36(2012.1 掲載)

 『逝きし世の面影――日本近代素描T――(渡辺京二、葦書房)

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   T 逝きし世の諸相

 

●日本人が記録しなかったこと

 幕末維新のころ日本をおとずれた外国人の見聞録に興味がある。しかしこのジャンルは、外交官・学者・探検家、その他写真家・画家と筆者の数は膨大で、いったんのめりこんだらほかの本が読めない。さいわい渡辺がそれらの書籍を博捜し独自の視点から要約してくれた。

 渡辺は1930年生まれ、本書は河合塾福岡校の講師をしていたころ執筆されたもの。それで出版社が福岡の葦書房なのだろう。A5判480ページの大冊を教師らしい端正な構成でまとめている。

 《滅んだ古い日本文明の在りし日の姿を偲ぶには、私たちは異邦人の証言に頼らねばならない。なぜなら、私たちの祖先があまりにも当然のこととして記述しなかったこと、いや記述以前に自覚すらしなかった自国の文明の特質が、文化人類学の定石通り、異邦人によって記録されているからである。》だれしもあたりまえのことは書かない。執筆に値するとは思えないからだ。ところが異人の目にはそれがまことに珍奇なものと映る。それによってわれわれはおのれの過去を知ることができる。さらに過去の自分を見て今現在自分がどこにいるかを知ることができる。だからわたしはその手の本が好きなのだ。

たとえば渡辺が引用した次のような文章にわたしは心をうばわれてしまった。オーストリアの外交官ヒューブナーが、駕籠から見た情景だ。「駕籠に乗って旅をするのは、いわば地面すれすれに飛ぶようなものだ。午前中、草原をよこぎっている時、草や地衣類や花の茎が私の頬をなでていたし、私の視線は、歩行者なら足で踏むとすぐさま視界から逃れていく神秘的な地帯へと入りこんでいくのだった。これは私にとってひとつの啓示のようなものだった。太陽は木の葉の陰や草の茎と戯れていた。私は蜜蜂や蝶や無数の昆虫が花々の萼にこっそり忍びこむのを観察した。それにしても何と美しい花々だったことか。巨大な撫子の花の上に優美に傾いている大きな釣鐘形の青い花。細長い草の円天井の下に咲いている百合の花。あらゆるものがこの国ではにこやかに笑っているのだ。」

 日本人の誰がこのような文章を残し得ただろう。わたしたちの祖先は、記述以前に自覚すらしなかった。それにしても駕籠の旅をしてみたかった。江戸時代にだ。

●子どもをいとしがる文明

 「逝きし世の面影」というタイトルからも感じとれるように、江戸末期あるいは開国当初の日本がいかにすばらしい国であったかを実証しようという意図で書かれている。鎖国を解いて富国強兵のみちをえらばなければ今日の経済的繁栄はなかっただろうし、それどころか西欧列強の植民地になっていただろうことは想像に難くないが、しかし西洋と肩をならべたからといって幸せになったのかどうか、物質的に豊かになればいいというものではないなと本書を読んでいてつくづく思わせられる。読んでいてつい涙ぐんでしまうほど美しい国であり、たのしい国民だったことにおどろく。われわれはいかに多くを失ってしまったことかと悔恨さえ感じる。

 引用された文献はこそばゆいほど日本をほめたたえる。筆者たちは通りすがりの観光客などではなく、何年も日本に滞在した外交官・科学者・旅行家などで、信憑性のある緻密な観察なのだ。《私は、ステレオタイプ的日本イメージの極めつけとして嘲笑されるフジヤマ、サクラ、ゲイシャですら、今はほろびた文明のある実質を語っていると思う。それを嘲笑することは、いわゆる近代化によって滅ぼされた一文明を勝者の立場から侮辱することにほかならない。》とまで渡辺は言う。そうとう気合いがはいっている。

