57(2013.10掲載))
『日本人の戦争―作家の日記を読む―』
(ドナルド・キーン著、角地幸男訳、文藝春秋、2009.7)
(9月号からのつづき)
*注 《 》内はキーンの文章、「 」内は各作家の文章。
U 敗戦後
昭和20年いよいよ敗色濃厚となり、7月26日に米英中が発表したポツダム宣言は、
日本が無条件降伏しないかぎり連合軍は日本を「迅速かつ徹底的に壊滅させる」と殲滅を告げた。
《建前としてまだ(日ソ)中立条約に縛られていたソ連は、ポツダム宣言に署名しなかった。
このことが、ソ連の調停に対する日本の期待を強めた。
しかし最初の原爆が広島に投下された二日後の八月八日、ソ連は日本に宣戦布告し、期待は打ち砕かれた。
翌日、ソ連軍は国境を越えて満州、朝鮮に侵入した。》
なにもあらためてキーンに教えてもらうまでもなく、日本人ならたいてい知っていることなのに引用するのは、
キーンもまたソ連のやり口は卑怯だと思っていることをうかがわせるからだ。
ちなみに高見順はこう述べている――。ソ連の宣戦については「車中でも歩廊でも」誰も何も言わない。
「外では話をしない。下手なことをうっかり喋って、検挙されたりしたら大変だ。その顧慮から黙っている。
全く恐怖政治だ。」
●山田風太郎
玉音放送に対する山田の反応はこれまで見てきたとおりだ。放送はよく聞き取れなかったらしい。
ラジオの音質は悪く、天皇のことばは難解に過ぎた。「これはいよいよソ連に対する宣戦の大詔であると確信した。
いまや米英との激闘惨烈を極める上に、新しく強大ソ連をも敵に迎えるのである。
(中略)『最後の一兵まで戦え』/陛下のこのお言葉あれば、まさに全日本人は歓喜の叫びを発しつつ、
その通り最後の一兵まで戦うであろう。」最後の一兵って、自分は入っているのだろうか。
丙種合格だから安心してそんなことをいうのではあるまいな。
どうも山田の好戦主義は彼の丙種合格の劣等感に由来するような気がしてならない。
きっと質のいいラジオを所有していて玉音放送の意味を正しく聞き取った梨本宮伊都子妃(1882〜1976)は、
くやしさを日記にぶつける。「しかし、とてもとても筆にはつくしがたきくやしさ。アアこれで万事休す。
昔の小さな日本になってしまふ。これから化学を発達させ、より以上の立派な日本になさねばならぬ。
国民は陛下のこの有難き大御心に対し奉り、全力のあらんかぎりを尽し、国の発展をはからねば申わけがない。」
昔の小さな日本になってしまうことを嘆くとはなんとむじゃきな帝国主義者。
これから「化学」を発達させとは、いまでいう「科学」のことだろうか。
敗戦は技術のおくれが原因という考えは当時の日本人の多くが抱いたものなのだろう。
梨本宮はつづけて「ゆっくりと考へれば、此四年間、命をささげてたたかった吾軍の将士、
あまたの戦死者・戦傷者が実に気の毒とも何とも云ひ様なく、又空襲のため家はやかれ、親子わかれわかれになり、
悲しき思ひをした人々の口惜しき、
何度もいふが一度でよいから米本土にこのくるしみをあぢわひさせてからにしてやり度かった。
今後は神の御力のあらんかぎり米英の人々を苦しめなければ、うらみははれぬ。
どうしてもこのうらみははらさねばならぬアアアアーーー。」
さいごはちょっとわらってしまふ。キーンはおもしろいものを見つけてきた。たしかに恨み骨髄のひともいただろうが、
大多数の日本人は敗戦というより終戦ととらえて安堵したのではなかろうか。梨宮のような文章を書いた者も、
時がたつにつれ時流に合わないなと考えなおしてそれを破棄したにちがいない。
なにしろこれまで日記などつけたことのない者まで含めて、数多くの日本人が日記を書き始めたのは、
