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 『快楽亭ブラックの毒落語』(平岡正明、彩流社)

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●平岡正明の遺作

 平岡正明、1941〜2009、享年68。晩年は落語の評論をしていたのだと本書で知る。大学生のころ『あらゆる犯罪は革命的である』という平岡の本を読んだことがあるが、難しくてよくわからなかった。わからないのはこちらの知識経験が足りないせいだろうと思わせる博識だけが記憶に残っている。今回も同じ。全篇「二代目快楽亭ブラック」のパロディ落語の話で、わたしはそんなひとがいることも知らなかったし、古典落語にもうといから十分に楽しめなかったうらみがあるが、それでも記録せずにはいられないほどおもしろい。

 たとえば平岡はこんなふうにブラックの落語を採録する。《鎌倉幕府を倒したのが建武の中興。朝廷南北に分かれ、南朝の後醍醐帝に味方したのが楠木正成。ここでブラックのギャグ。/ミカド、河内国の住人、楠木正成におことばを。何度言っても返事がない。焦れて大声で迫る正成に、/「ゆるせ。余は南朝(難聴)なり」》ウ、うれしい。大好きだこういうの。駄洒落も周到に準備すれば芸になりうる。

●「オマン公社」で寄席を追われる

 初代快楽亭ブラックは、維新−明治史に名を残すジャーナリスト英人ジョン・ブラックの息子ヘンリー・ブラック。初代ブラックに関しては『決定版 快楽亭ブラック伝』(小島貞二、恒文社)があるが、まだ読んでいない。

 二代目快楽亭ブラック、本名福田秀文は、著書『借金二〇〇〇万円返済記』(ブックマン社)のなかで自らについてこう述べている。「あっしが物心ついた頃、祖母と二人で町田の四畳半に住んでいた。(中略)母は若い頃、進駐軍の米兵と付き合ってあっしを妊娠するも、籍を入れるひまもなく、彼は朝鮮戦争に出征し、あっしが生まれる三日前、一九五二年五月二十三日に戦死したらしい」

 平岡は補足して、《五十歳を過ぎて立川流を除名され、血管が裂けて死にかけた大病を患い、離婚。ありていに言えば女房に逃げられ、借金に首がまわらず、ポルノと性倒錯と発禁ネタの外道落語家だと寄席に出してもらえない男》と述べている。なぜ寄席から追われたのか。安部内閣のころ演じた「オマン公社」が原因のようだ。

 「オマン公社」の冒頭ブラックは、「主計局長と財務大臣の会話ではじまる新作落語なんてありませんよ」と笑わせる。たしかに。ブラックの落語はジャーナリスティックだ。国家財政をたてなおすために角田主計局長が尾身財務大臣に「水道水に覚醒剤を混ぜて国民がシャブ入り水道水になれたころ水道料金をガーッと上げるんです」と提案する場面があったのだが、これを演じた小屋「新宿アイランドホール」が、なんと水道局のものだったため、立川流は出入り禁止になったとか(同ホールのホームページを見ても水道局との関わりは出てこないから、天下り先だろう)。

 シャブ入り水道水を却下された主計局長はつぎに国営売春業「オマン公社」を提案。ここから先はもしこれが実現したらという妄想(って、そのまえから妄想だけど)。お客は署名捺印した書類をあっちの窓口へ持っていけ、こっちの窓口へ持っていけとふりまわされ、ようやく浜四津敏子という源氏名の国家公務員をバイブで責めるところまでこぎつけるのだが、《ウィーン、ウィーン、おや乳首が固くなった。声も出ている、浜四津さん、敏感なんですねえ、では失礼してあのあたりも……おや、あれ、声も出て腰もはね上がっているのに……おーい、フロントさん、ちょっと変だよ、この人、こんなに感じているのに、乾いているよ。甘い甘いラブ・ジュースが出てないよ。》それに対するフロントの答えがサゲだ。「ここをどこだとお思いですか。役所です。甘い汁は私たちが吸いました」

 「饅頭こわい」程度の平凡なサゲだが、ブラックのサゲは社会風刺を盛り込むための道具に過ぎない。浜四津女史が出てくるのは、ブラックがガッカイ嫌いのため。

 「名字なき子」も当時はやっていた安達祐実の「家なき子」のパロディで、それによってこの落語がいつごろ演じられたものかがわかる。小泉純一郎の「聖域なき構造改革」のおかげで皇室まで民営化されてしまったという噺。三河島のアパートで中気の老人と失語症の妻と出戻り娘の3人が暮らしている。ふたりの兄は両親を捨てて逃げ出し、「私の夫だった黒田さんは、天皇の娘でなくなったお前などは無用の長物」とDVの日々でついに破鏡。そんな清子に声をかけたのがかつて婚約者と噂された坊城さん。鶯谷のラブホに誘い込み、《いままさにというとき、清子さんの頭には、自分の帰りを待つ父母の姿が浮かびます。言います。「ボージョー、するなら金をくれ」(中略)クックッ、快楽亭ブラックというやつは……とんでもねえ才能。》駄洒落も周到に用意すれば芸になりうる。

