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 『パンとペン――社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い――』(黒岩比佐子、講談社、2010.10)

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   タイトルにやられた。堺利彦については何も知らないが、このタイトルとサブタイトルを見たら買わずにはいられない。  著者の黒岩はおのれの癌を知り、これが絶筆と思い定め、命がけで堺利彦の評伝の決定版をめざした。  2010年10月の発行を見届けるように翌月死去。

●敗者の反骨

 堺は明治3年福岡の貧乏士族の生まれ。福岡の士族は佐幕色が強く秋月の乱などを起こしている。 《明治のジャーナリズム、文壇、出版、宗教などの分野で活躍した人々は、藩閥や軍閥のヒエラルキーから排除された 「佐幕派」「敗け派」の諸藩の子弟が多かった。(中略)反権力の姿勢と反骨精神。 世の主流から外れて生き、悪名を着せられても甘んじて受けつつ、平然とそれを笑い飛ばす芯の強さ――。 おもえば「売文社」という命名自体が、まさに「佐幕派」にふさわしいものだ、といえるのではなかろうか。 「敗者の視点」と「反権力」は、堺が自分の生きるべき道を模索する以前から、運命づけられたものだったのかもしれない。》

 平岡正明も『快楽亭ブラックの毒落語』(彩流社)のなかで同趣旨のことを指摘していた。 すなわち《時代劇と落語は佐幕派文藝なのである。明治ジャーナリズムは福地源一郎、成島柳北、栗本鋤雲ら、 二君に仕えることをいさぎよしとしなかった旧幕臣の反骨から始まっているのであり、 敗れた側の江戸っ子のルサンチマンが明治ジャーナリズムを苗床として時代小説を生んだ。》と。 新たにそういう角度から明治時代をとらえた本が読みたいものだ。

●獄中で大逆事件をまぬかれる

 大逆事件のころの社会主義者だから弾圧につぐ弾圧を受け、生涯に5回も投獄されるのだがみずから「楽天囚人」と称し、 そのたびに大量の本を読みあさった。 《堺は千葉監獄にいる間にドイツ語を習得し、フランス語の勉強にも手をつけ、 読むべき本を片端から読破するという計画を立てていた。 第一高等中学校を中退後、堺はずっと独学で知識を身につけてきた。 彼にとっての最良の教師は書籍だったといえる。 そのため、堺は本に関してだけは贅沢することを自分に許し、丸善で高価な洋書を購入することもあった。 理不尽な裁判で二年以上も自由を奪われながら、出獄後のことを考えて、冷静に行動している堺の姿が浮かんでくる。》

  理不尽な入獄ではあったが、入獄していればこそデッチアゲ大逆事件に連座することもまぬかれた。 刑務所入獄ほどのアリバイはない。獄中で秋水ら同志の刑死を知った堺は 、出獄後同志の遺族をおとずれ遺品やいくばくかの金品をわたすため全国行脚の旅に出ている。じつに見上げた男だ。

  志が高いだけでなく才智にも富んでいる。 たとえば夫の入獄中髪結いになった妻の為子に書簡で策をさずけている。 「先ず大きな写真屋を廻つて、あらゆる髪の結方の写真を集める、 そしてそれを見て色々工夫を凝し、研究を積む、又それを表看板にも使ふ、室内の見本帖にもする、 更に進んでは湯屋の看板広告にもするなどはどうダ」うんぬんと。 写真の著作権もなんのその利用できるものはなんでも利用してやろうという姿勢だ。

