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 『戦場の精神史――武士道という幻影――(佐伯真一、NHKブックス)

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(つづき)

●太平の世には否定された「武士道」

 江戸時代になると、だまし討ちを肯定する「武士道」は倫理性に乏しいとしてしばしば批判を浴びるようになり、かわって儒教的倫理にもとづく「士道」が唱えられるようになる。

 江戸初期に成った『甲陽軍鑑』は甲州武田氏の記録。それによれば――。今川義元の配下であった徳川家康は、義元やぶれるの報に接したとき、かんたんには信じなかった。「計略を用いるのは昔から当然のことであり、それで勝利するのは武士の誉れだが、それにだまされてしまうのは女に似た侍で、不名誉なことだ」と言った。それを伝え聞いた敵の武田信玄は「若いのに立派な武士だ」とほめた。

 『甲陽軍鑑』は言う。「武将たるもの、隣国に罪がなくとも侵略し、力にまかせてそれを奪うのは昔からのならいであって、誰もそれを強盗とか盗人とか呼んだりはしない。したがって、その際に虚言を用いることを否定しないのも、当然の道理である」と。

 このことばは、武将と盗人のあいだに本質的な差はないと認めているようなもので、「切り取り強盗は武士の習い」ということわざが生まれたのも無理はないと佐伯は批判めいたことを言うが、このような謀略肯定思考がつづいたからこそ幕末・維新の諸外国による植民地化をなんとかふせぐことができたのではないかとわたしは思う。内政でだまし合うのはよい外交訓練になるのではないか。乳母日傘で育つと人生の危難に遭ったときもろく崩れる。ホリエモン偽メールにだまされた民主党の永田議員を思い出す。大金持ちの家に生まれ慶応高校・東大・大蔵省と進んで衆議院議員になったものの謀略にひっかかり議員を辞職、結局自殺してしまった。だまされたのは大失態だが、それを糧にすれば後年花開くこともあっただろうに無惨な最期だ。

 江戸時代に太平の世がつづくようになると、『甲陽軍鑑』のような荒々しい思想ははやらなくなる。1646年に成った『士鑑用法』では、「たとえ国主でも欲のために兵を起こし他国を攻め取って自分の国にするようでは国を治める資格がない」と180度ひっくり返ってしまう。江戸時代に最大の力を持ったのは《儒学によって太平の世にふさわしく矯(タ)められた「士道」である。》

 江戸中期の儒者荻生徂徠(オギュウソライ)はこんなことを言っている。「武士道は戦国の風俗だ。いやしき昔の武士の名にこだわり、学問をもって才智を広め、文をもって国家を治めることを知らない。眼をいららげ、臂を張り、刑罰の威をもってひとをおどし、世界をたたきつけて、これにて国を治むると思えるは、愚かなることの頂上なり」と戦国時代の武士を全否定する。『葉隠』はこのような時代思潮に反発して生まれた異端の書だった。

 『甲陽軍鑑』を当時読んだ者はそうだそうだと思い、はたまた荻生徂徠を当時読んだ者はそうだそうだと同感したことだろう。まことに当世はやる思想というものは時代に合わせただけのもので当てにならないということがこれで判る。

 そうこうしているうちに幕末。外国船が押し寄せ、清国が阿片戦争で敗れ、「尊皇攘夷」論がはじまると、「儒者は国難に対応できない」とそしられたためか信濃高遠藩の儒者中村中?(チュウソウ)は、その著『尚武論』で「我が邦は武国なり。西土(中国)は文国なり。文国は文を尚(タット)び、武国は武を尚ぶ」といきなり儒教の本家を否定する。

 《「思想」などという言葉にはあまり似つかわしくない、戦場の息吹を伝える荒々しい教えに過ぎなかった「武士道」は、このように反「文」・反儒教を媒介として国家意識に結びつき、武力を信奉するナショナリズムのイデオロギーへと変貌をとげた。》幕末のこの思潮が、文明開化の時代に「武士道」が大流行する前提となった。

  ●明治時代に美化された「武士道」

 「武士道」ということばは戦国時代の後半になって初めて出現する。爆発的に流行するのは明治も30年代を過ぎてから。歴史の浅いことばなのだ。定義もはっきりしない。《明治時代には、「武士道」が、かつてとはまったく異なる相貌を持って登場し、日本固有の伝統を強調する立場からも、西洋の価値観を受け入れる立場からも、おのおのなりに加工を施されて急成長し、またたくまにかつての武士たちの実像を覆い隠すほどに大きくなった。》

 明治の初期から中期にかけて山岡鉄舟『武士道』刊行。こののちさかんになる「武士道史観」の原型をなすものだが、内容は先に見た『尚武論』の継承で「ほとんど荒唐無稽」と佐伯は断じる。質実剛健を旨とする武士階級が廃絶されたことによって、武士的なものは古き良き日本を象徴するような位置に押し上げられていった。武士がいなくなって「武士道」はその地位を高めたのだ。

