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 『座右の名文――ぼくの好きな十人の文章家――(高島俊男、文春新書、2007.5)

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 新井白石・本居宣長・森鴎外・内藤湖南・夏目漱石・幸田露伴・津田左右吉・柳田國男・寺田寅彦・斎藤茂吉の10人が取りあげられている。《上にあげた十人はみな学者である。いつの時代でも、学問の根底のある人の書いたものはおもしろい。よほどの天才は別にして、学問のない者の文章は底が浅くてあきがくる。》学者の文章がおもしろいのは文章を書きはじめる以前に相当長期の研鑽をつんでいるからだろうと分析している。

 そういえば永井荷風も、ちかごろ若い女性が原稿を送りつけてくるが、小説を書きたいなら一葉をすべて暗記してからにせよと『断腸邸日乗』のなかでいっていた。峻厳な態度が好もしい。耳が痛いけど。

●自信満々新井白石

 《徳川幕府は鎖国政策のなか、唯一朝鮮とは儀礼的な国交をたもっていた。》と高島は意外なことをいう。キリスト教の布教をしない中国・オランダとは貿易をつづけたと学校では習ったものだが。商売はしても、正式な国交となると李氏朝鮮一国だったのだろうか。

 「朝鮮通信使」のことを日本側は「朝貢使節団」ととらえていたが、どこの政府も自国民にはつごうのいい情報しか流さない。じつは学問のレベルは朝鮮のほうが上だった(ここでいう学問は支那の古典のこと)。《通信使が江戸へやってくると、日本の学者が宿舎にあつまって、学問に関することをいろいろと質問し、おしえてもらうのがならわしであった。だから学問では朝鮮のほうが上である、というのは日本と朝鮮の常識だった。》

 6代将軍家宣のとき外交職に就いた新井白石は、負けてはならじとハッタリをかました。《朝鮮通信使は役人の団体だが、単なる役人ではない。全員がみな学者である。しかもそのトップ、正使や副使といった地位の高い人は、朝鮮有数の学者である。》白石は通信使の受入れ窓口だった対馬藩に前もって自作の漢詩集を送っておく。はたせるかな対馬に到着した通信使一行は、日本にもこんなに支那学に精通した人物がいたのかとおどろく。さらに江戸に着いてあらわれた接待役が、「あの詩集の作者はわたしです」というからまたまたビックリ、初対面で白石に敬意をいだいてしまう、とこういう寸法。

 むかしもいまも外交の世界はミエのはりあいだ。日本の在外公館が高級ワインを大量に買いこむのも理由がないわけではない。白石は朝鮮通信使の接待費を大幅にけずったそうだから、なめられちゃいけないとその分を文化力でうめあわせようとしたのかもしれない。

●津田左右吉に共感した高島少年

 津田左右吉、1873〜1961。最下級の武士の家に生まれる。欧米語で授業をおこなう東大に入れなかったため、早稲田に入る。まだ学制がととのっていなかったこともあり、ほとんど独学で日本と支那について学んだ。だがかえってそれがさいわいし、正規の教育(欧米教育)を受けた者には持てない視点を持てた。明治維新とは何だったのかという研究からどんどんさかのぼり、江戸時代から古代、神代、さらには支那思想まで研究して40代で『文学に現はれたる我が国民思想の研究』を書いた。タイトルだけ聞いたのではとてもじゃないが読む気になれないが、高島の紹介文を読むと、読まずに死ねないと思う(……とかいって、調べたら岩波文庫で全8巻もある。前言撤回)。

 津田によれば、奈良時代に仏像が渡来したとき日本人は度肝を抜かれた。頭がいくつもあったり腕が何本もはえていたり、「さうして又た全身の金色、何から何まで異国のものである。異国のものといふよりも人間界を離れた怪物であつて、どこか知られぬ幽冥界から人の世を嚇かしに出て来たものである。」さらにあんなものは仏教芸術の歴史からいえばすでに退化したものをコピーしただけで、芸術品としては価値の高くないものだと断じている。

 高島は中学校の修学旅行で奈良に行き、これが日本の誇りと仏像を見せられたとき「気味が悪い」と感じたのに、《だれもが「仏教藝術の荘厳」だの「静謐な祈りのかたち」だのと持ちあげる。でも、「あんなものは怪物さ」と言う人はなかった。だから津田左右吉を読んで、「ああ、この人は本当のことを言う人だ」と思ったわけです。》

 (仏像は奇形児を崇拝するインドで生まれたものだ。蛭子を忌み嫌って川に流す日本の文化には合わなかったのだろう。捨てるより崇拝するほうが文化としてはましだと思うが。最近えらく興福寺の阿修羅像がもてはやされるようになったのは、米軍の枯れ葉剤で生まれた奇形児をテレビで見なれたからではないか。)

●フェノロサの真意

 慶応4年の神仏分離令により、寺院や仏像はまったく価値のないものとして廃仏毀釈の憂き目を見た。奈良の興福寺の五重塔なんぞ焚き付けの材料として売られることになった。ところが明治11年に来日したアメリカ人フェノロサが「これはすばらしい芸術だ」と言ったものだから、「なんだかだいじなものらしいよ」と評価が変わり命拾いしたのだそうだ。