●知略に富んだ人徳のひと

 1911(明治44)年1月18日、幸徳秋水ら24人に死刑判決 、翌日12人に特赦が出たものの、残りの12人は旬日を経ずして死刑執行。 千葉監獄から出所したばかりの堺は、25日6人分の遺体を東京監獄までひきとりにいく。 約80人の看守と警官が警戒するなか堺ら同志は遺体を荒縄でしばり丸太ん棒を通して担ぐという方法で落合火葬場まで運んだのだが、 途中で何度も警官や刑事に行列を止められ、ようやく火葬場に到着すると、 「逆徒の火葬にこんなに大勢が参加するのは穏当でない」という理由で新宿署に出頭するよう命じられる。 《だが、堺はその前に、疲れきっていることを理由に、新宿署へ出頭しろというなら公費で人力車を用意してほしい、 それでなければ一歩も歩けないと抗議したため、警察は数台の人力車を集める指示を出す。》 警察に人力車を用意させるとはなんという胆力。しかも疲労は口実にすぎない。 《人力車が揃うまで時間を稼いだ堺は、火葬する前に棺の蓋を開けさせて、親友の幸徳秋水と最後の別れをした。》 なんという粘り腰。

 粘り腰に関してはこんなエピソードもある。 売文社の広告を出すにあたって、東京朝日新聞の杉村楚人冠にロハで出してくれと頼んで断られると、 《朝日新聞社はやれ幸徳秋水の母親の写真を貸せだの、やれ大逆事件の被告について話を聞かせろだの、 毎度ロハで頼みごとをしているではないか、と反論する。》 楚人冠もその言い分には理屈があると認め、写真使用料・談話料とひきかえる形をとってロハ広告を掲載する。 簡単に引き下がらない交渉力には感心する。筋が通っているから相手も呑まざるを得ない。 おそらく交渉時の物腰もやわらかく憎めない男だったのだろう。

●パンを求めるペンと求めざるペン

 「売文社」という編集プロダクションの先駆けを考えたのも獄中だった。  「僕には売文の外に金もうけの道が無いから甚だ困る」(妻宛の獄中書簡)という事情ももちろんあっただろうが、  自分ひとりのたつきを求めたのではなく、就職口のない同志のために考えついたアイデアなのだ。  《世にはペンとパンとの関係を秘密にする者がある。或は之を曖昧にする者がある。  或は之を強弁する者がある。そして彼等のペンは、其実パンの為に汚されて居る  。/僕等はペンを以てパンを求める事を明言する。然し僕等には又、別にパンを求めざるのペンがある。  売文社のペンはパンを求むるのペンである。僕等個々人のペンは僕等の思ひを書表はすペンである。  つまり僕等は二種のペンを持つて居るのである。それでペンとパンとの関係が極はめて明瞭になつて居るのである。》  (1914年読売新聞掲載)。

 最近はとんと聞かない話だが、戦前まではたとえ純文学であってもあまり売れるものを書くと文壇内での評価が落ちたようだ。  『阿佐ヶ谷文士村』(村上護、春陽堂書店、1993)には昭和初期の話としてこんなことが書かれている。  《ジャーナリズムに迎合して売文を書けば、文士は文壇内で凋落する。  ということになれば、滅多なことで稿料の入る原稿など書けない。  互いに牽制し合うのが常だった。彼らは食えないことを覚悟のうえで、同人雑誌に集まっていたのである。》  文章を売ってメシを食うということがいかに卑しめられていたかがしのばれる。  堺はパンのためのペンと思いを書き表すためのペンを区別することによってこの苦境からの脱出を図ったのだ。

 売文社は、新聞・雑誌・書籍の原稿製作、英・仏・独・露等諸語の翻訳、  意見書・報告書・趣意書・広告文・書簡文・その他いっさいの文章の立案・代作および添削をおこなった。  堺ひとりではできない。社員には大杉栄・荒畑寒村・高畠素之(モトユキ)・尾崎士郎などがいた。  大杉は語学の天才で監獄に入るたびにひとつの外国語を習得、これを「一犯一語」と称し、  67ヶ国語をしゃべったというが、いくらなんでもね。少しかじった程度のものまで勘定に入れているのではないか。

