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 『日本せきずい基金創立10周年事業報告書』(日本せきずい基金)

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●「右足の小指を動かす神経」というものはあるのか

 2009年9月、せきずい基金の主催で「Walk Again 2009 国際シンポジウム」というものが開催された。「中枢神経系の再生医学−5W1H」すなわち「歩けるのはいつだ」というのがテーマだ。

 いまや再生医学はテレビでも放送するほど人気のテーマだ。事故で切断した指の断面にブタの膀胱からつくった粉(細胞外マトリックス)をふりかけると指がにょきにょき生えて4週間でもとどおりになってしまうとか、あるいは肝臓病のひとの肝細胞をブタの胎児に移植するとそのブタが健康な肝臓を代理ではぐくんでくれるとか、医学の進歩はまことにめざましいものがある。

 しかし指にしても肝臓にしてもそれらは末端の話。末梢神経は再生されても中枢神経(脳と脊髄)は再生できないというのがこれまでの定説だった。そこへこのテーマ「中枢神経系の再生医学」だ。今をときめくノーベル賞候補者、頸損の期待の星、山中伸弥京大教授が「iPS細胞の可能性と課題」について講演するというのだから、これは行かずばなるまい。iPS細胞(人工多能性幹細胞)がいかに重要なものであるかは、山中教授が受精卵からではなく体細胞からiPS細胞を造り出したと発表したら、いつもなら予算を付けるのに何年もかかる日本政府がたちどころに100億円の研究費を約束した事実をみればわかるだろう。

 ES細胞(胚性幹細胞)は何にでもなりうる万能細胞だが、ただ一点、ヒトの受精卵を破壊してつくるところが嫌われて研究が足踏みしている。じつはそれほど非人道的なものではない。不妊治療に成功したカップルから不要になった受精卵をもらうだけなのだ(不妊治療では受精卵を数十個作る)。いずれ捨ててしまうものだが、それを利用しようとすると「生命の破壊だ」といって怒られる。しかしiPS細胞は本人の体細胞からつくる幹細胞なので、倫理上の問題も免疫上の問題もない。その開発者山中教授のお姿を拝見し、そのお声をぜひとも生でお聞きしたい。

 さっそくせきずい基金に参加を申し込んだ。多数の申込みのなかから運よく抽選に当たり、招待状が送られてきた。「諸先生に質問があれば事前に送るように」という。願ってもないことだ。わたしはかねてから疑問に思っていたことを講演会の係にメールで送った。「送信済みアイテム」の中に残っている文面は以下のごとし。

 《【質問事項】
 @たとえば「右足の小指を動かす神経」というものがあるのか。
 AたとえばC5の損傷部位にiPSなどを注入して脊髄が再生したばあい、損傷部位の上と下で「右足の小指を動かす神経」は正しくつながるのか。》

 まずは「右足の小指を動かす神経」というものがあるのかないのか、そこが知りたい。脊髄の模式図を見ただけではどうなっているのかよくわからないのだ。「右足の小指を動かしたい」と脳で思ったとき、その思いは延髄から脊髄を通って、おそらく下半身の事柄だから腰髄あたりで枝分かれした神経が指先に思いを伝えるのだろう。ならば途中で混乱しないように1本1本の神経繊維にそれぞれの役割があるのではないか。

 仮に単線ではなくインターネットのようにさまざまな経路があるとしても、脳に近い頸髄で途切れてしまえばそれ以下にはつながりようがない。途切れた部分に詰め物をしてうまくつながるのだろうか。

 損傷した部位は空洞になっているということだ。なんと恐ろしいことだろう。その空隙にみずからの体細胞からつくった神経細胞を入れ込んだとき、その充填物の上下で正しく「あいかた」というか過去一体であったものはつながるのだろうか。術後、右足の小指を動かそうとしたら親指が動いてしまったなどという配線ミスは起こらないのだろうか。

●「初期化」がキーワード

 残念ながらよんどころない事情で講演会には行けなかったが、後日、シンポジウムの詳細な記録である本書が送られてきた。目次をみれば、講演者は、山中伸弥京都大学教授、ハンス・キーステッドカリフォルニア大学準教授、アリソン・エバートウィスコンシン大学助手、糸山泰人東北大学教授、岡野栄之慶応大学教授。講演のあとで長谷川聖治読売新聞科学部次長の司会でパネルディスカッションがおこなわれた。せきずい基金の講演会ではいつも最後に質疑応答の時間が設けられる。障害者も多数参加しているからこれはすばらしいことだ。

