53(2013.6 掲載)

 『画文集 炭鉱(ヤマ)に生きる―地の底の人生記録(新装版)―(山本作兵衛、講談社、2011.7)

   53_tankou.jpg

●「世界記憶遺産」登録をきっかけに

 1892(明治25年)〜1984(92歳)。福岡県筑豊炭田に生まれる。 親について8歳から坑内に下がり、以来50余年を坑夫としてはたらく。 炭坑の閉山がはじまった1958年ごろから親子2代の炭坑ぐらしを記録するため絵を描きはじめる。 「絵などといえるもんじゃござっせん。ヤマの下罪人のぶざまな一生の記録にすぎまっせんたい。 ただ、炭坑(ヤマ)を知らん孫たちにかき残しておこうと思うて」と山本翁は語ったそうだ。 名優に朗読させたいほどあじわいのある文章ではないか。

 《その昔、下罪人(ゲザイニン)といわれたころの坑夫の多くは、若いときから親のもとをとびだし、 世間をさまようてはあれこれと仕事選びをし、数えきれぬほど股旅(マタタビ)を重ね、右往左往したあげく、 ついに炭坑へ流れこんだものでありました。》 ただし山本の父ははぶりのよい川舟船頭であったものが鉄道の開通で職を失って坑夫にならざるを得なかったという事情をかかえ、 山本自身はその父が坑夫となってほどなく父について坑内に下がったのであって、けして放蕩の果てというわけではない。

 本書の底本は1967年に刊行された。 2011年5月に589点の絵画や108点の日記・ノートなどがユネスコ「世界記憶遺産」に登録されたのを機に新装版が出版された。 明治30年代後半から大正7年の米騒動までの筑豊炭鉱が精密に再現され、説明文が絵の中に書き込まれている。 題材のほとんどは著者の実体験。

●67歳から描きはじめる

 弟の初節句に届けられた極彩色の武者人形に目をうばわれた山本少年は、それを絵に描いた。 それが絵に目覚めるきっかけだ。一番の悩みは紙。母にねだって買ってもらった1枚1厘の西洋紙を24枚に切って使った。

 1912(大正元年)年、徴兵検査にすべり北九州小倉の鉄道工場に勤務。 このころ下宿の漢和辞典を借り、全部をノートに書き写したとのこと。これで漢字をおぼえた。 当時の炭坑夫で読み書きのできる者はまれだったようだ。絵と文字は山本の武器だったと今になればいえるかもしれない。

 子ども時分のことはさておき本格的に絵を描きはじめたのは昭和33年67歳のこと。 朝鮮戦争が終わり、中小の炭坑はつぎつぎ閉山、自身も夜警の仕事しかできない年齢になった。 長い夜をひとりで過ごしていると、戦死した長男のことばかりが思い出されて辛くなる。 《そういうわけで、気をまぎらわせるために、昔のヤマの有様を描いて子孫の語り草に残しておくのもまた一興かと思い、 脳裏に浮かぶまま、一枚また一枚と描き重ねました。描いておると夢中になり、すぐ二時、三時になりました。 しかし、絵筆を握るのは五十八年ぶりのことですので思うように手が動いてくれません。 なにしろ五十年以上もツルハシと金槌ばかり握ってきた手ですから、それが当然でしょう。 それに、鉄は堅いと思うたことはありませんが、紙は鉄と違うて焼き直しがききません。 ずいぶん失敗があります。しかし一枚も破り棄てず、そのまま描きあげてきました。 小さいときから紙を買うのに苦労しましたから、いまだにその癖がぬけません。》

●悲惨な坑夫の暮らし

 本書は、明治大正時代の炭鉱夫がいかに劣悪な環境に置かれていたかを教えてくれる。 坑夫の長屋は粗末きわまりない。《隣の家とは七尺程度(約二・一メートル)の高さの荒塗り壁でしきられておるだけで、 天井もないので、一棟十戸の上部は端から端まで吹きぬけです。》 どこかの家が七輪の煙を出そうものなら一棟じゅうがむせることになる。

 《どこの炭坑でも、一番の難儀の種は飲み水でした。》地の底を掘り荒らすので地下水は涸れてしまう。 水くみの苦労はいうまでもない。風呂がまた悲惨なもので、役人用は4分の3坪、 職工用・坑夫用は1坪、部落出身者用の「特殊風呂」は半坪で煮詰めたみそ汁のごとき汚さであったという。

 母親は「川筋気質のかたまりのげな女」で、坑夫の身分でありながら、 権力を笠に着てひとをひととも思わぬような態度をとる者に対しては、びくともせず文句をいった。 《私がまだ子どものころのことです。母につれられて役人風呂にいったことがあります。 それを役人から咎められました。すると、母は謝るどころか、逆に役人を大声でどなりつけました。 /「なんか、キサマ! おまえは人間か、それとも神様か。神様ならいざ知らず、人間ならあんな風呂に入れるやつはおらんぞ。 がたがたぬかさんと、おまえが坑夫風呂に入ってみよ!」(中略)明治時代に坑内で働いた女には、 特にそのような性質の者が多かったと思います。また、そうでなければ生きていかれないのが、明治時代の炭坑でありました。》