●「一杯のかけそば」は「一発のオマンコ」に

 大ベストセラーになった「一杯のかけそば」(栗良平、1988)を徹底的にパロったのが「一発のオマンコ」だが、落語の発表は1992年だから、栗が詐欺で逮捕される前のことだろうか。

 「かけそば」は大晦日の夜、札幌のそばや「北海亭」に貧乏な母親とふたりの男の子が来てかけそば1杯を分け合うという出だし。「最後の客が店を出たところで、そろそろ表の暖簾を下げようかと話をしていたとき、入り口の戸がガラガラガラと力なく開いて、二人の子供を連れた女性が入ってきた。六歳と十歳くらいの男の子は、真新しい揃いのトレーニングウェア姿で、女性は季節はずれのチェックの半コートを着ていた。」

 それを「オマンコ」は、「四十過ぎの、歳の割には頭が真っ白になったさえないよれよれのコートを着ている人生に疲れ果てた中年男と、その子どもでしょう、ツメ襟の学生服を着た中学生くらいの男の子、そして弟でしょう、寒空に半分しかないコートを着た、半ズボンのいかにも寒そうな貧しそうな男の子」の3人が薄野のトルコ風呂にやってくる。

 「あのー……かけそば……一人前なのですが……よろしいでしょうか?」(栗良平)これがブラックの手にかかると、「三人で一発のオマンコなんですが、よろしいでしょうか?」となる。さらに女将が「へんな客だねえ、大晦日に三人で一発のオマンコだなんて」と不審がると、亭主は「一家心中だな」と見抜く。《トルコ風呂亭主の眼力を、志ん生「お直し」の中どころの店の楼主のセリフ、「花魁、おれの眼は横になれているよ」と重ね合わせたい。長年花柳界の泥水を吸ってきた人種の凄みだ。》と平岡は解説する。「お直し」を知らないから解説もよく理解できないのがくやしい(笑)。

 名手イブちゃんが3人同時に相手をし《父親は性器、上の子は口、下の子は肛門に入れさせて、「親子三人が同時に射精いたします」》このあともさらにブラックは「かけそば」をオチョクリまくる。《団塊世代のブラックは、同世代者の感傷を代弁するだけのフォークソング的泣きの水っぽさがいやだったのではあるまいか。》という平岡の解説で腑に落ち、大いに共感する。ブラックは1952年、栗は1954年生まれで、ともに団塊の世代とはいえないが、水っぽい感傷はいつの世にもはびこっている。

●落語家の紋付き羽織には意味がある

 本郷生まれの平岡はこう言う。《俺が佐幕派である理由も快楽亭ブラックと似たりよったりだ。(中略)時代劇と落語は佐幕派文藝なのである。明治ジャーナリズムは福地源一郎、成島柳北、栗本鋤雲ら、二君に仕えることをいさぎよしとしなかった旧幕臣の反骨から始まっているのであり、敗れた側の江戸っ子のルサンチマンが明治ジャーナリズムを苗床として時代小説を生んだ。落語は、昭和に至るも、古今亭志ん生が旗本格の指南番美濃部家の出身、桂文楽が将軍家典医並河家の出身と幕臣の系譜だ。》

 落語は敗れた佐幕派の文芸であるという。気が付かなかった。「落語の真打ちがテリー某なんてすがめのタレントに顎で使われることの口惜しさ。紋付き羽織はダテに着ているわけではない」という一節にハッとした。落語家の服装に意味があるとは思わなかった。

 「文七元結」は、大圓朝の名作人情噺。左官の長兵衛は博打ですってんてんになり、娘のお久が見かねてみずから吉原の大楼佐野槌に身を売りにいくのだが、佐野槌の女将は長兵衛をよびだしこう言う。「私は涙が出たよ。ここ吉原の女たちは親に売られてきた者ばかりだよ。自分を買ってくれと言ってきたのはこの娘だけだ。いくらいるんだい。50両……私が貸そう。1年待とう。その間、お久は私が預かろう。店になんか出しゃしない。自分の娘として私が面倒を見る。1年だよ。1年たってお前がお金を返せないときは、私は鬼になる。お久に客をとらせるよ」《言って、長兵衛に五十両の金を貸す。江戸女、佐野槌の女将の情と気腑がいい。佐野槌の女将のセリフが粒立っていることが、「文七元結」という落語の勝負どころの一つだ。圓朝は薩摩っぽ首相の黒田清隆の前で、江戸女の意地の張りはこういうものだったということを語ってみせたのである。黒田清隆は維新英雄の一人だが、酒乱だった。かつて江戸侍の娘の妻を斬殺しているのである。》

