34(2011.11 掲載)

 『戦場の精神史――武士道という幻影――(佐伯真一、NHKブックス)

   senjo.jpg

●なぜいまさら武士道か

 武士道と聞いて頭に浮かぶのは、『葉隠』(山本常朝、1716年刊)の「武士道というは死ぬことと見つけたり」という文句だ。このあとには「生か死か迷うときには、死ぬほうを選び、腹を据えて進む。難しいことはない、ただそれだけだ。結果を計算して、どうすれば計画がうまくいくか、失敗すれば犬死にだ、などとあれこれ考えるのは、都会風のうわついた武道である」という意味のことばがつづくそうだ。都会風の云々とあるのは山本が佐賀藩士だからだろう。

 江戸時代には異端の書であった『葉隠』が20世紀になって「武士道」の精華としてもてはやされるようになったきっかけは、明治39年(1906)、日清・日露戦争の直後、ある小学校教員がそれまで佐賀県でしか知られていなかった『葉隠』の抄録本を自費出版したことによる。《日本には古来一貫して「武士道」が存在したのだという、当時流行していた「武士道史観」ともいうべき歴史観により、戦国「武士道」との相違などは無視され、『葉隠』は古来の「武士道」の精華として読まれた。さらに、国粋主義・軍国主義の風潮が強まる中で、逆に『葉隠』を起点に「武士道」を考えるような風潮さえ生まれたわけである。》

 異端が正統を駆逐したのだ。ばかばかしい話だが、いまだってたとえば正統な学問を無視したあやしげなトンデモ本やインチキ宗教や占いなどがマスコミをにぎわしているのだから、明治のひとびとを嗤うことはできない。またもや誤った武士道観から日本がまちがった方向へ向かうのではないかという危惧が、佐伯の執筆動機だ。

●ヤマトタケルのクマソ退治は狩猟気分

 本書のタイトルは『戦場の精神史』というカタイものだが、もしわたしが担当編集者だったら『だまし討ちの歴史』といったものを主張しただろう。それほど本書はだまし討ちのオンパレードだ。《古代から近世に至るまで、だまし討ちは常に絶えない。おそらく、合戦のある時代には常にだまし討ちの類があったと思われる。》戦場の精神イコールだまし討ちの精神なのだ。以下に歴史を通観してみよう。

 古代、だまし討ちは無自覚に肯定されていた。『風土記』や『古事記』『日本書紀』に巨大な怪物を退治する話が多く出てくるが、これは大和朝廷から見た先住民のこと。ヤマトタケルはクマソを退治するとき女装して宴会にもぐりこみ、相手が油断したところで刺し殺した。いまから見れば卑怯な手だが、相手は鬼畜なのだからどんな手段を使ってもかまわないのだ。戦争というより狩猟をしている感覚だ。これは別に日本にかぎらず、未開社会に共通する感覚でもあるとのこと。いや、現代でも敵はあいかわらず「鬼畜」にすぎないとされる。

 酒色で油断させるという手は21世紀の今日でもおこなわれている。武器をつかわない戦争、外交の場では、女をつかったハニー・トラップが多い。恥ずかしい映像をとられてしまう。以後ぐうの音も出ないから政治家としては死んだも同然だ。

●会話の成立で獣あつかいは減る

 奈良・平安時代になっても東北地方への「征夷」はつづいていた。夷は未開の土人を意味する。つまりあいかわらずアイヌをだまして殺していたわけだが、すこしずつ変化が出てくる。敵を化け物・野蛮人あつかいする背景にはことばの問題がある。意志が通じないとどうしても鬼畜あつかいしやすくなるが、東北地方に進出するようになるにつれアイヌ語を解する倭人が出てくる。

 9世紀の終わり、蝦夷によって秋田城を攻め落とされるという「元慶の乱」が起きたとき、鎮圧に向かった藤原保則はこう言った。「これまで逆らうことのなかった蝦夷がさわぎを起こしたのは、秋田上司が悪政をおこなったためです。力で蝦夷を攻めてもむつかしい。むしろ、義と徳をもってのぞみ、彼らの『野心』を変えさせることです」ここでいう「野心」は「野生獣心」のこと。まだ獣あつかいではある。

