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 『ほんとうにすごい! iPS細胞』(岡野栄之、講談社)

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 本書は岡野が小学生のわが子に語って聞かせるという文体を採用している。むつかしい内容をすこしでもわかりやすく説明しようという工夫だ。

 岡野はiPS細胞のすばらしさや移植治療の可能性について述べたあと、《これらの治療を行ったうえで、リハビリテーションを組み合わせて、運動により誘導をかけることが大切である。必要がなければ神経は成長しない。》とリハビリの大切さにもふれている。「必要がなければ成長しない」という言葉には説得力がある。

●もっとプラナリアの研究を

 2006年に山中伸弥京大教授と共同研究を始めた岡野慶応大学教授は、2007年、マウスの皮膚細胞からiPS細胞をつくり、それを「神経系の細胞」に誘導し、《脊髄が損傷して足が麻痺しているマウスに注射したところ、約1ヵ月で注入した細胞がニューロン(神経細胞)やグリア細胞に成長したことが確認できたのだ。運動機能も一部回復していた。神経疾患が再生できる見通しが立ったのだ。》やはりまずiPS細胞を神経系の細胞にしてから脊髄の損傷部に注入するという方法のようだ。

 本書によってわたしは初めて「プラナリアの濃度勾配」というものを知った。これはおもしろい。プラナリアは不老不死の生物だ。体を2つに切られても、頭部側の後方からは尾部が、尾部側の前部からは頭部が再生する。では3つに切ったらどうなるか。《体を三つに切っても、頭は尻尾をつくり、尻尾は頭をつくり、胴体は頭と尻尾を間違いなくつくって再生させている。これは、体内にはなんらかの物質の「濃度勾配」があって、方向性を決めているからと考えられている。その物質が濃い場所ではこの臓器をつくろう、その物質が薄い場所では別の臓器をつくろう、といったその物質の濃淡が細胞分裂の判断基準になっているのだ。/実は、人間の体にも同じことがいえる。受精して小さな胎児に育っているとき、人間の体の上(頭)か下(足)、前(腹側)か後ろ(背中側)などの「方向性」はいくつかの物質の濃度で指示されているというのだ。》

 濃度勾配は再生医療に役立つのではないか。ただ、学問にも流行があって、ひとに専門分野を問われたとき、「脳科学です」とこたえれば感心されるが、「プラナリアです」とこたえたら怪訝そうな顔をされるだろう。大学教授がミミズかいと。しかしクラゲの調査を何十年もつづけてノーベル賞をとったひともいるではないか。科学者はもっとプラナリアの研究をしてほしい。

●ニューロンはあいかたにむかってのびる

 まずニューロン(神経細胞)について基本をおさえておこう。ふつう細胞といえば目に見えぬほど小さいものだが、ニューロンのなかには長さ1メートルに達するものもあるという。《ニューロンは一つの細胞体に、一本の木の幹のような「軸索」とたくさんの「樹状突起」を持つ。中には、1メートル近くもの長い軸索を持つニューロンもある。この軸索と樹状突起の先がほかのたくさんのニューロンと接点をつくり、情報をやりとりする。この接点を「シナプス」という。/あるニューロンのシナプスから出される情報伝達物質を、別のニューロンのシナプスが受け取り、軸索や樹状突起の中を電気信号として流れて次のニューロンに伝える。これが複雑に入り組んで構成されたものが脳や脊髄なのだ。》

 「軸索と樹状突起の先がほかのたくさんのニューロンと接点をつくり、情報をやりとりする」という指摘は、わたしの「右足の小指を動かす神経というものがあるのか」という疑問に対する答えと見ていいのだろうか。ニューロンは朝顔のつるに似て手当たりしだいにまわりのニューロンにむすびつき、たくさんの神経に「右足の小指を動かしたい」と伝えるのだろう。だとすれば「右足の小指を動かす神経」は1本ではなくネットワークであり、「動かしたい」という指令は一瞬にして全身くまなく伝わるものの担当部署だけがはたらくしくみということになるのではなかろうか。シロウトの推測にすぎないが。