 しかしさすがに言いすぎたと思ったのか渡辺はこう念を押す。《私の意図するのは古き良き日本の哀惜でもなければ、それへの追慕でもない。私の意図はただ、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。外国人のあるいは感激や錯覚で歪んでいるかもしれぬ記録を通じてこそ、古い日本の文明の奇妙な特性がいきいきと浮んで来るのだと私はいいたい。そしてさらに、われわれの近代の意味は、そのような文明の実態とその解体の実相をつかむことなしには、けっして解き明せないだろうといいたい。》われわれの生きている文明がどのようなものであるのかは、その前の文明と比較すればよく分かるということになる。

 渡辺がどのような意味で「文明」ということばを使っているのか、明らかにしておいたほうがいいだろう。《人間は自然=世界をかならずひとつの意味あるコスモスとして、人間化して生きるのである。そして、混沌たる世界にひとつの意味ある枠組を与える作用こそ、われわれは文明と呼ぶ。それ自体無意味な世界を意味あるコスモスとして再構成するのは人間の宿命なのだ。》「世界観」という意味で使っているようだ。

 そうではないと渡辺はいうが、要するに現代文明の諸相を嘆かわしく思っているのだ。そうでなければA5判480ページもの紙幅をついやして「ひとつの滅んだ文明の諸相」など追体験する気になれないだろう。「子どもの楽園」という章を読んだとき、執筆の動機はここにあるのではないかとわたしは感じた。来日した者で日本の子どもの愛らしさと子どもをほとんど溺愛する親に目をとめなかった者はいない。

 《モースは東京郊外でも、鹿児島や京都でも、学校帰りの子供からしばしばお辞儀され、道を譲られたと言っている。モースの家の料理番の女の子とその遊び仲間に、彼が土瓶と茶碗をあてがうと、彼らはお茶をつぎ合って、まるで貴婦人のようなお辞儀を交換した。「彼らはせいぜい九つか十で、衣服は貧しく、屋敷の召使いの子供なのである」。彼はこの女の子らを二人連れて、本郷通りの夜市を散歩したことがあった。十銭ずつ与えてどんな風に使うか見ていると、その子らは「地面に坐って悲しげに三味線を弾いている貧しい女、すなわち乞食」の前に置かれた笊に、モースが何も言わぬのに、それぞれ一銭ずつ落し入れたのである。この礼節と慈悲心あるかわいい子どもたちは、いったいどこへ消えたのであろう。》と渡辺は嘆く。これはよほど予備校の生徒たちにあきれているにちがいないとわたしは勘ぐる。

 親が悪い、とじつは思っているのだ。というのも、すぐつづけて《しかしそれは、この子たちを心から可愛がり、この子たちをそのような子に育てた親たちがどこに消えたのかと問うこととおなじだ。》と付け加えているからだ。おそらく昨今の幼児虐待のニュースに渡辺はいたたまれない思いをいだいているにちがいない。なぜ日本の親はこれほどむごい行動がとれるようになってしまったのかと。そしてさらに開国以前の日本の親子関係を知るにつけ、いや、親の責任でもないなと彼は思いいたる。《このいとしがり可愛がるというのはひとつの能力である。しかしそれは個人の能力ではなく、いまは消え去ったひとつの文明が培った万人の能力であった。》現代文明を嘆き、江戸文明を懐かしんでいるのだ。

 「子をほうる真似をして行く橋の上」という川柳が『誹風柳多留』にある。たのしげな声まで聞こえてくるような名句だ。渡辺の文章を読んでいたらこれを思い出した。

 

   U 前近代を懐かしんだ西洋人

 

●文明開化して日本は良くなるかという懸念

 《われわれはまだ、近代以前の文明はただ変貌しただけで、おなじ日本という文明が時代の装いを替えて今日も続いていると信じているのではなかろうか。つまりすべては、日本文化という持続する実体の変容の過程にすぎないと、おめでたくも錯覚してきたのではあるまいか。》と渡辺は本書の冒頭から予備校の先生らしからぬことばで読者の意表をつく。18世紀初頭から19世紀にかけて存続した江戸文明は(17世紀は勘定に入れないようだ)、明治末期には滅んでしまい、現在の日本はまったく別物なのだと断言するのだが、そのような見方で編纂された本書ではあっても、わたしは多くの引用文のなかに今日とおなじ日本を感じた。

