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『日本人の戦争―作家の日記を読む―』
(ドナルド・キーン著、角地幸男訳、文藝春秋、2009.7)
*注 《 》内はキーンの文章、「 」内は各作家の文章。
キーンは太平洋戦争のさなかアメリカ海軍の情報将校として20代はじめの3年間、日本軍から押収した文書を読む仕事をしていた。
《その中に、日本の兵士や水兵の日記があった。
おそらく最後の一行を書いた後に太平洋の環礁の上か海の中で死んだに違いない人々の苦難を綴った感動的な日記を読んで、
わたしはどんな学術書や一般書を読んだ時よりも日本人に近づいたという気がした。》
同世代の若者の日記であればなおさら心を揺さぶられただろう。
アメリカ兵は日記を付けることを禁じられた。もしそれが敵の手にはいれば米軍の作戦などがばれる危険があるためだ。
一方日本兵は日記を付けることを義務づけられた。上官が検閲して危険な思想をいだいていないかチェックするためだったという
。戦後の日本はアメリカとの思想戦にも敗れたという半藤一利のことばは印象深いが、
ひょっとしたら開戦前から思想の面で敗れていたのかもしれない。
ガダルカナルの戦闘で死んだ日本兵の多くは、アメリカ軍の銃弾ではなく飢餓のために死んだ。
日本兵は「餓島」と書いた。《戦場や海上で回収されたこれらの日記を、わたしは数週間後に真珠湾の海軍局で読んだ。
飢えと病気に苦しむ男たちの話で満たされた日記を読んでわかったのは、これまで日本人の心理がわかると公言していた者たちが、
日本人のことを普通の人間の弱さを持たない狂信者だと言っていたのが大変な間違いだということだった。》
戦時にはどの国でも相手を鬼畜のごとく言う。キーンはその迷妄からまぬかれていた。
●本書の成立過程
初出誌「文學界」2009年2月号。だから翻訳書ではあるが、原書というものはなく、原稿が翻訳されたのだろう。
「あとがき」は翻訳でなく、キーンの日本語による。これがとりわけ興味深い。
《引用した日記の著者はすでに亡くなった人たちですが、昔日の好戦的な発言を取り上げると、
その作家を愛した遺族が不愉快に感ずるかとも想像して省略すべきかと迷いました。/
もちろん、彼らの昔の考え方を暴露するという悪意はありません。ただ、あの特殊な時代をよりよく理解するためにも、
当時のインテリの日記は極めて得難い資料と判断し、子孫の皆様には「すみません」と心で詫びながら、
時代遅れの思想を引用しました。》
たまげたのはつぎのくだり。本書には荷風の『断腸亭日乗』がよく出てくる。
「摘録」ではあるが岩波版を読んだわたしは、見覚えのある文章に出くわしてうれしかった。
ところがキーンによれば岩波版は日記の原文にだいぶ手を加えたものであり、
東都書房版の『永井荷風日記』のほうがもとのかたちに近いらしい。
《例えば、昭和二十年九月二十八日の記載ですが、東都書房の本ではこうなっています。/
昨朝陛下微服微行して赤坂霊南坂なる米軍の本営に馬氏元帥を訪がせ給へりと云。/
一方、「断腸亭日乗」では、こう書かれています。/
昨朝天皇陛下モーニングコートを着侍従数人を従へ目立たぬ自動車にて、
赤坂霊南坂下米軍の本営に至りマカサ元帥に会見せられしといふ事なり。》
日記の原文は「日乗」よりずっと難解なものだったのだ。「微服微行」がわからない。
これをキーンがかみくだいてくれる。微服は人目につかない粗末な服装、微行は身分の高いひとが人目を忍んで外出することだという
(「訪がせ」については意味は察しが付くけれども、わたしは読めない)。
《前者には政治的皮肉がはっきり現れ、大げさな言葉遣いが滑稽な雰囲気を醸し出すのに対し
、後者からはユーモアが消され、事実を淡々と述べるに過ぎない調子になっています。》
荷風は日記を発表するにあたって無教養な庶民にもわかりやすいよう改竄し、
アメリカ人のキーンは底本の字句解説・鑑賞方法まで教えてくれる。ありがたいやらなさけないやら。
《当初、わたしは昭和二十年(一九四五)のことだけを書こうと考えていました。
