47(2012.12 掲載)

 『生物学的文明論』(本川達夫、新潮新書、2011.6)

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●「いごこちの悪さ」が生んだ本

 東京工業大学理学部教授として20年間教鞭をとってきたものの、  工業を志す学生に生物学の授業をしてもあまり手応えはないらしい。  まわりの教授連も数学・物理学の専門家ばかりで、いごこちはよくなかったようだ。  本書はいわば「いごこちの悪さ」が生んだ本だ。

 現代社会は数学・物理学によってつくられている。  しかしそんな便利さや金もうけを追求する学問ばかりしていていいのだろうかという疑問を本川はいだきつづけてきた。  そもそも科学や技術が前提としている思想に問題があるという。  《科学は基本的に質を扱わないものです。量だけで考える。  すると数式が使えて、きわめて客観的にみえる学問になっていきます。  理科系だけではありません。経済学もそうです。  (中略)すると、量の多い方がより豊かだ、より良いのだ、という価値観になりやすいのですね。》  かくて資源や生物多様性を食いつぶし量だけをふやし、利益の追求に狂奔する云々。  ……大上段に振りかぶっての面打ちだ。  そろそろ定年も近いので、辞める前にまわりの連中に痛罵を浴びせたといったところか。

 2011年6月の発行だが、あとがきを書いている最中に3.11、東京電力福島原発事故が起こった。  《平成二三年三月、技術が作り上げた世界は、なんと脆(モロ)いものかを実感している日に。》  という一行で本書は締めくくられている。だからいわんこっちゃない。茫然と立ちつくしたのではないか。

●生態系は自分の一部

 生物とそれが住んでいる環境をひっくるめて生態系という。  生態系の保護が叫ばれて久しい。  だがわたしは、地球に優しくだの、環境を保護しようだの、愛は地球を救うだのといわれるとイヤになってしまう。  エラそうに何をいっているのだ。  地球はヒトなんかいなくたって何も困らない。

 「生物多様性」は、食糧の供給、大気や土壌などの生物基盤の提供、汚染物質の無毒化、  癒しの提供など「役に立つ」という観点から論じられるが、本川はそれに反対し、  「かけがえのなさ」という観点から生態系のたいせつさを論じる。  《私はシカクナマコというナマコを研究していますが、これは食べられないし、可愛くもない。  われわれの役に立ちそうなところは何もない動物です。  だから価値がないと言ってしまってはシカクナマコの立つ瀬がありません。  他の多くの生物たちだって同じでしょう。  だから、人間の役に立つから、サービスしてくれるから大事なんだ、保全するのだ、という発想は、  生物多様性を大切にする理由付けとして、ふさわしいとは思えません。》

   自分は生態系の一部だ、だから生態系をたいせつにしなければならないという言説はよくおこなわれる。  だが本川は、自分の暮らしている生態系がなくなったら自分自身もなくなるから生態系は自分の一部だと言う。  結局同じことではあるが、こちらのほうが生態系に対する心構えが変わってくるのではないか。

●丸くて柔らかくて水っぽいものがイイ

 むかしから煙突といえば円柱形ときまっているのに、ちかごろは四角柱のものがあるそうだ。 角張った人工物の多い環境には丸いものがそぐわないからだ。

 生物は円柱形で人工物は四角い。  生物は水っぽく人工物は乾燥している。生物は柔らかく人工物は硬い。  だからヒトにやさしい文明とは丸くて柔らかくて水っぽいもの、ということになる。  《四角い煙突の論理を突き進めていくと、技術社会は、私たち自身を美しいと感じさせないような世界を作ってしまったことになります。  これは大問題でしょう。若者が結婚しなくなったのも、ここらあたりに遠因があるのかもしれませんね。》

 ……もし女の尻が「レゴ」でできていたら、なでる気になれない。

 《四角い煙突の発想から生まれて来るのは、丸い自己の体が醜悪だという感じ、つまりは自己嫌悪です。  自分自身に嫌悪感をもたせるようでは、人にやさしい技術とは、とても呼べません。》  生物のデザインと大きく違わない物を作らなければならないと説く。  そういえば、自然界に直線はないからと、  『動物記』のシートンは家を造るときまっすぐな材木をつかわなかったという話が伝記のなかにあったような気がする。

●心臓のリズムに合わない現代社会

 現代の日本人は、原油換算で年間4000キログラム、縄文人の約40倍のエネルギーを消費して生きている。  《もし社会生活の時間も生物の時間と同様、エネルギー消費量に比例して速くなるとすると、  いまや時間が縄文時代より四〇倍も速くなっていることになります。  (中略)社会の時間は桁違いに速くなったのですが、体の時間はそうではありません。  私たちの心臓のリズムは、昔のままで変わっていないと思われます。  だって同じ体のサイズのヒツジと比べて、心臓の動きに、ほとんど差はないのですから。  /体の時間は昔と何も変わっていないのに、社会生活の時間ばかりが桁違いに速くなっているのが今の社会です。  つまり体の時間と社会の時間との間に,極端なギャップが存在しています。  現代人には大きなストレスがかかっているとよく言われますが、そのストレスの主な原因は、  この極端なギャップにあると私は思っています。》  だからみんな疲れている。

