37(2012.2 掲載)

 『逝きし世の面影――日本近代素描T――(渡辺京二、葦書房)

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 (つづき)

   V 陽気な庶民

 

●童子のごとく笑う日本人

 幕末の日本人はガイジンが珍しくてしょうがない。一目見ようと我を忘れて押しかける。たとえば1858(安政5)年、日英修好通商条約を締結するためにやってきたイギリス人のひとりは、一行を見ようと入浴中の男女が全裸で駆けだしてきたとビックリしている(もっとも江戸時代のひとびとは西洋人ほど裸に抵抗がなかったのだが)。

 一行が川崎大師を見物していると、「おどろきにうたれた厖大な日本人群衆が、寺の通廊も、回り廊下も、庭を見おろす塀も屋根も、真黒になるほど男女、子どもたちが群がっていた。」この人間の海をかきわけていかねばならぬと思うとぞっとしたが、3、4人の警吏がおだやかに行く手をかきわけて一行を門の外まで導いた(川崎大師は現在でも正月などは通りから境内からぎっしり参詣客が埋め尽くし、この門では同じく数人の係員が「すすめ」「とまれ」と裏表に大書したプラカードをくるくる回転させながらひとびとをさばいている。小さな門だ)。一行が門外に出ると、知恵のある警吏が門を閉ざし、一行のあとを追いかけようとしていた群衆を中に閉じこめてしまう。

 こんなとき現在の日本人ならどういう反応を示すだろう。怒るのではないか。当時のひとびとは笑った。《つまり彼らは自分たちが憤慨すべき状況におかれていることを笑いの対象とすることができる人びとだったのである。自己客観視にともなうこの種の笑いは開国期から明治初期にかけての日本観察記にしばしば記録されていて、当時の人びとの独特のユーモアセンスを偲ばせてくれる。》

 まあとにかく陽気でよく笑う。「誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌のよさがありありと現れていて、絶えず喋り続け、笑いこけている」「不機嫌でむっつりした顔にはひとつとて出会わなかった」「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である」「日本人ほど愉快になりやすい人種は殆どあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子供のように、笑い始めたとなると、理由もなく笑い続けるのである」もう十分だろう。いちいち出典を明らかにするのがめんどうなくらい多くの異人が口をそろえてそう言うのだ。箸がころんでも笑う無邪気さだ。

 無邪気ではすまないくらい物見高い一面もある。イザベラ・バードが秋田神宮寺の宿屋に泊まったときのこと、《夜なか人の気配で目がさめた。約四十人の男女が部屋の障子をとり去って、バードの寝姿に黙って見入っていたのである。(中略)日本人の好奇心は場合によって、はしたなさ、厚かましさ、無神経の域に達することがあった。だがバードは、この物見高い群衆が彼女に失礼な真似をすることなどけっしてないのに気づいていた。》初めてパンダが上野動物園にやって来たときのことを思い出させる。物見高さはいまでも変わらない。

 《日本人が子どもを大切にし、そのため日本がまさに「子どもの天国」の観を呈していることについては、観察者の数々の言及がある。だが実は、日本人自体が欧米人から見れば大きな子どもだったのである。》明治以降、蒸気機関を使って工業化し、古き良き文明を捨て去ったといわれる日本人だが、昭和時代になってもマッカーサー元帥の目には12歳の子どもと映ったくらいだし、日本人は西洋人に比べネオテニー(幼形成熟)ともいえるほど外見が幼いと、たしか動物行動学の竹内久美子が言っていた。そして現在、日本の得意とする輸出品は漫画やファッションなど「カワイイ系」だといわれている。さきにわたしは、江戸文明は明治末期に滅んでしまい現在の日本の文明はまったく別物なのだと断言する渡辺に対し、そうでもないんじゃないのと異議をさしはさんだのは、このような事例にたびたび出くわすからだ。

●将軍も庶民も質素で満足

 諸国を経巡ってきた異国の外交官は、日本の庶民は専制君主のもとで極貧にあえいでいるという先入観をいだいていたが、それは来日してすぐにくつがえされる。インド、東南アジア、中国をわたりあるき1856(安政3)年52歳で伊豆の下田に着任したアメリカの外交官ハリスは、近郊の村々について「貧寒な漁村」と値踏みしながらも「住民の身なりはさっぱりしていて、態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔さというものが、少しも見られない。」と感心し、それは山の斜面をすべて段々畑にしてしまうような「忍耐強い勤労」が原因だろうと分析している。「世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい。」もうベタボメ。「唐人お吉」の美貌もこの高評価に影響しているのではないか。