日本にとってまさに歴史的な、この年には忘れがたい事件が続発し、国民には絶望と希望が交差します。
この一年を取り上げるだけで充分、一冊の本になりうる資料がありますが、
ここに至る過程で起きた幾多の出来事を知らなければ、変化の大きさを把握することが難しいと判断して、
あえて前五年も含めて書きました。日本という国が生れてから今日までの歴史の中で、最も劇的な五年間です。》(あとがきから)
大東亜戦争開戦の昭和16年から敗戦後の昭和21年まで、主に永井荷風・高見順・伊藤整・山田風太郎、
そのほか清沢洌(キヨシ)・内田百閨E徳川夢声などの日記がとりあげられている。
どれもよく知られた日記であるにもかかわらず、
《日本の大東亜戦争の勝利の一年間と悲惨きわまりない三年間について語る人々によって、
時代の一級資料として使われたことがほとんどない。》とキーンは言う。
「幾多の出来事」を述べながら、そのときどきの作家の日記を引用し、
彼らが何を考えていたかを分析し明らかにしようとするこころみ。
あまりにも多くのことが起きるので、読み進めるのは楽ではない。
編年体で書かれているものを作家別に分解して、自分なりに再構成した。
いささか強引の感はわれながら否めない。わたしの目には左翼の高見順と右翼の山田風太郎の日記が対照的で面白く、
このふたりを取り上げる分量が多くなった。
T 開戦から敗戦まで
《英米との戦争が勃発したことを知って、これまで日記などつけたことのない者まで含めて、
数多くの日本人が日記を書き始めた。この戦争が日本の歴史の一大事件となるに違いないと信じ、
新聞に報道される新しい事態を刻一刻と日記に記録することで、栄光の時代を記憶にとどめようとしたのだった。》
日清・日露のころよりマスコミが発達しているから栄光の記録はよりいっそう華やかなものになるだろう
と筆記者は胸躍らせたにちがいない。新聞に対する信頼に揺るぎがないのは、現代に生きるわたしの目にはやや奇異に映る。
●永井荷風
荷風は金に困らなかったので時局迎合の作品を書いて売る必要がなかった。
日記は反軍思想で貫かれているが、浅草の踊り子と写真を撮って喜ぶスケベじじい(キーンがそういうことばを使っているわけではない、
念のため)と見なされ、日記を警察に調べられることはなかった。
――とキーンはいうけれども、『日乗』を読むと、家宅捜索をおそれ外出時には必ず持ち歩くなど、
日記の秘匿にはずいぶん要心している。
青野季吉のような左翼思想の持ち主でも、天皇陛下の臣下として一死報国のときが来たと記している。
開戦当初は連戦連勝だったから国民の愛国心は異常なほど昂揚していった。
開戦の新聞号外が出た昭和16年12月8日、
ひとり荷風は「六本木行きの電車に乗るに乗客押し合ふが中に金切声を張上げて演説をなす愛国者あり。」と冷静に観察し、
12日には大政翼賛会のスローガンをつかったポスター「屠れ英米我等の敵だ。進め一億火の玉だ。」が
いたるところに貼られているのを見て、「現代の人の作文には何だの彼だのと駄の字をつけて調子を取る癖あり。
駄句駄字と謂ふべし。」と別角度からヒニクっている。
アッツ島の玉砕(昭和18年、1943)、特に守備隊長山崎大佐は、多くの日本人文学者を感激させるにとどまらず、
インドネシアの代表的詩人までも感激させてこう言わせている。
「アッツ島のサムライ戦士、ああ、ぼくの理想の権化。この人とぴったり心を合わせていこう。/
見てごらん。この、至高至尊の天皇陛下、祖国、そして国民に対する、自覚の頂点に達した最高の献身を。」
ところがひとり荷風は動じない。「凡そ一国の興亡は一時の勝敗と一将帥の生死によりて定まるものに非らず。
おのれが名誉と一刹那の感情のために無辜の兵卒を犠牲にして顧みざるは不仁の甚だしきものなり。」
いくさの勝敗は一時的なことで、敗戦後の展望も見据えて行動しなければならない。
日本人の大半は太平洋戦争のさなかにすっかりそのことを忘れてしまった。
それにしても勇猛果敢なサムライのイメージは戦後もつづき、現在も世界中のひとびとの心の中に残っている。
だからこそサッカーの国際試合で日本人選手が身につけるのは、「サムライブルー」のユニフォームであり、
