38(2012.3 掲載)

 『逝きし世の面影――日本近代素描T――(渡辺京二、葦書房)

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 (つづき)

   W 幕末の上流階級と下層階級

 

●キリスト教の人間至上主義におどろいた日本人

 渡辺は触れていないが、西洋人は富の収奪だけでなく、キリスト教の普及によって神の恩寵をこの未開野蛮な子羊たちのうえにもたらそうという決心も強くいだいていたにちがいない。キリスト教の布教は、富の収奪より成功したといっていいだろう。なにしろ日本の支配層は富の収奪には警戒感をいだいても、キリスト教文明への帰依はすすんでおこなったからだ。

 多くの外国人の目には、日本人の道徳はおおむね高水準にあるが、美徳は社会生活の次元にとどまるもので、より高次の精神的な志向とはまるで無縁のように見えた。《そのことをブスケはより直截に表現した。すなわち彼によれば、日本の社会にはすぐれてキリスト教的な要素である精神主義、「内面的で超人的な理想、彼岸への憧れおよび絶対的な美と幸福へのあの秘かな衝動」が欠けており、同じく芸術にも「霊感・高尚な憧れ・絶対への躍動」が欠けているのである。そのことと、日本語が「本質的に写実主義的であり、抽象的な言葉や一般的で形而上的な観念について全く貧困である」こととは、密接な関連があるとブスケは考えていた。》ブスケは1872年(明治5年)に来日したフランスの法律家。

 キリスト教が世界一だと思いこむのはどうかと思うが、日本語と日本人の精神の関係に関する観察は当を得たものだ。漢字が渡来したときもそうだった。日本にも「アメ」「クモ」「ハレ」「サムイ」「アツイ」などのことばはあったが、それらを統括する抽象語「天候」ということばはなかった。いまあげたことばのなかで「天候」だけが漢語であとはすべてやまとことばであることからもそれは明らかだ。漢字渡来以降、抽象的な概念はほとんど中国の単語にたより、明治以降は欧米の単語にたよらざるを得なかったのが、日本語の弱点だ。

 いまでこそキリストの誕生日には大騒ぎし(そのほとんどが大騒ぎするだけで心底祝っている者はまれだとしても)、現在の日本にキリスト教的な考え方はすっかり根付いたといっていいだろう。だが、最初はまったく相容れなかった。世界観が衝突した。人間観や動物観が衝突した。徳川期の日本人にとって《人間は獣よりたしかに上の存在だろうけれど、キリスト教的秩序観の場合のように、それと質的に断絶してはいなかった。草木国土悉皆成仏という言葉があらわすように、人間は鳥や獣と同じく生きとし生けるものの仲間だったのである。宣教師ブラウンは一八六三(文久三)年、彼を訪ねてきた日本人とともに漢訳の『創世記』を読んだが、その日本人は、人間は神の最高の目的たる被造物であるというくだりに来ると、「何としたことだ、人間が地上の木や動物、その他あらゆるものよりすぐれたものであるとは」と叫んだとのことである。/彼らは、人間を特別に崇高視したり尊重したりすることを知らなかった。つまり彼らにとって、"ヒューマニズム"はまだ発見されていなかった。》

 ヒューマニズムは「人間至上主義」のこと。わたしは『世界屠畜紀行』(内澤旬子、解放出版社)を論じたなかで、「キリスト教は無敵の食肉思想だ」と書いた。どこの宗教でも動物を屠って喰うことの後ろめたさをなんとか解消するいいわけを用意しなければならないのに、ひとりキリスト教だけは何のためらいもない。なぜなら神に似せて造られたのは人間だけ、すなわち意識・心といったものを持つのは人間だけで、あとはすべて神が人間に与えたもうた食料だからだ。

 江戸時代のひとは西洋人が牛の乳をしぼって飲むのにおどろいた。牛は家畜としてじゅうぶん働いているのに、そのうえ仔牛の食いものまで搾取するのかと。現在われわれはそのことをなんとも思わない。仔牛にも食いものは必要だから初乳はべつとして脱脂粉乳をあたえているのだが、それを珍妙だとも思わない。キリスト教文明に染まったからだ。わたしも人間が家畜を利用するのはべつに悪いことだとは思わないが、大丈夫だろうかと心配にはなる。ヒューマニズムを突き詰めると、草食獣の牛に肉骨粉をあたえて成長を促進しようというアイデアに疑問をいだかなくなるからだ。

 では徳川時代のひとびとは何を信仰していたのだろう。おもに仏教と神道だったのだろうが、じつは寺社に参るのは主に女子ども、それに乞食だけで、男はまず行かなかった。とくに武士はみな無神論者だった。《われわれはふつう、知識階級が仏教や神道というこの国の伝統的宗教から離れ、従って旧い信仰を保っている民衆から切り離されたのは、明治以来の近代化・世俗化の結果だと信じている。あに計らんや、それは徳川期以来の伝統であったのだ。》と渡辺はおどろく。

