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 『絶対貧困――世界最貧民の目線――(石井光太、光文社、2009.3)

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●「どう捉えるかは人それぞれ」とはいうものの

 イギリス映画「スラムドッグ$ミリオネア」は、インドの最下層の少年を主人公にした深刻な娯楽映画だ。洗濯場ではたらいていた母親が暴徒の集団におそわれて死亡、主人公は孤児になってしまうのだが、なぜおそわれるのか説明はない。わたしは『世界屠畜紀行』(内澤旬子、解放出版社)でインドは9割がヒンドゥー教徒、1割がイスラム教徒であり、ヒンドゥー教徒の忌み嫌う屠畜のしごとはイスラム教徒がしているという知識を得ていたので、ははあこれは被差別民に対する虐待だなと見当がついた。

 さて主人公の少年がスモーキーマウンテンでゴミをあさっているところへ親切なおじさんがやってきてコーラをごちそうしてくれ、うちにおいでとさそう。マズイんじゃないのと思ってみていると、案の定この男は子どもたちをタコ部屋に入れて物乞いなどをさせるならず者だ。ここに厭な場面が出てくる。物乞いは孤児や障害者など悲惨であればあるほど実入りがいい。その両方ならなおさらいいというので、ある男の子の両目を劇薬でつぶすシーンだ。学校に行ったこともない少年が「クイズミリオネア」に出て全問正解するという映画だから、全体に痛快娯楽映画だが、このシーンは辛い。深刻な娯楽映画というゆえん。

 インドの物乞いビジネスは「すこぶる残酷」だと石井はいい、チェンナイという都市の例を報告する。犯罪組織はインド各地から赤子を誘拐してきて《レンタルチャイルドとして物乞いたちに一日あたり数十円から数百円で貸し与えるのです。》6歳ぐらいになると子どもたちに障害を負わせ物乞いをさせる。映画では目をつぶしていたが、ほかに唇・耳・鼻を切り落とす、顔にやけどを負わせる、手足を切断する、などのしうちをおこなう。もっとも実入りがいいのは顔のやけどと手足の切断だ(途上国には盲人が多いので目をつぶしてもさほど儲からないそうだ)。《火傷の場合は熱した油をかけます。手足の場合は、子供を押さえつけ、斧や鉈のようなもので一気に切断するのです。》

 本書には映画以上に悲惨な話がゾロゾロ出てくる。しかし本書において悲惨さは貧困の一部でしかない。テレビのように泣かせるのが目的ではない。障害・病気・けがをアピールして実入りをよくしようと考える物乞いには「これで稼げているので結果オーライ!」という意識もあると、石井は貧民の心中にまで分け入る。《私の知っている物乞いは車に撥ね飛ばされた時、「儲けもん!」みたいな感じで血だらけのまま道路に大の字になって大金を稼いでいました。何をどう捉えるかは、本当に人それぞれなのです。》

 それにしたって路上生活者の衛生状態の話は凄惨としかいいようがない。《かつてインドとケニアで路上生活者のお産に立ち会った時、産婆は汚れて真っ黒の手で血だらけの胎盤をかき出し、赤子を下水で洗っていました。/それからもう一度会いに行ったところ、赤ちゃんの耳からは大量の膿があふれ出していました。一緒にいた医者によれば「ばい菌が耳の中にまで達して中耳炎を起こしたのだろう」とのことでした。こんな状態ですから、生まれつき強い子以外は乳児のうちに何らかの感染症に罹って死んでしまうのです。》これはまたとりわけ辛い話だ。

●統計で捉えた貧困はおもしろくない

 石井は1977年生、日大芸術学部文芸学科卒。《通常、大学などで途上国の貧困を研究したいと思った時、国際関係学の一分野である国際開発論を勉強することになります。(中略)スラムの失業率や乳児死亡率を算出した上で、その数値を下げるにはどういう政策をとればいいか検討していきます。大きな視点で、最大公約数的に貧困問題をピックアップし、解決する政策を考案していくのです。》だが最大公約数だけでは貧民ひとりひとりの生活をとらえることができない。彼らが日常的に直面し、重要だと思っているのは、誰が赤子を貸してくれるのか、恋人とどこでセックスすればいいのかなど、もっと小さく細かいことだ。石井の造語「貧困学」は後者を指す。貧困学は体験に根ざしていると言えよう。《私は貧困問題を考える時、両方の視点をもつことが大切だと思っています。》

 石井はただのルポライターと見られるのがいやなのか、本書にもたくさんの図表を入れて学問的な雰囲気を出すようにつとめているが、最大公約数の話はたいくつで、体験談がおもしろい。たとえば世界人口67億のうち30億人は1日2ドル以下の生活をおくる。そのうち12億人は1日1ドル以下であり、彼らの置かれた状況を「絶対貧困」と呼ぶという。でもちょっと待てよ、おおむかしの狩猟採集時代のひとびとは1日0ドルだったはずだ。それも貧困にはいるのだろうか。狩猟採集時代は週に3日ぐらい、それも短時間食いものを取りにいくだけだったと、NHKの「サイエンスZERO」でその道の学者が言っていた。現代人よりずっと楽な生活を送っていたのだ。

