46(2012.11 掲載)

 『決定版快楽亭ブラック伝』(小島貞二、恒文社、1997.8)

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 2代目ブラックの本『快楽亭ブラックの放送禁止落語大全』(快楽亭ブラック、洋泉社、CD付き)を読んだからには初代ブラックに関する本も読むのがすじというものだ。  本名ヘンリー・ジェイムズ・ブラック。1858(安政5)〜1923(大正12)。  明治から大正にかけて一世を風靡した落語家・奇術師。  父は英字新聞「ヘラルド」「ガゼット」、日本初の日本語新聞「日新真事誌」をおこし、また『ヤング・ジャパン』(平凡社東洋文庫)を著したジョン・レディ・ブラック。

●ほんものの江戸弁

 明治初期に13、4歳で来日した。 まだ廃刀令発布のまえのことらしく、こんなぶっそうな目に遭っている。 母親とふたりで米国公使館の連中と角筈の十二社に遊びに行ったときのこと、馬車から降りようとすると「向うから酔った武士体(サムライテイ)の者が二人駆けて来て、突然(イキナリ)腰の刀を抜いて私達を斬ろうとするのでしょう。 私達は驚いたのなんのって、一同まっ青になってしまいました。 するといい塩梅に役人が来て、その乱暴者を取り押えてくれましたが、実にびっくりいたしやしたよ。」 「攘夷」というのは何かのための方便ではなく、外人を見たら襲うという行為であったことがわかる。 そんな時代に来日したのだ。

 快楽亭ブラックが明治30年ごろ語った「実歴談」の一節だが、当時の江戸っ子の口調を知るうえでも貴重な資料だ。  「そいにこの、私は親父がもと東京(コッチ)におりやしたんで、子供のときから、自然に日本語を覚えやして、人に習ったんではござりやせん。」  本書に掲載されたブラックの高座姿は、机をまえに椅子に腰かけた英国紳士そのもの。  りっぱな口ひげをたくわえ、背広に蝶ネクタイ、チョッキのはしにのぞくのは懐中時計の鎖だろうか。  この風体にこの江戸弁だから大いに受けた。  ――と思いきや、板のうえではわざわざガイジン口調をつかったようだ。  お笑い芸人の本分は真実を語ることではなくひとを笑わせることだから、なにをやっても許される。

 明治時代の寄席では演説も演し物になった。 「そいからほうぼうで、エレンな(いろんな)演説をしやしたが、そのときちょうど伯円(ハクエン)(二代目松林(ショウリン)伯円)の全盛のときで、こいも月二回から三回か演説しやした。 なにしろ評判の伯円が演説するといいやすので、客はワイワイいって騒ぎやす。 私も伯円といっしょに演説しやしたが、伯円が出やせんと、ちょっとしか客が来やせん。 そいで始終、伯円といっしょにしやした。こいがその芸人と交際しやしたはじめです。」

 ここでいう演説とは政談演説のことで、西洋史の話なども交えておこなうブラックの話は大いに受けるのだが、 そのうち自由民権運動の高まりとともに集会条例、寄席取締規則などができて、 寄席における政談は禁止される。

 そのうえ父が高名なジャーナリストであったことから家族からはもちろん友人からも「親父の面にかかわる」と攻撃されるので、芸人をやめ英語学校をはじめた。 その資金はイギリスの叔父にたよった。 《ブラックの家系は、前にも述べたように、名門の出である。 軍人や銀行マン、実業家といった親戚が多い中に、一人きわ立った財産家がいた。 ブラックにとっては叔父に当たる人である。 父のブラックも、しばしばこの人に財政上のピンチを助けてもらっていた。》 不平等条約が改正されれば外国人たちが居留地から出てくるからこれからは英語ができなければ商売ができないという気運が高まった (それから100年たったいまでもあいかわらず同じことをいっている)。 おかげで英語学校は大繁盛したものの、「条約改正がのびたというんで」書生が減り廃校に。 明治23年、「快楽亭ブラック」を名乗りこんどは落語家になる。 三遊亭圓朝の「三遊派」に所属し、西洋人情噺を売り物にした。 ご時世に翻弄される人生だ。

●言文一致運動の創始者は?