 しかし『戦場の精神史――武士道という幻影――』(佐伯真一、NHKブックス)で、江戸時代の支配階級は『理尽鈔』に代表されるような性悪説を心の奥深くにいだいていたことを知ったわたしはおどろかない。佐伯は書いていた。「孔子や釈迦でさえも、自分が尊敬されたいがために教えを説いたのである。そうした利己的な人間たちから成る社会を安定させ、繁栄させようと思えば、優れた為政者が種々の方便を用いつつ、人々をうまく導かねばならない。」と。仏神の罰などほんとうは存在しないが、愚かな民衆にそれを言ったら世の中が乱れるから言ってはいけないという思想だ。江戸時代の支配的思想は儒教であり、特に武士階級は戦国時代の非情の精神としての「武士道」を受け継いでいた。寺社詣でなどしたら武士が廃ったのだ。

●下層階級は強壮で上流階級は病弱

 工業化以前の労働者は、農民も職人も《働かねばならぬときは自主的に働き、油を売りたいときはこれまた自主的に油を売った》ものらしい。《近代工業の確立とともに軍隊的な労働規律として結晶するような、厳密に計測化された時間とひきかえの賃労働は、徳川期の日本にあってはいまだ知られざる観念だった。》

 1863(文久3)年、44歳で来日したスイス人エーメ・アンベールは、日本人の働きかたを見て自分の子ども時分の――ということは19世紀初頭のことか――スイス人とおなじだと思った。ひとびとは生活のできる範囲で働き生活を楽しむためにのみ生きていた。「労働それ自体が、もっとも純粋で激しい情熱をかき立てる楽しみとなっていた。」職人はその仕事にどれほどの時間を費やしたかなど気にせず満足のいく仕事ができるまで打ち込み、疲れがはなはだしくなると気ままに休息をとった。19世紀も半ばになるとヨーロッパ各国は工業化してしまうから、アンベールは工業化社会の欠点を知り、前近代のすがたをとどめる日本を見て、郷愁をかきたてられたにちがいない。

 ほとんどふんどし一丁の男が8人がかりでヨイトマケの杙を打つのに「時間の10分の9は歌をうたうことに費やす」さまを見てアメリカの生物学者E・S・モースは、その理由を「労働の辛さを、気持ちの良い音か拍子で軽めているのだろう」と解釈しているが、渡辺はこれこそが徳川期日本人の労働の特質であったと前近代と近代の労働観の差異に論をすすめる。《動作の長い合間に唄がうたわれるのは、むろん作業のリズムをつくり出す意味もあろうが、より本質的には、何のよろこびもない労役に転化しかねないものを、集団的な嬉戯を含みうる労働として労働する者の側に確保するためであった。つまり、唄とともに在る、近代的観念からすれば非能率極まりないこの労働の形態は、労働を賃金とひきかえに計量化された時間単位の労役たらしめることを拒み、それを精神的肉体的な生命の自己活動たらしめるために習慣化されたのだった。》

 いわゆる「経営側」がもっと効率的な形態に改善したいと思っても、それは不可能だった。《なぜなら、それはひとつの文明がうちたてた慣行であって、彼らとてそれを無視したり侵犯することは許されなかったからである。》労使双方がおなじ文化を共有していれば騒動も起こらないのだ。「逝きし世」はのどかだったと愛惜の思いを込めて渡辺は言うのだが、しかし労働のほとんどをうたうことに費やすと観察者によって指摘されている職種は、すべて協力を要する重労働であるところを見れば、渡辺の言い分よりモースの言い分のほうが的を射ていると思う。ひとりで働く職人は歌などうたわないのではないか。

 労働時間のほとんどを歌についやすのは、単に時代が牧歌的だったからではなく、労働そのものが苛酷だったからだろう。なにしろ動力は手足だけだ。だが、それゆえに肉体労働者はみなすばらしい体格と驚異的な体力の持ち主だった。来日した者でこれに気づかぬ者はなく、多くの絵や文が残されている。足が短いという相違点を除けばギリシャ彫刻のようだという賛辞を呈する観察者もいる。

 それにひきかえ彼らの主人は醜かった。《上層と下層とで、日本人の間にいちじるしい肉体上の相違があることは多くの観察者が気づくところだった。》概して下層階級は強壮で上流階級は病弱、という評価だ。たずさわる労働の種類によるのではないかとわたしは思う。また民衆の鼻はずんぐりして先が上向きでふくらんでいるのに対し、上流階級の鼻は「ローマ人的」、体も顔も異なるところから、「上層の日本人は外来の征服者にちがいない」とさえ言う者もいる。