 それに《スラムに暮らすのは、その国や地域で差別を受けている人たちが多いのです。「差別→生活が困難→都市へ出る→職に就けない→スラムに暮らす」というケースが少なくありません。》といった貧困の原因分析にはなんの異論もないのだが、おもしろくはない。石井の本領は体験談で発揮される。

 「夜の花売り」のようにおそらく体験に根ざしているのであろう話は、社会学的ではあっても興味深い。夜の歓楽街で小さな子が花束をかかえて「お花を買ってください」と寄ってきたら、ついほだされて買ってしまうだろう。なにしろ自分はいまから女を買いにいくのだ。この花売りのシステムがおもしろい。花束をつくるオバちゃん、花を売る子ども、客に花を買わせる売春婦と、3者の連係プレーになっている。《@オバちゃんは花束をつくって近所の子供に三十円で渡します。/A子供はナイトクラブや売春宿へ行ってそれを売り歩きます。売春婦は男性客に「ねえ、花束買ってよぅ」と甘えます。悲しいかな、発情している客はその甘えた声に負けて言い値の六十円で買ってあげます。/B子供は商売に協力してくれた売春婦のお姉ちゃんに十円を手数料として渡します。/C売春婦は客が帰った後、もらった花束をオバちゃんの所へもっていって十円で引き取ってもらう。》これで3者とも20円ずつもうかる。とりあえずは平等だ。

 「なかなかうまくできている」と石井はいう。しかしミカジメ料を取る地回りはいないのだろうか。子どもが花を仕入れる金はだれかが出さなければならない。あるいは客はこのシステムをわきまえた上でこれも買春代の一部ととらえているのではないか、というような疑問も湧いてくる。そこを追究していないのは石井の落ち度だといいたいのではない。そういった空想の余地を残しておいてくれると、本を読むたのしみが増す。

●精液をくわえたアリにおそわれ妊娠!?

 ひとがセックスの話に興味をいだくのは、それが命の本源にかかわることだからだ。それほど重大なことなのに、なぜセックスの話というと笑いがついてまわるのだろう。

 石井は例によって路上生活者を@路上永住者、A出稼ぎ路上生活者、B居候の路上生活者、C外国人の路上生活者の4種類に分類する。こんな分類はどうということもないが、インドで夫婦者の路上生活者と夜寝ているとき妻のほうから迫られてひどい目にあったというサンザンな体験談には同情しながらも笑ってしまう。《ある晩、路上生活者たちと道路に横になって眠っていたところ、なにやら股間の辺りがモゾモゾします。目を覚まして見てみると、お世話になっていたオバサンが私の股間に顔をうずめているのです。》ご主人に見つかったら殺されますと必死に抵抗したところ、オバサンはすっくと立ち上がって怒鳴った。「この変な日本人が襲ってきた!」目をさました夫にぶん殴られ「二度と来るな、この変態日本人」と罵られて追放されたのだそうだ。《いやはや、どこの国でも、プライドを傷つけられたオバサンほど怖いものはありません。》というのが石井の結論。

 部屋にあるのはベッド1台と股間を洗うおけのみ――というアジアの庶民むけ売春宿の1室に住み込んで取材したとき、いちばんつらかったのはアリだそうだ。《売春婦も客も使い終わったコンドームやティッシュをそこらへんに投げ捨てるのですが、蟻が乾いた精液を食べに集まってくるのです。そのため、部屋で寝ていると客の乾いた精液をくわえた蟻の大群が私の体によじのぼってきて、股や耳や鼻に入り込んでくるのです。たまったものじゃありませんよね。オチオチ眠っていたら、男の私まで妊娠してしまいそうです。》と笑わせる。

 そうかとおもえばせつない恋の話もつづられている。タイのバンコクで宝くじを売る車椅子の女性を取材、これがとびきりの美人で仲良くなったのだが、ことばの壁があって口説けない。《ところがある日、彼女の方からアパートに来ないかと言われたのです。夜の十時過ぎにアパートに行き、二人でとりとめのない話をしていました。彼女が宝くじを売ったお金でコンサートに行きたいと言っていたので、その話で盛り上がった記憶があります。/その時、急に私たちの間に会話がなくなりました。気がつくと、私は彼女の洋服を脱がせて抱いていました。しかし、障害のある女性を抱くのは初めてです。たぶん、私の中の何かが邪魔をしたのでしょう。どうしても私の男の部分が反応してくれませんでした。》彼女は一晩中「気にしなくていいよ」と慰めてくれるのだが、《健常者である私と、障害者である彼女の間に深い溝のようなものを感じ取り、どうしようもなさに打ちひしがれ、彼女から逃げるように遠ざかってしまったのです。》

