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 『僕の見た「大日本帝国」――教わらなかった歴史と出会う旅――(西牟田靖、情報センター出版局)

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(つづき)

●遺骨の眠る激戦地でおののく

 だれでもそうなるのか、特別レイカンが強いのか、いまだ遺骨が収集されることなく放置されたままの場所に行くと、西牟田は異常な感覚に襲われる。北緯50度の旧日ソ国境のあたりには旧日本軍のトーチかがいくつも残っている。森の中をバイクで走っていると、《草に覆われた古墳のような土の盛り上がりが沿道に現われる。入ってみると中は廃墟だった。鉄筋コンクリートらしきもので覆われ、頑丈そうにできていた。》と述べたあといきなり《沈み込むような気配が感じられたので黙祷してその場を離れることにした。》このあたりが終戦前後日ソ激戦の地であったことをそのときはまだ知らない。

 《僕は霊感が強いほうではないし、もちろん幽霊を見ることなどできない。だが大量に人の死んだ場所というのは独特の沈み込むような雰囲気があると思う。凄惨な雰囲気がこびりついているのだ。》椎名誠もやはり同じようなことを書いているから、ナニカあるのかもしれない。

 万人坑で異様な感覚に襲われた西牟田は、撫順の平頂山でも同じ感覚に襲われる。ここは抗日ゲリラ討伐と称して関東軍が村人3000人を虐殺、《ガソリンで屍体を焼き、砲で山を崩して証拠隠滅を図ったという。平頂山でも、発掘されたそれら遺骨群を葬らずにそのまま展示してあったのだ。》

 予備知識がなくてもトーチカの廃墟に入れば、そこでたくさんの日本兵が亡くなったことは察しが付いて慄然とするだろうし、まして人骨の山の上に立って現地のひとに糾弾されれば異様な感覚に襲われて当然だろう。なにも感じないとすればそのほうが異常で、西牟田はきわめて正常なのだ。

 繊細な西牟田にとって中国人の葬送儀礼は受け入れがたい。万人坑や平頂山に立ってこう思う。《こうして半世紀以上にわたって亡骸を葬らずにいることが、日本人の僕には理解できないのだ。展示するのはもういいから、ちゃんと葬ってあげられないものだろうか。》とこう書いてすぐに反省する。《それとも、こういった考えを持つこと自体、被害者である中国人には許し難いことなのだろうか……。》たしかに日本人からは言いだしにくい意見だ。

●台湾は世界一の親日国

   西牟田が訪れた被侵略国の国民はたいてい反日的だ。例外は台湾とポリネシア。反日・親日は、その国の歴史にもよるようだ。

 《古来、台湾はマレー・ポリネシア系の先住民族(彼らは現在、自分たちのことを原住民と名乗っているので、以降は原住民と書く)ぐらいしか暮らしていなかった島で、一七世紀になるまでどこの国にも領有されなかった。》と書き写してわたしはふたつのことに気づいた。ひとつは、現在「原住民」は差別用語で、「先住民族」と言い換えなければならぬこと。ふたつは、新たに「領有」という言葉が出現したこと。

 17世紀オランダやスペインに占領され、いっときは独立を勝ち取ったものの今度は清に統治され、以降大陸から漢民族が大量に移住。1895年(明治28年)日清戦争の戦利品として日本に「割譲」され、1945年まで半世紀のあいだ日本の統治下に入る。日本は農業改革と工業化を推し進め、《台湾を近代化する有効な統治を行なった。》終戦後中国大陸からやってきた役人や兵士などの外省人(漢民族)ときたら本省人(原住民)を2等国民として見下し、日本統治時代には考えられなかったぐらい腐敗に満ち横暴だった、と西牟田は言う。《「犬が去って豚が来た」という表現が台湾にはあるそうだ。「犬(日本)はうるさいが守ってくれる。豚(中国)は働きもせずむさぼるだけ」ということらしい。》日本人のほうがましだとはいえ犬扱いに変わりはない。日本も台湾人を2等国民扱いしたのだ。