 本書には異人の描いた絵が何枚も登場するが、いちばん多いのは若い娘の肖像だ。来日した若者は賞賛してやまず、《オイレンブルク使節団を江戸まで運んだプロシャ艦隊の艦長ヴェルナーも、「日本女性はすべてこぎれいでさっぱりしており、平均的にかわいらしいので、日本国土の全体に惚れ込んでしまいそうだ」と感じた。》あの野郎は気にくわないけど、かみさんがいい女だからカンベンしてやろうかという気分に似ている。ちがうか(笑)。

 1859(安政6)年駐日総領事に着任したイギリスの外交官オールコックは、伊豆を旅したさい「ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きのよい農民はいないし、またこれほど温和で贈り物の豊富な風土はどこにもないという印象をいだかざるをえなかった。」と記している。一度氷河に大地を削り取られた歴史を持つヨーロッパにくらべ、日本はまことに自然条件に恵まれているという点を見逃してはならないだろう。西洋人が「まるで天国のようだ」という印象を持つ背景には、日本の土地が持つゆたかな生産力がある。

 一方「日本の農民のごとく勤勉で節倹な百姓が、しかも豊穣な恵まれた国土で働きながら、なぜ貧乏しているのか」やはり重税を課されているからだと考察する者もある。このちがいは天領と大名領のちがいだろうと渡辺は言う。天領に属する農民は恵まれていたということだ。領地に2種類あるなんて知らなかった。

 それにしてもわれわれが学校で教わり、さまざまな文学や映画作品が描いた農民の姿は、「徳川時代をつうじて年貢は苛酷なまでに重圧的であった」から、困窮をきわめていたというものだ。2004年に物故した日本史研究の大家トマス・C・スミスは、その誤解をこう説明している。《これまでの歴史家は、検地によって査定された石高に対する年貢の比率の高さから、苛酷な収奪という結論をひき出してきた》が、じつは検地は1700年以降農民の反抗が怖くてほとんどおこなわれなかったものだから、農業生産性の向上につれて《農民側に剰余が次第に蓄積されて行ったことは疑いようがない。》とのことだ。これも知らなかった。

 日本の民衆が衣食住において満ち足りていたのは、ひとつには彼らの生活が簡素だったからでもある。オランダ人カッテンディーケは、「日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心を持たないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである。すなわち、大広間にも備え付けの椅子、机、書棚などの備品が一つもない。」と指摘している。

 質素だったのは庶民だけでなく将軍もおなじ。ハリスが謁見した将軍家定は、衣服こそ絹製で少々の金刺繍がほどこされてはいたものの、「想像されうるような王者らしい豪華さからはまったく遠いものであった。燦然たる宝石も、精巧な黄金の装飾も、柄にダイヤモンドをちりばめた刀もなかった。私の服装の方が彼のものよりはるかに高価だったといっても過言ではない。」とハリスは書き残している。豊臣秀吉は豪奢なものを好んだというから、鎖国の250年で支配者の趣味が変わってしまったのだろう。儒教の影響かもしれない。質素と満足が同居していたのだ。ハリスはまた「富者も貧者もいない」といっているが、この言葉は現在の日米における社長と社員の年俸差を連想させる。アメリカでは王様と奴隷ほども差があるが、日本ではあまり差がない。美風といっていいだろう。

 イザベラ・バードのように「日本には東洋的壮麗などというものはない。あらゆるものが貧しく活気がない。都市は単調でみすぼらしい」と落胆する者もいたが、きっと「黄金の国ジパング」というイメージを抱いてやってきたからだろう。それでもバードは、悲惨をともなう真の貧国と、貧しくはあるが最低限度の満足は保障されている状態を区別していた。この件に関して、いつ来日したかによって日本観は変わるという渡辺の分析は興味深い。17世紀に来日した西洋人にとってはすばらしく見えた物が、19世紀中葉工業化の進んだ社会からやってきた西洋人にはみすぼらしく見えたのだろうと彼は言う。

●自分の悲しみで他人を悲しませない

 江戸時代、庶民の家屋はまったく開けっぴろげだった。《オールコックはいう。「すべての店の表は開けっ放しになっていて、なかが見え、うしろには必ず小さな庭があり、それに、家人たちは座ったまま働いたり、遊んだり、手でどんな仕事をしているかということ――朝食・昼寝・そのあとの行水・女の食事・はだかの子供たちの遊戯・男の商取り引きや手細工――などがなんでも見える」。》

 鍵をかける必要もなければ、宿の机の上に貴重品を置きっぱなしにしても盗られることがない。《モースは、日本に数ヵ月以上いた外国人はおどろきと残念さをもって、「自分の国で人道の名において道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人が生まれながらに持っている」ことに気づくと述べ、それが「恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」ことを強調する。》

