31(2011.8 掲載)

 『東京骨灰紀行』(小沢信男、筑摩書房)

   kikou.jpg

 本扉にはなにげない花見風景の写真がつかわれている。上野だろうか。セピア色の写真にごく薄く人工着色したような仕上がりで、奇妙な印象をあたえる。本書を読みおえてから見なおすと、ははあ、累々たる遺骨のうえで宴会をしていると言いたいのだと分かる。明暦の大火から地下鉄サリンまで、東京で起こった大惨事の現場を訪ね歩いたルポルタージュだ。

 小沢は1927年生まれ、終戦時には18歳だった。終戦時いくつだったかということは、そのひとの書くものと関係があるような気がする。

●明暦の大火は幕府の放火?

 江戸開府から約半世紀、明暦3年(1657年)厳寒の1月、本郷に始まった火事は北西の風にあおられて江戸城まで焼き尽くしてしまった。隅田川には千住大橋1本しか架かっていなかったため逃げ場がなく、約10万人の犠牲者が出た。将軍家綱は、隅田川東岸の下総本庄(ホンジョ)に「富国山無縁寺回向院」を建てて死者をとむらった。隅田川の西岸は武蔵の国、東岸は下総の国、《二つの国境いの大川を、歩いて渡れるありがたさよ。そこで通称両国橋。やがて正式名称となった。》回向院にお参りするため架けられた橋だったのだ。本所や深川が江戸のうちになるのはこれ以降だというのはすこし意外だった。

 これくらいなら観光案内にも載っているかもしれない。だが小沢は資料博捜のうえ大胆な推理をする。《天下普請は諸大名いじめの押しつけ工事で、財力消耗のあげくに失業続出。となれば、時代閉塞の現状打破の画策ぐらい、起きないほうが不思議だろう。》幕府が放火して公共工事をつくったのではないかという。権謀術数だまし討ちの連続だった戦国時代は、まだ遠くない。ありうることだ。江戸城まで焼けたのは想定外だったのか、それともアリバイづくりか。

  ●聖路加が空襲をまぬかれたわけ

 平成7年(1995年)3月、地下鉄サリン事件。死亡12名・負傷5510名のうち、死亡8名・負傷2475名が日比谷線から出た。その大半は日比谷線築地駅で倒れ、聖路加病院へ運ばれた。《聖路加病院長日野原重明は、この日の外来診療をいっさい中止し、被害者の無制限受けいれを命じた。礼拝堂を開放して緊急治療所に変じ、壁から酸素吸入装置があらわれた。あらかじめそのような設計になっていた。》

 酸素吸入装置は礼拝堂だけでなくロビーや大廊下の壁にも配備されていた。その3年前に病院本館を建て替えるとき「なにもそこまでしなくても」という意見が出たようだが、日野原は押し切った。東京大空襲のさいあまたの罹災者に満足な治療をほどこせなかったという青年医師日野原の苦い悔恨がその背景にあった。

 まあここまではわたしもテレビ情報で知っていた。これだけでも感動モノなのだが、それだけで本にするようなヌルイ作家ではない。小沢はさらに深く掘り下げる。なぜ度重なる空襲に聖路加病院だけは生き残ったか。進駐軍が使うためだ(聖路加病院は明治35年にアメリカ聖公会医師のルドルフ・トイスラーが創設した病院だからアメリカとしては自分のものだと思っていたようだ)。アメリカ大使館はいうにおよばずイギリス大使館も、そして進駐後はGHQ本部にしようと思っていた丸の内も爆撃しなかった。イラク戦争のさいもアメリカは石油省の建物だけは空爆しなかった。あまりに露骨な「イラク解放戦争」の底意を世界はわらったが、なに、ひとのうわさも75日さとアメリカは蛙の面だ。

 《恨みぞふかき東京大空襲ではあるが。その記録、たとえばE・バートレット・カー『東京大空襲――B29から見た三月十日の真実』を読むと、周到な計画性に、ほとほとおそれいる。長距離を往復できる爆撃機を発想し、設計、製造、実験をかさねた。焼夷弾にしても、二階建ての日本家屋十二軒を畳も入れて本格的に砂漠に建て、爆撃して、どの焼夷弾がもっとも有効かをたしかめた。長大な見通しを、着々と実現してゆく過程には、論理的な快感さえおぼえてしまうが、その到達点としての一九四五年三月十日が来た。》一夜で10万人が焼き殺された。

