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 『僕の見た「大日本帝国」――教わらなかった歴史と出会う旅――(西牟田靖、情報センター出版局)

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 1970年生まれの若者が、2000年から4年かけてかつての大日本帝国を旅し、その痕跡を訪ねたルポルタージュ。カバージャケットいっぱいに描かれた赤い円は、最大限にふくれあがった版図を表現しているのだろう。

 本文冒頭に掲げられた「日本軍最大進出線」の地図を見て、「これは無理だろう」と思った。北は満州から南はニューギニア、西はビルマから東はミッドウェー島近くまで拡がっている。大英帝国にできたことが大日本帝国にできないわけはないと思ったのだろうか。織田信長は中国を領土にしようと考えたらしい。現代人からみれば誇大妄想だ。

 占領とは何か、領土とは何か、統治とは何か、植民地とは何か、それが具体的に何を指すのか、それらがどうちがうのか、わたしにはわからない。われらの祖先は侵略しようとしたのか、はたまた解放しようとしたのか、われわれは何も知らされていない。敗戦後、連合国との思想戦にも敗れた日本国は慚愧の念と屈辱感にまみれて現代史を封印した。だから戦後生まれのわたしたちは、西牟田のような若者だけでなく、じつはわたしのような老人も現代史を知らない。

●日本の象徴は鳥居

 大学生のころからバックパッキングで50ヶ国以上を旅してきた西牟田が大日本帝国の痕跡を探そうと決めたのは、2000年30歳のときサハリンで鳥居を見つけた驚きがきっかけだった。日本人は侵出したさきざきに神社と鳥居をたててそこが日本領であることをしめした。その数は650に及んだという。《もともと神道というものは祖先や自然などを神とする民間信仰が仏教などの影響を受けて発展してきたものらしい。だが明治維新以後、天皇を中心とした国家として日本が再出発するにあたって、それまでの神社神道は皇室神道の下に再編成された。国家神道の成立である。》だから正確にいえば、日本のシンボルが鳥居になったのは明治以降ということになる。

 ただし、統治地域の神社も、そもそもは国家神道の教化というより日本人の信仰のためにつくられたもののようだ。なんといっても縄文時代から神社は日本原住民の心のよりどころだ。朝鮮半島から渡来したひとびとも、やはりその土地をナラとかコマとか母国を想起させる名前で呼んで母国ふうの建物を建てたから、これは人類に普遍的な現象なのだろう。

 戦後の日本に対する態度が国によって親日と反日に分かれているのはなぜなのか、いや、反日に決まっていると思っていたのに親日的な国があるのはなぜなのだろうとわたしは不思議に思った。そこに焦点を当てて読みすすめる。

●サハリンに韓国人が多い理由

 稚内からフェリーでサハリンへ渡る。日露戦争の戦利品としてサハリンの南半分は日本領となったが、太平洋戦争の敗北によってすべてソ連領になった。日本統治時代は1905年から1945年までの40年間。

 初日の夕方、野宿の準備をしていると日本語を話す娘と出会い、自宅に泊めてもらうことになる。ナターシャ、日露のハーフで20歳、大学で日本語の勉強をしている。本書で顔写真が載っているのはこの子だけ。《日本人的な奥ゆかしさを彼女の態度に感じ、一目惚れしそうになっていた。》したにきまっている。もう、ほんっとにかわいい。在日ならぬ在露3世ぐらいか。

 朝鮮人が大勢住んでいる。道ばたでキムチを売る老婦は「日本人はおこうこ好きでございますね」とていねいな日本語を話す。現在の韓国にあたる地域から日本によって強制的に連れてこられ鉱山労働などをさせられたひとびとやその子孫だ。戦後何度か故国に引き揚げるチャンスはあったが、祖国は朝鮮戦争で南北に分断され、ソ連と国交のなかった韓国には戻れなかったのだ。――と、このように西牟田はわれわれがある程度は知っているがよくは知らない現代史の疑問点をつぎつぎに解明していく。「ああ、そういうことだったのか」と教えられることが多い。