野球の国際試合WBCにおける日本のマークは「サムライジャパン」と称する袴姿に剣のごとくバットを下げた男のシルエットなのだ。
「無辜の兵卒を犠牲にして顧みざる」戦法はいまだ国内外に有効であるようだ。
この国の指導者はまたおなじことをくりかえすだろう。
●高見順
高見順が日記を付けはじめたのは、政府の報道班員としてバリ島に派遣されて以降。
マルクス主義運動で昭和初年に検挙されてからは警察の家宅捜索を恐れて日記を付けられなかった。
《高見はバリ島の人々に同情し、白人の植民地支配からの解放を心から望むようになったと書いている。
これは左翼、ならびに日本の軍国主義者の考えが一致するテーマだった。》
中国では日本軍部の中国人に対する残忍な行為を目撃している。
高見の日記は、敗戦に怯え占領に苦しむ日本人の記録として最も意義があるとキーンは見ている。
《昭和二十年二月二十七日、東京を訪れた高見は、その破壊の規模に愕然とした。
(中略)高見は、東京が焼け野原になったという噂さえ聞かなかった。》高見は書く。
「家に帰ると新聞が来ている。東京の悲劇に関して沈黙を守っている新聞に対して、いいようのない憤りを覚えた。
何のための新聞か。」
鎌倉に住んでいた高見は、母親を疎開させようとして上野駅へ行く。
すこしでも安全な土地へ逃げようと必死になっているひとびとを見て、高見は前年中国で見た同様の光景を思い出す。
《上野駅ほど混雑していたわけでもないのに中国人は大声でわめき立て、あたりは大変な喧騒だった。
そうした喧しい中国人に比べて、おとなしく健気で、我慢強く、謙虚で沈着な日本人に、高見は深い感銘を受ける。》
これはキーンによる要約文だが、この一節を読んで、
あの3.11直後の避難所で黙々としておにぎりの配給の列にならんだ東北のひとびとを思い出さない者はいないだろう。
こんなときは世界のどこでも暴動と略奪が起きるものなのに。
本書は東日本大震災以前に発行されたものだが、震災当時アメリカにいたキーンもおそらく行列の光景に感銘を受け、
高見の文章を思い出したにちがいない。
キーンはすぐつづいて高見の一節を引用する。「私の眼に、いつか涙が湧いていた。
いとしさ、愛情で胸がいっぱいだった。私はこうした人々と共に生き、共に死にたいと思った。
否、私も、――私は今は罹災民ではないが、こうした人々の内のひとりなのだ。
怒声を発しうる権力を与えられていない、なんの頼るべき権力もそうして財力も持たない、黙々と我慢している、
そして心から日本を愛し信じている庶民の、私もひとりだった。」
この一節を想起してキーンは自分も日本人になりたいと思ったのではないか。
その後津波で流された数千万円にのぼる現金や数千個にのぼる金庫が警察に届けられたこともあきらかになる。
……わたしとしてはここで文章を止めたほうが感動的だろうというスケベ心がわいてくるのだが、性格がそれを許さない。
従順で穏やかな日本人の生態は当時世界中で話題になったものだが、
しかしその一方、強制避難命令でもぬけの殻になった被災地に忍びこんだ賊どもは、
会社、コンビニのATM、一般住宅を狙い、数億円の荒稼ぎをしたのだった。
金銭より腹立たしいのは京都の「大文字焼き」だ。
震災当初、「絆」だとか「こころは一つ」などセンチメンタルなキャッチフレーズが大流行した。
津波によって全滅させられた陸前高田の松原を、丸太にして放射線検査をしたうえで、
8月16におこなわれる「大文字焼き」の薪としてつかってもらい、
それで亡くなったかたがたの鎮魂に供しようということに京都と陸前高田はいったんは合意した。
ところが土壇場になって、京都市民はそんな放射能のついた松なんか燃やしたら危のうどっせかなんか言いだして、突き返した。
そんなことも忘れたかのごとく年末の清水寺の坊さんは、2011年「今年の漢字」として「絆」と書いた。(つづく)
◆S氏(60代男性)
ドナルド・キーンはいい。『高見順日記』の、上野駅部分を読んで、 もう一回、連載を続けてくれても、個人的には嬉しかったのに。 そうも、いかないか。
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