 ざっと目を通したが、講演内容は専門的なもので、しろうとのわたしには骨が折れる。理解できるところだけつまみ食いすると――。

 《山中 iPS細胞は細胞の初期化、つまり完全に分化していた細胞に四つの因子を導入することによって無理やり時計の針を巻き戻すような方法で作製されました。》患者に移植したあとで癌や腫瘍にならないよう研究を進めているとのこと。《また、これ以外にES細胞と共通の課題もあります。ES細胞やiPS細胞そのものを移植することはありません。必ず神経や筋肉など、目的の細胞に分化させてから移植するわけですが、どうやって確実に分化させるかという研究がまだ完成していません。》

 そうやってつくった細胞をどのように患者に移植するか、その方法も決まってないと山中教授はつづける。《心臓の細胞を心臓に注射のようにピュッピュッと打つのがいいのか、それともそういった細胞でシート状のものをつくって貼り付けるのがいいのか。》まだ研究中とのことだ。

 これを読んでわたしは自分の出した質問が的はずれなものであったことを悟った。損傷部に万能細胞を注入するのだと思い込んでいたが、そうではなく神経なら神経に分化させてから移植するのだ。ただ、分化させる方法も移植する方法もまだ決まっていないと聞いて、やや不安になる。移植したあとで癌や腫瘍になったら、治療前より症状は悪くなるだろう。

●質問に答えない日本の医者たち

   パネルディスカッションは会場からの質問で始まった。わたしと同じ損傷部位のC5のひとが「再生医療の人間への応用はいつから始まるのか」と聞いている。質問者の気持ちはよくわかる。自分が頸損になってからのことしか知らないが、もう20年も前から、やれネズミで成功した、やれサルで成功した、さあつぎは臨床だと、さまざまな脊髄再生療法に関する報道がなされてきた。しかし人間で成功したというニュースがそのあとにつづいたためしはない。

 司会者が「山中先生からお答えいただけますか」というのに対し、山中教授は「具体的な時期につきましては、先ほどの岡野先生のお話にもありましたように、予測は軽々しく言える問題ではありませんので私からは明言は避けたいんですがハンス先生、岡野先生から何かあるかもしれません」と慎重な姿勢をくずさない。

 つぎの「神経の再接続」という小見出しのなかでわたしの質問がとりあげられていた。《長谷川 これも会場からの質問です。C5の、頸髄の5番目の損傷の方ですが、「iPSとか細胞を注入した場合に脊髄が再生して、その上下で、たとえば右足の小指を動かす神経だとしたら、損傷した部分にiPSを投入することで、うまく前後でつながるのでしょうか」という質問が来ています。その点、山中先生、あるいは糸山先生あたりどうでしょう。》なんという光栄だろうか。一障害者にすぎないわたしの質問に世界的権威が直接答えてくださるのだ。息詰まる瞬間だ。それに対する山中教授の回答は――。

 《山中 より正確な答えは後ほどあると思いますが、岡野先生が言われたように、回復をもたらすためにも、細胞移植をした後のリハビリがすごく大事ではないか、という印象を持っています。ただ、科学的に根拠があるかどうかはわからないんですが。》

 わたしはムッとした。提出した質問は的はずれなものだったかもしれないが、司会の長谷川氏がじょうずに軌道修正して的を射たものになっている。なぜ答えてくれないのだろう。

 リハビリが大切なことぐらいわれわれ頸損はみな知っている。小樽の右近氏のようにリハビリだけでC2の森さんを歩かせたひともいる。医師でもPTでもないから医学界からは無視されたが。リハビリがすごく大事だという「印象」を持っているといいかけただけで、あわてて科学的根拠があるかどうかわからないと言葉を補わなければならないのがいまの医学界なのだ。

 右近氏がC2のひとを歩かせたのは事実だが、しかしその訓練たるや1日6時間・1年364日・数年間というものだった。それでは生涯に数人しか自力歩行に導けないかんじょうになる。わたしが小樽まで見学に行ったとき、訓練期間は1人の障害者につき1週間だった。200人が順番待ちをしているからだ。森さんももはや訓練は受けられず、そのため太ってしまい、「お医者さんからもっと痩せなければダメだっていわれているんですけど」と笑っていた。それでも松葉杖で歩いていた。

