52(2013.5 掲載)

 『仏教、本当の教え―インド、中国、日本の理解と誤解―(植木雅俊、中公新書、2011.10)

  (つづき)

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●かつてインドは「中国」だった

 『木馬と石牛』(金関丈夫、法政大学出版局、1982.3)を読んだとき、 いままでわれわれが支那朝鮮のものだと思いこんでいたものがじつはインドから渡来したものらしいと気づいた。 インドものを読まなければ日本文化の淵源をとらえることはできないと本書を読んであらためてそう思う。

 かつて高島俊男は『座右の名文――ぼくの好きな十人の文章家――』(文春新書、2007.5)のなかで、 「中国」というのは「世界一の国」という意味であり、《他国のひとが「中国」と使えば、そのことをみとめて、 自分たちは“はしっこ”のほうにいる文化の低い、いやしい人間で、 そちらさまこそが中心でございますという気持をあらわすことになる。》 だから自分は支那と呼ぶのだと述べていた。 ところが、植木によれば5世紀ごろの支那人はインドを「中国」とみなして一目置いていたそうだ。 しかも自国のことを「秦土辺地(シンドヘンチ)」といっていた。 「秦」は「支那、チャイナ」のことで、「辺地」というのは辺鄙なところという意味。 仏教の中心地であるインドに対してそれほど敬意を払っていた。

 日本人にいたっては14世紀の『太平記』のなかですら自国を「粟散辺地(ゾクサンヘンチ)」、 粟をまき散らしたようなちっぽけな国と呼んでいた。 見方をかえればタゴールのとなえるように仏教によってアジアがひとつであった時代があったともいえる。 ただし現在のインドでは80.5%がヒンドゥー教、14.3%がイスラム教、仏教はわずか0.8%。 13世紀にイスラム教徒の侵略で仏教は滅ぼされてしまったというのだが、はたしてそうだろうか……。自説はのちに述べる。

●まずは支那でゆがんだ仏教の本質

 インドから支那にはいった段階ですでに仏教の本質は大きくゆがんでいる。 《何かに執着し、何かに捕らわれた自己にではなく、「法に則って生きる自己」に目覚めさせようとしたのが仏教である。》 何かが我なのではない、真の自己を覚知すれば一切の迷妄から解放されるというのが仏教の本質だ。 《これが中国で「無我」、すなわち「我が無い」と訳されたために仏教は自己を否定するものという誤解を生じた。》 支那文化を金科玉条のようにいただいてきた日本人は、それをさらにゆがませることはあっても元に戻すことなどできなかった。

 支那で漢訳がはじまったのは2世紀中ごろ。その後数世紀にわたって200人近くの訳経者がつづいた。 代表的なのは5世紀の鳩摩羅什(クマラジュウ)、6世紀の真諦(シンダイ)、7世紀の玄奘(ゲンジョウ)。 日本に最も影響の大きかったのは鳩摩羅什だという。

 サンスクリット語やパーリ語の仏典は支那にはいり漢文に翻訳された。 漢文なら日本人にもわかる。たとえば「般若心経」の「色即是空、空即是色」ならなんとなくわかる。 だがなかには「般若波羅蜜」や「ぎょーてーぎょ−てーはらぎょーてー」のように珍文漢文なものも混じっている。 これは《仏典の翻訳の際にも、中国に存在しない言葉や概念があると、意味が分からないから音だけを写して当て字で書いた。》 からだというのだが、大勢の碩学がとりくんで意味が分からなかったということはあるまい。 わざと原語を残して「難解ゆえにありがたい」という効果をねらったのだろう。 J-POPがむやみに英語を入れたがり、日本の官僚が新奇なカタカナ語を使いたがるのと同じようなものだ。

 その国の因習によって意図的に翻訳がねじ曲げられることもある。 パーリ語仏典では「夫は妻を尊敬しなければならない」「女性の自立を認めよ」となっているものが 漢訳されるときには妻が一方的に夫に奉仕するようにと改変されてしまった。そしてそれが日本に伝わるわけだ。

 漢字は表音文字であると同時に表意文字でもある。これがまた混乱の一因となる。 「シッダーンタ」はシッダ(達成された)とアンタ(究極)の複合語で、「達成された究極」という意味なのだが、 漢訳のさいには「悉檀(シッダン)」と音訳された。ところが、漢字の悉は「ことごとく」、檀は「お布施」の意味を持つ。 けっきょく「達成された究極」は「あまねく衆生に施すこと」という意味になってしまう。 もし支那語に日本語のようなカタカナがあれば、「これはただの音訳だよ」という意味が示せてこのような混乱は起きなかっただろう。

 漢字からさらにべつの言語に翻訳すると、またそこで誤訳が起きる。 植木は英語の論文を読んでいて comparative hill という語に出くわして首をひねった。 「比較すべき岡」とはなんぞや。《なんとそれは男性出家者を意味する「比丘(ビク)」を英訳したものだと分かった。》