 ではどうしたらいいのか。

 《私は工業大学で教えています。まわりは技術者ばかり。  彼らは、より速くより便利にという社会の要請に応えるべく、日々研究しています。  でも便利なものを作れば社会の時間は速くなり、体の時間とのギャップもどんどん大きくなっていく。  彼らが頑張れば頑張るほど、私たちはますます不幸になっていくのが現実かもしれません。》

 ではどうしたらいいのか。

 1992年に『ゾウの時間ネズミの時間――サイズの生物学――』(中公新書)を著した本川は、  「時間環境」という考えかたを提唱し、現代は時間環境が破壊されていると憂える。  《地球温暖化も資源エネルギーの枯渇も、元はといえば、じゃんじゃん石油を燃やして時間を速めているのが原因です。  /時間をもう少しゆっくりにして、社会の時間が体の時間と、それほどかけ離れたものではないようにする。  そうやって時間環境問題を解決すれば、自動的に温暖化もエネルギー枯渇の問題も、解決してしまいます。》  ということは、エネルギーを極力使わない文明をめざすということだな。  時代を逆行させるようなことがはたしてできるのだろうか。

 著者の言い分はこうだ。現代人は機械を使って時間を操作できるようになったのだから、  《ここはゆっくりの時間にしよう、ここは速い時間にしようというふうに》  時間の使いかたに緩急を付ければいいいのだと。  この考えかたの底には若いころの沖縄瀬底島での体験が横たわっているようだ。  《ある夜、瀬底の浜を歩いていたら、漁師さんが一人、泡盛を飲んでいました。  黙って茶碗を差し出してくれます。砂浜にすわって、それをごちそうになる。  そして茶碗を返す。何度かそれを繰り返したのですが、漁師さんが、ぽつんとこう言いました。  「借金していい船を買えば、儲かるのはわかっている。  でも、そんなことをしたら、こうして夜飲む泡盛の味がまずくなる」》

 かっこいいなあ。かくありたい。  これが時間の使いかたに緩急をつけるということなのだろう。  いいかえれば生きかたに緩急をつけるということだ。  むかしとちがっていまは生きかたに選択肢がある。  文明開化したあと日本人は江戸文明を羞じてひたすら西洋風の工業化社会の実現に邁進してきた。  この漁師は現代人であるがゆえに近い将来を予想でき、生き方を選択できる。  だが、みんながみんな「ゆっくりの時間」を選択できるともおもえない。

●生殖活動が終わった者は消え去るべし

 心臓が15億回打つと、ゾウもネズミもみんな死ぬ。  それが動物の寿命だ。ネズミは速く打ち、ゾウはゆっくり打つというだけのちがい。  ひとり人間だけが15億回打ってもまだ41歳で、さらに生きる。  これは医学・衛生施設・食生活など技術全般の進歩による現象とのこと。  (むかしは非常に高かった幼児死亡率を除いて)15歳以上生きたヒトの平均をとっても、  縄文時代31歳、室町時代30代前半、江戸時代で40代、昭和22年でも50歳。  長生きしたヒトは例外で、縄文時代に60歳以上生きたヒトは100人にひとり、  室町時代で10人にひとりだという。

   ここから本川は冷徹なことを述べる。  《人生の前半は生物としての正規の部分、後半は人工生命体という、二部構成でできているのが、  今の人生なのでしょう。  この二つの部分は大いに異なるものだと、きっちり覚悟して生きていくべきものだと私は思います。》  つづけて《閉経以降の生、つまり人工生命体としての部分は、生物学的に見れば、生存すべき根拠のないものです。  そして歴史的にも存在しなかった部分です。》と物議をかもしそうなことを言う。

 老いて生殖活動に参加できなくなった動物は、子どもの世代と食糧などの資源を奪い合うことになる。  《だから生物学的に言えば、生殖活動が終わった者は、すみやかに消え去るのが正しい生き方なのですね。》  豊富な人生経験を生かして子や孫の生存率を上げるという存在意義もないではないが、  《子育て法伝授は、おばあさんだけで十分です。  ひいばあさんや、ひいひいばあさんが必要とはならないでしょう。》  次世代のために働くことが広い意味での生殖活動であると生物学者は言う。  人工生命体としては《老いの期間の一時期であれ、次世代のために働き、  そして志としては、次世代の足を引っ張らないという姿勢をずっと持ち続けていれば、  うしろめたさの少ない老後を過ごせるのではないかと思うのです。》  福島原発老人決死隊を思い出した。あれはその後どうなったのだろう。

 日本人の貯金1500兆円のうち、1000兆円は60歳以上が持っているとのことだ。  しかもほとんど動くことのない死に金。  住宅や子育てに金のかかる若い世代になるべく譲るべきだとわたしは思った。