 なぜ当時の日本人はこうも善良で上品だったのだろう。1889(明治22)年来日したイギリス人ジャーナリストのエドウィン・アーノルドはこう見ている。「日本には、礼節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。」「生きていることをあらゆる者にとってできるかぎり快いものたらしめようとする社会的合意、とりわけ自分の悲しみによって人を悲しませることをすまいとする習慣をも含意している。」だから騒々しく無作法だったり、すぐかっとなったり、ドアをばんとたたきつけたりふんぞり返って歩くひとは嫌われるのだと。

 それに対し《外国人観察者が日本人の清潔や礼儀正しさに感銘を受けたのは、日本をそのようなものとして外国人に見せかけようとした政府の術策に手もなく乗せられた結果だと言いたい》論者もいる。たしかに東京オリンピックのときも北京オリンピックのときも、事前にスラム街は取り払われた。しかし渡辺はそのような論者を歯牙にもかけない。《日本の庶民の善意・親切・礼譲が、当局から戒告されて表面だけ装われたものか、それとも彼らの本心からのものであるか、それを区別できないほど観察者は間抜けではなかっただろう。》

●たのしみに満ちた街頭

 かつて日本の街頭にはさまざまなたのしみがひしめきあっていたことが、モースら外国人の手によって記録されている。「長い袖を靡かせて、人力車の前を走り抜ける子供達。(中略)往来や、店さきや、乗っている人力車の上でさえも、子供に乳をやる女。ありとあらゆる種類の行商人、旅をする見せ物。魚、玩具、菓子等の固定式及び移動式の呼び売人、羅宇屋、靴直し、飾り立てた箱を持つ理髪人――これ等はそれぞれ異った呼び声を持っているが、中には名も知れぬ鳥の啼声みたいなものもある。笛を吹きながらさまよい歩く盲目の男女。」このあとに延々と種々雑多なひとびとの描写がつづく。これは繁華街に限ったことであって、当時日本の大部分を占めていた田舎の道路の話ではない。それにしても多彩でたのしそうだ。

 盲目の按摩は特に目をひいたようだ。アーノルドもまた「小さな葦の笛で、千鳥の鳴き声にいくらか似ているメランコリックな音を吹き鳴らす」按摩にふれている。「学理に従ったマッサージを行う者として、彼の職業は日本の目の見えぬ男女の大きな収入源となっている。そういうことがなければ、彼らは家族のお荷物になっていただろうが、日本ではちゃんと家族を養っており、お金を溜めて、本来の職業のほかに金貸しをやっている場合もしばしばだ。」当時の欧米には盲人に自立のみちがなかったからこそ目をひいたのではないだろうか。たしか江戸時代金貸しは盲人に限られていたはずだ。

 この多彩さは店に関してもおなじことで、「筆だけ売る店、墨だけ売る店、硯箱しか売らない店」というように職業が細分化されているとイザベラ・バードは記す。落語「文七元結い」の元結いとは髷の根元をしばるコヨリのことらしい。そんな物だけ扱って商売になるのかと長年疑問に思っていた。なるのだ。

 「大規模小売店舗」を見なれたわれわれにとっては信じがたい光景だが、細分化されていればこそひとりひとりがたつきを得られたのだろう。細分化された店主は《同時に熟達した職人であった。すなわち桶屋は自分が作った桶を売ったのである。商店は仕事場でもあった。(中略)すなわち通りは、社会的生産あるいは創造の展示場であった。》さらに渡辺の指摘で重要なのは、街の両側の店が間口をすべて開け放っていたという点だ。こんな街を散歩したらどれほどたのしいだろう。ドアをあけて狭い店のなかにはいるということができないわたしは、特に強くそう思う。

●男女平等であけっぴろげな性

 ピューリタンの国アメリカから来日したペリー艦隊一行は、庶民の男女が街頭でも半裸で過ごしているのを見て、なんとみだらな異教徒よと嘆いた。家の前で行水はするし、銭湯は混浴だし、春画も子供の目にふれるところに置いてある。これに対しスイス領事リンダウは、「自分の祖国において、自分がその中で育てられた社会的約束を何一つ犯していない個人を、恥知らず者呼ばわりすべきではなかろう。」と日本文化を擁護した。まったく文化の違いであってよけいなお世話なのだ(文化とは慣れのことだとわたしは考える)。

 「慎みを欠いているという非難はむしろ、それら裸体の光景を避けるかわりにしげしげと見に通って行き、野卑な視線で眺めては、これはみだらだ、叱責すべきだと恥知らずにも非難している外国人のほうに向けられるべきであると思う」という者もいた。モースは「たった一つ無作法なのは、外国人が彼らの裸体を見ようとする行為で、彼らはこれを憤り、そして面をそむける。」と書き記している。女性のアリス・ベーコンも、はじめは裸体を野蛮だと感じたものの、暑い季節や肉体労働をするときに裸になるのは当たり前のことであり、それより西洋の女性の服が腰から上の体型を露骨に示しているのを日本女性は恥ずかしく思っていると観察している。当時の日本人にとって肉体の露出は性的な誇示ではなかった。チェンバレンは、"The nude is seen in Japan, but is not looked at."とうまいことを言っている。中学の教科書に載せたい。

