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 『日本人の戦争―作家の日記を読む―  (ドナルド・キーン著、角地幸男訳、文藝春秋、2009.7)

    (8月号からのつづき)

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 *注 《 》内はキーンの文章、「 」内は各作家の文章。

T 開戦から敗戦まで(つづき)

●伊藤整

 伊藤整は、アングロサクソンの列強を破ることが、日本人が世界で最もすばらしい人種であることを示す好機であると戦争に驚喜した (戦後はさすがに発表できず、自分が生きているあいだは日記の発表を許さなかった)。 ところが伊藤の観察によれば、町やバスで見かける誰一人として戦争のことを話題にしているようには見えず、 だれもが「むっとしている」ように見えた。なぜか。常識的な日本人は今後のゆくすえに危うさを感じていたからだろう。

 伊藤は1930年代に『ユリシーズ』を翻訳している。 キーンは《難解なジョイスを翻訳するという緊張の連続が、「アングロサクソン」に対する伊藤の憎しみを煽ったであろうことは 容易に想像できる。》とか《自分たち日本人が英文学のなかでも一番難解な作品を翻訳したにもかかわらず、 「アングロサクソン」は現代日本文学に何も関心を示さないという事実に憤慨したかもしれない。》とずいぶんうがった見方をしている。 文学者でなければ気づかない視点だろう。

 《伊藤自身は、真珠湾の奇襲でアメリカの艦船が撃沈されたニュースに「日本のやり方日露戦と同様にてすばらしい」と 快哉を叫んでいる。》これをキーンは旅順も真珠湾も《どちらの奇襲も一般に認められる戦争の原則に反する行為として 外国の非難を浴びた。》やんわりと批判している。

 だがわたしは素直にはうなずけない。一般人を殺してはならないという国際法があったはずだ。 こちらだって「一般に認められる戦争の原則に反する行為」ではないか。アメリカは日本の都市という都市をすべて焼き尽くし、 東京大空襲では10万人、広島・長崎の原爆投下では数十万人も一挙に殺している。 真珠湾でなくなったアメリカ人のかずとは比較にならない。ただし死者の多さをもって自己を正当化することはできない。 キーンが問題にしているのは開戦の端緒、奇襲戦法の非道だから。

 それでもだまってはいられない。古来戦争というものは常にだまし討ちであり、「勝てば官軍」の法則も普遍的なものであるからだ。 戦後アメリカは日本をどう扱ってきたのか。沖縄の現況を見ればわかるではないか。 日本は属国であり沖縄は戦利品であり、日本人はグークスであると米軍兵はいまでも教えられている。

 キーンの指摘するとおり伊藤は英語をなりわいとしながら、それが悔しくてたまらない。 英語民族が地球上の最も優れた文化と力と富を保有している。 「その意味は、彼等がこれまで地球上の覇者であったということだ。この認識は私たちの腹にしみ込んでいる。 そしてこの認識が私たちの中にあるあいだ、大和民族が地上の優秀者だという確信はさまたげられずにいるわけには行かなかった。」 明治維新以来欧米の文化文明の高さを見せつけられ劣等感に打ちのめされてきた日本人は、いや伊藤は、 ここで戦争に勝つことによって地上の優秀者であることを証明せずにはいられないのだ。

 ところがキーンはこれも軽くいなしてしまう。《伊藤の予言によれば、戦争が終わった時点で新しい文学が華々しく花開き、 それは昭和初期の文学とはまったく違うものとなるはずだった。その予言は正しかったが、 伊藤は実際に起こった変化の性質までは予見していなかった。また伊藤は、自分が人生において博した最大の名声が、 ひとりのアングロサクソン民族によって書かれた小説「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳者としての(戦後における)名声であることも 予見できなかった。》もし伊藤がこれを読んだら悶死したかもしれない。

 英文学に通暁した吉田健一も「我々の思想の空からは英米が取り払はれたのである。」と開戦をたたえる。 ある詩人は「米英を/葬るとき来て/あな、清し/四天、一時に/雲晴れにけり」とうたっている。 これらの詩文が単なる戦争賛美の作品であるとは思えない。知識人にとって「英米の雲」は明治維新以来ほんとうに 重苦しいものだったのだろう。

 戦後生まれには、それほど重苦しいものではない。先達のおかげで「アメリカに追いつけ追い越せ」はある程度達成され、 要するに貧乏人は金持ちから侮蔑される、それが世の常であるから、1400兆円もの貯金をしたことによって失地回復はなされた。 ……のだがあいかわらず「年次改革要望書」の紙切れでパシリをやらされ、 アメリカの要望は「郵政民営化」や「労働者派遣法改正」などいくつも通っているのに反し、 日本側の要望はひとつとして通っていないそうだ。