 《トマト売りの老人の話を聞いているうちに、僕はなんだか申し訳ないような気持ちになっていった。/「僕たちのおじいさんの世代が連れてこなかったら、おじさんもここにいなかったでしょう。すいませんでした」/それに対する彼の態度は冷静だった。否定も肯定もせず、/「それは時代の流れというものですよ」/と、なだめるように言う彼の言葉に、僕は返す言葉を持っていなかった。歴史の非情を呪う以外に何もできなかった。》西牟田は行くさきざきで大日本帝国の占領をわびている。そして相手の反応を見守る。

●朝鮮人が強制連行されたわけ

 1897年(明治30年)李氏朝鮮は大韓民国と改称し、鎖国を解いた。しかし1905年(明治38年)、日露戦争の戦利品として日本の保護国となる(ということは、それまではロシアの保護国だったということか)。さあまた新しい単語「保護国」が出てきた。1910年には日本に「併合」され、それは1945年までつづく。

 《自分たちの国の文化に人一倍プライドを持っている韓国人のことだから、戦後、「日本の足あと」ともいえる文化はすべて追放してしまったのだと思っていたが、三五年に及ぶ日本統治の痕跡はまだまだ》確認できた。ワリバシ、ヨウジからケーサン、オヤブン、ハンバにいたるまで多くの日本語がそのまま通用する。

 西牟田は馬山でひとりのハラボジ(おじいさん)に詰め寄られる。歳のころは70代後半。《実際に殴りかかってくるようなことはなかったが、ピッタリと体を寄せ、ツバがかかってくるほどで、話し方は絶叫口調へとエスカレートしていた。/こうなったら、興奮がおさまるのを待つしかない。わからなくてもウンウンとうなずいておくしかない。僕は背負っていた荷物を下ろし、手を後ろに組んで、真剣な表情をつくって相づちを打ち続けた。》旅慣れている。《この旅の中で出会う韓国のお年寄りたちが、僕を相手に怒鳴ることで日本に対する溜飲をすこしでも下げることができるのならば、怒鳴られるのも悪くはないだろう。そんな風に思っていた。》ちょっとかっこよすぎるような気もするが、正直な話なのだろう。

 しばらくすると絶叫は止み、ハラボジの目は悲哀を帯びてくる。少年のころ北海道に強制連行されひどく殴られた、殺された者もいたと抗議しているようだった。

 わたしは強制連行や強制労働のことはむかしから知っていたが、なぜそんなことをしたのかは知らなかった。日本本土の若者が召集され労働力不足になったものだから、日本政府は朝鮮半島のひとびと150万人を日本に強制連行して重労働にあてたのだ。これでまた疑問が一つ解けた。

 朝鮮のひとびとにとっては「よけいなおせわ」だろうが、日韓併合後、日本は朝鮮を植民地というより領土の一部ととらえ、さまざまなことを本土並みにしようとした。べつに朝鮮人民の福祉を考えてそうしたわけではなく目的は収奪だったのだろうが、とにかくそのおかげで農業も工業も飛躍的に向上したことはまちがいない。《鉄道、道路、電気などのインフラ整備に力が注がれ、立派な建物や橋が各地につくられた。(中略)日本統治時代、朝鮮の人口は一九一〇年(明治四三年)の約一三〇〇万人から一九四五年(昭和二〇年)の約二九〇〇万人と倍以上に増えている。》

 日本統治時代は「工業の北、農業の南」といわれたほど工業施設は北に偏っていた。そのため終戦後から1970年代までは北のほうが裕福だったというから意外。現在北が誇る工業施設の大半は日本統治時代にできていた。農業はいまだに惨憺たるものだが、昭和18年にピョンヤン北方で大規模な水利事業にたずさわった日本人が、もし終戦前にあれが完成していたら「北朝鮮の食糧事情はずいぶん違うものになっていたのではないだろうか」と残念そうに述べている。

●中国の反日は本気か

 日露戦争(1904年)はロシアまで遠征して闘った。だから旅順や203高地というのはずいぶん北のほう、そうだな北海道より北だとわたしは思い込んでいたが、地図を見ると朝鮮半島の西、黄海に面する位置だ。緯度でいえばせいぜい東北地方ぐらい。われながら無知にあきれる。ロシアに遼東半島まで南進されては日本は指呼の間で、これは当時の日本に相当な危機感をもたらしたようだ。

