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 『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』(赤松啓介、ちくま学芸文庫)

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 まあたまげるよこの本は。大正時代まで日本人はこんなセックスをしていたのか、夜這いといえばもっとコソコソしたものだと思っていたが、みんなのどかでおおらかなセックスを楽しんでいたのだなあとビックリする。もうなんでもありだもの。本書は赤松自身の体験を中心に書かれているから農民の性ばかりで中流・上流階級の性に触れていないところが物足りないといえば物足りないが、江戸時代は人口のほとんどが農民で武士階級は1割以下だったというから、本書に書かれたことが世の常態だったと考えてさしつかえないだろう。

●夜這いの発生と消滅

 【ほんとうにあった夜這い】

 冒頭にいきなり若衆たちのトンデモ会話が再現される。《お前、今晩、うちのネエチャに来たれ。怒られへんのか。怒ってるわい、この頃、顔見せんいうとったぞ、味、悪いのか。そんなことないけんど、口舌が多いでなあ。そら、お前が悪い。いわせんように、かわいがったれ。》カギ括弧なしは読みにくいが、当時の土俗的雰囲気を再現するためだろう。《まあムラのイロゴトは筒抜けで、まことに公明正大である。こうしたムラの空気がわかっていないと、夜這いだの、夜遊びだの、性の解放だのといっても、なかなか理解できず、嘘だろうとか、大げさなこというてとかと疑うことにもなるのだろう。》うたぐってかかる読者に前もって釘を刺す。「避妊技術のない世界で、そのようなことが可能であるはずがない」と主張する者もいる。最近では小谷野敦がそう発言しているのを見かけた。ところがギッチョンチョンなんだなあこれが。

 《夜這いを単なるムラの風習と思っているものが多い。民俗学者などでもそうだが、ほんとうはそういうムラの人たちが夜這い民俗に対して、なんの不審ももたず、またしごく平然とハナシしたり、親子夫婦兄妹間でも日常に公然と会話し、行為できたのは、いわば合法的作業であったからだ。したがってムラギメをしばしば反古にしたり、ムラオキテに反抗したりしていると、ムラハチブ(村八分)で追放されたりすることもある。》……ということは、夜這いがイヤだと思ってもそれに逆らえないということでもあるだろう。読みすすめていくうち、うらやましくない記述も出てくる。

 【夜這いの発生】

 国文学関係の研究者は、「夜這い」を、古代に男が女の家へ通った「よばう」民俗の残存と考えている。「よばう」は「呼ばう」すなわち名を呼びつづけることで、求婚も意味する。夜おこなわれることが多いところからいつしか夜の字があてられたのだろう。

 江戸時代にもっとも盛んになったのは、その前の戦国時代が原因していると赤松はいう。戦乱の時代に村落共同体をまもることは容易でなかった。ムラは自己防衛のため、つぎに述べる「年齢階梯性」をつくって戦乱にそなえたが、それでも男たちは殺され数が減っていく。《したがって男と女の生存、その対応がかなり崩れたのも多かったにちがいない。(中略)このアンバランスを阻止しようとして男の夜這いが始まったのではないか。それまでにも夜這いはあったにちがいないが、戦国動乱の影響で殆どのムラに普及するようになったのだろう。》これは赤松の推理にすぎないが、しかしイスラム教における一夫多妻制のはじまりもジハードによる男性数の減少であることを考えあわせると、十分に説得力をもつ説だ。

 【若衆入りできなければ夜逃げ】

 ムラによってちがうが、男はだいたい12〜14までが「子供組」。それから25か結婚するまでが「若衆仲間」と呼ばれた。彼らこそムラの行事や喧嘩などに中心となって活動する現役兵だ。40ぐらいまでを「中老」、その後は「元老」と呼ばれた。ムラは年齢によってグループ分けされるのだ。これを年齢階梯性という。「現役兵」ということばをつかうのは、もともと百姓一揆などのときに中心となってはたらいたからだ。子供組から若衆仲間の組織はムラをまもるための現役兵機構であり、その指揮をとるのは本家の総領たちであったという。

