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 『木馬と石牛』(金関丈夫、法政大学出版局、1982.3)

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●途方もない学問

 人類学というものは人事百般なんでも研究し尽くさずにはおかないものなのだなあと驚嘆する。とうていわたしの手には負えない。中からほんの数篇を取り上げるにとどめたい。

   「やまとたける」というエッセーの冒頭は、彼が双子の兄を厠で待ち伏せしてぶち殺してしまう場面からはじまる。そんな話も知らなかったが、日本書紀を読んだひとでも、知っているのはせいぜいそこ止まりだろう。金関丈夫(カナセキタケオ1897〜1983)は双子は忌み嫌われ片方は始末されたのだという話から、それは東南アジアには広くおこなわれている風習だからそちらから伝わった神話だろうと話を展開し、やまとたけるが父から遺棄される説話がいかにエディプス説話と似通っているかという詳細にいたる。われわれが日本独特の神話だと思っているものが、じつはギリシャ方面から渡来したものだと人類学者は知っているのだ。途方もなく視野が広いわけだ。本書はその手の話に充ち満ちている。学者とシロウトのなんという乖離。

 ついでに目をひくのは、チチの兄弟はみなチチ、ハハの姉妹はみなハハであったと述べたあと、《今も成年に達した男子には、母方のオバからフンドシを贈っていわゆるフンドシ祝いをする。おそらく母方のオバ(すなわちハハ)なるものが、オイを男にしてやった遺風があったであろう。》とあることで、ここのところは『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』(赤松啓介、ちくま学芸文庫)を読んでいなければうまく把握できない。

 “今も”というのはいつのことか。「やまとたける」の発表は1966年「解釈と鑑賞」(至文堂)だから、このころまだフンドシ祝いは常識だったことが分かる。ただ、「遺風があったであろう」という言いまわしは時制が腑に落ちない。「風習」なら分かる。遺風というからには、「今も残る」と結ばなければ文が落ち着かないのではないか。あるいは、しばらく前までは交合という遺風が残っていたが、いまは形骸化してフンドシを贈るだけだという意味か。

●「正直の人宝を得る事」

  『沙石集』(鎌倉時代の仏教説話集)に宋朝のこととして(要するに昔々あるところにという意味だろう)紹介されている話。貧しいけれども正直な夫婦が「銀の軟挺」が6本はいった袋を拾う。落としたひとはさぞ困っているだろうと主をさがしていると、落とし主と称する者が現れ、お礼に3本あげましょうとはじめは言うのだが、惜しくなって「もともと7本あった。1本かくしただろう」と態度を豹変、ナンクセをつけはじめる。いまでもありそうな普遍的な災難だから、読んでいて話のゆくえが俄然気になる。

 裁判官はいかなる判決を下したか。「正直だから落とし主をさがしたのであって、ネコババするつもりなら6本ともかくしただろう」なるほどなあと安堵するが、話はここで終わらない。裁判官ことばを足して、「今主となのるもの七つありけるを落したらば、さては此軟挺にはあらざりけり。七つあらんを求めて取るべし。是は別の軟挺なりけりとて、六つながら夫婦にたびけり。」たぶは賜る。『沙石集』は「宋朝の人、いみじき成敗とぞほめののしりける。」と結んでいる。スカッとするなあこの話。涙出そう。

 わたしなどはこれを読んで「大岡越前」の脚本家に教えてやったら喜ぶだろうなあという程度のことしか考えないが、金関はまた、この話はいつの時代のこの文献にも出ていて、さらにさかのぼるとこの文献にも出ていてどこがどうちがうと博捜に博捜をかさねていくから、興味深いけれどもくたびれる。

 博捜といえば南方熊楠も頻繁に登場する。たとえば「ごましお頭」というエッセーには《同じくアイソーポス(岩波文庫本、八六段)の兄弟喧嘩をする息子たちを、薪の束を折らせて教訓する百姓の話は、日本では毛利元就(モウリモトナリ)などの話として伝えられている他に、世界いたるところに同趣の説話が存するが、これがやはり、『賢愚経』や『雑宝蔵経』のごときインドの教典に、一糸をもって大象をつなぐことは不可能だが、これを合せば可能たりとて、不和なる息子兄弟を戒めた話として載っていることは、南方熊楠翁の夙(ツト)に紹介せられたところである(全集、巻四)。》南方熊楠並み、いや熊楠全集など当然読破していてさらに後代の研究、おのれの調査・知見を加えていくのだから、そしてそうしなければ学問する意味がないのだから、切りがないではないか。いやはや学問というものは底なしでおそろしい。