 《山間部や東部では五〇歳以上、西部の都会では七〇歳以上の人たちに日本語が通じるという。》部族によって言葉が異なりコミュニケーションできなかった原住民たちにとって、日本語は共通言語となった。皇民化教育のおかげで他部族どうしが話せるようになったのだ。これは日本人のよく知るところだ。おのれにとってつごうのいい事実だから。

 《日本国内ではお年寄りに戦争時代の話を聞く機会はこちらから積極的に求めないとまずないが、それは戦後の反戦ムードの影響により、かつての戦争経験者たちが証言しづらいと感じているという面もあるのだろう。ところがピナンさんは口を閉ざしたりはしないし、戦争について後ろめたさのかけらすらもないようだった。むしろ戦争の話になると血が騒ぐようだ。日本の国のためという、公の目的のために尽くす勇ましい兵士だったのだろう。》ピナンさんは76歳の高砂族(高砂族とは日本人が名付けた台湾少数民族の総称)。「我が皇軍」はアメリカより強く、アメリカは日本から原爆の技術を盗んだ卑怯者だと一点のためらいもなく語る。《戦後の平和教育を受け、戦争や軍国主義は絶対に悪いものとして教えられてきた僕にとって、ピナンさんの話しぶりは驚くべきものだった。》別れぎわピナンさんは挙手の礼をする。敬礼に対して国家権力的なイメージをいだき、どちらかというと抵抗を感じていた西牟田もこのときばかりは《背筋がピッとのび、精神統一が瞬時になされるようなそんなこころよさがあった。》

 台湾のひとびととの出会いを重ねていくにつれ西牟田の大日本帝国像はどんどん変質していく。学徒動員で神風特攻隊のお世話をしたという鄭さんが「わーかい血潮の予科練は〜」と歌うのを聞くと、それまで軍歌に対して大日本帝国の侵略者的なイメージを抱いていたにもかかわらず、《鄭さんの歌い方には、遠くなってしまった青春時代を懐かしむようなところがあり、軍歌=「アジアの侵略者」というステレオタイプなとらえ方は間違っているような気がしたのだ。》というぐあいにだ。

 《勤勉で正直、そして約束を守るといったことを台湾では「日本精神(リッブンチェンシン)」と呼ぶらしい。そんな言葉がいまだに使われているという。それはまさに日本統治時代の痕跡といっていいのだろう。「地道な職人精神」「根性」「公の概念」「愛国心」などが日本統治時代に教えられたのだ。/僕が台湾で出会った年配者たちは、戦前・戦中の日本のことを賛美したり懐かしんだりと、そんな話を流暢な日本語でたくさんしてくれた。彼らは当時教わった価値観をいまだに強く心に留めているようだった。》読んでいて心地よい。なぜこれほど日本びいきなのだろう。大陸から来た外省人たちがよほどあこぎなことをした、あるいは島国には島国の価値観が合うということも考えられる。

 だが西牟田は「教育方針の違いだろう」と冷静だ。《日本でも戦前・戦中の教育を受けた世代と僕も含めた戦後の「平和教育」世代では世代間にギャップがある。》台湾でも戦後生まれは反日教育を受けている。さらに若い世代はそれがないせいか日本のタレントが大好き。台湾国民の対日感情は3層に分かれていることになる。教育とは恐ろしいものだ。

●日本時代を懐かしむパラオのひとびと

 第1次世界大戦さなかの1914年(大正3年)、それまでドイツ領だったミクロネシア(サイパン、パラオ、ヤップ、トラック、マーシャル、キリバスなどの南洋群島)を連合国の一員日本が無血占領した。大航海時代以来欧米列強のクイモノにされてきた海域だ。終戦間近までの30年間日本の統治はつづいた。日本はそれまでの統治国とちがって、パラオの近代化につとめた。電気を導入し、道路を整備し、学校や病院を建設した。沖縄からの移民がさかんで、戦時中はパラオ人より日本人のほうが多かった。