 バンジージャンプや入れ墨など、たいていの成人式ではそれなりの苦痛に耐えるのが通例だ。赤松の地域では4斗(1斗は18kg)から5斗の俵をかついで100間ぐらい走らせた(1間は1.8m)。若衆入りは「現役兵」になることを意味したから、これに失敗したら夜逃げするほかなかった。そのためふだんから力石をかついできたえた。(もし現在の成人式にこれほど切実な意味があれば、むやみに騒ぐ者など出ないだろう。あるいは形骸化した儀式にヒツジのごとく整列するほうも狂っているといえないこともない。)

 性的な能力もためされた。「マラカケ」といって、茶瓶掛け・土瓶掛け・鉄瓶掛けの3段階。耐久力は掛ける場所にもよる。根本に掛けるのがネカケ、そこから先に向かって1寸カケ・2寸カケ……とエラくなってゆく。マラのソリぐあいもたいせつで、天を突くようなハネソリが最高位だ。これもふだんから鍛錬する。

 【明治にはいって一変】

 江戸時代にはさかんであった夜這いが、明治時代にはいると禁止された。政府の狙いは一夫一婦制の確立と純潔教育、要するに欧化政策だったが、夜這いを禁止するもう一つの狙いがあったと赤松はにらむ。税金だ。政府は資本主義体制を普及させるため貧農を農村から都市に吸収して安価な労働力として利用すると同時に、セックス産業を振興してそこから巨額の税金を徴収したのだ。《そうした国家財政の目的のために、ムラやマチの夜這い慣行その他の性民俗が弾圧されたことは間違いない。》

 そうはいっても長くつづいた民俗がお上の御触書一枚でなくなるものではない。赤松の郷里兵庫県加西村では大正時代(1912〜1926)の末ごろから「無言の圧力」が始まり、《教育勅語的指弾ムードと戦争中の弾圧的な風潮、そして、戦後のお澄し顔民主主義の風潮の中で、次第次第に消えて行ったのである。》お澄まし顔民主主義ということばは耳に痛い。

 夜這いは《大正末ぐらいまで殆ど全国的に残っていたし、昭和天皇の即位式の頃、郡教育会などが編集、発行した「郡史」「町村誌」では夜這い民俗を報告したり、夜這いの民謡を採取して》いた。証拠が残っているわけだ。

 「戦争中の弾圧的風潮」が夜這いを滅ぼした3大要素のひとつだとはいえ、ひにくなことにもっとも激しかったのは満州事変から大東亜戦争のころ。若衆の召集が激しくなると、残された嫁や嬶は義父・義弟とまじわった。いつ動員されるかわからないから男たちの夜這いもはげしくなり、著者の経験によれば《本庄や明石の軍需工場などが爆撃されて多くの女子奉仕隊員に犠牲者が出ると、もう性的な禁圧がなくなり、相続く爆撃と退避とで防空壕や破壊された家屋を利用しての半公然化した性交渉も行われていた。》

 兄戦死の報を受けて弟が兄嫁と結婚したところへ兄が帰ってくるという話はテレビドラマなどでも描かれるが、それは茶の間に合わせただけであって、実際はもっとすさまじかったことがわかる。あすをも知れぬ絶望的な状況まで追いつめられるとやはりひとはセックスに駆りたてられるもののようだ。

 【農村の機械化で消滅】

 夜這いが消滅した主因は、農業や村の構造変化にあると赤松は見ている。《日本の農業は、戦後の一九五〇年代に完結した機械化、化学化によって第一次産業としての様相を激変させてしまい、それ以前のように宗教や信仰との密接な関係を失ってしまった。以前の農業は、天候や災害に左右されることが多かったから、そうした障害を避けたり防ぐために宗教や信仰に依存せざるをえなかったし、農作業も殆ど手作業であったから、肉体的な疲労が激しかった。特に、田植え前後は肉体的な作業が集中した。苛酷であっただけにまた一面では極めて娯楽的な要素が盛り込まれていた。大田植え、花田植えのように歌舞音曲を伴奏させながら作業することもあったが、一方で手軽に求められることとなると、男と女の肉体の相互交換、利用ということにならざるをえない。》

 ソーラン節ももとは「沖のカモメと淋病のマラは、ウミをながめて涙ぐむ」「チンポチンポと威張るなチンポ、チンポオソソのつまようじ」そんなのばかりだったと教えてくれたのは『こっそり読みたい禁断の日本語』(朝倉喬司、洋泉社)だった。苛酷かつ危険な共同作業を無事になしとげるためには性の力が最も有効なのだ。本書は自らの体験を中心に書くというスタイルだから農村に関する記述が多いが、農村より村落の紐帯をさらに必要とする漁村では夜這いはさらに盛んだったと赤松は言う。