●日本仏教の致命的欠陥

 日本の僧侶は漢訳された仏典を音読で暗記した。鎌倉時代の『沙石集』には、漢字を知らない僧侶が丸暗記する話が出てくる。 あつまって読経すると、本を逆さまに持っている者がある。 それが正しく持っている者に「君、逆さまだよ」と注意し、注意されたほうがあわててなおすというありさま。 ドリフターズの「教室コント」のようだ。 ヤマトことばに翻訳されていれば万人が仏典を理解することができただろうと植木はくやしがる。 かくてきょうも善男善女は意味も分からずに経を唱える。

 日本ではお経といえば葬式などの仏事で唱えられる、ありがたくもわけの分からぬ呪文のようにとらえられているが、 じつはシェイクスピア並みのドラマなのだと植木はいう。 《ほとんどの日本人は、経典に何が書かれているかを知らないままで、今日まできたという不幸があると思う。 その背景として、日本には「分からないこと」イコール「有り難いこと」という変な思想がある。 一部の宗教者たちにとって、それは都合のいいことだったかもしれない。 「あなたたちには、分からないでしょう。私たちにしか分からないのだ」と経典を難しくて分からないものにしておいて、 彼らの権威づけに用いられた点も否定はできない。 西洋の聖職者たちがラテン語でお祈りをするのも同じことであろう。 /また、分からないからそれを呪術的に信仰する。そういう意味では、中村先生が強調されていたように、 日本においては仏教と思想的に対決がなされるというようなことは、ほとんどなかったと思う。》

 ここで疑問2つ。その1。キリスト教の聖職者がラテン語を勉強するのは、 世界中から聖職者の集まるバチカンで共通言語として使うためだという話を聞いたことがあるが、 植木はその点を踏まえていっているのかどうか。 その2。空海のような大天才でも仏教と思想的な対決をせずにひたすら「大日如来は天照大神のことだ」 といった神仏習合に明け暮れていたのだろうか。仮名が発明されるのは、空海没して数十年のちのこと。 もし空海が仮名を使えたら、仏教の日本語訳に取り組んだだろう。 なにしろ当時の日本ではしゃべるときはヤマトことばでも、 書くときは日記から手紙から役所の文書まですべて支那語を使わなければならなかった。 識字率などほぼゼロに近かっただろう。仏典など読めるわけがない。

 いずれにしても、外来思想との対決がなかったという指摘は耳にいたい。  空海は仮名に間に合わなかったとしても、そののち名僧知識と呼ばれた坊主はいくらでもいる。  いったい彼らは何をしていたのか。

●本家から遠ざかるほど堕落する

 国王とかけて泥棒と解く。そのココロは、泥棒は非合法的にひとの物を持っていき、 国王は税金というかたちで合法的にひとの物を持っていく。これがインド仏教の考えかた。 ヴァッジ国では釈尊のころから共和制がとられており、国王は選挙で選ばれていた。 釈尊はこれを高く評価し、ヴァッジ国を攻めようとする国をいさめたという話が原始仏典に残っている。

 ところが《中国には天命説があり、帝王は「天の子」として民間信仰の神々より上位と見なされ、 天命を受けた帝王に民衆は服従すべきものとされた。それは、一切衆生の平等や慈悲を説く仏教とは相対立するもので、 中国での仏教の展開は将来の矛盾・対立をはらんで始まった。》

 支那に渡来した当初、仏教は「世間の外にある教え」、出家者たちは「王者の師」と見なされていた。 唐代まではそれが維持できたが、10世紀には強大な王権に従属させられることになった。

 《中国では、宗教が国家に従属させられるようになっても、「沙門は王者を敬わず」の言葉の通り、 けっして仏教者たちは、国家に従属して、国家のために積極的に働こうというようなことはなかったようだ。 ところが日本の仏教は、最初から国家のためという鎮護国家の思想で始まった。 ここが、インドや中国と、日本との大きな違いである。》

 本来の仏教の目指したことは「真の自己」に目覚めることだが、 日本では自己の自覚よりもおのれの帰属する集団が優先される。 そのため多くの仏教用語がゆがめられて理解されている。 たとえば「義理」という言葉はサンスクリット語では「物事の正しい筋道」という意味なのに、 日本では「目上のひとに対する義務」になってしまった。 またたとえば「因果」は「原因・結果」という意味にすぎないのに、 「因果を含める」などといって目上の意向を伝えて個人の意志を曲げさせることに使う。 女衒が若い娘を言いくるめるときなどに使いそうだ。

