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 『日本語の正体――倭(ヤマト)の大王は百済(クダラ)語で話す――(金容雲、三五館)

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 古代日本の文化形成には渡来人の寄与が大きかったと歴史の授業で習った。そのわりにわれわれは朝鮮語や朝鮮文化について知らないと思い、NHKラジオで朝鮮語講座が始まると第1期からテキストを買って受講した。講座名は「アンニョンハシムニカ」(こんにちは)といった。ふつう英語講座とかドイツ語講座というのにこんな名称になったのは、朝鮮語講座といえば韓国が怒るし韓国語講座といえば北朝鮮が怒るからだと聞いた。「ハングル語」というのも変なのでここでは便宜的に朝鮮語ということばをつかう。

 学習は障害者になるまでつづいた。負傷後出版した拙著に関してパク・キョンナムさんという女性作家が取材にきたとき朝鮮語で挨拶したら、「え、在日のかたですか」と日本語でおどろいた。「いいえ、日本人です」とわたしは朝鮮語でこたえた。

●鼻息荒く「日韓の基礎語はすべて同根」

 著者は1927年生まれ、韓国を代表する数学者で日韓文化比較の大御所とのこと。「戦前の日本での生活経験があり、本書は日本語で書かれた」そうだ。ということは皇民化教育によって強制的に日本語を教育された世代だろうか。

 数学者の著者は、特に数詞に関しては自信があり、《私は数詞の関係から見て、日韓のすべての基礎語は何らかの形で共通祖語を持っていることを確信しました。》と断言している。そういわれてもピンとこないが、つぎのような話には説得力を感じる。「ここあすこ歩きすっかり疲れた」を鹿児島弁では「いっぺごっぺさるもして、すったいだれもした」といい、同じことを日本語のやまと言葉にあたるカラ語では「イゴチョゴサダニ、スッチェコダルプタ」というとのこと。似ている。海音寺潮五郎も電車のなかで鹿児島方言が聞こえるので懐かしくなって近づくと韓国人だったと書いているそうだ。こういう体験が重なれば誰でも彼我の関連を思うだろう。

 《日本語にとって韓国語がもっとも近い言葉であることを認めながらも、その直接の関係はほとんどない、というのが今日までの日本の学界の定説になっています。》その常識をくつがえすと著者の鼻息は荒い。

 有史以来日本列島には朝鮮半島のひとびとが住みつき、日本の古代文化はすべてそれらのひとびと特に百済系によってかたちづくられたというのが本書の大意だ。著者の言い分にはなっとくできるものとできないものがある。

●『古事記』も百済語で書かれた!

   中国語や朝鮮語で何と発音するかは知らないが、日本語では新羅はシラギ、高句麗はコウクリと読む。ともに音読みっぽい読みかただ。新羅がシンラでなくシラギなのはふしぎといえばふしぎだが、まあ音韻変化には何かいきさつがあったのだろうという程度のふしぎさだ。それなのになぜ百済だけヒャクサイといわずまるでちがう音のクダラと読むのか。

 百済の表記については「百家済海」の略。済は渡るの意だ。7世紀に成った中国の史書『隋書』は、百済には国内で兄弟喧嘩をするのではなく、嫡孫以外は外で国をつくるという伝統があったので、たくさんのひとが海を越えて出ていったと記しているという。

 読みかたについては、ヤマト王朝は百済の担魯(支店、植民地の意)であり百済をクンナラ(本国)と呼んだからだと著者はいう(カラ語「クン」は本、大の意とのこと。ナラは国の意)。記紀の筆者たちは百済系の史人(フビト)だったので、文中、「百済」を「ひゃくさい」とせず「くだら」(クンナラ)としたのだという説をとなえる。いままで百済と書いてなぜクダラと読むかということなど考えもしなかっただけに、この説は意想外ながらも説得力を感じさせる。

 『日本書紀』の「応神紀」によれば、百済から阿直岐(アチキ)が渡来し、のちに王仁が渡来して皇太子の先生になる。天皇と阿直岐、王仁と太子は何語で話していたかといえば、それはもう百済語に決まっていると著者はいう。太子がたちどころに学問を修めたのが何よりの証拠だと。これが本書のタイトルのゆえんだ。ジャケットにルビはないが、「大王」はオオキミと読むのだろう。

 飛鳥王朝は百済王朝の分家であり、応神から天武までの260年間百済の学者が天皇の側近にいた。《722年に書かれた文献では高市(タカチ)郡(飛鳥文化の発祥地)の人口のうちで80〜90%が百済人であるという記録があります。》なぜそれほど多くの百済人がいたかといえば、それは663年に起きた白村江(ハクスキノエ)の戦いが原因。新羅・唐連合軍に百済・倭連合軍が敗れ、百済は滅亡した。このとき百済の民の3分の1は唐の、3分の1は新羅の奴隷となり、残りの3分の1が倭に渡ったという。数字の確度はともかく「エクソダス」的現象が起こったようだ。