 1820年から29年まで長崎の出島商館に勤務したフィッセルは、帰国後33歳で出版した著作の中で「将軍や大名は窮屈な儀礼に縛られ、自分の国土と家臣についてもよく知らず、実権は下級に移行していて、威厳は見せかけだけ」という辛辣な見かたを示し、またこうも述べている。「気取った態度をして、人との交際においてもいんぎんで高慢な役人と、体は強健で、いつも新鮮でゆったりした気分で積極的に仕事におもむき、そこから生れる利益を家族の懐の中で心から分け合っている町民たちとでは、その外観の上でもまた人格の点でも大きな差異が生ずる。」

●「専制国家」のはずが民衆は自由

 来日前に日本は将軍による専制国家で個人の自由はいっさいないと聞かされてきた外国人は、民衆が生活に満足しているのを見て奇異の感に打たれる。幕末に来日したイギリス人オリファントは、《「日本を支配している異常な制度について調査すればするほど、全体の組織を支えている大原則は、個人の自由の完全な廃止であるということが、いっそう明白になってくる」と言いながら、他方では「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である」と書かざるを得なかった。》これはひとりオリファントのいだいた疑問ではなく、多くの観察者に共通する疑問だった。

 なぜ民衆は自由だったのだろう。長崎海軍伝習所の教育隊長カッテンディーケの見解はこうだ。日本の下層階級が世界のどの国の下層階級よりも個人的自由を楽しんでいるのは、「上層民と関係がないから」だ。《上層民たる武士階層は「地位が高ければ高いほど、人目に触れずに閉じ籠ってしまい」、格式と慣習の「奴隷」となっている。「これに反して、町人は個人的自由を享有している。」》さらにカッテンディーケは「日本政府は民衆に対して、あまり権力を持っていない」とわれわれの常識からはほど遠いことを言い、その一例として、オランダの全権領事官が出島を拡張したいので堀割を埋め立てたいと申し出たさい、近所の住民が艀の溜まり場を失うと反対していることを理由に奉行が断ってきたというエピソードをあげている。奉行がなにかのつごうで断るために民衆を口実にしたのではないかという疑問が頭をもたげるが、《この時期の長崎奉行は、すべての欧米人がその開明性と温雅な態度を賞賛した岡部長常》だから信用できる話だと渡辺は考えている。

 幕吏は町民どうしが大規模な集団的抗争をしても手を出さない。これに対し渡辺が《この種の事件が事件たりうるのは、国家権力が、社会内のさまざまな共同団体の自治権を剥奪して近代統一国家権力として自立する以後なのである。近代以前の国家権力は、たとえ絶対王政段階に至っても、共同団体の自治にゆだねられた生活領域に立ち入って規制するような意志も実力ももたなかった。》と言うとき、わたしは『近代ヤクザ肯定論――山口組の90年――』(宮崎学、筑摩書房)のなかの一節を想起する。すなわち宮崎もまた、1970年代初期まで日本の下層社会にはヤクザが支配していて国家権力が立ち入れない領域があったと述べていた。「それはヤクザが地域共同体・職域共同体に根づいて社会的権力をつくりあげ、それによって国家権力の行使と対抗できているかぎりにおいてのことであった」という宮崎のことばは、渡辺のそれと同趣旨であると思う。

 ただ、日本の庶民の自由が《カッテンディーケの眼に、ヨーロッパでもその比を見出さぬほどの自由に見えたのは、当時のヨーロッパでは、そのような共同団体の自立ははるか以前に清算されて過去の遺物となっていたからである。》と、またしても近代化、工業化の罪科を持ち出すから、ちょっと飽きてきた。のどかで自由な楽園は世界中の「近代化以前」に遍在したのだろうか。

 来日した欧米人が西洋的な意味での「専制」や「身分」の先入観にとらわれていたのはたしかだ。1884(明治17)年、華族女学校の教師として27歳で来日したアメリカ人女性アリス・ベーコンは、日本の使用人と雇い主の関係がアメリカとまるで違うのにとまどう。欧米では使用人はご主人様の言うとおりに仕事をしなければならないのに対し、日本では「家庭内のあらゆる使用人は、自分の目に正しいと映ることを、自分が最善と思うやりかたで行う。」これはどうしたことだと彼女は悩む。その結果、封建時代の家臣は幾世代にもわたって主人に奉仕することに満足をおぼえてきたから、「多くの場合、使用人は自分の主人の人となりとその利害を、当人以上によく知っており、主人が無知であったり誤った情報を与えられている場合には、彼自身の知識にたよって事を運ばねばならない」からだろうと解釈している。当たっているのではないか。