この戦争が日本の歴史の一大事件となるに違いないと信じ、栄光の時代を記憶にとどめるためだった。
狂信の夢が覚めたあとでは、ただ恥ずかしいだけの日記だ。
山田風太郎のように戦中日記を発表した者は潔いとすらわたしには感じられる。
プロレタリア作家平林たい子は玉音放送のなかに「ポツダム宣言の受諾」ということばを聞いて無条件降伏と知った。
「あり得ぬことに非ずと心に用意はあれど、あっと驚く。(中略)ああついに終った。終った。
戦争も、何も彼も、終ったのだ。終ったのだ。/天に向いて、何か百遍も叫んで躍り上ってみたき心地なり。
解き放たれたのだと思いたいけれど。緊縛の強かりしためかすぐに解放の感覚は起らぬなり」。
梨本宮と平林の反応の差は何によるのだろう。富裕層と貧困層のちがいともいいきれない。
平林の隣人はポツダム宣言の何たるかを知らず、無条件降伏だと教えてやると初めて泣きだす。
表どなりの婆さんは涙ふきふき駆けつけて「いつでも死ぬ覚悟はできている」と泣きじゃくる始末だ。
渡辺一夫・清沢洌・平林たい子のような反体制組が、体制側の崩壊を喜んだということか。
山田は梨本宮と同類。「富国強兵の日本は消滅した、一刻も早く新しい美と正義の日本を築かねばならぬ」
などと口走るひとびとが許せない。「全然新しい日本など、考えてもならず、また考えても実現不可能な話であるし、
そんな日本を作ったとしても、一朝事あればたちまち脆く崩壊してしまうだろう。
/にがい過去の追及の中に道が開ける。まず最大の敗因は科学であり、さらに科学教育の不手際であったことを知る。」
と述べている。精神力では負けていなかったが物量で負けたと多くの日本人はとらえていた。
山田のいう科学は原爆を意味するのかもしれない。陸海軍ともに敗戦直前まで原爆製造をもくろんでいたのだから。
一家心中まで考えた海野十三は、昭和20年大晦日の日記に、「さりながら、我が途は定まれり。
生命ある限りは、科学技術の普及と科学小説の振興に最後の努力を払わん。」と書き残した。
日本のSFの発達のもとにはこのような熱狂的な科学信仰もあったのだ。
敗戦後の9月には新聞が軍閥をたたきはじめ、「われわれ言論人はこの威圧に盲従していたことを恥じる。
過去の十年は、日本言論史上未曾有の恥辱時代であった」などとぬけぬけという、と山田は反発してこういう。
「不合理な神がかり的信念に対して、僕などは幾たび懐疑し、周囲の滔々たる狂信者どもを、
或いは馬鹿々々しく思い、或いは不思議に思ったか知れない。
そして結局みなより比較的狂信の度は薄くして今日に至った。」
オイオイって感じ。戦時中に自分がどんな日記をつけたか忘れたかのようだ。
つづけて「さて、この新聞論調は、やがてみな日本人の戦争観、世界観を一変してしまうであろう。
今まで神がかり的信念を抱いていたものほど、心情的に素質があるわけだから、
この新しい波にまた溺れて夢中になるであろう。
――敵を悪魔と思い、血みどろにこれを殺すことに狂奔していた同じ人間が、一年もたたぬうちに、
自分を世界の罪人と思い、平和とか文化とかを盲信しはじめるであろう!」
キーンは山田に対するヒニクともとれる一文を引用し、
ついで山田の先見の明をほめるかのような文章も引用してバランスを取ったようだ。
《この時期、敗戦が日本をどのように変えるか、多くの作家が予言した。
山田風太郎の予言は、中でも的を射ていた。「この分では、いよいよ極端なる崇米主義日本に氾濫横行せん。
これはある程度まで必要ならんも、当分上っ調子なる、ヒステリックなる、暴露のための暴露の小説評論時代来らん。
而してそのあとにまた反省か。――実に世は愚劣なるかな。」》
《八月十五日の山田の日記は、「復讐記念日」と題されている。