 おなじころ内村鑑三などのキリスト教徒もまた「武士道」を称揚した。西洋の価値観を受け入れる立場の内村は《今はなき武士の克己禁欲の精神に、キリスト教と「武士道」の接点を見出したものと思われる。》と佐伯は見ている。いつの世も新しい思想をとりいれるさいには旧来のものとつじつまを合わせるのに苦労する。空海の時代には神と仏を習合するのに苦労した。

●狂った武士道が日本を破滅に導く

 日清戦争の勝利は、「武士道」称揚派を昂揚させたらしく、明治31年(1898)には雑誌「武士道」が発刊され、翌32年(1899)には新渡戸稲造の『武士道』(原題BUSHIDO,THE SOUL OF JAPAN)が発行された。しかしじつはこれがトンデモ本だったことを佐伯は暴露する。

 新渡戸は「武士道」が自分の造語だと思っていたほど、まったくこのことばの歴史を知らなかった。だから彼の「武士道」はそれまでの歴史的用例とは何の関係もない。日本の歴史や文化そのものにも詳しくなかった。彼は文久2年(1862)生まれ、すなわち幕末の生まれであり、この時期に生まれた者には和漢の古典に関する教養がない、という佐伯の指摘にはハッとした。そうはいってもわれわれよりはあるだろうと思ったら、青年時代には『徒然草』も知らなかったという。ちなみに西鶴調の擬古文でおなじみの尾崎紅葉(1867年生)も、井原西鶴を読み「これは使える」と気づいたのは二十歳を過ぎてのことだ。いまなら中学生でも知っている。ムカシのひとは古典のキョーヨーがあったと思うのはわれわれの思い過ごしかもしれない。

 明治34年(1901)足立栗園(アダチリツエン)の『武士道発達史』発刊。足立は「武士道」を忠孝・剛勇・廉潔・慈悲・節操・礼儀ととらえている。《歴史的根拠が先にあったのではなく、幕末から明治にかけて漠然と形成された通念、あるいは明治時代後半の流行に基づいて、歴史的根拠が探索されたわけである。(中略)「武士道」の用例を探しあぐねた「武士道」論者にとって、やがて訪れる『葉隠』の発見がどんなに喜ばしいものであったか、想像にかたくない。》誰も「文字の出所」を知らず、なんとなく「武士道」ということばをつかっていたところへ江戸時代の文献が発見され、その内容がまた時代の嗜好に合っていたものだから、『葉隠』が時代の寵児になったという次第。『葉隠』の発見が日清・日露戦争直後の明治39年(1906)であったのは偶然ではないのだ。

 『葉隠』は言う。《勇気は心さへ付かば成る事にて候。刀を打ち折らるれば、手にて仕り候。手を切り落とさるれば、肩節にてほぐり倒し申し候。肩切り離さるれば、口にて首の十や十五は喰切り申し候。》これがのちのち日本にたたるのだから恐ろしい。日本陸軍の無謀さの典型として悪名高いインパール作戦(1942年)でのこと、《補給の失敗などにより数多くの犠牲者を生んで悲惨な失敗に終わろうとしている時に司令官の牟田口中将は、「弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば腕で行くんじゃ。腕がなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついていけ」と訓示したという。》

 これが『葉隠』に影響されたものであることは一目瞭然だ(ひょっとしたら「生きて虜囚の辱めを受けず」なんていう東条英機の「戦陣訓」の一節も御同様かもしれない)。牟田口のような無謀は本来の武士道とは「似ても似つかない精神」なのに、多くの近代日本人はこれを日本古来の武士道と誤解してしまった。思想・思潮を甘く見てはいけない。1冊の本が国家を窮地におとしいれることもある。

 《策略を練り、緻密な計画を立てて、いかに味方の損害を少なくしながら効率的に敵を倒すか》これが兵法のまっとうな方向であるにもかかわらず、『葉隠』はそうした「武道」を嫌う。《『葉隠』は将の立場で用兵を論ずるのではなく、「奉公人」の立場でいかに自己の行動原理を貫くかを論じているのである。》太平の世の「武士道」だから屈折している。おまけに《常朝の「御側(オソバ)」という職掌や、当時の衆道(シュドウ)(男色)の隆盛など》が『葉隠』の思想にはからんでいるという。なぜか三島由紀夫を思い出す。

 著者の佐伯は『平家物語』の研究者だ。それがこういう著作をものしたのは、古代から近代まで、戦場の精神史を学問的に緻密にたどって武士道の真の姿をあきらかにしなければ、またもやいいかげんな妄説にひとびとが扇動されてしまうのではないかと恐れたからだろう。

 現に佐伯が本書の草稿を書き終えた2003年には日本の武士道を美しく描くアメリカ映画「ラストサムライ」が大ヒットし、その影響で新渡戸稲造の『武士道』がブームになった。このふたつは佐伯の目から見れば「今はなき武士道」の幻想を作り上げ楽しんでいる娯楽ファンタジーにすぎない。「日本の武士たちは武士道精神によって正々堂々と戦っていた」という見かたは幻想であると佐伯は断言する。