 《当時の新聞は、売れッ子の講談師や落語家の口演速記を載せることが、一つの流行のようであった。  口演者に大看板を据え、速記者にベテランを配す。そして挿絵に当代一流をならべて、長編読みものにする。  (中略)今日でいう連載小説であり、またテレビの帯ドラマである。》速記法の確立あればこその話だ。

 日本の速記は、明治15年(1882)田鎖鋼紀(タクサリコウキ)の「日本傍聴記録法」にはじまり、 若林・酒井・林らの弟子が講談の速記を手がけ「読む演芸」を確立していく。 《明治十七年、若林坩蔵のところへ、京橋の東京稗史出版社の社員を名乗る中尾某、 近藤某の二人が、「三遊亭円朝の人情噺を、そのまま速記したら、面白いものが出来ると思うが、どうだろう」 という話を持ち込んできた。 若林は演説や講義の速記では、かなりの実績を持っていたが、講談や落語の速記となると、トンと経験がない。 しかし大いに興味はある。一人では不安もあるので、親友の酒井昇造に相談してみると、酒井も乗る。 そこで引き受けることにした。/円朝は当時、落語界の第一人者である。 年も四十六歳。二人にすれば雲の上の人だ。 とりあえず、寄席に出かけて、円朝の講演の一部を速記したものを、直接見せるかたちで交渉をはじめた。 自分の口調がそっくり文字に写されているのにおどろいた円朝は、興味を示して協力を約す。 そして自作の自信作『怪談牡丹灯籠』を選んでくれた。 (中略)若林の希望で、裏表紙に速記記号を載せるという新しい試みも、読者の目を驚かせた。 この仕事が、つまり“速記された演芸作品”の第一号となる。》

 この“速記された演芸作品”の序文を坪内逍遙が書いている。 言文一致運動というと二葉亭四迷や山田美妙が創始したようなことをいうが、 わたしは『怪談牡丹灯籠』に日本の言文一致運動は始まるといっても過言ではないと思う。

 二葉亭四迷の「余が言文一致の由來」の冒頭にはこんな一節がある。 「もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。 何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。 そこで、坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、 君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。 /で、仰せの儘にやつて見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京辯だ。 即ち東京辯の作物が一つ出來た譯だ。 早速、先生の許へ持つて行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち礑(ハタ)と膝を打つて、 これでいゝ、その儘でいゝ、生じつか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有る。」

 もとはといえば東京稗史出版社の中尾と近藤が立てた企画であり、 これがなければ今日の日本語はないのだから、 言文一致運動を語るときこの出版社の名前ぐらい出してやるべきではないか。

  ●二足のわらじを履いたわけ

 ブラックは『草場の露』(1886、明治19年)を皮切りに  『英国奇談流(ナガレ)の暁(アカツキ)』『切なる罪』『英国龍動(ロンドン)劇場土産』『探偵小説薔薇娘』などを  矢継ぎ早に出版し、高座も大にぎわいで三遊派の重鎮になっていくのだが、  どうもこれらの噺はイギリスの新刊書を取り寄せて翻案したもののようだ。

 柳家小さんの演じる「ためし酒」はわたしの好きな話の一つ。  朴訥とした田舎者の久蔵が「5升飲めるか」といどまれ、かるく飲み干してしまう。  どうやったらそんなに飲めるのかと尋ねられ、じつは自信がなかったので近所の酒屋で5升ためしに飲んできたというサゲが痛快。  これは速記者今村二郎の長男信雄の創作落語とされているが、  じつはブラックが明治24年「英国の落話(オトシバナシ)」として発表し、  のちに「ビールの賭飲み」と題を変え、これが今日も上演される「ためし酒」になったと小島はいう。  小島が言うのだからまちがいなかろう。  「英国の落話」を速記したのは今村二郎だ。