 しかし明治のはじめに政府は混浴禁止令や裸禁止令を出してしまう。欧化主義を採用したのだからやむをえない。同じころハワイの土人も宣教師たちによって洋服を着させられた。それが鹿鳴館ふうのモードだから笑ってしまう。当時ヨーロッパではやっていたスタイルなのだろう。

 「絵画、彫刻で示される猥褻な品物が、玩具としてどこの店にも堂々とかざられている。これらの品物を父は娘に、母は息子に、そして兄は妹に買ってゆく。十歳の子どもでもすでに、ヨーロッパでは老婦人がほとんど知らないような性愛のすべての秘密となじみになっている。」(プロシャの海軍将校ヴェルナー)春画は女子供もおおっぴらにながめる物だった。このあたりの信憑性は、『夜這いの民俗学』(赤松啓介、ちくま学芸文庫)や『現代語訳春画』(早川聞多、新人物往来社)と相補う。

 モンジャの店主は粉をこねて「解剖学教室以外では見ることのできない例の形」をつくってみせ、小田原の砂絵描きはエロティックな主題を描いて婦女子を欣喜雀躍させていた。多くの参拝者を集めた鶴岡八幡宮の「おまんこ様」という3尺ばかりの石はいまでもかざられているのだろうか。

 当時の日本人には性に対する禁忌意識がなかったという渡辺は、つづけてやはりヴェルナーの「親子が愛し合う光景は見たが、夫婦が愛し合う様子は一度も見たことがない」という記述をもとに《当時の日本人には、男女間の性的牽引を精神的な愛に昇華させる、キリスト教的な観念は知られていなかった。》とかたる。

 と同時に、それがどうしたと渡辺はひらきなおる。《当時の日本人にとって、男女とは相互に惚れ合うものだった。つまり両者の関係を規定するのは性的結合だった。むろん性的結合は相互の情愛を生み、家庭的義務を生じさせた。夫婦関係は家族的結合の基軸であるから、「言葉の高貴な意味における愛」(ヴェルナー)などという、いつまで永続可能かわからぬような観念にその保証を求めるわけにはいかなかった。(中略)性は男女の和合を保証するよきもの、ほがらかなものであり、従って羞じるには及ばないものだった。》

 公娼制度もまた異人たちの興味を引いた。「謹厳なスミス主教」はこう述べる。「顔立ちのよい女性は堕落した両親によって売られ、幼い頃から恥辱の生活にゆだねられる。奉公の期限が満ちると、日本の中流階級と結婚することも稀ではない。男たちはこういう施設から妻を選ぶことを恥とは思っていないのだ」。遊女屋は公認されたものであるから遊女は社会の軽蔑の対象にならない。遊女たちに寺詣りが認められているという事実は、売春が恥辱ではないと考えられていたことをしめす何よりの証拠だ。現代ですら「女性は不浄」としてはいることを禁止されている聖域というものが世界中にいくらでもあるのだ(『セックスウォッチング――男と女の自然史――』デズモンド・モリス著、羽田節子訳、小学館)。売春どころか女性という性そのものが不浄とされているのだ。

 そうだったのか、とわたしはひとつ思いあたる。明治の元勲が芸者などを妻にしたのは、薩長の田舎侍に娘をくれてやるような元旗本がいなかったからだろうと思っていたが、遊女を妻にすることは珍しいことではなかったのだ。そうとわかれば坪内逍遙が遊女をめとったのもなっとくがいく。まわりは反対したようだが。

 《徳川期の女性はたてまえとしては三従の教えや「女大学」などで縛られ、男に隷属する一面があったかもしれないが、現実は意外に自由で、男性に対しても平等かつ自主的であったようだ。》日本の女に忍従をしいるものとして大東亜戦争以後廃止された「家制度」も、男性本位のように見えて、じつは女性を主軸とする一種の幸福の保証システムではなかっただろうかと渡辺は思いきったことを言う。ものおじせず、のびやかで、亭主を尻に敷き、庶民の女は「なにをしゃあがるんでい」と男と同じことばをつかい、酒もタバコもたしなんだとさまざまな例をあげられると、そうかもしれないという気がしてくる。そういえば二葉亭四迷を読んでいたら、ごく若い娘が家でタバコを吸う場面が出てきて驚いたことがある。明治時代までつづいていたのだ。(つづく)