●納屋制度で世間から孤立させられた坑夫

 《明治から大正にかけて、ヤマ人の生活苦をいやが上にも大きくしたものの一つに、いわゆる切符制度があります。 まえにのべましたように、炭坑では長い間切符制度で、現金は支給されませんでした。 この制度は事業主からすれば賃金支払いのため現金を調達する苦労がのうて便利ですが、 働く者が日常生活でこうむる不便と不利益は、外部の人には想像もつかぬほどひどいものでありました。》 切符だと炭坑直営の売勘場(ウリカンバ)か指定商店でしか買い物できない。地域独占企業だから不正のしほうだい。 労働者を世間から孤立させ劣悪な生活条件を押し付けるためだ。

 これを総称して「納屋制度」といった。「解説」の田川市立図書館長永末十四雄によれば、 「これは会社から請け負って労働者の雇い入れから労務管理までのいっさいをとりしきり、会社からは歩合を、 労働者からは賃金をピンはねする中間搾取の機構である。 納屋頭と呼ぶ顔役的な男の下に人繰りとよぶ監督や会計役の勘場を配下におき、いつもやくざ者を食客にして抱えている。」

 リンチも凄まじかった。《子どもの私たちは、「おーい、きょうも開坑場でさがり蜘蛛があるぞー!」と、 大勢そろうて見物にいったものです。中をのぞくと、後ろ手に縛りあげられた坑夫が天井の梁(ハリ)から吊り下げられて、 太い桜の杖で殴られておる。》ほかにもリンチ絵が多数掲載されている。

 日露戦争のころから生活は改善されてきたが、社会福祉の概念はまだなく、一家の大黒柱が倒れたが最後、 生計の輪はピタリと止まる。そんなときは有志が奉加帳を回したり、いわばチャリティーの賭場を開いたりしたという。

●夕闇の風に喜びいななく馬

 《その当時の採炭夫の仕事ほどみじめなものは、おそらくこの世にありますまい。 同じ人間として生まれながら、なんの因果でこんな地の底でモグラ生活をしなければならぬのか、 とわれながら情けない思いでした。朝は二時から三時に起きて入坑し、十時間も十二時間も働くのが、 きわめてあたりまえのように考えられておりました。》

 坑道の高さはようやく這ってすすめるほどの高さであり、 「先山(サキヤマ)」がツルハシで掘った炭をセナやスラで運び出して炭函に積みこむ坑夫を「後山(アトヤマ)」と呼んだ。 多くは夫婦・親子でペアを組む。山本は他人の娘と半年間暗い坑道で働いたことがあったが、けして手をかけなかった。 《みだりに深入りして溺れるようになれば、終生坑内から足を洗うことができなくなるのは、火をみるよりあきらかです。 私はなんとかして採炭夫をやめ、おなじ炭坑で働くにしても、せめて坑外で人間らしい仕事がしたい、と考えておりました。》

 坑内の石炭運搬には、できるだけ背が低くて力の強い馬もつかわれた。 馬は、少量の麦・藁・糠をあたえ水さえ飲ませておけば人間のように不平もいわずに働くから便利がよかった。 坑内で電力を使用するようになった大正末期からは、蹄鉄をはめた馬は感電死することが多くなった。

 《長い間坑内にさげられて働いておった馬が、無事に坑外にあがってきて夕闇の風に喜びいなないているさまをみると、 どんな冷血漢でも思わずまぶたをしばたたいたものです。馬も人間とおなじように眼を痛めてはいけないということから、 夕方暗くなって昇坑させておりました。》残酷な話だが、その場面を想像すると詩情さえ感じる。 《馬のうちでも坑内にさがって働くのは不幸なものであったでしょう。》という述懐は、わが身にひきくらべたものだろう。

●最も苛酷だったのは戦争中

 昭和6年、女子の入坑は禁止され、女は暗闇の労働から解放された。 だが《男一人の稼ぎだけに頼らねばならなくなって、家計の苦しみは深刻となりました。 人道的な法律も当事者にとっては悲喜こもごもというより、むしろ稼ぎ場所を奪われた困惑のほうが先に立ったものであります。》

 こんな人道主義では戦争の前にはひとたまりもない。炭坑労働がもっとも苛酷だったのはやはり戦争中だったという。 《我らは御国の産業勇士、出征兵士のその分までも頑張れ、ふんばれ二人前、 これが身のため国のため(中略)と掛け声も激しく石炭を掘らされていましたが、 なにしろ男の坑夫は次々に戦争に出ていって深刻な人手不足です。 そのために中小炭坑では女の坑夫が入坑し、まるで一昔前に逆戻りしたような錯覚におちいったものです。》