 《彼らはヤマト政権の基盤でした。その時代の金石文は、すべて百済式の吏読で書かれており、712年に完成した『古事記』は百済系の学者により漢字を使い百済式吏読と百済語で書かれたのです。》本居宣長が聞いたらたまげるだろうなあ。『古事記』の序文は表記方法の苦労話に終始しているのに、太安万侶はなぜそう書かなかったのだろう。記録を命じた天武天皇も百済系なのだから、なんの遠慮もいらないはずだが。

●はじめに奈良を支配したのは新羅

奈良というのは地形が母国と似ているところから渡来人が「ナラ(国)」と名付けたのだと思っていた。渡来人ということばのひびきには、日本人が主で彼らは従だというニュアンスがある。が、著者の意見はまるでちがう。

 2〜3世紀の中国大陸は魏・呉・蜀が覇をあらそう三国時代。朝鮮半島(著者は「半島」と称す)もやはり新羅・百済・高句麗の三国時代。地図で見ると、新羅は東岸(日本海側)、百済は西岸(黄海側)、その北にある高句麗は両国の何倍もある大国だ。新羅は魏とむすび、百済は呉とむすんで対抗していたが、しかし百済は押されぎみで、そのうえ高句麗にも追われ、日本列島(著者は「列島」と称す)に逃げてくる。4世紀の古墳時代、列島は百済派であり、反新羅だった。

 《奈良地方には神武以前にニギハヤ系の物部氏をはじめ新羅系が勢力を張り、その一帯をナラ(奈良)と呼んでいました。それははじめのころは地域ではなく国のことでした。その後、加耶・百済系(崇神、応神など)が国を建てると奈良は地域の名となります。》

 古代、半島から列島に進出した勢力は3つあった。@天皇家よりも早く列島に着いた新羅系の物部氏。A天孫降臨の神話をもってやってきた加耶の金首露王の七王子系。Bその後に入った百済系熊津出身の応神(韓国語では熊津も応神もウンジンと発音するよし)。おおざっぱにいえば、天皇家は初代の神武から14代の仲哀あたりまでは新羅・加耶系だったが、そののち百済系の15代応神たちが取って代わったということになるのだろう。

 半島で敗れた百済系が先住の新羅系を都から追い払ったのだ。そう考えるとつじつまの合う話が出てくる。京都弁は百済語で東京弁は新羅語だという指摘だ。東京弁の「買った、払った、笑った」は、京都弁では「こうた、はろうた、わろうた」。前者は縮音が多く、後者は「う」が入る。《あえていうならば上方語は百済語で、なんとなく母音が多く濁音を避ける傾向を感じます。一方、江戸言葉は新羅語の影響をひきずっている故か、ごっつい感じです。》

 百済語と新羅語のちがいを述べるのに著者は白村江の戦いを例にあげる。なぜ百済が新羅に敗れたかといえば、新羅は無骨な武士道を重んじる文化であったが、百済は中国南朝の影響を強く受けてみやびを重んじる文化だったからだ。《戦いともなれば尚武が文弱を打ち負かすでしょう。スパルタはアテネを滅ぼし、また源氏は平氏を負かしています。》このあたりの言い分は筋が通っていると思う。

●百済の王仁博士は漢字をはこんだ

 《応神政権が確立するや直ちに百済の重要人物の往来、通婚がはじまります。》応神天皇の時代、百済の王仁(ワニ)博士が列島に『千字文』と『論語』をもたらす。漢字の渡来だ。

 だが、『千字文』の成立が6世紀ゴロなのに王仁の渡来が5世紀ゴロだから、王仁は実在の人物ではなかったという説もあるそうだ。著者もそのあたりは気にしていて《千字文がつくられたのは南朝の梁(502〜557)のときで、王仁が来日した405年(『日本書紀』「応神紀」)にはなかったはずです。しかし彼が千字文に近いものと中国の古典の多くを持って来たのは確かです。》とやや苦しい。

 このあたりは著者の見方に賛成だ。『千字文』は伝えなかったにしても、王仁は実在の人物だと思う。実在しなかったというひとは、日本文化の石据えが朝鮮半島のひとびとによって築かれたということに耐えられないからではないか。わたしは現在の日本文化のもとが百済文化であってもかまわない。それが事実であるならばだ。

 話はすこしそれるが、シェイクスピアは実在しなかった、ひとりであれほどたくさんの傑作を書けるわけがないから複数の作者の総称だろうというひとがいる。おのれの能力を基準にものを考えるからこんな意見が出てくる。特定の時期の特定の土地に多数の天才戯曲家を集めるほうがよほど難しいだろう。