 小沢はべつに「アメリカ憎し」で固まっているわけではない。大正12年(1923年)に起こった関東大震災にさいして最も多くの義捐金を寄せたのはアメリカだったと公平に記す。《一国の首都壊滅のニュースが世界を走り、われらの日本がこんなに万国の同情をいただいたのは、たぶん空前で、目下は絶後ですね。アメリカの救援が列国を桁はずれに抜いて、義捐金が邦貨換算六千八百六十万円。復興予算の一割にあたった。この厚き同情と友愛を、永遠に記念するべく救療病院を、災害激甚の地に建てよう、ということで誕生したのが、同愛記念病院です。》聖路加と同じく隅田川のほとりに建っている。

 東京を空襲するさいアメリカは聖路加病院を残したように同愛病院も残した。《八月十五日に敗戦。同愛病院は接収され、占領軍用の病院になった。》聖路加と同じく昭和26年の平和条約締結後もなお接収はつづき、昭和30年になってようやく返還された。そもそも大正13年に同愛記念病院財団が設立されたときの基本方針に「名誉会長に駐日米国大使を推薦すること」とある。やはりアメリカにしてみればここも自国のものだという意識があったのではないか。聖路加の近所に位置していることに意味はないのだろうか。

 わからないことがもうひとつ。明暦の大火も関東大震災も東京大空襲も、死者の数がみな10万人と伝えられるのはなぜなのだろう。もし第2次関東大震災のようなものが起きたらやはり10万人なのだろうか。

●若き日のおたのしみを開陳

 上野の寛永寺は、《慶応四年(一八六八)陰暦五月十五日の彰義隊合戦により、全山ほぼ焼亡した。》わずか半日のいくさだった。《官軍の死骸は即日かたづけたが、彰義隊士の死骸は、うち棄てられたままだった。三ノ輪の曹洞宗円通寺の住職仏磨和尚が、埋葬供養したいとその筋に願いでると、賊の片割れとみなされて拘留十日間。そのうち腐臭がはげしくなり、一転して釈放、許可がおりる。そこで和尚は、彰義隊シンパの?客三河屋幸三郎の協力で人手と資金をえて、二百六十六体を火葬に付した。その場所がいまの墓域です。一節には、短時日に焼くのは限度があって、おおかたは大穴に埋めたのだとか。》彰義隊士の死骸のうえでわれわれは酒を飲んで浮かれているのだ。

 寛永寺そばの谷中墓地について小沢はおもしろい告白をしている。《道は折れまがり、ゆきどまり、樹林は繁り、東京市の墓地でお化けがでる可能性は第一にここだった。ご存じ『牡丹灯籠』も谷中が舞台でありましたし。》「牡丹灯籠」は明治時代の三遊亭圓朝がつくり、のち歌舞伎などになった。《しかし、じっさいに昼夜ここらに出没したのは、若い男女なのでした。むかし美術学校いま芸大の貧しき画学生諸君は、ずいぶんお世話になったそうです。日中からろくに人の気がなかったものねぇ。そういう名所につきものの覗き屋の諸君もいました。と、断定的に申しあげるのは、不肖私もはるかむかしに覗かれる側のおぼえがほんの多少は……。なにごとも参加することに意義はあって、墓地一般に原則的に親愛の感を抱くのは、そこらが下地かもしれません。》

 「あとがき」に《学生時代の習作に『新東京感傷散歩』と題する小文があります。東京のあちらこちらをおんな友達と歩いてまわるだけの、原稿用紙二十五枚ほどの習作が、たまたま花田清輝氏のお目に留まったことから、私の文筆暮らしがはじまりました。》とある。この「おんな友達」がくさい。わざわざひらかなにするところがくさい。

●「朝鮮人蜂起」の報を信じたのはなぜか

 2009年秋「はがき通信」の読者懇親会が両国の第一ホテルでおこなわれた。会合が終わったあとどこへ遊びにいこうかと思って地図を見ると、ホテルのそばに「東京都慰霊堂」というものがある。ハッとした。もしや。東京大空襲で命をうばわれたひとびとの霊をなぐさめるための施設ではないか。

 横網町公園というものの中にそれは建てられていた。ひとけのないお堂のなかはひんやりと静まりかえっていた(写真1)。壁には折り重なった遺体の絵が掛けられている。「東京空襲 昭和20年3月10日」という短いキャプションが付されていた(写真2)。しかしこの慰霊堂はもともと東京大空襲の犠牲者のために建てられたものではなく、関東大震災のときこの横網町公園に逃げ込み、折悪しく熱風にあおられて焼け死んだ数万人ための施設だったようだ。

201108-01.jpg
201108-02.jpg

 (写真1) 東京都慰霊堂内部

 (写真2) 「東京空襲」の額

 お堂を出て出口にむかう途中、思いがけないものを発見した。「関東大震災 朝鮮人犠牲者 追悼碑」だ(写真3)。関東大震災の流言蜚語で非業の死をとげた在日朝鮮人のための碑が1973年になって追加されたのだ。そういうものがこの世に存在するということを恥ずかしながら知らなかった。アメリカ人に一晩で10万人の日本人が殺されたという思いしかなかったわたしは、ここで冷水を浴びせられた。日本人だってずいぶん理不尽なことをやっているのだ。黒い御影石に彫られた追悼文をうつしておこう