 フェノロサによって日本美術が再認識されるようになった。――と、ここまでは学校で習ったから知っている。わたしが蒙を啓かれたのは、欧米人のいだいた「オリエント趣味」についてだ。《西洋人が価値を認めた、とはどういうことか。/西洋人は、自分たちの文明、つまりギリシア・ローマの文明およびキリスト教文明に最高の価値をみとめる。これはびくともしない真実であり、わざわざ言うもおろかな、あたりまえのことである。だから、このすばらしい文明を世界にひろげよう、とどこへでも出ばってゆく。この大前提のうえで、未開の地のめずらしいもののなかにもおもしろいものがある、というのがオリエント趣味なんだな。(中略)東洋(オリエント)趣味とはこういった目で見て「こらなかなかおもろいやないか」程度のことであり、それが彼らのヨーロッパ文明に比肩するものであるなんて毫も考えてはいない。当然、日本の仏像や浮世絵もこのようなうけとられかたをした。しかし、西洋人がみとめてくれたんだから、これはもうりっぱに価値が保証された、と明治の日本人は考えた。それで、たきぎにでもするかと言っていたものを急にだいじにするようになる。》

 漢字が入って以来日本人は価値の基準を中国に置いてきた。明治以降は西洋崇拝。さらに太平洋戦争に負けてからはアメリカ一辺倒になった。ところが津田左右吉はそういうものからまったく自由なひとで、すべて自分の目と頭で判断する。高島は『お言葉ですが…』(文藝春秋)以来、多くの日本人の蒙を啓いてきた。わたしも蒙を啓かれたひとりだ。先入観や常識を破壊されるのが小気味いい。津田左右吉の支那に対する態度はまったく先入観を排したもので、要するに尊敬の念などなく純然たる研究対象なのだ。高島の支那学は津田の影響を受けたものと思われる。

●日本語の表記法はヤッカイ

 高島は文章にもきびしいが、片言隻句の表記すらゆるがせにしない。中国文学の専門家なのに、いや、であればこそ「中国」ということばを他国人がつかうのはおかしいと主張するほどことばにきびしい。「中国」というのは「世界一の国」という意味であり、《他国のひとが「中国」と使えば、そのことをみとめて、自分たちは"はしっこ"のほうにいる文化の低い、いやしい人間で、そちらさまこそが中心でございますという気持をあらわすことになる。》からだという。それで高島は「支那」と呼ぶのだ。中国人も自国のことは中国と呼ばないそうだ。じゃあ誰が呼んでいるんだろう。

 本居宣長が語源について述べた『玉勝間』の一節「大かた言(コト)の本(モト)の意(ココロ)は、しりがたきわざにて、われ考へえたりと思ふも、あたれりやあらずや、さだめがたく、多くはあたりがたきわざ也」を高島はこう訳す。《だいたい、語源というのは、わからないものなんだよ。さあわかったぞ、と思っても、さてそれがあたっているものやら、あたっていないものやら判断のしようがない。まあたいがいは、あたっていないものさ》ふたりともひらがなが多いことに気づく。宣長も高島も漢文に通じると同時に美しい日本語を心がけていればこそだろう。

 あとがきに《たとえばぼくは「扱」「込」「付」(つく、つける)などの字を使わない。見ただけで腹が立つ。かなで書けば十分だしそのほうがうつくしいからである。》とあるのを見て、あわてて拙文中の「込」をかなになおした。わたしはかねてから高島に日本語の表記法に関する本を一冊書いてほしいと願っている。わたしが知らないだけですでに出版されているのだろうか。

 パソコンの「かな漢字変換機能」は便利なものだが、もともとかなを漢字にする機能だからなんでもかんでも漢字にしたがる。かく言うわたしも手書きのころは「このことばはどういう表記にしたものか」と悩んだものだが、いまはほとんどパソコンまかせにしてしまう。

 あるひとが「なかなか」という字はにんべんがついた仲仲ですよねというから、『広辞苑』には中々とあるけどどっちでもいいんじゃないでしょうかとこたえたら釈然としない顔をした。どうやらすべての日本語はそれに当てはまる漢字表記があると思いこんでいるようだ。「なかなか」に「中」の意味は希薄で、「なかなかの美人」といったら「中程度の美人」という意味ではなく「予想以上の美人」という意味だ。もともと日本語なのだからわざわざ漢字を使わずひらがなで書けばいいのだ。

 なかにはわざわざ辞書を引いてしらべたのだろう、「わざわざ」を「態態」と書くひともいるものなあ。そんなことをしたら文面がまっ黒になってしまう。逆に「語い」「苦もん」などの漢語にひらがなをまぜる交ぜ書きは見苦しい。

 わたしは「やまとことばはひらがなで、漢語は漢字で」というのを原則にしている。ただしやまとことばでも小学校で習う程度のものはもう日本語とみなして漢字も使う。そうでないと分かち書きをしない日本語は読みにくくなる。英語が分かち書きをするのも、あれは「ひらがな」しかないからだ。では日本語も分かち書きをして全部ひらがなにしてしまえばいいかというと、すでに漢語が入り込んでいるからそうはいかない。「わたしは ごいが すくなくて くもんしている」という文章を理解するにはすでに語彙や苦悶を知らなければならない。

 日本語はやっかいだ。――と、ここで厄介という漢字を使わないのは、これが漢語ではなく日本語だからだ。音読みだから漢語とはかぎらない。アヤシイナと思ったら電子版『字通』(白川靜、平凡社)を見ることにしている。『字通』にないものは漢語とみなさない。このての漢語もどきはたくさんありすぎて、すぐには例が思いつかないが、高島が《二年ちかくはしんぼうして》と書き、辛抱を使わないのは、それが漢語ではないからだろう。

 たのむから遺言がわりに『漢語もどき』という辞書ふうのものを一冊書いてほしい。できれば電子版でおねがいしたい。紙の辞書はわたしには使えない。