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 『この地名が危ない―大地震・大津波があなたの町を襲う―(楠原佑介、幻冬舎新書、2011.12)

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 気仙の語源は自然堤防の意だという。 何もかもを消し去ってしまう津波を恐れたひとびとが、祈りをこめて「消せぬ」「消せん」の空間(マ)を ケセンノマ「気仙沼」と名づけた。漢字に意味はない。

 あるいは雲仙・普賢岳の普賢は、地元民の「吹かぬ(噴火しない)よう」という願いから命名された可能性が高いそうだ。  地名には漢字渡来以前からの意味がある。歴史と遺訓が含まれている。むやみに変更してはならないものなのだ。

●地名と石碑が有効

 序章の見出しは「原発は津波常襲地に建設された」だから、くやしくて意気消沈してしまう。 東京電力福島第一原子力発電所は1970年前後に建設された。 そこはその前に何度も大津波に襲われた地域だというのに、どうしてよりにもよってそんなところに建てたのだろうか。

 東京電力福島第一原子力発電所を建設するにあたって、 マグニチュード9の地震が引き起こす巨大津波にそなえるよう主張した学者もいたようだが、 「そんな1000年に1度の津波のことなど考えるのはムダだ」という意見が大勢を占め、 津波の高さは5.7メートルと想定された。それであとになって「想定外の高さの津波が来た」なんていっている。 直前の1960年にはチリでマグニチュード9.5、2004年にスマトラで9.1の地震が起こっていたというのに、 なぜ日本に限って1000年に1度しか起きないのか。 起こってほしくないことは起こらないにちがいないと考える日本人の感性によって結論が出されたのだ。

『三陸海岸大津波』(吉村昭、文春文庫、2004)には、明治29年、昭和8年、 そして昭和35年(1960年のチリ沖地震)に青森・岩手・宮城の3県を襲った大津波が詳述されている。 いずれの津波でも波高は数十メートルを超えている。もし原発関係者がこの本を読んでいれば、 そんなあまい結論には至らなかっただろう。 地球上で起きる地震の1割をひきうけるわが国では、 1000年に1度どころか数十年に1度は巨大地震に襲われることになっているのだ。 にもかかわらず体験者がこの世を去るとともに教訓は雲散霧消し、また同じ災禍に遭う。

 岩手県下閉伊郡田老町は、明治・昭和の津波で3000人ちかくの犠牲者を出した。 それを反省し建設した巨大な「スーパー防潮堤」でさえ、大津波はあざ笑うかのように破壊して乗り越えてきた。 ではどうしたらいいのか。

 11.3.11(ただの3.11では、いつの年のことだかじきにわからなくなってしまうと、 記憶力の弱いわたしは考える)の巨大地震でひとりの犠牲者も出さなかった村落がある。 たとえば岩手県宮古市の姉吉地区を襲った津波は一本道を800メートルも駆け上がり、 40.4メートルという「遡上高」を記録したが、昭和8年の大津波のあとで標高60メートルの高さに 「此処より下に家を建てるな」という石碑を立て、その遺訓を守ってきたおかげで1人の犠牲者も出さなかった。 石碑の末尾は「幾歳経るとも要心あれ」とむすばれている。

 石碑は有効だと思う。なるべく大きい、そう、ピラミッドぐらいの……。 とっぴなことをいいだすようだが、ピラミッドはひょっとしたら放射性廃棄物埋設地の目印ではないか。 フィンランドでは核廃棄物を地下500メートルに埋めて10万年保管しようという「オンカロ」計画を進めている。 「オンカロ」とは「隠れた場所」という意味らしい。わたしはしばしばテレビに映った文字を「オロカナ計画」と誤読する。 「見ぬもの清し」で見えなくなれば安心ということにすぎない。そこに埋設したことをどうやって10万年間記憶するのか。 噴飯ものだ。平均100qの厚みがあるプレートにとって、500mなど小指の爪で頭のふけを掻いた程度の深さでしかない。 プレートがすこしでも身じろぎすればたちまち冥界の大王が立ち現れるだろう。 もし地下に埋めるなら、その上にピラミッドのような巨大な石碑を立てるしかない。 地名と石碑は記憶にとどめる有効な方法だ。