 吉田茂も総理大臣になってから官邸に志ん生を呼んだという話をなにかで読んだ。功成り名遂げたひとは寄席に行くわけにいかない。圓朝も黒田邸に呼ばれたのだろうが、圓朝の腹には一物あったわけだ。荷風は『断腸亭日乗』で《明治以後日本人の悪るくなりし原因は、権謀に富みし薩長人の天下を取りしためなること、今更のやうに痛歎せらるるなり。》などと言っている。維新当時の江戸っ子にあまねく見られた心情なのだろう。当時のものを考察するさいには念頭に置いておくべきことだ。

 

 『快楽亭ブラックの放送禁止落語大全』(快楽亭ブラック、洋泉社、CD付き)

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●鶴瓶はつぶやいた「こいつ気違いやで」

 二代目快楽亭ブラックは反骨の落語家だ。あらゆるタブーに挑戦する。皇室も障害者もおかまいなく俎上、いや、板にのせてしまう。宮武外骨もそうとうなものだが、ブラックはもっと徹底している。外骨には不敬罪・治安維持法などのカセがあるのに対し、こなたにはないという時代背景の差はあるにせよ、言論の自由をこれほど体現している表現者も珍しい。

 とりわけ大胆なのは皇室ネタだろう。「名字なき子」を平岡正明の要約でなく本書で通読するとさらにおもしろい。小泉総理の「聖域なき構造改革」で民営化した皇室は、それまで無料でおこなっていた国事行為を有料にしてウハウハもうかっていたのが、どうしてまた三河島のぼろアパートに親子3人で暮らすまで落ちぶれたのかと思っていたら、株式会社にしたのをコロッと忘れ、ために創価学会に皇室株を買い占められ、「池田大作先生が天皇陛下になっちゃった」のだ。そーだったのかとなっとく。

 鶯谷のラブホに清子をつれこんだ坊城は、まず君が代を斉唱してから清子を四つんばいにさせる。「やっぱりわたしがあんまりブスだから顔を見る正常位はイヤで、わたしの顔を見ずにすむバックからやりたいのね……」「そうじゃないんです。着てるものを全部脱いで四つんばいになってくれましたね。あなたのおしりをこうやって開いて。おおォ! これがホントの、菊の御紋章!」

 ブラックの落語はすべてその時その時の話題がもりこまれるので、付録のCDの内容は平岡の本とも本書の収録作とも異なる。CDのマクラは、最近皇太子夫妻は疎外されていて両陛下・秋篠宮夫妻・黒田夫妻だけで会食し、席上天皇が紀子さんに向かって「ナンシの出生を、希望、いたします」と言う。そこで秋篠宮は翌日紀子さんに裸エプロンをさせて後ろからせめたて、「ああ、あなたいつもより太くて固いわ」「そうさ、陛下もおっしゃっていたように僕らにはダンシ出生の期待がかかっているからさ」あとはベッドでインリンさまのようにM字開脚をさせてと、もう言いたい放題。ナンシとダンシをつかいわけるところなど芸がこまかい。

 本書では各落語にブラック自身の手になる解題が付されている。《横浜にぎわい座での落語会でこの落語を演ったところ、次の出番の笑福亭鶴瓶が聞いていて、「こいつ気違いやで」とつぶやいたという。鶴瓶はそれ以降、あっしの落語会に出演してくれなくなった。/ひょっとして右翼だったの!?》とヒニクをとばしている。テレビむきのヌルイ笑いをこころがけている鶴瓶は同席に身の危険を感じたのだろう。

●七つの顔の障害者だぜ

 寄席では障害者が入場したときは「もぎり」が楽屋に知らせ、さしさわりのある噺はしないようにしていると聞いたことがある。川柳川柳(カワヤナギセンリュウ)という落語家は、浅草演芸ホールで身体障害者の客にむかって、「おまえたちかたわ者なんざ来なくていいんだ、帰れ」と酔っぱらって暴言を吐いたといううわさがたっただけで、落語協会会長の小さんに寄席出演禁止を命じられた。それほど障害者には気をつかっているのだ。

 2009年、浅草演芸ホールに入った。初めての寄席だ。車椅子使用者は500円引き。ひとり15分の持ち時間で落語家・漫才師・物まね芸人などがつぎつぎと出てくる。午前中のせいか本格的な古典落語をやるような者はいない。

 柳家さん吉という昔よくテレビで見た噺家が、たぶんこれが得意なのだろう、話の合間合間に入場してきた客にむかって、「あ、お客さん、このあたりあいてますよ」と案内をする。中年男性と茶髪ロン毛の若い女性が入ってきたときには、「いちばん前があいてますからどうぞ」と誘導し、ふたりが席についたところで高座からグッと顔を前にのばし、「ところでおふたりはどーゆーご関係なんで?」とやったものだから満場大爆笑。みんな「おんや」と思っていたのだ。