 もうひとつ、ウーム時代劇とちがうなと驚いたことがある。「下におろう」と呼ばわりながら厳かに行進する大名行列だ。行列が通り過ぎるまで庶民は地べたにはいつくばって平身低頭していなければならず、その規則を犯した者は「無礼者!」と切り捨てられ、行列が通り過ぎたあとでひとびとは「ひでえことをしやがるぜ」とつぶやき、残された一人息子は泣きじゃくりながら行列を瞋恚に燃える眼で見送るから、ははあこの子が中村錦之助に成長して復讐を遂げるというのが大団円だなと観客は見当を付ける――われわれの観た時代劇はこんなところではなかったか。

 ところが実態はこうだ。《オイレンブルク使節団のベルクは悪名高い大名行列への平伏について、たしかに先触れは「下にいろ」と叫ぶが、実際の平伏シーンは一度も見なかったと言っている。というのは民衆が行列を避けるからで、彼の見るところでは彼らは「この権力者をさほど気にしていないのが常」であり「大部分の者は平然と仕事をしていた」。》ここを読んでおもわず爆笑してしまった。そりゃそうだ、なにも街道にいなければいいわけだ。《またスミス主教のいうところでは、尾張公の行列が神奈川宿を通過するのに二時間かかったが、民衆が跪いたのは尾張公本人とそれに続く四、五台の乗り物に対してだけで、それが通り過ぎたあとでは、「跪く必要から解除されたものとみなして、立ち上がって残りの行列を見ていた」とのことである。》

●会話の記録が少ない

 最後にひとこと。

 ことばが通じないのだからやむをえないが、外国人の幕末明治見聞記には日本人とのことばのやりとりの記録が少なく、その点にうらみが残る。わずかな例を拾ってみたい。

 幕末の庶民は、日本語以外の言語が存在することを知らなかった。《路傍の茶屋で出会った人々は、モースが日本語がわからぬということがわからぬらしく、いくら「ワカリマセン」と言っても、まるでこちらが馬鹿か聾人ででもあるようにまくし立て、最後にモースが「カンサス・ネブラスカ交譲に関する貴下の御意見はどうですか」と英語で言うと、やっと「不思議そうに私の顔を眺め、初めて事情が判って、ぶつぶついったり、大いに笑ったりする」のだった。》こまるなあこんなおもしろい話を引用されては。底本を読みたくなってしまうではないか。ただしこれとてもことばが通じなかったのだから、やりとりとはいいがたい。

 つぎは通訳がいたとおぼしき例。「小紫と権八の墓」というから目黒不動尊の比翼塚だろうか、明治のはじめごろそれを見物に行ったプラントと東京医学校教授の一行は、そこで病に効験があるという青銅の天狗像をさすっている老婆に会う。聞けば孫の足が悪いので天狗様に願をかけているという。《少年はこの縁で医学校付属病院で手術を受け完治するに至ったが、婆さんが礼を言いにきたとき、プラントが「天狗のところへ行くかわりに、すぐに医者へ行くほうがよくはなかったか」と問うと、彼女は「そうかも知れませんけれども、天狗さまにお詣りしませんでしたら、あなた様にもお目にかかれませんでしたろう」と答えた。「以来私は迷信打破の努力をやめることにした」とプラントは書いている。》

 このエピソードに対して渡辺は、《この老女は彼に、この世界を構成する複雑な連鎖の神秘を示唆したのだった。》とコメントしているが、そんなに力むほどのことだとは思えない。婆さんはプラントの顔をたてると同時に自分の信条もまげないという社交術にたけていたのだ。プラントは無知蒙昧だと見くだしていた老婆の機転におどろいたのだろう。

 それにしてもじつにおもしろい話だ。異人たちの記録は日本人の一挙手一投足まで見のがさないほど詳細なものだが、それでもやはりことばの通じない庶民に関する観察が多いせいで、会話の記録が少ない。もし会話が通じていれば彼らの日本滞在記はさらにおもしろいものになっていただろうと痛感させるのはつぎのような話だ。

 役人相手の会話だから当然通訳が付いていただろう。1811年(文化8年)、国後島でとらえられたロシア海軍の軍人ゴローヴニンは、帰国後『幽囚記』を出版、そのなかでも、プラントの記録と似たようなエピソードを残している。《ゴローヴニンは奉行荒尾但馬守の日頃からの好意に厚く感謝していた。荒尾と新奉行の交替に当って、彼は荒尾への感謝状を草したが、それを読んだ七十四歳の新奉行小笠原伊勢守は「不幸にも虜囚の身となったが、運命はわれわれに苛酷なばかりではなかった。何となれば(荒尾)奉行がこの地方を統治しているときにこの事件が起ったからである」という一節まで来ると笑い声をあげ、「他の日本の高官が荒尾但馬守の職についていたら、彼ほどその方どもに好意を持ってくれなかったとどうして分るかな」と問うた。これは頭のよい、そして良質なユーモアである。》老婆も老奉行も、相手の論理の弱点を見つけるのがうまい。ともに「良質なユーモア」が含まれているだけでなく、ちょっとヒニクも含まれていることに注目したい。