33(2011.10 掲載)

 『現代語訳春画――詞書(コトバガキ)と書入(カキイ)れを読む――(早川聞多と上智大学国文女学生の会、新人物往来社)

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●女子大生が春画を翻刻

 草書体が読めない。漢字はもちろんのことひらがなも読めない。いままで春画に関する本は数冊読んだが絵のまわりにびっしり書かれた文字が読めなくてもどかしい思いをした。かつては八つぁんや熊さんが読んでいたものを大学出が読めないのだからなさけない。

 新聞広告で本書のタイトルを見て購入を即決した。企画をたてた新人物往来社の編集者は目の付けどころがいい。「学生に翻刻させて内容に関する疑問点を募る」という企画を早川のところに持ち込んだとのこと。早川はそれを上智の女子学生3人にやらせた。もう先生ったら。

 翻刻というのはグニャグニャした原文の文字を楷書体になおすこと。《まへをまくりゆび入ければ、ふりそでいやがりて、ゆびにてくじり給ふ事ゆるし給へ、水そこはふかく候間、そ様のふときさほを入てみたまへといわれた。》という女子大生の翻刻に早川が《娘の着物の前をまくって指を入れようとしたが、娘は指でくじるのは止めてください、私の水底は深いので、あなたの太い竿を入れてみてくださいといったとさ。》こんな現代語訳を付けるという寸法。ちなみに「さほ」は「さを」、「いう」は「いふ」だから、浮世絵春画のかなづかいはまちがいだらけだったことが分かる。すこし安心。

 詞書と書入れのちがいについては説明がないが、察するに絵のそとに書かれた短いものを詞書、絵のなかに書かれた長いものを書入れというようだ。

 「巻末座談会」には女子大生3人の名前も掲げられ、早川がおそらく春画の一部を指さしながら解説しているのだろう、それを女子大生が殊勝な顔つきで聞いている写真もある。さて上智の女子大生はどんな質問を投げかけているのかなと最初の質問を見てみると――。杉村治兵衛の絵がすべてソラマメを横にしたような枠で囲まれているのはなぜですかなどと小学生みたいなことを聞いている。バカヤラウ、どこ見てやがんでい。

でも心配はいらない。女子大生も慣れてくると次第に大胆になる。歌麿の絵の書入れに「毛のねえぼぼはみにくし」とありますが江戸の女は毛があるとよいものだったのでしょうかなどと聞き、北斎の書入れで、亭主「三ツしたらちょっとくたびれた」女房「あと五ツ気を遣らせてください」とあるのを見て「こんなに精力的だったのでしょうか」と何と比較してか知らないが質問している。「蛤は初手赤貝は夜中なり」といったところか。ちがうな(笑)。

   載録されているのは5人の絵師。
 杉村治兵衛『欠題組物』1685年ごろ
 鈴木春信『風流座敷八景』1769年ごろ
 磯田湖龍斎『風流十二季の栄花』1773年
 喜多川歌麿『ねがひの糸ぐち』1799年
 葛飾北斎『富久寿楚宇』1815年ごろ

 春画そのものは大昔からあったようだが、江戸時代にはいると12図構成の春画絵巻があらわれ、延宝年間(1673〜81)には浮世絵版画という形になる。12図構成にさしたる意味はなさそう。

  ●おおらかだった江戸庶民の性風俗

 本書は『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』(赤松啓介、ちくま学芸文庫)の裏付けになると随所で思った。明治大正のころまでは日本各地で夜這いがおこなわれ、、少年も少女も13歳ぐらいを境に、そして既婚者も未婚者も大いに性を謳歌していたという赤松の体験的証言に対して、そんなバカなことがあるものかという反論も多いのだが、日常の性を描く江戸時代の春画は、赤松の言葉どおりだ。

 前髪の形をみれば年齢がわかる。16歳前後で本元服をした男子は前髪を剃り落とし月代にしている。本元服の1〜2年前には半元服といって額の左右のすみをすこし剃り前髪を角張らせる。ヤンキーのにーちゃんのソリコミはこの伝統を受け継いでいるのだろうか。ソリコミもなければ半元服前で12〜3歳といったところ。若衆という。