    ●津波は「入り江の奧に来る大波」ではない

 本書は東北地方太平洋沖地震後、急遽執筆されたものではあろうが、楠原自身は京大で地理学を学んだ研究者であり、 「正しい地名復興運動世話人」もつとめるように安易な地名変更の危険を訴えつづけてきたひとだ。 《この列島の自然の脅威を知り、いつ起きるか分からない災害とどう向き合うか、その災害の被害を最小限にとどめ、 被災地をどう修復し、生きるすべをどう再建するか。 そうした地域住民の経験と営為、言い換えれば地域の生活史が地名には込められている。 地名は「災害の履歴書」だと言ってもよい。》地名には1000年の寿命がある。

 古来わが国のひとびとは災害の起こりやすい土地にそれを警告するための地名をつけて残してきた。 当然古語だから現代人にとっては一筋縄ではいかない難解な語釈がともなう。 楠原は半世紀以上地名の謎にとりくんできた。だから本書は歴史学、地理学と同時に国語学をあつかうものでもある。

 われわれは「津波」を「入り江の奧の津=港に来る大波」だと思いこんでいるが、 楠原は万葉集から高橋連(ムラジ)虫麻呂の歌を引いてそれを否定する。 「筑波の山の裳羽服津(モハキツ)」でおこなわれたスワッピングも兼ねた乱交パーティーの様子をうたった歌だが、 山中のことだから裳羽服津の津が港であるわけはないという。 「つ」には泉や唾の意味もあり、ともに「途切れることなく次から次に連綿と出てくる液体」のことだと楠原は見る。 たしかに今回の大津波の映像を見ていると、巨大な波がドドーンと海岸に打ち寄せるというより、 まるで黒いスライムのような粘液質の液体が堤防のむこうから頭を出したかとおもうと、 止めどなくドロドロと湧きだして町中田畑に際限なく広がっていった。 《だから私は、「津波」とは「入り江の奧の港に来る大波」ではなく、「波長が長く連なる大波」と考えるのである。》 今回の津波は港だけでなく長汀にも来襲した。

●鎌倉は危険な地名

 福島第一原発のすぐ北に「浪江」という町がある。 字を見れば過去に津波が押し寄せたことは容易に察しがつく。 福島第二原発は、福島第一原発よりさらに危険な双葉郡楢葉町に立地している。楢葉町は大字「波倉」に属す。 《この「波倉」は、地名研究者から見れば相当に危険な地名なのである。 /神奈川県鎌倉市など「倉」や「蔵」の字を使った地名は何やら裕福な倉庫を連想させ、 リッチでこの上なくめでたく思えるかもしれない。 ところが「倉」や「蔵」は動詞クル(刳)が名詞化した語で、 「地面が抉られたような地形」に使われたケースがほとんどである。》 鎌倉大仏がむき出しなのは、明応7年(1498)の大地震で大仏殿が倒壊したうえ津波で流されてしまったからだ。

 古語の研究、特に地名の研究はきわめて重要だ。 宮城県名取川河口の閖上(ユリアゲ)港が津波に襲われる様子をネット画像で見ながら、 閖上とはまた文字もことばも恐ろしい地名だと感じた(閖は国字)。 楠原によれば名取も津波被害をしめす地名だとのこと。 ナは土地・地盤、トリは取る。すなわち洪水・津波などで土地が削り取られた地のことだというからシロウトには分からない。 それとも地元のひとは知っているのだろうか。 貞観地震(869年)のときも津波は今回と同じく閖上から川沿いにさかのぼり流域一帯に大きな被害を及ぼしたようだ。 しかし清少納言のようなおおむかしのひとでも『枕草子』(1000年ごろ)に名取川について 「いかなる名を取りたるならんと聞かまほし」としるしているそうだから、伝承などすぐに途絶えてしまう。 地名研究は容易ではない。

 シナから漢字が渡来したとき、日本人は漢字で地名を表記しようとした。 《和語の地名を隣国の中国の文字である漢字を借りて表記するという作業は、 ある意味ではすぐれて知的な作業である。 とともに、別の意味では相当な無理を重ねて一種の判じ物のような宿命を日本の地名にもたらした。》 それはなにも地名にかぎらず、あらゆることがらで起こったことだが。