 ガダルカナル、アッツ島での敗北を大本営は伝えなかったが、風説は伝えた。 「平和な国内の生活は、悉くこういう前線に支えられてあるのだと思うと、毎日の静けさも、 たまゆらの陽炎のようなものに思われ、それだけ一入、人の歩く姿、電車の走る姿、木の葉の繁りにも、 生きている静かな存在の味いが濃厚に感じられる。」こういう感覚は、平時にいるわれわれにも容易に想像がつく。 しかし次の文はどうか。

 「……傷病者の自決した後に突撃全滅したというアッツ島の兵士たち、なんという一筋の美しい戦いをしたことであろう。 これは物語ではなく、行為であり、肉体をもって示された事実なのだ。これが今後の日本軍の戦闘法の典型になるだろう。」 こんなものが典型になっては困る。現代人はまさかこのように美しくとらえはしないだろう。

 伊藤はヒットラーをたたえる。ミュンヘンのビアホールでの演説を読み、こう書く。 「読んでみると、やっぱり、この演説をした人は天才であるとの感を深くする。人の心を把握する力は、素晴らしい。 (中略)この戦争は、十九世紀以来の民主的社会思想の表現した「人間の弱点の正当化」という、 人とは弱いものなりとの観念を踏み破り、意志の力、人格の尊厳、人間の美しさにこの上ない価値を見出してきている。」

 斎藤茂吉は、「ヒ総統暗殺未遂事件は私等をしてひどく心痛せしめた。」と書き、 石川淳も「ドイツに関する限り、ヒトラアはみごとな指導者に相違ない。 (中略)今後、万一彼が失敗したとしても、それは美しいものだと想像される。」 インテリたちの当時の感覚がこうもわれわれと異なると、現在われわれがいだいている世界観・歴史観も しょせん教育や報道の結果に過ぎないのかもしれないとおもえてくる。 現在西洋人の口からヒットラーをたたえる声などついぞ聞かないが、なんでもかでもヒットラーひとりの責任にすることによって、 おのれの責任をうやむやにしようとしているのではないかとわたしには感じられる。

 伊藤は、昭和18年ブーゲンビル島で敵の戦艦3隻を撃沈したというニュースをラジオで聞き、「心の躍る」のを禁じ得なかった。 《事実は、アメリカの戦艦は一隻もこの海戦に参加していなかった。》19年の沖縄海戦では、 敵空母10隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦1隻を撃沈、その他19隻を撃破した、と大勝利が発表され、 国民は一気に自信を回復、《十月二十一日、天皇は大本営に御嘉尚(ゴカショウ)の勅語を発した。 天皇もまた、敵損害の誇張された報告を信じるように暗黙のうちに誘導されていた。》ところがだ、 《アメリカが大敗北を喫したと思われた後、現場に飛んだ日本の偵察機は、 驚いたことにアメリカ艦隊がほとんど無傷であることを発見した。》

 アメリカは実際勝っていたのだからインチキ発表をする必要はなかったが、 それでも開戦時の打撃には動揺してインチキ発表をしたとキーンは述べる。消沈したアメリカ人を元気づけたのは、 《大胆不敵な操縦士コリン・ケリーが決行した戦艦「榛名」の撃沈だった。 ケリーは、「榛名」の煙突めがけて機体ごと飛び込んだのだった。》これだと神風攻撃はアメリカ人の発明だったことになる。 ケリーはアメリカ陸海軍最高の名誉勲章を受けた。明るい話題が必要だったのだ。ところが、 《昭和十八年二月に真珠湾に配属されたわたしは、「榛名」が依然として航海中で損傷さえ受けていないことを機密事項として知らされた。》

 神風攻撃に関してはどの作家も最大限の賛辞を惜しまない。神風特別攻撃は、「日本民族の至高の精神力の象徴である。 これで日本が勝てぬようならば、人間の精神力というものの存在の拒否となり、 人類は物質生産力による暗黒支配の中に入るとしか考えられない。」と伊藤はいい、 横光利一は、「私はこの特攻精神を、数千年、数万年の太古から伝はつて来た、 もつとも純粋な世界精神の表現だと思つてゐる。」という。

 わたしの個人的な情報源によれば特攻隊員には覚醒剤が与えられていたようだ。 敗戦後除隊になった「あにき」が袋いっぱいの覚醒剤をおみやげにふるさとに帰ってきたので、 それと察した家族があにきを屋敷の太い柱にしばりつけ、数ヵ月かかって覚醒剤を抜いたという話を ある田舎のおばちゃん(住込みの家政婦)から聞いたことがある。阿鼻叫喚の地獄絵図だったという。 どこに「精神」があるのか。世情にうとい田舎のひとでも覚醒剤が見抜けたというのに、 情報量の多い都会の知識人だけがなぜ無知なのかわからない。