 性欲にまどう若衆に母親が女をあてがうという治兵衛の絵に早川はこうコメントする。《世之介の九つ(満年齢では八つ)はいささか早いようにも思われますが、今も昔も十代の半ばともなれば、多くの若者は性に目覚めていると見ていいでしょう。》現代人は二十歳までセックスしてはならないようなことをいうが、「江戸人」はもっと現実を見定めていたと言葉をつなぐ(なお早川の文章はすべて旧かなでいい味を出しているのだが、書き写すのがたいへんなので新かなで引用する)。

 浮世絵春画でも古川柳でも、亭主の浮気だけでなく女房の浮気もじつに多く描かれているという指摘もまた、赤松の証言の信憑性を高めていると感じた。北斎の『富久寿楚宇』第8図の「亭主持」が「今夜は亭主が留守だから、もうもう嬉しくって嬉しくってならない。こんな落ち着いてできる晩はねえから、へのこを抜かずに十分満足させておくれ」と言う図に、春画や古川柳には女房が間男と浮気する図がほんとうに多いと指摘したあと早川はこんな解説を付けている。《それらが江戸時代後期の世相を忠実に写しているかどうかは、よく吟味する必要があると思いますが、これまで見てきた春画からも想像できますように、江戸時代の庶民の性風俗は意外にもたいへん活発でおおらかであり、しかも女性たちがたいへん積極的であったように見えます。それが男性の単なる願望の表現であったという説もよく聞きますが、江戸時代の春画や川柳だけでなく、落語や戯作を見聞きしていますと、私には浮世絵春画は意外と当時の性風俗に基づいて描かれた「リアル」な表現であるように思われます。》

●背景にもある春画の味わい

 春画の味わいは交接の描写だけでなくその背景にもある。たとえば磯田湖龍斎『風流十二季の栄花』第4図は「卯月 花の名もよしや卯月の色すがた」という題句に《女弟子「エヽも、いつそどうしやうのう」師匠「おれももういくぞいくぞ」》という短い書入れが付いている。畳の上で着衣のまま――どういうわけか春画は着衣のままが多い――正常位でおこなっている男女の絵を早川はこう解説する。《場所は音曲の稽古屋の二階、師匠がまだ振袖の女弟子に稽古をつけているうちに、乙な気分になり一儀をしかけたという設定。》音曲の稽古屋というものがあったのだなあ。さしずめ貸しスタジオでピアノの先生が女の子に手をだしたという状況か。振り袖は師匠の背中に手を回し陶然とした表情だからもちろん強姦ではない。《浮世絵春画には、いわゆる強姦の図は極めて少ないのですが、口説きもなにもなしに力尽くで無理強いする男は、ほとんどが醜男(ブオトコ)で包茎に描かれることが多いようです。》男の美学を教える道徳教育の一種だったと見ることもできるのではないか。

 で、この絵の背景だが、《窓の外には卯の花が咲き乱れ、空には卯月の鳥である時鳥(ホトトギス)が鋭い声を発しながら飛んでいます。題句の卯月は欲情の「疼き」の掛詞(カケコトバ)になっており、卯の花の「白い色」が裾から露になった女弟子の白い肌に、また鳴き渡る時鳥の「鋭い鳴き声」が女の絶頂時の声に見立てられています。》ひとつひとつにこまかいニュアンスがこめられているようだ。

 同じく湖龍斎の「お手づからいたゞくものや冬牡丹」冬牡丹とは火鉢や炬燵のこと。炬燵びらきの日にはモチを食べる習慣があった。絵は武士が腰元ひとりだけを部屋に呼んで、モチならぬイチモツを授けるというもの。腰元は「奥様が来られます」と心配するのに、主人は「なんと臆病な。心配ない」とかまわず挿入。早川は《火鉢または炬燵の炭火の火照りを欲情する殿様の一物に見立てたものと思われます。》と解釈している。春画といえども教養がなければ十分に味わうことはできない。