 パラオではいまでも日本語が通じるだけでなく、日本の食文化も残っている。1981年に制定されたパラオ国旗は、青地に黄丸。《パラオは太平洋戦争の激戦地を持つ。米軍の空襲もあったし、玉砕戦も行なわれた。パラオの人たちは迫り来るアメリカ軍に対峙し戦った日本軍の様子を間近で見ている。そのときの記憶もこの国旗には込められている。勇敢に戦った日本軍に対しての尊敬の念を捧げているというのだ。》

 ペリリュー島の島民墓地の一角には、日本人戦没者のための「みたま碑」があり、それらは日本人がいつ来てもいいようにと現地のひとびとが清掃を欠かさない。《ペリリュー島民たちは日本軍とともに戦う決意を持っていたそうだが、日本軍は彼らに配慮し、島民全員をバペルダオブ島に避難させた。》戦闘が止んだのち帰ってきた島民たちは、おびただしい数の日本兵の亡骸に涙し、日本兵のための墓地をつくったのだそうだ。

 あくまでも日本の利益のためではあったが、とにかく日本はパラオに産業を根付かせようとした。一方、戦後パラオを国連信託統治領というかたちで統治したアメリカは、《根付いていた「日本」を破壊しようと、日本時代の建物を壊し、道路の舗装をはがし、並木を倒し、畑を掘り返した。》産業は持ち込まず、パラオの国家予算の半分という援助を持ち込んだ。そのむかしアメリカ政府がインディアンに対してとった態度と同じではないか。もし同じだとすると、強い酒を持ち込んで現地の男の勤労意欲を低下させるという政策も同じだっただろう。

 《そんな発展性のない社会では人びとの勤労意欲もなくなりがちで、日本統治時代にあった勤勉さ、治安の良さは失われてしまったそうだ。(中略)日本統治からアメリカ統治へと急激な社会の変化があったというのは、戦後、国民党が入ってきて中国流に強制された台湾に似ている。パラオの人びとが日本時代を懐かしむ背景には、台湾同様、あとから入ってきた統治者のやり方も関係しているのかもしれない。》

 終戦時74社もあった神社がことごとく打ち壊された朝鮮半島。保存運動までおこなわれている台湾。反日・親日の差は何に由来するのだろうとあらためてふりかえってみる。西牟田はこう見ている。《朝鮮の場合、長い長い儒教的な統治が続いた国なのだ。独自の長い歴史を持つ国だったところに日本が乗り込んでいったのだ。日本が来るまではしっかりとした統治がなされていなかった台湾とはそのあたりの事情の違いがある。隣にある、自国よりも「格下」の国の宗教など受け入れられるはずがなく、各地に建立された神社は朝鮮の人びとのプライドを傷つけただけだった。》

 格下、これがキーワードだろう。中国・朝鮮にしてみれば日本なんか漢字も文化もみんなオレたちが教えてやったんじゃないかとかねて見くだしていたにちがいない。そんな蛮族に蹂躙されたのでは屈辱と憎悪しか残らない。太平洋戦争敗戦後、日本人が唯々諾々としてアメリカに従ったのも、思想戦の敗北があったにせよ、相手のほうがずっと先進国であると認めたからだろう。

 一口に侵略といっても、その形態はさまざま。植民地、保護国、併合、統治、領有、割譲、ふみにじりぐあいによってことばはいろいろだが、要するにナワバリ争いだ。『それでも日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子、朝日出版社)によると、明治以降日本のおこなったナワバリ争いは、そこからミカジメ料をとる帝国主義の意味あいより、国防のための領土拡大という意味あいのほうが強いようだ。なるほどパラオを占領してもココナツぐらいしか収奪できない。そう考えれば中国が周辺国をナワバリにする意味も見えてくる。チベットなんか占領したってチョモランマの入山料ぐらいしか上がってこない。それでも制圧しておきたいのは、いつ攻めてこられるかわからないという恐怖心からだろう。