 「損傷部の上下であいかたはつながるのか」という疑問にもヒントらしきものが示されている。やはりキーステッド氏のいうように中枢神経も自然とあいかたにたどり着くようだ。《胎生期に産生されたニューロンは、突起を伸ばして標的の細胞までのびていき、ニューロンのネットワークをつくって組織していく。そして、相手のニューロンと結びついてシナプスをつくる。これは内在的な遺伝子のプログラミングによって起こるといわれている。》ここでまた分からなくなる。「標的の細胞」というからには手当たりしだいにむすびつくのではなく、「右足の小指」に関してもある程度関係部局というものがグループ分けされているように読める。これも推測。

 「内在的な遺伝子のプログラミングによって起こるといわれている」というのは、「どうしてあいかたを見つけるのか分からないが、とにかくそういう法則がある」という意味だろう。自然界はこういう現象に満ちていて、たとえば精子がなぜ卵子の方向へむかって泳いでいくのか、よく分かっていないようだ。男女が惹かれあうのも「内在的な遺伝子のプログラミングによって起こる」としかいいようがない。「子孫を残すためだ」というふうに目的論的にとらえるのは科学的な態度ではないとされる。性誘因物質に反応するのだと機械論的にとらえたほうが学問的な態度なのだろうが、ではなぜそこで性誘因物質がはたらくのかと問われれば、子孫を残すためと答えることになってしまう。いかなる分野の学問も、根本的な疑問には答えられない。われわれは自然界のなかの法則を発見するので精一杯だ。

●「一生車椅子」は迷信……になりつつある

 胎児期だけでなく、大人の脳でも発生過程はつづいていると岡野はいう。なにげないように見えてこれはきわめて重要な指摘だ。《故障や事故で失われたニューロンを再生させるためには、脳内に神経幹細胞が残っているならそれを活性化させていく。あるいは、外から新たに神経幹細胞を入れた場合には、発生と同じようなプロセスを踏ませて再現させることが考えられる。》ここでは脳の話をしているが、脊髄についても同じことがいえるだろう。

 《「いったん損傷を受けた成体哺乳類の中枢神経系は、二度と再生しない」/これは、有名なスペインの神経解剖学者サンティアゴ・ラモン・イ・カハールの言葉だ。カハールは世界で最初にニューロンを発見し、その功績で1906年にノーベル医学・生理学賞を受賞している。》脊損になった者がはやばやと医師から「あなたは一生車椅子です」といいわたされるのは、この20世紀初頭の「カハールのドグマ」を医師たちが先輩から受けついできたからだ。

 だがノーベル賞をとったからといってその研究成果が絶対的なものとはかぎらない。たとえばエガス・モニスというポルトガルの医師は、第2次世界大戦で激増した精神病をロボトミー手術で解決し同じくノーベル医学・生理学賞をとったが、数年後に精神病の薬物治療がはじまったとたん、その権威は地に落ちた。ノーベル賞は、そのときそのときの最高峰であるにすぎない。医学は日進月歩だ。

 岡野は「大人では新しいニューロンはもう生まれない」という「カハールのドグマ」を疑った。体細胞と見分けのつかない幹細胞が、どこかに潜んでいるのではないか……。そして1998年、大人の脳に幹細胞があることを発見する。

●グリアを脇役にしてはいけない

 結論にいく前にいくつかの専門用語の意味を確認しておかなければならない。《実は、脳細胞はニューロンだけではないのだ。ニューロンとニューロンの間には「神経膠(コウ)細胞(グリア)」と呼ばれる細胞が詰まっている。「膠」は「にかわ」とも読み、接着剤を意味する。接着剤のようにニューロンのまわりにべったり張りついている物質なのだ。》ニューロンは脳だけでも1000億個あるとされている。新生児の脳が400グラムで大人の脳は1300グラム。この増加分はほとんどがグリアだ。ニューロンとグリアの割合は1対10。《もし事故や病気などでニューロンが死んで脱落すると、そのすき間はグリアが分裂増殖して埋めてしまうことが多い。》