 幕末維新におとずれた西洋人は、もちろんこの国をクイモノにしようという底意を秘めている。相手が蒙昧なケダモノであれば、それをどう利用しようと優れた文明圏すなわち西洋の自由だ。アメリカ大陸やアジア大陸の多くを制圧してその土地の富を手中にしてきたように、この国もいち早く自国のナワバリにしようと考えている。そうでなければ誰がこんな地球の果てまでやってくるものか。

 ところが彼らは日本の民衆にふれると、おのれのしようとしていることに疑問を感じはじめてしまう。1856(安政3)年に来日したアメリカの外交官ハリスは翌年53歳のとき、日本には富者も貧者もいないと書いたうえで、こうつづける。「これがおそらく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。」

 ハリスの通訳ヒュースケンも同年、25歳の日記にこう記す。「いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない。」侵略の大義名分を失って動揺するのだ。

 長崎海軍伝習所の教育隊長カッテンディーケも、1859(安政6)年、43歳で2年余の滞日を経て帰国するさい、自分たちがこの国にもたらそうとしている文明は日本古来のそれよりいっそう高いものであることに確信を持ってはいたが、はたしていっそう多くの幸福をもたらすものであるかどうか懸念している。教育隊付きの医師ポンペもまた開国の強要は調和のとれた政治と国民の満足を一挙に打ち壊すだろうと予見した。

 1876(明治9)年に来日したフランス人画家レガメは、横浜のグランドホテルの窓から見える古い木橋に強く印象づけられた。《橋の下を裸かの船頭の漕ぐ舟が行き、水浴する人びとの残す水沫には月光が銀色に照り映え、寝入った子どもをおぶった「王妃のような装いの美しい娘」が橋の上で、どこかナポリの唄声を思わせる、母音のよく響く子守唄を優しい声で歌っていた。》ほんとうに夢のような情景に思われたことだろう。だが明治32年に再来日してみるとこの橋は鉄橋に架け替えられていた。落胆のほどがしのばれる。

 かくも多くの西洋人が幕末維新期の日本に関してかくも多くの見聞記を残しているのは、単に鎖国を解いた異国を覗いてみたいという好奇心からだけではない。いま記録しておかなければ、あっというまにこの世の理想郷は消え去ってしまうという危機感があったからだ。1877(明治10)年、39歳で腕足類の研究のため初来日したモースは、日記帳3500ページにおよぶ日本見聞記を書き、その一部分を『日本その日その日』として40年後の1917(大正6)年に出版するのだが、じつはそんな本の出版にはあまり興味がなかった。頭にあったのはあくまでも腕足類だ。ともに訪日した友人の日本美術蒐集家ビゲロウが、見かねて「腕足類などドブへ捨ててしまえ。君と僕とが40年前見た日本という有機体が消滅しつつあり、あと10年もしたら完全に地球上から姿を消してしまうというのに」と説得してやっと書かせた本だった。

●近代工業文明に対する懐疑があった欧米人

 《幕末・明治初期の欧米人の日本見聞記を、在りし日の日本の復元の材料として用いようとすると》そんなものは美化された幻影さといって日本の知識人はしりぞける傾向がある。それはいまにはじまったことではなく、1873(明治6)年に来日したイギリスのお雇い外国人バジル・ホール・チェンバレンは『日本事物誌』のなかで「古い日本は妖精の住む小さくてかわいらしい不思議の国であった」と言ったがために、当時もそしてどうやらいまでも日本知識人のあいだでは総スカンをくっているようだ。