 農村の機械化は昭和10年ごろからはじまり、村は資本主義の攻勢に押され、村落共同体としての結合をゆるめるようになった。村の娘は村の男をきらい、都市にでて月給取りの女房になることをめざした。村に若い女がいなくなって夜這いは終わった。

 町の夜這いも村とさほど変わらない。すこしだけ触れておくと――高小2年で神戸の株屋の丁稚になり、その後大阪九条方面の廉売市場で坊主(丁稚)になる。主人夫婦、子供二人、丁稚二人、女中一人ではたらく果物屋だ。主人一家は2階、丁稚と女中は階下で寝ている。先輩の丁稚は女房に夜這いし、赤松は女中や出戻ってきたオヤジの妹とまじわる。妹には愛人もいる。《まあ下町の、それも零細企業群となると、このくらい性生活は自由で、そしてあけっぴろげである。》

 佃煮屋の嬶、乾物屋の嬶、魚屋の嬶、要するに近所の店のオカミサンともあそぶ。お客の嬶たちも誘ってくるし、どこそこのオカミサンと寝たいというとその手配もしてくれる。《嬶の生んだコドモならたとえタネ違いであろうと、育てるのはオヤジの責任であった。》だからこそお互いに安心して他人の嬶とあそべるわけだという。これはこれで健全な性道徳だろう。

●体験をもとに書く赤松

 【子供時代の性意識】

 1909年(明治42年)兵庫県加西村生まれ。大正はじめのムラの小学生の下着は、男の子はパッチ、女の子は腰巻きで、ともにしゃがむとキンタマやオマンコが見えてしまう。《学校の運動場で女の子がしゃがんでイシナンコやっていると、校長先生が中腰でのぞき込み、ソラ、見えとるぞ、見えとるぞとからかう。女の子が怒って校長先生の助平とたたきに行った。》いまなら即刻教育委員会に通報されて校長はクビになるところだ。

 当時と現在とでは何がちがうのだろう。たたきにいったところを見ると当時もオマンコが見えるのは恥ずかしいことだという意識はあるようだ。しかし見えたところで黙っていればいい。校長先生がいいはやすというのは、そろそろ陰部をひとに見せてはいけないという道徳が普及してきたためかもしれないとわたしは思う。

 女の先生の服装は、上の着物は腰の下までで、その下は袴で隠していた。赤松少年は、お前あの若い先生の袴めくりできるかとおだてられ(おお、スカートめくりはむかしからあったのだ)、《後からハカマをめくりあげたら、首筋をとっつかまえられてマタにはさまれた。(中略)その後も、ちょっと来い、オシッコかけたるとマタにはさんでくれた。そのうちお互いにマラやオマンコをさするようになり、毛の多いのがわかった。/大正初めのムラの小学校というのはそんなもので、私に性交したという感じはなかったが、女の先生は十分に感じていたと思う。》うーん、うるわしいというかうらやましいというか、とにかくおおらかなものだ。さらにおどろくべきはつづく文章。後年その先生と出会ったら《もう一ぺんねぶらせてやろうかと誘ってくれた。》うーん、ハカマの下でねぶっていたのか。うなってばかり。

 【すばらしい「柿の木問答」】

 赤松は14、5歳から民俗調査をはじめている。《性方面の資料採集というのは作法として自分の方から聞き出すわけにゆかず、結婚民俗の話からはじめるが、荷送り、出迎え、盃、部屋見舞い、三日帰りなどと聞いて、これでわかりましたということになると、教育勅語に汚染されていない年上の女たちからみれば、何がわかったんかい、一番肝心なココの話が抜けてるやないか、とマタをたたいて、(中略)これはどないやねん、と例のニギリをみせて、筆にも及ばぬ話を蜿々と続けて嘆息をつく。》嘆息をついているのは赤松だろう。「こんなにおえてしまうやなんてどないしてくれるんや」とかみつくと、「ほんなら向こうの山の中にお堂があるさかえ、きっと寄れや」と約束させられた。さあここからはじまる「柿の木問答」はうつくしい。