 明治26年、数えで36歳のとき20歳ちかく下の石井アカと結婚、石井貌剌屈の名で日本に帰化した。 アカはブラックの“おっかけ”をしていたお転婆娘だったろうと小島は見ている。 アカは英語もすこしできたので、築地入舟町の自宅でアカを助手として副業をはじめる。 当時の「やまと新聞」はこう伝える。「商家又会社其の他の店頭に、横文字の看板を掲ぐるとは、 一般に流行すれど、誤謬(アヤマチ)の多きも又一般という有様を、ブラックが嘆息し、 大いに幡随気(バンズイキ)を出して、看板、ペーパー広告、効能等の文案を、至極廉価で引き受ける由……」 堺利彦の「売文社」に似ているが、ブラックがこれをはじめたのは1894年、 堺のほうは1914年だから英語中心とはいえブラックのほうがずっと早い。 それにしても幡随気なんてえことばを当時の庶民は注釈もなしに理解したのでございますねえ。

 たいして儲かったとも思えない副業になぜ手を出したのだろう。  家族や親戚をおもんぱかった世間体対策のようだ。  家族や親戚はブラックの芸人稼業をこころよく思っていなかった。  そのうえ英国籍まで捨てたことが叔父の耳に入ったものだから、  「早く足を洗え。さもないと援助を打ち切るぞ」と叱責されていた。  《弟がその叔父の依頼で監視役に付いたことも、ブラックは知っていた。  ブラックは弟の目をごまかし、叔父の機嫌を取る道を選ぶよりなかった。》

 やまと新聞とは仲が良かったようで、明治27年には「夏の雲」「英国実話孤児(ミナシゴ)」を口述速記で連載、  その後出版社から単行本で出している。  《これらの活字の上の仕事は、じゅうぶんに英国の叔父を意識したものであろう。  あるいは叔父から送られてきた英文の新刊小説を、たくみにアレンジした作品だったかもしれない。  叔父に対しては、ブラックはあくまでも“作家”であった。》

 明治29年の毎日新聞に自分の芸人観をこう披瀝している。  「いえ、外国には、落語家という者はございやせんが、滑稽演説師という者がごだいやして、  これは米国とか仏蘭西とか、他国へ旅行したという筋などで、その国々の粗(アラ)などを申すとか、  あるいは紳士、大学者を訪問いたしやしたときの有様などを弁じやすのでごだァいやすが、  たの芸人とちがいやして高尚に構えておりやす。  (中略)/それに外国では、小説家が自分の著したところの小説が人気に適(ハマ)ると、  そぇをすぐと読んで聞かせるということがごだいやすが、流石自分で書いた小説でごだいやすから、  中の人間が生きておって、なかなか面白くきくことが出来やす」このくだりを小島はこう見る。  《おそらく、自分がこうなったのも、叔父のせいだ。イギリスの叔父は何もわかっちゃいない。  オレはイギリスでなら、ひろく評価されるべき“滑稽演説師”であり、“流行作家”なのだ。  何がいけないのだという反発を、ちょうどイギリスにいる叔父に向かって説明するかのように、  ついに口をついて飛び出したのではないか。》

●「2代目ブラックは許せん」と小島

 明治も末になるともはや外人も珍しくなくなり、  活動写真の弁士などもしたが1908(明治41)年51歳のとき、自殺未遂。  当時の新聞は癌を苦にしたとも人気凋落が原因とも伝える。  1923年66歳で死去。横浜の外人墓地にねむる。

 「快楽亭ブラックと私」と題するあとがきが興味深い。  近年ブラックへの評価と関心が徐々によみがえりつつあるのはうれしいが、  《こうした気運に便乗するかのように、二代目を称する快楽亭ブラックが現れた。  立川談志門下で、立川ワシントンとか、カメレオンとか、レーガンとか、セックスとか、  片仮名文字の芸名を混ぜて、改名を数でこなすことで有名なハーフ  (父がアメリカ人、母が日本人)の落語家である。  平成四年九月、ブラックの名とともに真打ちになったのだという。》

 しかめっ面の文章だ。  2代目が初代の遺族や関係者に無断で快楽亭ブラックを名乗ったのがけしからんという理由だ。  《もし仮に、「三遊亭円朝の名が空いているから、勝手に襲いでしまえ」という落語家が現れたとしたら、  果して芸界は許すであろうか。  「快楽亭ブラック」も、ひところはその円朝とライバルを競った大看板であった。》と怒る怒る。  ごもっともだが、2代目の本とDVDにさんざんたのしませてもらったわたしはあまり責める気にもなれずただアハハと笑うだけだ。  小島は2003年物故。