 ところでわたしは背中に激痛があり、自宅では定期的にテーブルにつっぷして背中の除圧をする。映画館やコンサートホールにはたいてい車椅子席と称する座席をはずしたスペースがあるから、カメラの三脚を改造したものを持参してそこにつっぷす。寄席では客席のうしろの通路に停めたのだが、三脚を立てるスペースがない。背中の痛みが限界まできたときは、前に立った妻がわたしの両手首をひっぱって車椅子の背もたれから背中をはがした。知らないひとが見たらイチャついているように見えるだろう。しかしさん吉がわたしたちをいじることは一度もなかった。

 現在のあらゆる表現者が「障害者」という言葉を発することさえためらい、どうしても言わなければならないときには「障害者のかた」と妙な日本語をつかうほど自主規制しているのに、ブラックは自主規制なんかしない。むしろあえて「めくら」だの「つんぼ」だのを使う。片岡千恵蔵のものまねで、《「あるときはめくらのやくざ、またあるときは、片目の剣豪、またあるときは片目片腕の浪人、またあるときはおしでつんぼの靴職人、またあるときはハンセン氏病の老巡礼で、またあるときは下半身のない少年ケニー、しかしてその実体は……」「おまえ、どうしてそう身障者ばっかりに変身するんだよ! 下半身のない少年ケニーって、おまえ、いったいどうやって変装するんだよ。おっもしろい車屋だねェ」》

 ブラックがあえて皇室や障害者をとりあげ、それもわざとむちゃくちゃなあつかいをするのは、触らぬ神になんとやらという現在の日本の風潮にさからうためだろう。てやんでい精神と名づけたい。

●人情噺なんて簡単だよ

 「文七元結(モットイ)」の元結いは髷の付け根をしばるひものことで、文七が一騒動を経たのち独立、元結い屋をはじめたというエピローグにもとづくタイトル。大圓朝の創作人情噺だが、ブラックは人情噺なんか大嫌いだからぶっといパロディにしてしまう。

 2000年に芸術祭優秀賞をとったブラックは、《芸術祭獲ったあと、おッ、ブラックがいよいよ本格化を目指すのか? ってそう思わせといて、裏切ってやりたい、芸術祭を獲って最初にやった毒演会のネタおろしがこの落語でございまして……。》とマクラにふっておいて始める噺は圓朝の「文七元結」そのものだ。高座の上の「めくり」には出演者の名前しかなく噺のタイトルなんか表示されないから客はみんな「文七元結」だと思いこんでしまう。女性客のなかには涙をながす者まで出てくる。

 ところが噺が佳境にはいったところで文七の奉公先が原作の鼈甲屋から四ツ目屋(大人のオモチャ屋)にかわり、集金先の水戸様で碁に夢中になって50両を忘れるという噺が、お女中方のオマンコに張型や小判を入れて遊んでいるうちに忘れるという内容になってしまう。文七がのれん分けをしてもらうエピローグで旦那に「水戸様のお女中方からお前のところの張型は細すぎてものたりないというクレームがついたのでこれからは倍の太さにしたい」と申し出るところから、タイトルは「文七ぶっとい」。

 人情噺をやるのは恥ずかしかったが、後半下ネタに大変身するのを気づかれないようあえて「臭く演じた」と解題で述べている。《下ネタに入ったときは馬鹿受けする客あり、ボー然とする客あり、怒る客ありで、演っていて面白いのなんの。/あっしにとって「文七ぶっとい」は、人情噺なんて簡単だよ、観客を泣かそうと思えばいつでもできるんだぞとあっしの実力を見せ付けることができ、でもあえてそれはしないんだぜ、どんな名作人情噺でも快楽亭ブラックの手にかかればこんな下ネタになっちゃうんだよと、あっしのポリシーを見せ付ける大切なネタである。》じつに見上げた心がけだ。うれしい。

 

◆K氏(60代男性) 今月の快楽亭ブラックは面白い。本を読まなくても十分楽しめました。
三河島のアパートの話はワタシ好みだなあ。

 私は落語好きだけど、落語家が佐幕派とは知らなかった。そう言えば、
漱石も落語好きだったが、漱石は江戸の名主の伜だから、やっぱり佐幕派
なんだろうな。かく申す私の祖先も佐幕派です。

 ついでながら、圓朝作の「文七元結」の結末は、所帯を持って麹町貝坂
で元結屋を営むということになっていますが、その貝坂というのは、いま
私が構えている事務所から20mほどのところです。へえ、こんなところ
にねえ、と見回しても、いまは寿司屋と蕎麦屋とラーメン屋以外、何にも
ありませんが。

   ところで、一個所ミスタッチがあるよ。断腸亭が断腸邸になっています。