 表記法は、正音表記・借音表記・正訓表記・借訓表記の4つのパターンに大別できる。 《こうした日本の地名のややこしさの一因は、和銅六年(七一三)に、 『風土記』編纂の詔(ミコトノリ)に先立って出された「諸国の郡・里(のちの郷)には好字を著(ツ)けよ」との告示があったからだ。 このときの「好字」とは一般に信じられているような「好感度(感じの好い)の字」ということではなく、 どうやら「良く知られた字」というようなことだったらしい。 /結局、日本の地名は、絡み合った糸をほどくような作業を行わなければ正体が分からないほどこんがらがってしまった。》と嘆く。 すべてカタ仮名・ひら仮名でおこなえばかえって誤解は減ったと思うのだが、残念ながら仮名が生まれるのはずっと先のことだ。

 さらに明治政府の田舎侍は、幕府のにおいのするものはすべて排除しようとした。 《幕藩体制の中核にあった旧藩、その支配体制の末端を担ってきた旧町村名を解体し新統治機構に上から強制的に整合させるため、 地名に手をつける安易な策を採用したのであった。》 先人の知恵と汗の結晶である珠玉のような地名をたやすく変えてしまうのは愚の骨頂であると、先生怒る怒る。

  ●「2大結界」の標葉と楢葉に建設された原発

 山形県鶴岡市南部の「七五三掛」は「しめかけ」と読む。 日本有数の地滑り地区であり、平成21年にも大規模地滑り災害が発生している。 シメは神聖な土地に建てる「バリアー(結界)」のこと。しめ縄のシメ。「閉める」に通じるものだろうか。 「かけ」は「欠ける」が語源の崖のこと。入ってはならないと警告している地名だ。 シメは「あかねさす紫野行き標野行き」のように「標」と表記されることが多い。

 東京電力福島第一原子力発電所は、双葉郡の双葉町と大熊町にあるが、明治29年まではこのあたり一帯を標葉郡と称し、 やはりシメという地名を用いている。いまは存在しない。存在しないという点が重要だ。 《古代の郡・郷名で「標葉」というのは、全国でもここ陸奥国の郡・郷だけである。 (中略)この「占有し立ち入りを禁じた場所」は、なぜそんな地名になったのか。》 4世紀ころあった大津波に原発をはさんだ南北一帯がかなりの浸水被害を受けたためだ。

 一方その南に楢葉町がある。楢葉はナラ(均)ハ(場)。丘陵と台地が広がる地形を意味する。 この楢葉と標葉を安易にひとつにまとめたのが今回の大事故の原因の一つであると著者は主張する。 《古代からの標葉郡・郷と楢葉郷(のち郡名ともなる)は、中世には「標葉庄」の名もあったが、近世から明治前期まで継承されてきた。 ところが明治二十九年(一八九六)四月、近代郡制の施行に伴い福島県では標葉郡と楢葉郡の一部を合わせて新たに「双葉郡」とした。 標葉・楢葉の二つの「葉」だから「双葉」になるという論理であった。 (中略)「双葉」という新地名誕生の裏で、「標葉」も「楢葉」もその本来の意義がまったく抹殺された。 何の意味もない双葉郡という名の地だったからこそ、危険性を多分に孕んだ原発がすんなり受け入れられた、ともいえる。》 この楠原の意見は、原子力村の役人・学者をむしろ買いかぶるものではなかろうか。 彼らの頭には地名のことなどテンからなかっただろうとわたしは思う。

 ◆S氏(60代男性) 昔のことを調べるのって、大変だよね。今回の地名の話も、調査が
大変だったと思うよ。その成果だけ頂戴できて、読書はありがたい。
面白かった。気仙沼、鎌倉、双葉町、なるほどね……と。

森進一の「港町ブルース」の歌詞二番は、
「流す涙で 割る酒は
だました男の 味がする
あなたの影を ひきずりながら
港 宮古 釜石 気仙沼」
とあって、三陸沖地震を思うと、この唄をうたいたくなる。
「だました男の」ではなく「むごい津波の」と言い換えて。
気仙沼の港ふれあい公園には、この歌碑が建っているらしい。
津波で傾いたが、無事とのこと。