 寝たきりの重度障害者には何を話してもドートイウコトハナイと警戒心がゆるむのだろう。 こんなことを教えてくれた家政婦もいた。ご亭主は元ナイチョーらしい。OBの集まりに同席したようだ。 佐藤A作は新喜楽で脳卒中を起こして死んだことになっているが、じつはナイチョーに殺されたとか。 「ノーベル賞受賞者を逮捕するわけにはいかん」「岸も涙を呑んだな」という会話が交わされていたという。 真偽のほどは保証できない。自慢げにええかげんなことをいうひともいるからね。

●山田風太郎

 山田風太郎は勝利以外の終戦など想像することさえ拒否していた。敗戦後も復讐を訴えている。 誤った情報が誤った判断をもたらすのは当然のことであり、無知な一般大衆が大本営発表を鵜呑みにするのは無理からぬことなのだが、 山田はインテリの医学生だ。空襲のさなかでも敗戦の年でもヨーロッパの小説を読みあさっている。 《山田とわたしは、ほとんど同じ時期に同じ本を読んでいたにもかかわらず、ふたりの世界観は根本的に違っていた。》

 日本の大都市が軒並み空襲を受けて灰燼に帰しても、《多くの日本人は、この期に及んでなお最終的な日本の勝利を信じていた。》 とキーンは言う。《山田風太郎は日記の中で、こうした日本人が抱く自信と、敵国の人々が抱く自信の性格を比較している。 富強に頼るアメリカ、広大な領土に頼る中国、不敗の伝統に頼る英国と違って、 日本人を支えていたのは日本魂に対する信仰だけだった。》

 昭和20年正月に書かれたとおぼしき日記のなかで銭湯のようすを山田はこう観察している。 「十七年はまだ戦争の話が多かったと憶えている。十八年には工場と食物の話が風呂談義の王座を占めていた。 十九年は闇の話と、そして末期は空襲の話。(中略)今ではいくら前の晩に猛烈な空襲があっても、こそとも言わない。 /黙って、ぐったりとみな天井を見ている。」

 5月、山田はヒットラーの死を知って、「彼や実に英雄なりき!」と絶賛している。 6月、B29がまいたビラに、「君達の勇敢なことは吾々もよく認めた。しかし戦いは明らかに君達に不利である。 (中略)米国の船舶航空機の生産力は、日本とは太陽と星ほど違う。(中略)日本国民諸君よ!  君達の幸福はまず剣を置くことから始まる。そして戦争以前の友達になって米国に手をさしのべて来たまえ。 吾々は君達を決して不合理な待遇で迎えない。」とあるのを見て、さすがにうまいものである、と論評しながらも、 「しかし彼らは、日本人が降伏の上にいかなる幸福もあり得ないことを信じていることを知らないのである」とつづけている。 狂信者には何をいっても通じない。

 空襲によって破壊された町を見て23歳の山田はこう思う。「われわれは冷静になろう。冷血動物のようになって、 眼には眼、歯には歯を以てしよう。この血と涙を凍りつかせて、きゃつらを一人でも多く殺す研究をしよう。 /日本人が一人死ぬのに、アメリカ人を一人地獄へひっぱっていては引合わない。一人は三人を殺そう。二人は七人を殺そう。 三人は十三人を殺そう。こうして全日本人が復讐の陰鬼となってこそ、この戦争に生き残り得るのだ。」

 山田と同い年であり、かつ読書歴の酷似しているキーンには、このファナティックな考えが理解できない。 《たぶん、わたしたち二人を隔てる最大の違いは、山田が抱いたような敵に対する憎しみをわたしが持たなかったことだろう。 勿論、わたしはアメリカが勝つことを望んでいた。しかし、わたしは自分が尋問した日本人の捕虜に温かみを感じたし、 そのうちの何人かとは友達になった。わたしは一人でも多くの日本人が戦闘で殺されることを望む代わりに、 一人でも多く捕虜となって助かって欲しかった。おそらくわたしに憎しみが欠けていたのは、 少なくとも日本人はわたしの住んでいる町を破壊しなかったし、日本人がわたしの国を占領するのではないかと 恐れることもなかったからに違いない。わたしは何十万という日本人が殺されればいいと思ったことはない。 原爆投下は、わたしにはひどい衝撃だった。》

 と、ふたりの感情のちがいを分析している。勝者の余裕だがと謙遜してみせるところはキーンの奥ゆかしさであり、 それは持って生まれた性格だろう。わたしは、キーンが尋問というかたちではあれ日本人と個人的に知り合って 「鬼畜ではない」と知ったことが大きかったのではないかとおもう。 日本人庶民の多くは政府に教えられたとおり欧米人を鬼畜だとおもっていたにちがいない。 無知は誤解を生み、誤解は憎しみを生む。