 平安時代の11世紀後半、奥州の安部氏が起こした反乱「前九年の役」を記録した『陸奥話記』では、安部氏が朝廷に帰属した豪族で倭語が通じたせいか、《敵を同等の人間として見るという視点を欠き、敗者への思いを盛り込みにくいものであった「征夷」という枠組みを基本的には受け継ぎながらも、「夷」を人間として見つめる視点を獲得》した。

 大和朝廷による征服が本州北端にまで及んだため、「夷」が「日本の内側」の人間として認識されるようになったのだ。征夷大将軍という呼称は江戸時代までつづくのだが、野獣を罠に掛けるというような感覚はこのころ終わりをむかえたようだ。しかし「だまし討ちは武人の知恵」という感覚はその後もつづき、いまも絶えることはない。

●仁義のかけらもない源平合戦

 源義経が源平合戦の帰趨を決する「一ノ谷の合戦」(1184年)でのことだ。平家の侍大将越中前司盛俊(エッチュウゼンジモリトシ、むつかしくてかなわん。以下、平家のモリちゃんと略)は、源氏の武士猪俣則綱(イノマタノリツネ、以下、源氏のノリちゃん)を組み伏せる。下になった源氏のノリちゃんは苦しまぎれにウソをつく。

 「もはや戦は源氏の勝ち。あなたは落人。もし私を助けてくれたら、頼朝殿に言ってあなたの一族を助けるように取りはからってあげる」  平家のモリちゃんだまされて和議が成立。ふたりは仲良くならんで腰をかけ荒い息をしずめた。ところがそこへ源氏のノリちゃんの親戚人見(ヒトミ)四郎が多くの郎等をつれてやって来たら、ノリちゃんはいきなり平家のモリちゃんを田んぼに突き倒して首を取ってしまった。

 ノリちゃんは「平家のモリちゃんの首はまさしくこの則綱が討ち取ったぞ、おのおのがた、証人になってくれよ」と叫ぶのだが、四郎ちゃんに横取りされてしまう。《則綱がだまし討ちにして取った首を、親族の人見四郎が横から奪い取る。仁義のかけらもない、すさまじい戦いである。》と佐伯はコメントする。

 話はこれで終わらない。ノリちゃんは平家のモリちゃんの首を横取りされる前に、こっそりモリちゃんの片耳をそぎ取っておいた。論功行賞のときに横取りされたいきさつを暴露し、耳のない首にピタリと合わせて証拠とするためだ。この用意周到は何を意味するか。要するに《勝つためには手段を選ばず、功名のためには味方をも欺くという姿のほうが、一般的だった》のだ。これが『平家物語』の最も古い「延慶本エンギョウボン」なのだが、あまりにエゲツナイので琵琶法師たちは時代の嗜好に合わせもっとマイルドな話に変えていく。よけいなことすんなよ。そういうことをするものだから真実が後世に伝わりにくくなるのだ。

●戦後を配慮して合戦のルールが生まれる

 あまりにもエゲツナイ方法で勝利すると、やられたほうは敵討ちをしたくなる。報復合戦の泥沼におちいる。《いずれは平和を回復せねばならないとの前提に立つならば、相手との関係を決定的に破壊しないように、戦いは一定のルールの枠内でなされねばならない。(中略)武士としての名誉を守る家という名声を確立することは、子孫にとってもプラスに働く。》

 敵味方に分かれた武士どうしに縁戚関係があったばあいは特にのちのちのことを考えて敗者を殺さないこともあった。戦国大名がさかんに政略結婚をしたのはそのためだろう。

 平安時代のころになると降人(コウニン)は保護すべきだという思想もあらわれる。ただし、「戦場を逃れ、罪を悔いてみずから首を差し出して」きた者を降人というのであって、戦いに敗れて生け捕りにされたあとで命乞いをしても助命はされない。いまでも犯人が誰だかわからない段階で自首して出れば減刑されるが、指名手配されたあとで出頭しても自首あつかいにならない。「自ら首をさしだす」から自首というのだと、いま気づいた。

 女は殺さないが陵辱はした。身分の高い女性は陵辱されないことに一応なっていた。《『平家物語』諸本の壇ノ浦合戦で、平知盛(トモモリ)が女房たちに形勢を問われて「めづらしき東男をこそ御覧ぜられ候はめ」と言った話は有名である。「御覧ぜられ」は、男女の交わりを意味する。「これからは、今まで御覧になったこともない、野蛮な東男どもと暮らさねばなりません」と、覚悟を促したわけである。》ははあ、こんな逸話から命拾いした建礼門院を義経があのてこのてで籠絡するという春本『壇ノ浦夜合戦記』が生まれたのだな。