 いまでもタイで宝くじ売りの女性を見かけると彼女の姿をさがしてしまうと美しくしめくくるのだが、「気がつくと云々」はあまりにも紋切り型な表現。夜アパートにおいでと美人に誘われれば男ははなからその気で向かう。勃起しなかったのは「深い溝」が原因といっているが、これもどうかな。顔と体のギャップにおどろいたのではないか。それにしても一晩中慰めてくれるなんていいコじゃないか、再チャレンジしろよ石井。

●取材できたえられた貧困観

 イスラム教を国教とする国ではポルノがきびしく取り締まられているが、少数派のキリスト教徒はおかまいなしなので、アダルトビデオ屋はキリスト教徒が経営している。ムスリムは欲求不満になるとスラム街にあるその手の店へ行く。ビデオ(DVD)には2種類あり、ひとつはネットから盗った海賊版、もひとつは売春婦をつかった国産オリジナルなのだが、国産のひどいことひどいこと。《私もそのDVDを何枚か買ってみたことがあるのですが、バングラデシュのそれなんて、女性が裸になって横たわりながらポテトチップスをかじり、その上に男性が乗って一人で喘いでいるのです。》女優もやる気がなければ、男性の顔のアップもうざいし、カメラマンもやる気ゼロといった感じなのだそうだ。

 以上の文章につづけて、《ただこうして見てみると、都市の中で町とスラムがそれぞれの役割をもってうまい具合に絡み合っていることがおわかりでしょう。まぁ、聖と俗が交じり合った社会こそが、本来もっとも「健全な都市」の姿ですからね。》とあるのは凡庸でない。さすがに最底辺層に体当たり取材をかさねてきただけのことはある。テレビ番組のように上っ面だけ舐めておしまいということがない。

 上っ面だけといえば、われわれ日本人はフィリピン人ホステスを見れば《「フィリピーナはがめつい。何かあればすぐにお金を要求してくる」なんてたわけたことを言っています。しかし彼女たちは親族全員の生活を背負って出稼ぎに来ているわけで、取れるところから徹底的に取らなければならないのです。フィリピンパブに通う男とは背負っているモノが違うのです。》ところがそうやって日本で10年売春をして家が10軒建つほどの大金を家族に仕送りしても、親族がよってたかってむしり取ってしまい、帰国してみたら家族は10年前よりもっと貧乏になっていたなんてこともあるのだそうだ。まあ親族も取れるところから取らなければ生きてゆけないのだろう。

 みんな生きるのに精一杯だ。これもインドのスラム街にある売春宿の話。生まれた赤ん坊はみんなで世話をする。子どもは夜ベッドメイクなどの手伝いをするのだが昼間は学校へ行く。驚くべきはその就学率の高さで、スラム全体の就学率は2〜3割なのに売春宿の子どもだけ100%なのだ。

 ある日石井が「子どもに売春の手伝いをさせるのは教育上良くないのではないか」とたずねたところ、女性はひどく怒ってこう答えたそうだ。娘を絶対に売春婦にさせたくない。売春の仕事でかせぐのは子どもにご飯を食べさせ学校に通わせるため。「たぶん、娘が大きくなれば、売春婦であるわたしを軽蔑すると思うわ。けどそうなってくれれば、彼女が売春婦になることはなくなるはずだわ。そうやってしっかりした人間になってくれればいいのよ」

6年後同じ場所をたずねたところ、その娘は美しい高校生になりペラペラの英語で石井を迎えたという。スラムの子の多くは初等教育すら満足に受けていないというのに、売春宿の子だけは高等教育まで受け、しかも売春業から離脱できる。《私はこの時以来、売春宿に暮らす子供たちを一方的に「かわいそう」だと考えるのは失礼に当たるのではないかと思うようになりました。そもそも第三者が「かわいそう」「悲惨」という考え方を押し付けたところで何の意味もなさないのです。少なくとも、彼らに会ってからそう考えるようになりました。》

 これほどかしこい売春婦集団というのはまれな事例だろう。すべての売春宿がこういう思想で経営されていれば、この世から売春婦は消えているはずだ。だが上記の2件、健全都市、フィリピーナに対する態度と合わせて、さすがに場数を踏んだルポライターの鍛錬ぶりを感じさせる意見だ。

 とにかく生き残るためなら何でもするのが生命本来の姿なのだということを本書を読むと思い知らされる。それにしてもなぜ世界はこうも極貧にあふれているのだろう。狩猟採集時代は生きるのが楽だったのに、人口がふえすぎたために農業を編み出さざるを得なくなったと、やはり「サイエンスZERO」でいっていた。ヒトは発情期をなくし、つまり一年中発情することによって並はずれた繁殖力を獲得したと動物行動学はいう。偏在する富を平等に均せたとしても、もはや人口は地球の包容力を越えているにちがいない。

 ◆S氏(60代男性) 今月のはケッサクですね。面白かった。
大兄の文章にも感心。還暦過ぎても腕は上がるのだと思うと、
老齢の同輩としてもちょっと嬉しい。