●日常風景を描く春画

 春画にはよく幼子が登場する。それは治兵衛から北斎まで変わらない。たとえば治兵衛。赤ん坊に添え乳をする女房のうしろから亭主が「子どもが寝るまで我慢できない」と言って抱きつけば、《身にうるほいましたるゆへ、ちのたる事下より出るじん水と同じ。=女房の体は潤いが増して、お乳が淫水と同じように滴り出たとさ。》この絵の解説で早川は《仲の良い平凡な夫婦の情交、幼い子供の登場、穏やかで満ち足りた家族の光景、こうした特殊でも特権でもない平俗な性愛場面が、継続的に好まれた点において、江戸時代の浮世絵春画が単に見る者の欲情を刺戟的に煽るために描かれたものではないことを示していると思われます。浮世絵春画が近現代のポルノではまず描かれることがないであろうというような性愛場面、すなわち一般庶民の平俗でおおらかな性風俗をさまざまに描いていることの代表例が、本図のような図柄であろうと思います。》

 同趣旨のことを北斎の絵でも述べている。岩田帯を巻いた女房の腹を気づかって亭主がうしろから迫りながら乳首をくわえている図に《仲のいい夫婦が登場し、しかも女房が妊娠中という設定はポルノにはあり得ないものでしょう。これは浮世絵春画が関心を示した性愛の世界と、ポルノが狙った性愛の世界が相違していることを表しているということでしょう。浮世絵春画の関心は、決して特殊な性愛ではなく、あくまでも日常生活の内の人間の性愛世界なのです。》

 大学の先生が春画の研究だなんてと、世間から陰口をたたかれつづけてきたのだろう、ポルノではないと強調する。枕絵・あぶな絵などのことばを避け浮世絵春画に統一しているのもそのせいではないか。だが早川の言うとおりだ。猟奇的なものなど、少なくとも本書にはない。嫁入り道具の一つであったというのもうなずける。

 また湖龍斎の七夕の絵では、畳にはらばって短冊に書くねがいごとの「下の句」に迷っている母親の前で子供が「かかさんのを見て書こう」と言っているのだが、かかさんのうしろから赤ん坊を抱いたととさんが挿入するものだから、ツンと感じてしまって下の句どころではない。するとととさんは「下の句はほのぼのほのぼのだろう」とからかう。なんともほのぼのした情景。《今では実際にこのような場面は考えられませんが、浮世絵春画には幼い子供が周囲にいる状況で、夫婦が戯れているという「ほのぼの」とした図柄が結構あります。そうしたことが実際にあったのか、それとも笑絵としての趣向なのかはっきりとは判りませんが、江戸時代の一般の庶民にとっては、夫婦の性事は子供に対して今ほど秘密事ではなかったのかも知れません。》という見解を示している。

●馬鹿夫婦枕絵の真似して筋違ひ

 『江戸の春画――それはポルノだったのか――』(白倉敬彦、洋泉社新書)で白倉が春画における性器の大きさについていろいろむつかしいいわれを述べているのに対し、わたしは興味の中心点をクロースアップしただけでキティちゃんの顔が大きいのと同じことだろうと批判したが、本書を読んでもうひとつの理由に気づいた。

 春画にはかならず男女の性器の結合状態が明確に描かれる。曖昧な表現などない。しかしいかに背景を変えようが状況を変えようが、まともな体位で結合状態を見せようとしたら限度がある。飽きられる。売れない。そこで後背位なのに女が読者にむかって大きく股を開くといったような体位をとる。なかなか実際には届かない体位なので、結合状態を見せるためには男性器を長くする必要が出てくる。ただ長くしただけではバランスが悪くなるから太くもしなければならない。それにつれて女性器も大きくなっていった、とこういう次第ではなかろうか。