 明治時代の日本人は、それまでの日本を羞じていた。1876(明治9)年に来日したベルツは、故郷に宛てた手紙で、当時の教養あるひとびとがいかに過去の日本を羞じているかを書き送っている。「これら新日本の人々にとっては常に、自己の古い文化の真に合理的なものよりも、どんなに不合理でも新しい制度をほめてもらう方が、はるかに大きい問題なのです。」と。

 現代の日本人もまた江戸時代を野蛮といって羞じる点は明治時代と同じだ。渡辺はそこでしつこいほど彼らの証言の信憑性を強調する作業に追われている。わたしは渡辺のいうことに不信感をいだいてないので、そのあたりは割愛だ。だがなぜ西洋人がそれほど日本をほめたたえるかという原因はさぐっておかなければならない。

 ひとつにはそれまで巡ってきた国々との比較がある。たとえば1858(安政5)年、日英修好通商条約を締結するためにやってきた29歳のイギリス人オリファントは、セイロン、エジプト、ネパール、ロシア、中国など諸外国についてゆたかな見聞をもったうえで、「日本人は私がこれまで会った中で、もっとも好感のもてる国民で、日本は貧しさや物乞いのまったくない唯一の国です。私はどんな地位であろうともシナへ行くのはごめんですが、日本なら喜んで出かけます。」と母親に書き送るほどの日本びいきになっている。おなじ使節団のオズボーンは「日本への愛着が1時間ごとに増す」とさえ言う。概してシナは評判が悪い。

 ただし日本人が善良でシナ人が邪悪だからではない。欧米人が見たのはアヘン戦争で疲弊した中国の姿であって、《オールコックが「あらゆる物が朽ちつつある中国」と言うのも、彼が中国で各地の領事を歴任したのが、阿片戦争直後から太平天国の乱のさなかにかけてであることを考慮すれば、何の不思議もないことになる。ボーヴォワルは「石ころを投げ、熊手を振るってわれわれを殴り殺そうとした」中国人を、「この地球上で最も温和で礼儀正しい住民」である日本人と比較するが、そういう中国民衆の反応は彼ら自身の侵入が招いたのだということにいささかも気づこうとしない。》と渡辺は冷静だ。

 発展途上の国々との比較以上に重要なのは、みずからの母国との比較だった。《いまやわれわれは、古き日本の生活の豊かさと人びとの幸福感を口をそろえて賞賛する欧米人たちが、何を対照として日本を見ていたのかを理解する。彼らの眼には、初期工業化社会が生み出した都市のスラム街、そこでの悲惨な貧困と道徳的崩壊という対照が浮かんでいたのだ。》渡辺はしつこいほどこの見解をくりかえす。

 ドイツの思想家エンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』を著したのは、明治維新を四半世紀後にひかえた1845年、25歳のこと。彼はそのなかで工業化が到来する以前のイギリス織布工たちは「楽しみながら、のんびりと暮らし、きわめて信心深くかつまじめに、正直で静かな生涯をおくった。」しかし機械による大工場の出現とともに労働者の牧歌的な生活は一変し、精神まで荒廃してしまったと嘆いている。

 外国人たちが日本を褒めそやすのは、第1に日本が「小さい、かわいらしい、夢のような」文明の国であったからだが、第2に《当時彼らが到達していた近代産業文明は、まさにそのような特質とは正反対の重装備の錯綜した文明であったからである。》いいかえれば《彼らが発達した工業化社会のただ中に生きて、そのことに自負と同時に懐疑や反省を抱かざるをえない十九世紀人だったからである。》

 彼らが印象づけられたのは、《「蒸気の力や機械の助けによらずに到達することができるかぎりの完成度を見せている」高度でゆたかな農業と手工業の文明》、要するに前工業化社会が達成した最上の姿だ。産業革命以前のヨーロッパの古き良き時代を日本および日本人に見いだして懐かしんだのだ。(つづく)

 ◆S氏(60代男性) 「逝きし世の面影」は、いいですね、本当に。
藤川氏の書評を読んでいると、再度読みたくなるから不思議。
同じ本を読んでも、受けとめ方が異なるところが必ずある
からなんでしょうね。