 夜遅くお堂に出向くと細い光が見える。初対面の中年女性だ。五目寿司とお茶を出してくれたが、話がつづかない。ムラのしきたりやからと御詠歌2回、般若心経2回を奉誦。《すべての儀礼が終わると、外へ出て出しておいでと勧めた。精を出すのではなくオシッコを出すわけで、もうよかろうと戸をたたいて堂内に入ってみると、フトンが敷かれ、ロウソクも細いのに代わっていた。フトンへ入ると抱き寄せてくれた。》

 「あんなところに(あるいは、あんたとこに)柿の木があるの」
 「ハイ、あります」
 「よう実がなりますか」
 「ハイ、ようなります」
 「わたしが上って、ちぎってよろしいか」
 「ハイ、どうぞ、ちぎって下さい」
 「そんならちぎらしてもらいます」

 《いままで間近で顔を見たことがない男と女が、いかに仏サマの前であろうと裸になって抱き合うのだから、お互いかなり抵抗があるのが当たり前で、こうした儀式でもないかぎり場がもたないのだろう。実演してみると、まことにうまい装置になっている。》よくそんなにスムーズに問答できるなと思ったら、著者赤松の在所の下里村では新婚の夜の儀式になっていたというから、だれでも知っている常套句なのだ。山中のお堂に電灯などない。闇のなかでロウソクの光にゆらめく女体はさぞなまめかしかったことだろう。

 主人も子供もある女だが、33歳の厄落としとしておこなったという。《これをしないで主人や子供や親が大病になったり死んだりすると、あの奥さんは厄払いしなかったと後指をさされるのである。》夜這いは一種の義務でもあったのだ。《このならわしは、播州をはじめとして関西では河内でも同じように行われていた。河内では、大厄がくると生駒詣りとなって、参詣の男に貞操を買ってもらう。その代金を賽銭にして投げ入れ厄を払った。》

 摂津・丹波・播磨三国のくにざかいにある清水寺では名月会に大盆踊りをひらき、意気投合した男女はアオカンでまぐあった。《悪い噂では、ムラの女がこの一晩の稼ぎ(厄落とし)で、一カ年の小遣いを作るというのもあった。安易な解釈は許されないが、有名な神社仏閣の近くにイロマチが多いのも、こうした事情と関係があるのかもしれぬ。》「安易な解釈は許されないが」という但し書きで慎重を期してはいるが、そう信じているにちがいない。「カネになるな」と思いつき産業化していくのに時間はかからなかっただろう。

●柳田民俗学と教育勅語は目の敵

 【柳田国男が夜這いに触れなかったのはなぜか】

 古来、歴史(文書)は上流階級の手になるものであり、下層階級の性民俗にふれるものは皆無といっていい。さらに明治時代にはいると、柳田国男やその後継者は意図的に隠したと赤松は学者を批判する。柳田は兵庫県福崎町の生まれ。

 《柳田国男は、僕の郷里から目と鼻の先の出身で、子供のころから夜這いがおおっぴらに行われているのを見聞きしながら育ったはずだが、彼の後継者同様に、その現実に触れようとしなかった。(中略)農政官僚だった柳田が夜這いをはじめとする性習俗を無視したのも、彼の倫理観、政治思想がその実在を欲しなかったからであろう。》

 官僚だったから性習俗を無視したとは、同時代の南方熊楠との比較でもいわれることだが、その評価はやや酷に過ぎるとわたしは思う。明治の知識人はいっせいに口をぬぐって知らぬふりをしたのではないか。明治以降日本の学会は西欧一辺倒となった。最澄や空海のころ学問をしようとしたら仏門にはいるしかなかったのと同じだ。知識人になるということはキリスト教の信者になる、あるいはキリスト教的なものの考えかたを信じるということにつながった。日本を西洋に劣らぬ文明国家に見せるためには、キリスト教的道徳に合わぬものは抹殺する必要があったのだ。それは現在もつづいている。

 【徹底的な反権力主義】

 熊楠も赤松もともに異端の学者なのだ。異端者は反権力者でもある。赤松は権威には徹底してさからうひとだ。非合法時代の日本共産党に入党、昭和9年から14年という戦時下(まさに小林多喜二や鶴彬が虐殺されたそのころ)に「敵の弾圧を蹴ってわが戦旗は進む」こんなスローガンをかかげて播磨・淡路島・摂津・河内をかけまわって反戦活動をしていれば当然のごとく治安維持法にひっかかり、4年間のムショぐらし。しかしへこたれない。官憲の目をかいくぐるようにして赤松は自転車で農村をかけめぐり、行商しながら反戦活動と民俗調査をすすめた。《基本的にムラの底層の人たち、特に賃雇いや賃仕事に出ている人たちは、性民俗にタブーがないから、あれこれ話してくれ、また他のムラのことにも詳しかった。僕も学者で商売しようとしたわけではなく、たかが自転車の行商人であるから相手も警戒する必要はなかったのであろう。》