九月二十五日、山田は「如何に新聞がアメリカ様々を礼賛しようとも、日本青年の九割はなお一点の火を点ずれば、
敢然として復讐の剣を把る決意を潜在せしめている」と断言している。》
戦争中とはまるで違うことを言いだす作家がいて、山田はそれを攻撃する。
10月、石川達三は毎日新聞に書いた「暗黒時代は去れり」という記事のなかで、
いまの日本人の根性を叩き直すためにマッカーサー将軍にはできるだけ長く日本に君臨してもらいたいと書いた。
《山田はこれを「何たる無責任、浅薄の論ぞや」と批判し、次のように石川を攻撃する。》
「彼は日本現代の流行作家の一人として、戦争中幾多の戦時小説、文章、詩を書き、
以て民衆の心理の幾分かを導きし人間にあらずや。
開戦当時日本の軍人こそ古今東西に冠たるロマンチストなりと讃仰の歓声あげし一人にあらずや。
/彼また鞭打たれて然るべき日本人中の一人なり。
軍人にすべての責任を転嫁せしめんとする今の卑怯なる風潮に作家たるもの真っ先に染まりて許さるべきや。
戦死者を想え。」
敗戦後すぐ《軍部に沈黙を強いられた作家、ないしは愛国的な作品を発表したくなかった作家たちは自分の声を取り戻し、
無数の新雑誌の編集者が原稿依頼に殺到した。作家たちは新しい時代の到来を歓迎し、
危惧することなく自己表現ができる自由を喜んだ。敗北に対する絶望や、
日本がやがて復讐するという希望を口にする者はほとんどいなかった。
それどころか、恐怖のあまり死んだ方がましと思われていた敗戦を、日本人の多くは無事に切り抜けたのだった。
彼らの頭は、将来に向けられた。海外の領土が失われたことに恨みを表明するどころか、
新憲法によって日本が陸海軍を持つことを放棄した最初の国になったことを誇りにした。》
多くの作家が堰を切ったように書きはじめたが、内田百閧ヘ毎日のように執筆依頼をことわった。
《「前向きな」原稿を書くにはまだ早すぎると思ったのだろう。》とキーンは百閧フ心中を忖度している。
●高見順
高見は、日本人女性がアメリカ人男性とセックスするのを許せなかった。
いや、日本人男性のほとんどがそうだったろう。
高見のもとにも原稿依頼が殺到したが、まだ書く気になれない。
10月23日、「眼に触れるものが腹立たしくてならないのです。
(中略)なんにも書きたくないといった気持ちに陥るのです。」腹立ちの原因の一つは日本の女どもだ。
アメリカ兵と嬉々として付き合っている。娼婦もシロウト娘も嬌声をあげてしなだれかかっている。
《敗戦で日本の男に興味をなくし、勝ったアメリカ兵の方が女に親切だったからということもあったようである。
高見の反応は、典型的な恥の感覚である。》といい、夜の駅で女の駅員がふたり、
酔ったアメリカ兵とたわむれているのを目撃した高見の怒りの日記を引用している。
「なんともいえない恥かしい風景だった。この浅ましい女どもが選挙権を持つのかと思うと慄然とした。
面白がって見ている男どもも、――南洋の無知な土着民以下の低さだ。」
《勝ったアメリカ兵の方が女に親切だったから》とキーンは分析しているが、徳川夢声の二人の娘は、
マッカーサー来日以前から「大いに喜んでいるかのような態度で、これを迎えているのだ。」と夢声は嘆いている。
親切かどうかもわからないのにだ。女は弱い男の精子などほしくない。
強くて経済力があり、その上やさしいとなればそちらになびくほうが自然だ。
高見は大船駅で目撃したパンパンらしき女性の話を日記に残している。
《アメリカ兵は、ホームに残った。女は車窓から顔を出し、アメリカ兵とおしゃべりをしている。
やがて電車が動き出し、女は男に「バイバイ」と言う。車内の乗客の目は一斉に女に注がれ、
その目には軽蔑と憎悪があった。高見は続ける。》
「私もその一人だった。どんな顔をした女か見てやりたいと思った。