 司会者は糸山教授に答えをもとめた。すると糸山教授は、《私は臨床家で、基礎研究をやっていないので、あまり責任のあることは言えないと思います。しかしやはり神経細胞の移植においては、神経細胞が軸索を伸ばして機能できるところに到達する、また総合的に機能を果たすようにガイド〔誘導〕するのが非常に重要なので、そこをいかにコントロールするかが一番重要ではないか、と思います。この方法で直接それがうまく行くかどうか、ということには答えることはできません。》

 われわれ一般人にとって白衣を着ているひとはみなお医者さんなのだが、どうやら基礎医学の研究者と治療にあたる臨床家とに分かれているようだ。山中教授は基礎医学のひとだから臨床のことには触れたくないといい、臨床家は基礎研究のことは自信がないという。「神経細胞が軸索を伸ばして機能できるところに到達する、また総合的に機能を果たすようにガイド〔誘導〕するのが非常に重要なので、そこをいかにコントロールするかが一番重要ではないか、と思います」という発言はわたしの質問そのものではないのか。もしそうだとするなら「この方法で直接それがうまく行くかどうか、ということには答えることはできません」という発言をわれわれiPS細胞に期待する障害者はどうとらえればいいのだろう。

●またもや軍配はアメリカに上がるだろう

 司会者はさらにその点についてカリフォルニア大学準教授のキーステッド氏に意見をもとめた。司会者がんばれ。《キーステッド おそらく中枢神経系には非常に大きな傾向性があって、「リワイヤリング」〔再配線〕ができる傾向を持っていると思います。ですから特定の軸索を、もともとのターゲットにガイドしていくことはできると思います。すなわち、再生環境にはいろいろなノイズがあり、皮質、脳などにも、例えば移植などが起こりますが、可塑性が失われたとしてもそれがまた再生してくることはあり得ると思います。すなわち、「中枢神経系の可塑性」という要素を使うことによって、その能力を回復することはできると思います。/中枢神経系自身の特徴を使うことによって、間違った接続も正しく動くようにすることが可能ではないかと思います。》

 翻訳がたどたどしくて分かりにくいが、だいじょうぶ、中枢神経はちゃんとあいかたを見つけることはできるし、まちがった配線をしたとしても自分で修正するから、といっているのだろう。わたしはキーステッド氏の言葉で初めてなっとくがいった。

 もともとアメリカ人とは肌が合わない。なぜならたとえば太平洋戦争で日本の都市を空爆するにしても、砂漠に日本の町を再現してそこをいかに空襲すればいかに日本の大衆を多く殺せるかと研究し、ひいては勝利にもちこめるかを理詰めで考えている。なにもそんなに一所懸命殺戮方法を研究することはないじゃないか(ビンラディン殺害の方法にしても、丸腰の「容疑者」を発見するやいなや撃ち殺してしまうなんて、西部劇のたてまえに反する)。

 日本人なんか風船爆弾を偏西風にのせればアメリカにとどくんじゃないのといった程度でのどかなものだ。さらにいえばアメリカはその風船爆弾に付着した砂粒から、それが日本のどこから飛ばされたものであるかを突き止め――開戦前から日本各地の土を採取しているわけだ――、そこを爆撃して日本の作戦を叩きつぶしたというから舌をまく。

 アメリカ人は野蛮だけど賢いと思う。高野秀行という作家がアメリカ人についてこんなことをいっている。「なにかを信じたら馬鹿のように徹底してやりぬく意志。ぼんやりした観念ではなく、現場の調査や実験で世の中を把握しようとする実証主義。学問と実社会の自由な相互乗り入れ。最近著しく評判を落としているアメリカだが、底力はやはり日本の比ではない。」

 2011年4月アメリカは、マウスの皮膚からiPSを介さずに神経幹細胞を作ることに成功と発表した。癌の危険が減るという。つづけて5月には「iPS細胞:マウスに移植後、拒絶反応 再生医療に課題−−米チーム発表」という報道があった。どうやら分化させる前のiPSをじかに戻して「拒絶反応が起きた」と騒いでいるようだ。本書によって「ES細胞やiPS細胞そのものを移植することはない。必ず神経や筋肉など、目的の細胞に分化させてから移植する」という山中教授の言葉を知ったわたしは、このニュースに胡散くささを感じる。だが同時に、日本人の発明したiPSなど叩きつぶしてやるというアメリカの意気込みもまた感じる。こんどもアメリカにおいしいところをさらわれるのではないか。