 多喜二や鶴のような悲惨さはない。所轄の警察から「郡境を越えるときは届けを出せ」といわれても、「俺はまだチョンガや、野里(姫路の遊郭)へ女郎抱きに行くのも届けるのか」と口八丁で警察をやりこめる。

 反戦主義者ではあってもじつは共産主義者というわけではなかったと赤松は語る。《僕は、共産党はあまり好きでなかったが、当時、反戦を掲げたグループで共産党の他に闘う者はなく、》それで共産党に入ったのだが、《パクられるまで、共産党の中央委員だの地方委員だという大幹部があれほど警察側にペラペラしゃべっているとは想像もしていなかった。》どいつもこいつもタテマエだけは立派な「インチキ思考」だとてきびしい。

 【教育勅語に汚染される前の女たち】

 赤松はなにかというと明治23年に発表された教育勅語を槍玉にあげる。なぜなのだろう。《明治から大正、昭和初期にかけて生きた女性の大半は、マチなら幕末、ムラなら村落共同体の思考、感覚でしか生きていなかったということである。教育勅語によってそれほど汚染されていないということだ。尋常小もロクに出ていないような人間に、家父長制とか一夫一婦制といった思考方法がなじまないのは当たり前で、夜這いについても淫風陋習などと感じておらず、お互いに性の解放があって当然だと考えている。女学校やキリスト教的な教育を受けた女たちとの落差は大きく、ムラでは中等教育以上を受けた女は、だいたい「スソナガ」「スソヒキ」と呼ばれて孤立していた。》スソナガは裾長だろう。制服の袴を指しているのだろうか。

 高等小学校2年卒で丁稚小僧に出された赤松は、そのせいか教育のある女がきらいで、「ムラの女頭目」には一目置いても、市川房枝などの女性活動家は軽蔑している。女頭目たちは《尋常小学校もロクに出ていなかったが、見るべきものはちゃんと見ていた。新聞や「キング」「家の光」ぐらいは読んでいるから、市川房枝や他の女運動家たちの裏切りも知っていた。戦後、彼女たちが復活しても信じるものは誰もいない。》

 特高も学歴のない彼女たちを見くびっていた。彼女たちはそれを利用し、赤松に関する聞き込みをしようとする特高に「共産主義たら無政府主義たらいう難しいこと、わしらにわかりまっかいな、あの子、オメコさせ、いうてきたさけん、したぐらいは覚えてまっせ」と煙に巻いた。

 【教育勅語を目のかたきにしたわけ】

 《僕が民俗調査に興味を持ったのは十四、五歳の頃、大正十二年頃からであるが、郷里の播磨や、奉公先の大阪などで生活してみると、小学校の修身で教えられた純潔教育、一夫一婦制結婚生活などは全く虚構であることがわかった。》特に初めて連れられていった大阪の松島遊郭の情景はショックだったようだ。初ものを好む男は多く、まだ月経もない幼女を2、3日かけて破瓜にするのだが、《ひどいのは苦しむのや出血の多いのを楽しむものもいて、玄人のババアでさえ呆れる。中には、出血が少ないから処女でないと一悶着起こす客もあり、もう大変な世界であった。》男の子も10歳ぐらいから男色で売られたり強姦されることもあった。《そんなのは特殊だと思ったが、ヤミの世界をのぞいてみると、あんがいに一般化されているのもわかった。すこしでも露頭の見えるようなものは、その底はかなり広く、深いと考えてよい。そのように、水揚げとか、筆下しというのは、ヤミでの売買も激しかった。》

 尋常小学校に6歳で入学したとすれば、奉公に出たのは12歳ぐらいか。教育勅語をたたきこまれた純真な子供の心に修身と実社会の落差はあまりにも大きすぎたのだ。それで教育勅語を憎むようになったと思われる。赤松にとって教育勅語は偽善の象徴だった。(つづく)