/女は、しかし、車窓から身を乗り出させたままだった。いつまでもその姿勢をつゞけた。
その姿勢は、自分に注がれている乗客の眼とその眼の含んでいる感情を充分に感じ取っていることを示していた。
そしてその彼女の感じた乗客たちの眼に対して反撥や敵意を持ったものでないことも示されていた。
/私は次第に哀れを感じた。いわゆる特殊慰安施設の女らしく思われた。
/やがては素人の娘で、衆人環視のなかでむしろ誇らかにアメリカ兵と痴態をつくすのなどが出てくるだろう。
そういう風景が珍しくなくなる時は案外早く来るだろう。
/むしろ早く来た方がいい。そうしてむしろそういう風景が氾濫した方がいい。
日本人の一種の「訓練」のために! その後に、自然な、恥しくない、美しい“社交”が生れてくるだろう。」
この日記を書いた時点ではむりやり自分を納得させようとするところもあったかもしれない。
しかし時代は高見の予見したとおりに動いていった。
高見も新聞の節操のなさには心が晴れない。「常に、その時期には正しいことをいってのける。
その機械性、無人格性がたまらない。」とはいえ8月29日の日記で高見は、
「言論出版集会結社等がだんだん自由になってくるようだ。心が明るくなる。おもえば、中世だった。
暗黒政治だった。恐怖政治だった。――しかし真の自由はやはり与えられないだろう。
日本人がもっともっと『大人』にならなくては……。」と書く。
日本の民主主義や自由はアメリカから与えられたものであって、
みずから勝ち取ったものではないという説は今日でもよく聞くものだが、キーンはそうは見ていない。
《まだアメリカ人の先遣部隊が到着したばかりで、日本の内政に直に影響を与えていなかったにも拘わらず、
日本人は基本的自由がすでに自分たちの手の届く範囲にあることを感じていた。
やがて皮肉好きな日本人は、アメリカが日本に自由を配給したと指摘することになるが、
彼らはこうした自然発生的な展開を無視しがちである。
わたしは、日本の「民主化」の進展はアメリカ人の助けなしでも起こったのではないか、と言いたい誘惑に駆られる。》
高見のいう「真の自由」とはどの程度の自由のことなのだろう。
もし理想的な自由を指すなら、それはアメリカ人だって未だに手中にしてはいない。
支那で日本人は支那人を殴っていた。
しかるにアメリカ兵は日本人を殴らないし優越的な態度もとらないと高見は感心する。
実際にはそんなことはなく、殴りもすれば強姦もしたのだが、
日本兵が支那でしたことにくらべれば物の数ではなかったのだろう。
「アメリカ兵は日本人を“人間として”尊重している。彼等がすなわち人間として尊重されているからであろう。
日本人が他民族を苛めたのは、日本人が日本人によって苛められていたからである。
人間としての権利、自由を全く認められていなかったからである。
人間の尊重ということが、日本においてはなかったからである。」児童虐待の連鎖を思わせる。
9月16日、太平洋米軍司令部が発表した「比島における日本兵の残虐行為」という報告書を新聞で読み、
高見は、まことに慄然たる内容ではあるが、
「残虐ということをいったら焼夷弾による都市住民の大量殺戮も残虐極まりないものである。
原子爆弾の残虐はいうを俟たない。しかし、戦勝国の残虐は問題にされないで、
戦敗国の残虐のみ指弾される」という感想を記している。いくさはいつも「勝てば官軍」なのだ。
この文を取り上げるキーンの姿勢は正しい。好感が持てる。
9月28日には、言論の自由にとって決定的な事件が起きる。
新聞に天皇とマッカーサーがならんで立っている写真が掲載されたのだ。古今未曾有の出来事だった。