 『千字文』に関する著者の意見には異論がないわけではない。当時のひとびと、といっても列島生まれの百済人のことだろうが、彼らの漢字学習法に関して著者はこういう。たとえば「地」。韓国では千字文を学習するとき、「タ」が訓で「チ」が音とならう。《それを続けて「タチ」というのです。日本語の「川」を例とすれば、「かわ、せん」というのと同じです。「タ」は母音変化をし「チ」となります。》タチがやがて日本語の「つち」になった、というのだが、ちょっとまてよ、タがチになったのなら「チチ」になるのではないか。それに千字文の1行目「天地玄黄」を日本では「テンチのあめつちは/ゲンコウとくろく・きなり」と学んだ。すなわち「地」は最初から「つち」だったといっていいだろう。

●なぜかみだれる百済・新羅関係の話

 いくら子ども時代に日本語を勉強していても、著者にとって日本語は外国語だ。たまに妙な文章が出てくる。こんなところ。《白村江の戦いはつまるところ、新羅の半島統一がなされ、日本は半島を頼らずに独り立ちする契機になったものの、戦いによって分裂したため、以後朝鮮半島と日本列島の間には1300年もの間、お互い敵対視するような関係が続く事態になりました。》大数学者に対して揚げ足をとるようで恐縮だが、あまりにも日本語がまずい。まずいのはいいよどんでいるせいかもしれない。すなわち1300年ものあいだ日朝がいがみ合っているように見えても、じつは百済人と新羅人がいがみ合っているのだといいたいのではないか。

 ここもわからんぞ。5世紀の王仁から7世紀の鬼室集斯(キシツシュウシ)までの260年間で、百済系文人が中国語を自国語化し、日本式訓読法を完成させたと著者はいう。《外国語を本場の発音・文法を無視して、自国の訓と文法で読むのは世界広しとはいえ日本だけです。》それはもはや常識だが、つづく文章は舌足らずでよくわからない。《あまり違いのない新羅語と百済語の上に、異なる角度で射し込まれた中国漢字の触媒により、今日の韓国語と日本語となって私たちの前に繰り広げられているのです。》「何が」くりひろげられているのか主語がない。新羅語と百済語が、それぞれ韓国語と日本語になったといいたいのか。新羅と百済の話になるとどうしてこうも文章がみだれるのだろう。

●いかなる語源も説にすぎない

 つぎのようなところも無理がある。《古代以来半島南部と北九州との間に豊富な漁場があり、魚に関する名はほとんど共通語です。魚、すなわち「うお」はもともと「いお」であったといわれ、それはカラ語の鯉を意味するインオと関係があります。》魚に関する語はほとんど共通とはまた大胆な。「魚」という文字の読みかたはたしかに「うお・いお」だが、それは中国語にもとづくとわたしは思う。「魚」の中国語読みを黒竜江省出身の中国人に確認したら「ユー」の強い音だった。その発音が古今東西の中国で普遍的なものだったとすれば、古代日本人のあるひとは「イオ」と聞きまたあるひとは「ギョ」と聞いたという次第ではないか。

 鯉に由来する可能性は低い。鯉は淡水の一魚種にすぎず、圧倒的に種類の多い海水魚まで代表することはできまい。半島も列島ももともと無文字社会であったが、カラ語(固有半島語)・やまと言葉(固有列島語)に大量に漢字が流入し、《現在韓国語の75%と日本語の50%は漢字語です。》と著者も認識している。なんでもかんでも自国語に由来するといっていると、当たっているものまで疑われてしまう。

 韓国語で「うまい」を「マシッソヨ」というが、これは味を意味するマシからきており、日本語ではこれに「う」を付けて「うまし」になったという。正否を判断するだけの語学力がわたしにはないが(ああ、朝鮮語の勉強が途絶えてもう四半世紀になるものなあ)、これはなんとなく説得力がある。日本語の「うま」や「うめ」も、もとは中国語の「マー」や「メー」に「う」を付けたものだからだ。「魚」は音読みがギョで訓読みがサカナだとされているが、じつは音読みしかないのだとわたしは考える。「さかな」は『和名抄』(10世紀)によれば穀類以外の食いものをさしたことばだ。

 ただ、馬や梅は外来種だとしても、魚は漢字渡来以前からいる。渡来するまえはなんと呼んでいたのだろう。ひょっとしたら魚類をさす呼び名はなかったのかもしれない。漢語渡来以前の日本には雨とか雲といった個別具体的なことばはあったが、それらを総称する天候ということばはなかったと『漢字と日本人』(高島俊男、文春新書)にあった。そんな状態の列島に魚という総称が入ってきたので、おおこれは便利だというのでウオがうまれたのではないか。

 いずれにせよすべての語源は説にすぎないということをわれわれはひとときも忘れてはならない。