201108-03.jpg
(写真3) 朝鮮人犠牲者追悼碑の前で

 「一九二三年九月発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。/私たちは、震災五十周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。/この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。/思想、信条の相違を越えて、この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本と朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。/一九七三年九月/関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」

 文中の「私たち」が朝鮮人、日本人のいずれであるかが判然としない。わざとぼかしているのだろう。「この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身」という字句から見て、日本人の贖罪のあかしだということはいえそうだ。

 さて、「ぶらり両国」という章からはじまった本書を読みすすめながら、わたしは少々イライラしていた。ハラハラしていた。もしこの朝鮮人犠牲者追悼碑が出てこなかったらどうしようと案じていたのだ。最終章「両国ご供養」でようやく出てきた。ようやくというより、これで本書を締めくくるため最後まで取っておいたのだろう。本書はいままでぼんやりとしか知らなかったことを明確に教えてくれるものだが、最終章は最も得るところが大きい。

 両国の被服廠は大正11年(1922年)に東京市と逓信省に払い下げられ、更地になっていた。翌年9月に関東大震災が起こったときは格好の避難所になった。ところが隅田川の水が50メートル以上巻き上がるほどの旋風が起こり、あっというまに集められた家財道具に火がつく。昭和5年(1930年)に建立された震災記念堂の納骨堂には約5万8000体の遺骨が納められた。そのご昭和20年(1945年)3月の東京空襲で10万5000体が納骨堂に納められたため、「震災記念堂」は「東京都慰霊堂」と名称を変更せざるを得なくなった。《東京都慰霊堂が、九月一日と、三月十日を大祭とするのは、理があるぞ。》

 《震災は流言蜚語を生んだ。朝鮮人が諸方に火を放ち、井戸に毒を投げ込んでるぞ、火薬庫が襲撃されるぞ、大挙して攻めよせてきたぞ。流言は災害激甚の横浜に発して、たちまち東京へとどいた。または諸処に生じて、ひんぱんな余震とともに増幅した。警視庁はただちに要人警護に走り、町々村々に自警団が生まれて、朝鮮人狩りがはじまった。》この程度のことは常識で、わざわざ引用するまでもないが、あまりにも文章がうまいので記録にとどめた。凛冽の筆づかいを見ならいたい。

 朝鮮人にまちがえられてひどい目にあったという話なら珍しくないが、「不逞鮮人をやっつけてやった」という話は聞かない。殺されたのが6000人ならその数倍、いや数十倍の日本人がかかわっているのではないか。口をぬぐっているにちがいない。

 《朝鮮人蜂起の報を、どうして人々は即座に事実と受け止めたのか。上下心を一にして。》本章の、いや本書の眼目はここにある。《明治四十三年(一九一〇)八月二十九日、日本は韓国を併合した。この「併合」を、韓国では「強占」という由。日清戦争、日露戦争につづく武力制圧だ。日本は開国このかた、列強諸国の植民地分捕りごっこを懸命に防御したあげくに、いっそ分捕る側へまわることにした。》このあたりの歴史観が穏当でいい。

 《「併合」十年目の大正八年(一九一九)三月一日、太極旗かかげた「大韓独立万歳!」のデモ行進が、京城(ソウル)と平壌(ピョンヤン)の街頭にあふれた。半島全土へひろまった。すなわち三・一独立運動。「強占」された民族の、悲憤のエネルギーでしょう。》軍隊は「首謀の不逞鮮人たち」を吊し首にしてズラズラならべ、3ヶ月かけてこの「暴動」を鎮圧した。朝鮮人死亡者は日本側の記録で500人、韓国側の記録で7500人。《日本になびかぬ朝鮮人は、皇后から人民まで、いくらでも殺してかまわないらしかった。しかも彼らは、みせしめにも懲りずに「暴動」をくりかえす。その怖れを、権力者から一般庶民まで、日本人は共有していたのでありますね。日ごろの無法と蔑視のぶんだけ、お返しへの恐怖が、憎悪となる。/三・一運動から四年半後、「強占」屈辱記念日の八月二十九日の三日後の関東大震災! 朝鮮人どもが三原山の火口へ爆弾投げ込んで大地震を起こしたのだ、という類の妄説さえ、羽が生えて流布したという。植民地を持つ民族は、こんなにまでも堕落する。》

 日ごろの無法と蔑視のぶんだけ、お返しへの恐怖が、憎悪となる。――朝鮮人虐殺の背景には日本人の恐怖があったのだ。