮮人と部落民を死ぬほどこき使って、金儲けしてきた人間だから。/彼が初めて選挙に出た時、福岡の飯塚の駅前で、「下々の皆さん」って演説した。これが批判を受けて選挙に落ちたんだ。》野中はつづけて「不幸な人だ。一国のトップに立つべき人じゃない」と断言する。野中はこの対談の時点ですでに政界を引退していたが、2009年の総選挙直前に出た本書は、ベストセラーになったから選挙結果にも少なからぬ影響を与えたにちがいない。麻生自民党は大敗し、結党以来初めて衆議院第一党の座から転落した。

 ◆K氏(60代男性) しばらく前から「差別と日本人」が続いているような気がしたも
のだから、HPを更新していないのかと思いました。よく見たらこ
れが12月分だったんですね。
 「差別と日本人」は私もだいぶ前に、会社の人から借りて読みま
したが、少々気に入らなかったな。
 野中にもっとしゃべらせろ、というのがその一。辛が、この原稿
全体を自分の世界に無理矢理引き込もうとしているのが第二。とく
に対談以外の部分がいけません。あの論旨は、我々(藤川さんと私)
にとっては70年代からお馴染みのものだけど、あれでは現代の状
況をすくい取れないと思うな。手もとに本がないので、詳しくは書
けないけど(あっても書く気がないけどね)。