 日露戦争は乃木希典の愚策のため戦死者約8万4000人、戦傷者14万人以上という被害を出した(旅順を落としたのは乃木にかわって指揮をとった児玉源太郎なのだそうだ)。戦死者は日本のどの集落にもいた。そのため《日本国民は史上初めて「国家のための死」というものを身近に体験したのだろう。その哀悼の気持ちが国民の連帯意識を生み、天皇や国家に忠誠を尽くすという国民的意識にまとめられていった。》と国民精神の変化を西牟田は分析している。

 日露戦争の勝利により、それまでロシアの統治下にあった大連は、日本の統治下に入る(大連は旅順のとなり)。大連の町には日本統治時代の建物が用途や名称を変えてたくさん残っている。《中国の反日的な傾向からすると、日本統治時代の建物は取り壊されていてしかるべきだと思っていたが、それどころかいまでもわざわざなおして使い続けている。》ただし神社など政治的な意味のあるものは取り壊されている。《これらは、政治的なものは廃し、使えるものは現代的に改造して使ってしまおうという中国人の実利的・現実的な志向の表れなのだろう。》

 中国人の実利志向・現実志向に関しては「万人坑の商売人――大石橋」と題する一節でくっきりと描かれている。中国各地には、日本軍が建設した戦勝記念碑が「日本が中国を侵略したその罪の証拠」として残されている。遼東半島の付け根に位置する大石橋という町に保存されている万人坑は、《満州の鉱山などで日本人に酷使された中国人労働者はひどい労働条件のため、次々と亡くなっていったそうで、そんな労働者の亡骸をまとめて「捨てた」場所のことを指すという。》展示施設にはいると「人間地獄」というタイトルが目にとびこんでくる。《いきなりのおどろおどろしい単語にすこしたじろいだ。》漢字が読めるだけに生々しいだろう(ただし『字通』によれば「人間」はジンカンと読み「世間、俗人の世界」を意味する。たぶん現在の中国語でもそういう意味だろう。それとも日本人観光客を意識して日本ふうの意味で使っているのだろうか)。

 「人間地獄」の正確な意味は汲み取れないものの、地獄そのものだ。《人の死体が何層も折り重なって形成された骸骨塚。頭蓋骨はもちろん、全身の骨がだいたい同じ方向に並べられているようだった。土に埋まっているものもあるところからすると、露出しているものは一部で、犠牲者の大部分がいまでも地中に埋められたままなのだろう。もしかすると土砂だと思っていたものは犠牲になった人びとの体の肉が腐敗し、土に還ったものかもしれない。》

 展示施設の所長張さんは、「日本人の親方は苦力の頭をツルハシで一撃して殺した」と説明するや頭蓋骨にあいた穴に指をつっこんでしまうから西牟田は驚いた。《そのあとも張さんは留まることがなかった。/「彼は生きたまま、ここに捨てられた」/と足を縛った針金をスネの骨ごと持ち上げてみせたりした。会ったときの沈着冷静で静かな瞳は、そのとき怒りをたぎらせたものに変わっていた。》

 西牟田はすっかり張さんのペースに乗せられて呆然としてしまうのだが、人骨を踏んだ音でわれにかえる。張さんは案内のたびにこれをやっているようだと気づく。終戦時には小学生で親兄弟が日本人に酷い目にあわされたという体験があるわけでもないと西牟田が聞き出すと張さんの態度が一変、さきほどまでの「日本人よ、事実を知ってくれ」といった正義感に燃えた意気込みは失せ、「参観料50元、写真撮影料50元」とほかの施設の10倍の金額を要求してきた。献花をするならいくらだとかいろいろ稼ごうとエイギョーをかけてくる。しかし所長のそんな姿に「前向きな生命力のようなものを感じて」西牟田はかえってホッとする。日本人を糾弾する気持ちがあるのはもちろんだが、そんなところにいつまでも留まっているわけではなく、それを生活の糧に換えてしまうたくましさに救われたのだろう。(つづく)