 尾崎士郎はつぎのように書いている。「もともと、「売文社」などという自嘲的で  、世間を茶化したような商売が成り立つていたのも性格的に風刺的でユーモアのある堺枯川の人物にぴつたりしていたからで、  もしこれを誰かが大真面目な態度ではじめたとしたら、たちまち行き詰まつていたであろう。」  じっさい売文社設立以降各地に同じような編集プロダクションが生まれたがどれも長続きしなかったようだ。  売文社自体堺が経営を高畠にゆだね自宅に籠もると、得意先は直接堺邸におもむくようになり、会社はたちまち傾いてしまった。

●パクリまくりの明治作家

 日本では明治から昭和の敗戦までを近代という。この時代めはしのきく者は横のものを縦にすることで名を挙げた  。文学もその例外ではない。というより明治時代の作家はみんなパクリで食っていたとわたしは見る。  それも堂々とやっていた。ここに注目したい。

 若いころは学業のために上京したものの放蕩三昧、新聞記者などしながら堺枯川の名で文士を目指していたが、  父母をあいついで亡くして目がさめたか25歳で結婚して福岡へ帰る。  「東京を立つ時、尾崎紅葉君が『これなどはチョツト面白い』と云つて餞別に呉れた英文の小説も、翻案の役に立つた。」と自伝にある。

 1896年のことだ。  紅葉は、ゾラ、モリエール、モーパッサン、トルストイなどの小説をもとにした翻案小説を何篇も書いている。  『金色夜叉』もまたアメリカのバーサ・M・クレーの『女より弱きもの』を下敷きにして書いたものだとか。  《明治期には西洋小説のストーリーを、そのまま日本の小説に仕立てて発表することが珍しくなかった。  原作者には無断で、翻案であることも明らかにしていないことが多い。  現在なら法に触れかねないが、百年余り前の日本では、こうした換骨奪胎は特に問題にされていなかった。》

 紅葉は1895年に『デカメロン』を翻案して3つの小説を発表している。  堺が『デカメロン』のなかの1篇を“超訳”して福岡日々新聞に「女の忍耐」を書いたのは1896年だから、  紅葉の餞別は『デカメロン』の英訳版だったと考えてほぼまちがいないだろうと黒岩は言う。  《紅葉がその本を贈ったのは、堺に翻案を勧めるためにほかならず、地方では洋書が入手しにくい、  という事情も汲んだ上での厚意だったのではないか。》著作権に無頓着だったということもあるだろうが、  西洋の文物を積極的に取り入れようとしていたとも考えられるのではないか。  明治政府の欧化主義が日本を席捲していたことを見のがしてはならない。  とはいえ坪内逍遙がシェイクスピアの翻案小説を書いたかといえばそんなことはなく、  翻訳として『沙翁全集』を出している。翻案はやはり大衆小説家のやることだ。

 明治の作家はパクリだけでなく原稿の2重売りもした。  地方の媒体に発表したものを中央の媒体に手を加えて渡す、あるいはその逆を樋口一葉など金に困った作家はおこなっている。  どの媒体もまだ小さいからできたことだ。

 妻子の病の治療費にこまった堺も原稿の2度売りをしている。  もともと小説家をこころざしていた堺だが、『言文一致普通文』『家庭の新風味』などエッセーにも手を伸ばし、  それらが案外売れた。このことが社会改良運動に専念するきっかけにもなったようだ。

   ◆S氏(60代男性) この間の堺利彦、面白かった。売文業、というのがいいね。
この頃の新聞社員の言動は、岸田吟香をはじめとして実に
愉快なところがある。

すっかり記憶力が減衰して、誰の何という本で読んだのか、
あるいは資料調べの最中に、なにかで拾い読みしたのか、
まったく思い出せないのだが、大逆事件で刑死した人物の
遺体引き取りの話を読んだことがある。刑死した男の弟が
引き取り、中身が本物かどうか確認する話だけど、これを
実見して記事にしたのが松崎天民だという話。