●渡辺一夫

 それほどページ数を割いているわけではないが、キーンは東大仏文科教授の渡辺を高く評価しているようだ (以下の日記を書いたときは助教授)。渡辺は以前からつけていた日記を「後世の役に立たない」とおもって一度は捨てていた。 ふたたびつけはじめたのは、東京大空襲の翌日3月11日から。

 「・もし竹槍を取ることを強要されたら、行けという所にどこにでも行く。しかし決してアメリカ人は殺さぬ。 進んで捕虜になろう。/・国民のorgueil〔高慢〕を増長せしめた人々を呪ふ。すべての不幸はこれに発する。」

 《繰り返して渡辺が書いているのは、国民に対する日本の指導者層の冷酷さについてだった。 /「サイパンの病院。玉砕前患者に手榴弾を渡す。若干の捕虜を生ず。硫黄島の場合には医者が患者を毒殺することに決したりと」 /当時の日記の筆者の多くと違って、渡辺はヒットラーに同情を抱かなかった。渡辺は言う。 /「ヒトラー、ムッソリーニ、ゲッベルスが死んだ。苦しんでいる人類にとって、何たる喜び! いずれも怪物だった」》

 新潟の燕に疎開している家族に渡辺は合流する。そこで書いた日記。 「何千何万という民家が、そして男も女も子供も一緒に、焼かれ破壊された。夜、空は赤々と照り、昼、空は暗黒となった。 東京攻囲戦はすでに始まっている。/戦争とは何か、軍国主義とは何か、狂信の徒に牛耳られた政治とは何か、 今こそすべての日本人は真にそれを悟らねばならない。/しかし無念なことに、真実は徐々にしかその全貌を露わにしない。 地方では未だに最後の勝利を信じている。目覚めの時よ、早く来れ! 朝よ、早く来れ!」

 ほかの文筆家とちがい渡辺は学究の徒であるからか、事実認識がしっかりしている。 最もわたしが共感をおぼえるのは、沖縄戦の最中に書かれたつぎのくだり。「しかし遅かれ早かれ敗北するだろう。 沖縄制圧後の米軍がどうでるか、我々はどうするか? 徹底的な爆撃、これに対し我々はやけくその抵抗。 軍人どもは至誠の御稜威を勝手に利用し、我々を殺人と自滅に駆り立てている。/ぼくは初めからこの戦争を否認してきた。 こんなものは聖戦でもなければ正義の戦いでもない。我が帝国的資本主義のやってのけた大勝負にすぎぬ。 当然資本家はこれを是認し、無自覚な軍国主義者は何とか大義名分を見つけようとしたのだ。」

 キーンの考えも渡辺に近いのではないかと思われる。《渡辺は左であれ右であれ、いかなる「主義」にも我慢がならなかった。 それは、幻燈によって映し出された不合理な虚構、つまり各国が自国の立場を正当化するために作り上げた嘘に過ぎないと考えていた。》

 わたしは「帝国的資本主義のやってのけた大勝負」という定義づけに共感する。ただしわたし流にいえば、 それは米英にしても事情はおなじで、欧米だけで世界の富を分け合おうとしていたところへ 極東の小国が割り込んできたものだから叩きつぶそうとしたのだ。

●清沢洌

 清沢洌に関してキーンは《軍部に率直に反対を表明していることだけとっても繰り返し引用するに値した。》と激賞している。 清沢は言う。「大東亜戦争は非常なる興亡の大戦争也。筆を持つ者が、後世のために、何らかの筆跡を残すは、その義務なるべし。 すなわち書いたことのない日記をここに始む。将来、大東亜外交史の資料とせんがためなり。」日記は文筆家の義務に思えたのだ。 キーンはまた清沢のこんなくだりを引用する。「『仇討ち思想』が、国民の再起の動力になるようではこの国民に見込みはない。」 山田風太郎と対比しているのだろう。

 ここまでを大ざっぱに総括すると、批判精神のない右翼は体制のいうがままになり、 批判精神を持った左翼は体制側の発表をいつも眉に唾付けながら受けとめてきたといえる。 キーンはここに両極端の文人たちの日記を集めた。しかしながらわたしは第3のグループ、 荷風のような右でも左でもない洋行帰りの教養人もまた批判精神旺盛なマユツバ派で、 これが最大のグループではなかったかと推測する。べつに洋行帰りでなくても日記なんか付けなくても、 市井の常識人は、開戦時はともかく大本営発表など信じていなかったし、天皇が神であるとも信じていなかったとわたしはおもう。 戦後あれほどまで急速に民主主義体制が構築されていったのは、この第3のグループが大勢を占めていたことの証拠ではないか。 幕末、日本の識字率は世界一だった。いまでも世界一だ。(つづく)