 歌麿の『ねがひの糸ぐち』第1図には「世界のウタマロ」にふさわしい大きな男根の客とこれまたうんとたてに長い女陰の下からたっぷり愛液を流した女郎がこんな会話をしている。女郎「女郎のぼぼ(女陰)に、こんな露沢山なのは滅多にあるめえ」若者「まあこのような絵を見れば、お前も俺も顔に似合わねえ立派な道具(性器)だと、見る人は笑うだろうねえ」このあたりからなのだろうか春画を「笑い絵」と呼びだしたのは。『江戸の春画』には、もともと春画は艶笑小咄の挿絵だったので笑い絵ともいうのだとあったが、本書に目を通すかぎりでは初期のものに書入れは少ない。

 北斎も、女房がうしろむきに亭主の腹の上に乗り体をひねって亭主に顔を向けるという奇妙な体位を自嘲するかのように、こんな書入れをしている。《亭主「このような体位はなんと言うのだろう。茶臼でもなし、マア腹の上に乗せるから腹臼とでも名付けておこうか。こんなやり方で具合はどうだ」/女房「ずいぶんいいよ。もっときつく突いて、そして時々は指を入れたり、またくりくり(核)というところを弄ったり」》ウーン、江戸時代のひとも「くりくり」といったのか。北斎はオノマトペの多い絵師なのでひょっとしたら彼独自の表現かもしれないが。

 《浮世絵春画はさまざまな体位、四十八手の見本のように見る向きもあります。しかしそれはまったくの誤解です。川柳にも/馬鹿夫婦枕絵の真似して筋違ひ/とありますように、江戸人は春画に描かれている変わった体位が絵空事であることをよく心得ていたのです。》

 春画から笑いの要素が消えたのは江戸末期、西洋のポルノグラフィーが入ったころだと早川は言う。《明治以降に出てくる春画はまったく笑えません。》写真の影響が大きいようだ。《実際の人間の裸を写真にしてしまうと、春画にあったようなおかしな体勢をとることもできません。》

●群を抜く北斎

 浮世絵師は出版したものが売れなければ次のお声はかからない。だから時代がすすむにつれてそれまでの絵師よりうまくなっていくものだとはいえ、北斎は群を抜いている。まったく斬新だ。日本一の枕絵師といってさしつかえないだろう。

 それまでほとんど着衣のままおたがいに裾をまくり上げて交合におよんでいたのが、北斎はほとんど全裸だ。前出の白倉は、春画は呉服屋とタイアップして最新流行の柄を描くために着衣のままが多いのだと述べている。北斎はスポンサーなしでも絵を売る自信があったということだろうか。もうしわけ程度に身にまとった浴衣のひだがまた牡蠣の外套膜のようにビラビラしていてエロチックな効果を上げている。

 西洋の肖像画は「手」を入れると画料が高くなる。それほど手や指の描写はむつかしいのだ。北斎は大衆画といえども手を抜かない。指先の一本一本までていねいに描かれており、特に女の足の指はこれがアクメの表現なのかすべて内側に巻いていて、じつになまなましくてなまめかしい。よほどデッサン力に優れているのだろう。また陰毛も独特だ。短くて柔らかな陰毛はけして主役のじゃまをせぬように、むしろ主役をひきたてる名脇役としてしっかり細密に描かれている。要するにそれまでの春画とは一線を画している。

 最後に男性器の評価についてひとこと。『江戸の春画』には一麩、二雁、三ン反で、意外に太、長は下位だという文献が引用されていたので、てっきりわたしはそれが江戸時代の通念だと思いこんでいたが、北斎は『富久寿楚宇』第1図で、赤ん坊を抱いた母親に「一に黒まら、二に雁高まら、三に白まら、四に反りまら、五に麩まら、六に太まら、七に長まら云々」といわせている。早川にいわせればこれが江戸時代のおおかたの品定めに合っているとのこと。なにもペニスの形状で文章を閉じることはないのになあとわれながらおかしいが、いかなることでも文献ひとつにそう出ていたからといってあの時代はそうだったと決めつけるのは早計だと反省したので、あえて付け加えた次第。