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 『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』(赤松啓介、ちくま学芸文庫)

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(つづき)

●夜這いの実態

 【だれのタネかはわからない】

 《結婚と夜這いは別のもので、僕は結婚は労働力の問題と関わり、夜這いは、宗教や信仰に頼りながら苛酷な農作業を続けねばならぬムラの構造的機能、そういうものがなければ共同体としてのムラが存立していけなくなるような機能だと、一応考えるが、当時、いまのような避妊具があったわけでなく、自然と子供が生まれることになる。子供ができたとしても、だれのタネのものかわからず、結婚していても同棲の男との間に出来たものかどうか怪しかったが、生まれた子供はいつのまにかムラのどこかで、生んだ娘の親の家やタネ主かどうかわからぬ男のところで、育てられていた。大正初めには、東播磨あたりのムラでも、ヒザに子供を乗せたオヤジが、この子の顔、俺にちっとも似とらんだろうと笑わせるものもいた。夜這いが自由なムラでは当たり前のことで、だからといって深刻に考えたりするバカはいない。》

 いまなら認知するのしないのと騒ぐところだが、もともとコンドームもDNA鑑定もないのだし、みんな身におぼえがあるから騒ぎようもない。それに「結婚は労働力の問題」であるなら、家族がふえるのは喜ばしいことだっただろう。ただ、放縦な性の世界では、オレの娘ではないなと思えばまちがって(つまり実の娘なのに)近親相姦することもあったのではなかろうか。

 田舎のムラでは村内婚がほとんどで、村外婚が普及し仲介人や仲介業者が一般的に活動するようになったのは大正に入ってからのことだという。《三々九度の盃を上げてという小笠原式の婚姻が普及するようになったのはさらに後のことであった。》われわれはなんとなく江戸時代からあったような錯覚におちいっているが、仲人も三三九度も最近のことなのだ。

 【若衆宿入りと同時にはじまる夜這い】

 《僕のムラでは、数えの十五になると男はみんな若衆宿に加わった。》季節は正月の8日から10日だったというから、その後1月15日に全国的におこなわれるようになった「成人式」はこれに由来するのだろう。若衆宿の成員は未婚の15歳から25歳だが、小さいムラだと30、40の既婚男性も加わる。昼はムラの共同作業に出て力仕事をし、夜はお寺のお堂や店屋のまえに集まってあそぶ。《夜這いはだいたいこの若衆入りと同時にはじまり、若衆入りの際の相手はどこでも後家さんが主体だった。後家さんが足りないと四十以上の嬶が相手をしてくれることになる。》年長者がいろいろ教えてくれるのだが、ムラによってはすぐさせてくれず、年長者のゾウリ持ちの期間が長引くと、親がほかの若い衆たちに「早くさせてやって」と頼むことになる。

 《さあ夜這いとなると、すでに経験ずみの者は、どんなオバハンに当たるやろかと楽しみだろうし、未経験者は、さてどんなことやらと嬉し、恥ずかしで胸ワクワクである。(中略)小学校や中学校の修学旅行のように、とにかくガヤガヤ、ワアワアとするうちに一夜があけると、なんやこんなものであったのかという不満派、こんなええことやったんかという歓喜派が生まれた。》

 【娘宿あるいは娘仲間】

 なにごともムラによって規則は変わるから、すべてケースバイケースととらえるべきで、一般化してはいけないと赤松はくりかえし強調する。

 若衆宿があれば娘宿もあり、だいたい陰毛が生えて月経があれば、年長の女が検査して「夜這いさせてやれ」ということになる。《年長者が、水揚げしてあげて、と初めに乗る若衆を指定するムラもあった。》年長者は「姉さん」「娘ガシラ」「姉娘」などとも呼ばれるが、彼女が若衆仲間やムラと交渉する役目を負う。男が「子供組」「若衆仲間」「中老」「元老」と階梯をのぼっていくように、女も「娘仲間」から「嫁仲間」「嬶仲間」「婆仲間」になっていく。

 《つまり、ムラでは十三か、十五になると公式に性交教育を受け、あとは夜這いで錬磨した。(中略)性交させない性教育など、かえって危険である。いまの小学生の性教育など「性知識教育」で、あんなものは教えない方が、まだよい。(中略)男の子にも、女の子にも、絵を書いて、よけいな知恵をつけるだけで成年式の二十まで性交禁止を理想とするなどと、どんな根性しているのかわからん。もう十一、十二になったら性交をやらせる教育をしないとほんまに子供がかわいそうだ。》