 祇園で「花代」といえば買春を中心とした「遊興費」のことだ。 買春の謝礼として花をプレゼントするわけではない。 ハナはもとをただせば、サンスクリット語のパナ。平安時代には濁点も半濁点もないから、はなと書いてパナと発音した。 これが江戸時代になるとそんな法則は忘れ去られ、はなと書いてあればはなと読んだ。 さすがに教養人はわきまえていて近松門左衛門は「花と色とは元ひとつ、されば身を売る金の名を、 花代とこそ名づけけれ」と書いているそうな。
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 文人のほかにパナの意味を知っていたのは坊主どもだ。 《「今夜、祇園に行ってくる」と言うと、何か釈尊が長期間滞在されたところに行くような気分になれる。》 しかもそこで枕代などと言わずにパナといえばイキに遊べるわけだ(そういえば京都の西本願寺へ行ったとき、 近所に花屋町通りというのがあり、聖域に妙な名前の通りがあるものよといぶかしみながら行ってみると、 なんとそこにはフラワーショップならぬ島原遊郭の大門がそそり立っていた。→写真:2004京都島原遊郭跡で)。

 戒律無視だと植木は憤る。《その延長なのか、出家者の飲酒や妻帯が日本では普通になってしまった。 お酒を飲むときの言い訳まで考えられている。酒のことを日本の僧侶たちは隠語で般若湯と言った。 般若というのは、パーリ語のパンニャーを音写したもので、「智慧」のことだ。 だから「薬として少しぐらい飲むのならいいだろう」と、「智慧を呼び起こす湯薬」という意味にして、 「般若湯」と言ったのである。》もちろんインド仏教では飲酒は禁じられている。 『大智度論』には酒の害毒が35も挙げられているという。タイやミャンマーの僧侶は、 飲酒妻帯する日本の僧侶を「彼らは出家者じゃない」と非難するそうだ。

●釈尊が希求したこと

 結局釈尊の希求したものは何だったのだろうか。 本書を読むかぎりでは、カースト制度の廃止、男女平等を実現した平等な世の中でひとびとが理性的 (いまでいう科学的)にものを考えて生きることだったようにわたしには思える。 タイはオカマチャンの天国だというが、そういうのはかまわないのだろうか。 かまわないのだろうな。平等の範疇にはオカマチャンもはいっているだろう。

 日本では葬式といえばお坊さんの稼ぎ時で、戒名をつけるのに何十万円、何百万円と取る。 「お気持ちでけっこうでございます」とかいって。戒名は日本独特のもので、それも江戸時代にはいってからの習慣だ。 ひとの弱みにつけこんでうまい集金システムを考えたものだ。

 釈尊の葬式観はこうだ。釈尊が入滅するとき、弟子のアーナンダが葬式はどうしたらよいかと問うた。 釈尊は答えた。「アーナンダよ、お前たちは修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。 どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ。正しい目的を実行せよ。 正しい目的に向かって怠らず、勤め、専念しておれ」と。ホネなんか崇拝するひまがあったら修行せよと一喝したのだ。

「正しい目的」とは何だろうか。それは植木がくりかえして述べているように、 自己を見つめ、ダルマ(法)を身につけることだろう。

●日本に渡来したのはヒンドゥー教ではないか

 前段においてわたしは「のちに仏教がヒンドゥー教の影響で密教化するにつれて、 このホーマの儀式が仏教の中心的なものであるかのようになってしまう」と書いた。 「だからいまだに日本の坊さんは顔を赤くして護摩をたいているのだ」と。

 発生順序でいえば、バラモン教(紀元前1000年)、仏教(紀元前500年)、ヒンドゥー教(4世紀)ということになる。 『広辞苑』でヒンドゥー教を引くと、「バラモン教を前身とし、各地の土着信仰をとり入れ、四世紀頃ヒンドゥー教として確立。 その後、大乗仏教の影響をも加え、五世紀から一○世紀にかけて発展。 (中略)呪物崇拝・アニミズム・祖先崇拝・偶像崇拝・汎神論哲学などの諸要素を含み、多くの宗派に分れる。」とある。 釈尊は紀元前5世紀のひとだから、植木のいうようにカースト制度を認めない仏教は釈尊の没後おとろえてゆき、 バラモン教がヒンドゥー経と名を変えて普及した。

 さて「仏教」なるものが日本に伝来したのは5〜6世紀のこと。 日本に最も影響をあたえた漢訳仏典が5世紀の鳩摩羅什(クマラジュウ)のものだとしたら、 それはすでにヒンドゥー教の色濃いものだったということにならないか。 だから日本仏教は「呪物崇拝・アニミズム・祖先崇拝・偶像崇拝」という性格を今日に伝えているのではないか。 すなわち日本に伝わったのは、じつはヒンドゥー教なのではないかという気がしてならない。

 仏教に関する本など今まで1冊も読んだことがないから、 薄い新書1冊読んだだけで仏教が分かったなどとおこがましいことをいうつもりはないが、 「仏教、本当の教え」の一端に触れ得たことは収穫だった。