 産業戦士の掛け声に煽られ何も知らずに筑豊へやってくる独身坑夫は、 《一歩足をふみこんでみれば、この世の生き地獄の人身御供です。》けして大げさな表現ではない。 大手中小にかぎらずいずれもみな明治時代の大納屋同然監獄部屋と化していたという。 《こんな状態ですから、堪えるには堪えられず、逃げるには逃げられず、ついに自ら命を絶つ者もありました。 私も昭和十九年と二十年と二度つづけて、坑内での自殺を目撃しました。 二人ともダイナマイトを腹に抱いての自爆で、目もあてられない惨状でありました。 坑内で落盤その他の災害のために死ぬ者はいつの世にも数多くありますが、このように悲惨な自殺は、 こんどの戦争中以外には見たことがありません。》

 大手の炭坑には朝鮮からの徴用夫、中国人捕虜、英米の捕虜が多数強制労働させられていた。 《なにしろ日本人の坑夫さえこんな状態ですから、それこそ目も当てられないような虐待であったようです。 運よく生きのびて本国に帰ることのできた者はまだしも、こんな筑豊の炭坑で息をひきとっていった人たちは、 さぞかし死んでも死にきれない気持ちであったでしょう。》

●生き地獄を生み出す者たちへの憤り

 山本は子どものころから難聴だった。 《幸か不幸か、耳が悪いために長生きをしたようなものです。》と意外なことをいう。 《耳さえ悪うなかったら、きっと無産運動にとびこんでおったでしょう。 そうして、とうの昔に殺されてしもうておったことでしょう。 どれほど無産運動に入りたかったかしれません。しかし、耳がようきこえないばっかりに、消極的になっておりました。》

 本書は《貧乏に生まれて知恵もなく、一生をようするに社会の場ふさぎとして過ごしてきた一人の老坑夫のまずしい記録にすぎません。 したがって、ただひたすら正確にありのままを記すことのみを心掛け、それ以外のことは考える余裕もありませんでした。》 と山本は謙遜するが、「なにを」正確にありのままに記すかは、ひとそれぞれであり、 山本のばあい絵を描く原動力は、「無産運動」という言葉に象徴される生き地獄を生み出す者たちへの憤りであったのだ。 その視点が本書に迫力と凄みをあたえているのだろう。

53_tankou_2.jpg

 1967年に発行された本書の底本は、本書といくつかの点で異なっているが、もっともちがうのはカバーの装丁だ。 一組の男女がかがむ余裕もないほどの坑道を匍匐前進するような姿勢で掘り進んでいる。 炭坑労働の苛酷さを最も強調する絵を選んだのだろう。1967年といえば70年安保前夜の騒然とした時代だ。 山本の文章の末尾に無産運動の文字があらわれるのは、発行時の時代を反映しているのだ。

 それにくらべて新装版で南伸坊が選んだ絵はまるで機械で遊んでいるような情景だ。 編集者は、このご時世、底本のような暗い装丁では売れないと踏んだのだろう。本は読者の手に渡らなければ意味がない。 気軽に読んで、しかるのちに日本史の暗部を知ってほしいと考えたのかもしれない。 ……とテーサイのいいことををいいつつも、もうひとりのわたしは「どうだかね」とつぶやいているのだが。

 ちなみに底本と、さらにその後に出た『王国と闇――山本作兵衛炭坑画集――』 (葦書房、昭和56年2月発行、限定1500部、定価3万8000円)という本をならべて撮影してみた。 『王国と闇』は巨大な本で、天地305ミリ、左右428ミリある(撮影のつごうで90度回転して置いた)。 世界記憶遺産に選ばれたのはこの画集のおかげではないかと思われるほどすばらしい。 箱の装画はやはり底本と同種のもので、《この切羽では先山は草鞋ワラジもはかぬ 后山は足中ワラジをはいていた/ とにかく頭が邪魔になる作業であった。》という書入れがある。

 ◆S氏(60代男性) 今回の書評、ありがたかった。

下手くそな絵で、「これが世界記憶遺産か」と忸怩たる気分で
いたのだけれど、文章がいいのを教えてもらって安堵しています。
図書館で、読んでみようかしら。

朝鮮人の徴用の話に触れていたけれど、これ、ひどいのね。朝鮮
から徴用された人数は、都市部だと、向こう三軒両隣りから若者
一人が引っ張られたぐらいの率だったそうだね。現財務相の麻生
の父と祖父らも石炭で納屋制度をやっていた。侵略を否定しよう
とする自民党の政調会長や、同類の安倍など、何にも勉強しとら
んのね、困ったもんだ。