●近親性交もあたりまえ

 【近親性交と障害者】

 若衆宿にせよ娘宿にせよ、それはそれで必要な民俗だったのだろうが、現代人にとっては信じがたいようなこともある。《新入りの若衆を多くの地方では「日の出」という。その日の出たちを夜、六時頃から仏堂に集める。》若衆の相手をするのはだいたい後家なのだが、足りないときはクジで40ぐらいの嬶も集められる。《だいたい夕食を終わってから堂へ集まり、人数が揃うと堂を閉めてしまう。冬だから堂内は真っ暗くなり、僅かに本尊の前の大ろうそくだけが輝く。》さらにここでもクジで相手を決めるのだが、狭い村だから母親、オバその他の身内と当たることもある。子供ができて母と子が事実上の夫婦になったりすることもあったのだという。

 《昔は母子の子であろうと、オバ・オイの子であろうと、後継ぎの子としたそうだが、明治になって戸籍を喧しくいうようになり、女の私生子にしたり、親類の女の子にしたりする。》信じがたい。狭い村だからみんなで口をつぐんでいれば可能かもしれないが、狭い村だからこそ永続できるものでもない。遺伝の知識がない時代だとはいえ、近親交配で障害児が生まれる可能性が高いということは経験でわかっていたはずだ。赤松も《もっと古い時代は、ほとんど水子にして流したのだろう。》と推測している。

 イザナギ、イザナミの最初の子が障害児であったため川に流したという『古事記』のエピソードは何を意味しているのか、以前から気になっていた。障害児が生まれたさいの対処法を、『古事記』を読む皇族、すなわちごく少数の読者に伝えるためのものだろうと解釈していたのだが、近親性交、障害児ということばからひょっとしたらイザナギ、イザナミ2神は兄妹だったのかもしれないなと連想した。名前も似ている。

 近親性交の話で特に哀しいのは障害者のばあいだ。《障害者たちに肉親の人たちが性教育をして一方が妊娠したというハナシは多い。(中略)殆ど宮参りなどもしないからムラの子としてみなされていないということである。》宮参りというといまでは晴れ着を着て神社におもむき記念写真を撮るという程度のことだが、むかしはムラの成員として認められるための重要な儀式だったのだ。ここでいう「性教育」とは、もっぱら性交の方法や性の喜びを指しているようだ。

 《知能障害などの場合は都市へ出ていくものが多いようで、スラム街などで夫婦同様の生活をすることもある。》このあとにつづく一節はやりきれない。《ムラは地域としては狭いから、どうしても近親性交となり他へ出る人が多い。》近親性交でできた子は村を出ざるをえないという話ではなさそうだ。健常児であればかまわないが、障害児は村にいられないという意味だろう。それなら近親性交で生まれたかどうかなど関係ない。とにかく働けない者は村にはいられないということになる。わたしはまたこんなことも考える。近親性交がざらにおこなわれていれば、単に統計上の確率として生まれた障害児も出生の由来を憶測され、「親の因果が子に報い」とか「先祖のたたり」などとささやかれたのではないだろうか。

 【フンドシ祝い】

 大正の初めごろまで播磨では13歳の誕生日にオバかそれに近い女からフンドシを贈られた。贈られた布を母や姉がフンドシにしたて、餅を近所にくばる。これを「フンドシ祝い」という。

 《しかし山奥のムラになると、他のムラ、とくに母親の姉妹の嫁しているムラへ》フンドシ用の布地と酒・米などを持参する。当日は他の家族は外出し、オバだけが待っている。昼ごろ家について挨拶ののち、反物を三方に載せて「八幡大神」の掛け軸をかけたり盃をかわしたりと儀式めいたことをし、オバがフンドシを作る。子供を裸にしてフンドシを締めこんでその作法を教えてやる。《すむと隣の間に連れて入り、初床の作法を教えてやり、性交の実地教育をする。》驚くべきは、結婚後も生涯交渉するという点だ。オバとオイだ。性教育はいいけれど子供ができれば近親相姦ではないかと心配するのは現代の常識で計るからで、よくあることだと赤松はこともなげにいう。