《翌日、日本の内務省がこの新聞を発禁にした。マッカーサー司令部は、発禁の解除命令を出し、
新聞ならびに言論の自由に対する新措置を指令した。高見は有頂天になった。
「これでもう何んでも自由に書けるのである! 何んでも自由に出版できるのである! 生れて初めての自由!》
つづけて「自国の政府によって初めて与えられるべきであった自由が与えられずに、
自国を占領した他国の軍隊によって初めて自由が与えられるとは、顧みて羞恥の感なきを得ない。」
なんと恥ずかしいことだろうとくりかえす。
この事件が日本人に先のような日本の民主主義や自由はアメリカから与えられたものであって、
みずから勝ち取ったものではないという屈辱感を長く今日まで残すことになったのではあるまいか。
……もっともGHQが発禁の解除命令を出したのは、そういう基本方針があったにせよ、
この件に限っていえばマッカーサーが天皇より上に位置することを日本人に周知徹底するためであったろう。
その証拠に、内務省にかわってこんどはアメリカ人が検閲を始めた。
●敗戦で迎えた日本文学の黄金期
昭和20年いっぱいまで日本の作家は競い合うようにして
《民主主義を始めとする征服者アメリカの美徳を称えるようになっていたが、》
荷風は「亜米利加の思出」という一文で、
「米国がいかほど自由民主の国だからと云つて其国に行つて見れば義憤に堪へないことは随分ありました。」
と冷水を浴びせかける。曰く、社会の動勢は輿論によって決定されることになっているが、
その輿論には婦人の意見も加わっているので平凡浅薄な決定がなされる。
曰く、ラフカディオ・ハーンは黒人女を愛したため干された。
ロシアから亡命してニューヨークへ行ったゴーリキーは輿論によって長くは居られなかった。
――荷風の面目躍如というべき一文。いいなあ、常に時流の逆をいく反骨精神がたまらない。
くりかえすようだが、これを発掘してくるキーンもまた公平だ。
日本当局による検閲が敗戦によって終わると、アメリカ当局による検閲が始まった。
両者のちがいは投獄されるかされないかにあった。戦後すぐ日本文学は絢爛たる黄金期を迎えた。
《まばゆいばかりの作家たちが、当時は活躍していたのだった。
すでに名声を得ていた谷崎、川端のような作家はつぎつぎと代表作を発表した。
これまで一、二の作品で注目を浴びていた太宰治や三島由紀夫は、占領時代に初めて広く認められた。
太宰の小説、特に昭和二十二年に発表された「ヴィヨンの妻」と「斜陽」は、
戦後日本を活写した最も才能ある作家としての名声を太宰に与えた。
三島の「仮面の告白」(一九四九)は、前例のないまったく新しい小説の出現だった。
ほかにも安部公房のような異彩を放つ人物たちが、この時期に作品を発表し始めた。
長い間沈黙を守っていた志賀直哉が執筆を再開し、永井荷風は数冊の短篇集を出した。
これほど多くの有力作家たちが書いていた時代が、かつて日本文学の歴史にあっただろうか。》
そうか、わたしはそんな絢爛たる文学を青年期に読めた幸福な世代だったのか。
気が付かなかった。現代の小説を読む気になれない理由がこれでわかった。
キーンはコロンビア大学で日本語を学び始めたときからすっかり日本文化のとりこになってしまった。 そのせいか戦争中、海軍で日本人捕虜の尋問を担当したときも、捕虜に敵意を感じなかったようだ。 2011.3.11の東日本大震災をきっかけにして日本国籍を取得したことは有名だが、 じつはその少し前の1月に90歳間近で入院し、 「人生の最後に何をやりたいか」と考えたさいすでに決めていたことだという。 日本はまことに得がたい友人を得たというべきだろう。
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