 これまでグリアはニューロンの「お世話係」だと思われてきたが、おたがいが助け合って初めて高度な神経系のいとなみが可能になることが分かってきた(もしもっとむかしから分かっていれば、グリアもただのニカワあつかいされることもなかっただろうに)。軸索のまわりを覆って電気信号がほかへ漏れないようにしている「髄鞘」(別名ミエリン鞘)もグリアの一種だ。事故や病気で髄鞘がこわれると電気が漏れ、放電してしまう。「脱髄現象」は再生医療を困難なものにしている。

 ところで――。髄鞘が軸索のまわりを覆っているという事実と、ひとつのニューロンがたくさんのニューロンとつながっているという事実は矛盾しないのだろうか。幹には皮があるけど小枝に皮はないという状態だろう。枝先から電気は漏れないのだろうか。伝達はするけど漏電はしないという、いいあんばいになっているのだろう。電気業界は参考にするといい。

●iPS細胞にも弱点が

 さあいよいよ話は佳境にはいる。岡野は脊髄損傷の治療に研究の主眼を置いている。《仮に、ある成人男性の第8・第9胸髄が圧迫骨折したとしよう。(中略)この場合、約5〜10%の軸索が、損傷を免れているか、あるいは再生できれば機能的にかなりの改善が期待できるといわれている。》事故で中枢神経を損傷しても、5〜10%さえあればかなり動けるという意味だろう。岡野はつづけて、《つまり、5〜10%の神経軸索を再生させるか、あるいは新たに補充することが考えられ、私たちはそのための幹細胞治療法を開発してきた。》という。10%残っていればなんとかなるのだな。

 脊髄損傷のしくみを解説する。《事故が起き、背骨が折れる。すると、電車のケーブルが切れるように、背骨の中を通っている神経軸索のケーブルがぷつんと切れてしまう。ニューロンもグリアも死に、血液脊髄管の血管が破れる。「一次損傷」が起こるのだ。》

 するとマクロファージという細胞が損傷部分を食べてしまい、そのあとが空洞になる。《その空洞では、グリア細胞が分裂・増殖して「グリア瘢痕(ハンコン)」をつくる。ニューロンが占めていた部分にグリアが入り込んで占領してしまい、神経系としての機能を失うのだ。同時に炎症性細胞が神経軸索を覆っているミエリン鞘を攻撃して、「脱髄現象」を起こしてしまう。これが「二次損傷」である。》そうだったのか。わたしはてっきり事故現場で脊損の患者を救急隊員がうかつに動かして損傷をひどくするのが2次損傷だと思っていた。神経が外圧でこわれることを1次損傷、炎症性細胞がまわりをダメにしていくことを2次損傷というようだ。

 これまで2次損傷をおさえる方法はなかったが、2008年、大阪大学と中外製薬が開発した「アクテムラ」という薬が、脊損の炎症をブロックすることが分かった。《さらに肝細胞増殖因子(HGF)を使うことで、炎症によって細胞が死ぬところを抑制することができるようになった。》すばらしい。1995年にクリストファー・リーブが落馬事故で頸損になったときは、すぐさまメチルプレドニゾロンというステロイド剤を大量投与した。これは当時最新の治療だったのだが、いまはさらに進歩しているのだ。

 損傷後まもなくのネズミにヒトES細胞とヒトiPS細胞から培養した神経前駆細胞を移植すると8割ぐらい回復するらしい。ヒト由来の前駆細胞をネズミに移植して効くのだからヒトに移植して効かないわけはない。

 ただし、「ほんとうにすごいiPS細胞」にも弱点はある。時間がかかりすぎるのだ。脊損患者の皮膚からとった細胞をiPS細胞に誘導するのに3ヶ月、それを神経幹細胞に誘導するのに4ヶ月、体の小さなネズミなら50万個ですむ神経幹細胞がヒトでは1000万個必要ということで、結局移植まで2年かかるという。ほかの臓器、たとえば腎臓なら2年間透析でしのぐことも可能だろうが、脊損のばあいは負傷から数週間以内の移植がのぞましいとされている。3日で培養することがむつかしいなら、2年たっても大丈夫という方法を考えるしかないだろう。