●「だまし討ち上等!」の戦国時代

 中世の前半から後半へと時代が進むにつれて、だまし討ちが自覚的に肯定されるようになる。初期の「武士道」とはだまし討ち肯定の言説だった。

 鎌倉幕府の公式歴史書『吾妻鏡』には、源平合戦期に源頼朝が同族の佐竹氏をいかにだまし討ったかが堂々と描かれている。それと同時に、佐竹の家来が斬首の前に「平家追討をさしおいて同族の佐竹を討つとはなにごとか。こんなことをしていては、ひとびとは頼朝殿を恐れるばかりで心から従うことなどできない」と直言したのを聞いて頼朝はその男を御家人に加えたというエピソードも掲載している。

 こういう命拾いの方法もあるのだからへいぜい脳みそとともに胆力も鍛えておかなければいけない。欧米勢力がビン・ラディンやカダフィを確保直後に撃ち殺してしまったのは、大物の胆力や弁論に兵隊が怯んでしまうのを防ぐためだろう。

 《鎌倉幕府の歴史は、実朝暗殺をはじめ、暗殺や陰謀の繰り返しであった。(中略)幕府の立場を正当化しようとして書かれた『吾妻鏡』は、本当に具合が悪いと思った陰謀などは隠しているはず》だと佐伯は言う。堂々と記されただまし討ちは、隠すほどの話ではなかったのだと。《「武士道」が生まれ育った世界は、どうやら、謀略肯定・虚偽肯定論の諸書を生んだ兵法の世界だったようである。してみれば、「フェア・プレイ」などという精神と縁がないことは、今さら確認するまでもないだろう。》

 ただし、だまし討ちは批判されなくても主従や仲間の関係にある者に対する裏切りは非難される。そこには敵は化け物であるという古代の感覚とおのれの遺伝子あるいは近縁の遺伝子を残そうという本能が、同時にはたらいているように思える。

 合戦がうちつづく室町から戦国時代にかけてはだまし討ちが積極的に肯定されるようになっていく。「源氏のノリちゃん」のだまし討ちはよほど有名な話のようで、時代を超えて語りつがれてきたものの、肯定も否定もされなかったのが、15世紀に成立した『義貞軍記』ははっきりと肯定する。

 16世紀の『朝倉宋滴話記(アサクラソウテキワキ)』は「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候」勝つためにはなりふりかまうなと断言するにいたる。同時に「ふだんはウソをつくな」とも言うが、これはふだんからオオカミ少年だと思われていてはいざというときについたウソが信用されないからという遠謀だ。戦国大名は軍の司令官であると同時に為政者でもあったので、家臣や領民には正直を説かねばならないというジレンマもあった。

 『理尽鈔』は、南北朝の騒乱を描いた『太平記』(14世紀)を補完するものとして江戸時代直前に成立したものだが、その精神は「知謀主義」「謀略主義」であり、「策謀をこらして、できるだけ自らの被害を少なくしながら敵を討つのが良将である」と説く。この書もまた『朝倉……』と同じく「いざというときに謀略を成功させるためにはへいぜいウソをついてはならない」と教えている。

 《『理尽鈔』の精神の根底には、性悪説ないし人間不信ともいうべき発想に基づく、乾いた現実主義がある。人は皆、自分のために生きている。孔子や釈迦でさえも、自分が尊敬されたいがために教えを説いたのである。そうした利己的な人間たちから成る社会を安定させ、繁栄させようと思えば、優れた為政者が種々の方便を用いつつ、人々をうまく導かねばならない。》たとえば仏神の罰などほんとうは存在しないが、愚かな民衆にそれを言ったら世の中が乱れるから言ってはいけないと説く。この思想は江戸初期の大名や安藤昌益などの思想家に強い影響をあたえたという。  連綿とつづいてきただまし討ち肯定の思想が、このあと史上まれに見る平和な江戸時代にどのように変化し、また史上まれに見る激動の幕末・明治期にどうなったか。話は昭和の敗戦まで(つづく)。