●「榻(シヂ)のはしがき」

  榻(木偏に日に羽)なんて、まるで見たこともないような漢字だ。『字通』でしらべると「ベッド式の腰かけ」とある。ところが読みはじめるといきなりオナニーの話がはじまる。これがまたこまかい。  《平安初期の「神楽歌」に葦原の蟹が腕を上下する姿をひやかして、汝もまた嫁がないので、腕を上げたり、下ろしたりして「肱挙(カヒナゲ)」をするのか、といっている。西郷信綱氏はこのカヒナゲをオナニーと見ているが、そのとおりで、これは日本語としては一ばん古い。》理解できないのはつぎに『宇治拾遺物語』(13世紀はじめ)に出てくる「かはつるみ」がわが国文の初出であると言っていることだ。平安初期といえば9世紀ぐらいを指すのであろうから、これではどちらがより古いのか分からない。まあたぶんわたしの読み違いだろう。

 センズリはもとセズリであり、さらにさかのぼればセツリ。九州地方のキリシタン文学である『懺悔録』(1632年、ローマ刊)には「そのをなご事をば、思ひいだすたび毎に、いさみ喜び、そのなごりをしさで、をのづからも淫が漏れ、手づからも、洩らしました。」という告白がある。このころにはすでに「センズリ」とよばれており、『日萄辞典』(慶長8年、長崎板)には「Xenzuri、自淫、自らもらすこと」の記載がある。

 天明6年(1786)の俚諺辞典には(書名も著者名もめんどうだから省略する)、「一夢二千三肛四開」とあって、これはいちばんイイのは艶夢でつぎはセンズリという意味だから、これこのとおり天明のころにはセンズリという語がおこなわれていた証だとごていねいな記述あり。女性器が最下位というのは当時の女性蔑視をあらわしているのか、それとも通ぶっているだけか。そういえば思い出した。本篇には女性のオナニーに関する記述が1行も出てこない。人類学いまだし(笑)。

 寛永7年(1630)刊の本に「手篇」とあるのは、江戸時代センズリの当て字として「手偏に上下」が使われたからだという(パソコンでは出てこない)。版木の時代はどんな文字でも表記できたし、写本ならもっと自由だ。時代はどんどん便利になっていくように見えてそうでもないのだ。五人組、きせはぎ、あてがきなどともいう。中国語では「放手銃」「指頭児」「指頭弾」など。

 で、結局「榻(シヂ)のはしがき」というタイトルは、謡曲「卒塔婆小町」(観阿弥、14世紀)のなかの「暁の榻のはしがき百夜までと通ひ往(イ)て、九十九夜になりたり」という文句から取ったと知れる。《榻は車のながえをのせ、あるいは昇降のさいのふみ台にする、小さい床几(ショウギ)様のものである。》踏み台の意味だったのだ。深草の少将が小町(9世紀ごろ)に百夜の訪問を約束し、夜ごとの訪問の数を備忘のために車の榻に書きつけたことをいうとのこと。思うに、榻の端に書いたことと榻の端でカイタことを掛けたのだろう。学者はダジャレもむつかしい。

 「弁慶と小町は馬鹿だなあかかあ」という古川柳や、小町が少将をこばんだのはじつは穴がなかったからで、そこから穴のない針を小町針、転じてマチバリと呼ぶようになったのだと、これはわたしが子どものころエロ本から仕入れたネタであって、学者の文章のあいだにはさむような話ではない。じゃあ書くなよ(笑)。

 金関の本領はここから発揮される。この句は観阿弥の独創ではなく、これより以前にこんな歌があると、『千載集』(12世紀)の「おもひきや榻のはしがきかきつめて百夜もおなじまろ寝せむとは」以下8首をならべる。丸寝はひもを解かずに寝ること。

 で、もういいかなと油断していると、じつは『古今集』(10世紀)にこんな歌があってと、延々つづく。さらには言うにことかいて《ずいぶんとはしがきが長くなって、まだオナニーに行きつかないが、このようなことは他に発表するほどのことでもなく、その機会も乏しいと思うから、ついでにいま少し、ながえを榻にうちかけて、牛に道草を食わせることにしたいと思う。》ここまでまだ「はしがき」だったとは! もうおわりおわり!

 ◆S氏(60代男性) 『木馬と石牛』には、大兄の簡単な抜粋だけで辟易するほど
あきれました。法政大学出版局というのは、けっこう面白い
本を出すところで、高校時代の恩師の奥さんも先年そこから
人形劇の本を刊行し(その原稿の下読み、事前校閲みたいな
ボランティア協力をした)、割合評判がよかった。もちろん
そんなに売れる本ではないのだけれど、その本を編集部に出
版依頼する経緯などをお聞きして、予算獲得や出版企画の決
定が割合ラフなことを知りました。ある意味、親方日の丸の
版元なのね。