 【コシマキ祝い】

 女の子も13になるとカネイワイをした。お歯黒のカネのことだが、お歯黒の習慣がなくなったためだろう、のちにコシマキ祝いとなった。《ムラの長老や一族のオヤジなどに娘を連れて行った。》母親が米や酒を持参して同道、挨拶したら帰る。ミズアゲをした長老は娘が帰るとき《出血のついたフキ紙とか、白布を持たせて送っていく。(中略)これでミズアゲがすみ、一人前の女になったというので、若衆たちが夜這いにくる。》

 なぜ出血の証なんかが必要なのだろう、ミズアゲ以前にすませている子も多いだろうにと考えていたら、つづく一節にぶっとんで、そんなことどうでもよくなった。男子も女子もやはり器量のいい者は早くに手がつくが、13になってなお相手がいないとなると、《母親が男にしたり、父親が女にするのもあるそうだ。ただムラではそういうのをあまり喧しくいわなかった。そういう了解がなんとなくあったので、それで子供ができても批評がましいことはいわずに、すんだらしい。》すんだらしいって、遺伝の問題ひとつとってもすまんだろうと思うのだが、これも健常児であればすんだのだろう。

 【坊さんに娘を差し出す】

 以上は小作人や水飲み百姓など下層階級の性関係だが、地主・豪農の家でも同じことだ。お互いに息子を預け合い、オイエサンやゴリョウニンサンが性教育した。《お互いに預かったからには性教育も承知したのだから、旦那も一向に苦にしない。どっちの子かわからんのもあるが、自分の子にする。》こちらもまたおおらかなものだ。それが世間の常識ならだれも疑わない。

 でもこういうのはいかがなものか。対等な立場ならいいのだが、地主などは、小作人の娘や嬶に夜這いをかけるだけではなく、女中や女工などの使用人を《全く自由に使った。(中略)それを嫌うムラもあるが、山村などであると喜んで行くのもある。旦那に女にしてもらえと十〜十三ぐらいの娘を頼むのもある。そんな旦那の家へ政治家や県庁、銀行などの偉いのが宿ると、女学校へ行ってる娘を差し出した。ムラの連中は、上には上があるか、と大喜びした。もとより娘も処女とは限らない。が、いずれにしても娘を献上したのだ。北陸あたりでは本願寺の法主や息子が行くと、娘を献上したり、女房を奉仕させたりしていたそうだが、そういうのもいろいろある。》親鸞だか蓮如だか知らないが、いったん肉食妻帯を認められると坊主でもこのありさまだ。まあ亭主が喜んで差し出すのだから娘や女房も喜んでお相手をしたのだろう。いまの常識でむかしを計ってもしょうがない。

●女は「千人抜き」

 上野千鶴子は巻末の「解説」のなかで、夜這いは「共同体の若者による娘のセクシュアリティ管理のルール」であると要約している。わかりやすい解釈だし、おおまかにいえばそういえないこともないが、本書を読めば女たちが男たちに管理されているようにはとても見えない。上野は赤松に「形式論的にパーッと二つに分けなければ気がすまんような学者」といわれたそうだ。いろんなバリエーションがあるんやと。

 女が男に一方的に管理されていたわけではないことは、「百人抜き」「千人抜き」ということばがあったことでも明らかだ。夜這いは男が行くだけでなく、女のほうからも通ってきた。《私の在所では若衆が女の百人斬り、女が男の百人抜きを基準にしていた。千人になると盛大に祝宴を開いて、「千人供養」をしたそうである。ほんまかいな、と疑ったら、いろいろと(祖母が)事例を教えてくれた。金、鉄、木製などの巨根を正面に飾り、前に女陰形の大朱盃を供え、参列者の前には大根や山イモで作った男根女陰を供え、僧尼が厳粛に読経、終わって無礼講ということらしい。(中略)義理堅い男や女になると筆下し、水揚げの恩人を正座にして、その労をねぎらったという。こうなると、まさに良風美俗である。》

 むかしの日本には五穀豊穣、子孫繁栄を祈念するための性的な行事がたくさんあった。村の男たちが股間にはさんだ大根をヒコヒコ上下させながら行進するさまをテレビで見たのはもう10年以上前だろうか。笑い声を上げざるを得ないような習俗だった。その後もおこなわれているだろうにテレビで取り上げられるようなことはなくなった。2008年、奥州市が作った「蘇民際」のポスターを「胸毛の濃い男の上半身の写真が使われており、これが女性客に対するセクシャルハラスメントに当たる」として、JR東日本が掲示を拒否した。出生率が下がるわけだ。