59(2013.12掲載)
『川の学校――吉野川・川ガキ養成講座――』
(野田知佑、三五館、2012.6)
小学校のころ名古屋に住んでいた。夏休みになると祖父が知多半島の内海(ウツミ)にある農家の離れを借り切って、
そこで父の兄弟家族と共に1、2週間過ごした。数十年ぶりにいとこと会ったとき、
「内海の体験は大きかったよねえ」という話になった。いとこは大人になってから知多半島に移り住んだほどだから、
少年期体験の重みがしのばれる。
内海の海は川で西海岸と東海岸に分かれていた。西海岸は波おだやかで海水浴客が多く、夜になると屋台がたくさん出る、
要するに観光地。ゆるやかな波が茶色く濁っていたのを思い出す。一方東海岸は波荒い岩場のせいかひとけがなく、
施設としては唯一「涼み台」があるだけだった。いまはなき白砂青松の浜であり、
子どものわたしにそのありがたみはわからなかったが、たぶん当時の大人にもそれが消えてしまうことなど予測できなかっただろう。
水中眼鏡やシュノーケルを買ってもらえるような時代ではなく、ただ頭にタオルを巻いて波打ちぎわで泳ぐか潮だまりで小魚やヒトデ、
貝の類をとって遊ぶだけだったが、毎日たのしくてしかたなかった。岩にはムラサキウニがびっしりと付き、
カメノテ、フジツボも、それが食えることを知っていたら争って採っただろうに、誰も手を付けなかった。
近所のお寺だか神社にはクマゼミがたくさんいて、手でつかまえることができた。
●「あと100泊したい!!」
いま自分の子どもが小中学生だったら、この「吉野川・川ガキ養成講座」に参加させただろう。
いや、わたしがはいりたい。それほどたのしそうだ。
場所は徳島県吉野川。小学5年から中学3年までの子ども30人が1回2泊のキャンプを1年かけて5回おこなう。
参加費は5回で7万5000円。
目的はただ一つ、川で遊ぶこと。きまっているのは3度の食事時間だけ。
「何をやってもいい」といわれると、ふだん親や学校にがっちり管理されている子は何をやっていいか判らずとまどうが、
じきにガサガサ、見釣り、カヌー、飛び込みの楽しさに夢中になってしまう。
《魚捕りは初めからなにもかもを教える必要はない。魚がいる場所に連れて行けばいいのだ。》
と野田はいう。子どもはすぐにコツをつかむ。たとえばエビを網に追い込むとき、エビは後方に逃げるから、
網はエビのうしろに構えなければならない。初日の夕方には一人前のエビ捕り師になって、
「エビと目が合ったら目をそらさなければ警戒して逃げてしまう。知らんぷりしていれば安心するから、
そのすきに網をかぶせる」というまでになる。鯉を捕るときと同じだなと、素手で鯉を抱え捕る野田は思う。
川遊びのかずかずが愉しげにいきいきと描き出される。朝から水につかりっぱなしの子が、
唇をまっ青にして本部テントにもどってくると、ほかの子がドラム缶風呂をわかしてやる。
薪がしめっていて煙が目にしみる。ゴーグルをつけて火を焚き、さらにシュノーケルをつけて背後の空気を吸うという工夫をした。
《スイカ割りをすると、棒が当たった瞬間、子どもたちはスイカに群がっていく。スタッフがつぶやいた。
/「まるでカブトムシみたいだな……」/誰かが叫んだ。「あと一〇〇泊したい!!」》
●日本の川は世界一楽しい
キャンプも3回目ぐらいになると、子どもたちの目つきが変わってくる。
《とても面白いこと、楽しいことを知った人間が、その愉悦を求めてくるのだ。
彼らの目には、遊び人特有のいたずらっぽい輝きがあった。/そう、これが川ガキの目だ。》
《なぜ川がそんなに好きなのですか、と訊かれて、ぼくは、川はもっとも楽しい遊び場所だからです、と答える。
澄み切った青い川に潜ること。そして魚を追いかけること。世の中にこんな面白いことはないと思っている。》
こんな文章を読まされると、全身麻痺のわたしは羨望と嫉妬が昂じて叫びだしたくなる。
日本の川ほど遊びに適した川はないと、世界中の川を体験してきた野田はいう。
《「ほんとうは日本の川が世界で一番いいんだ。魚も多くてね。水温が高いから川に入って遊べる。
外国はきれいな川でも水温が低いし魚も少ない。そういう川は面白くない。日本は山が深い。雨が多い。
四季がある。いいぞ。アマゾンに行ってみろ。一年中夏で暑い。日本は夏は暑く冬は寒くて、春と秋がある。
雨量も気温も人間にちょうどいい。雨の水を深い山の雑木が根っこにいっぱい溜めていて、川を作っている。
非常に自然が豊かだったんだね、昔は。」》
●子どもの心を解放する「川の学校」
川の学校は、子どもたちの心を解放する場にもなっている。
野田がひとりで焚き火をしている女の子のそばに行ったとき、女の子はこんなことを語りはじめた。
《「私、こんなに自由に遊んだの初めてです。うちの母さんは優しいんだけど、とても干渉好きでうるさいんです。
何かしようとすると、まずダメ、危ない、という。何もしないうちからダメよというんです。
だから、川の学校にきた時、何をやってもいいぞといわれて嬉しかった。
野田さんと川上さんが一緒にいると鹿児島弁になるでしょう。私たちが何をやっても、よかよか、といいますよね。
あれ、いいですね。何だかほっとする」/「そうか。よかよかねぇ」/「はい、よかよかです。
野田さんの夜話を聞いていたら、こうしなきゃいけない生き方はないんだ、と思えて、そしたら肩がスーッと軽くなりました」》
こんな子もいる。暇なときは何をしているのとたずねると、「暇なときはありません。
毎日塾に行って、帰ったら宿題をやって、それが終わったらテレビも見ずに寝ます」という答えだ。
「もし暇があったら、何をしたい?」「好きなだけぐっすり寝たい」野田は胸を衝かれて黙ってしまう。
《この国は子供には住み難い国のようだ。》でも、この子を川の学校へ入れた親はえらいとおもうねわたしは。
●ダムが川をダメにした
さあここからは恨み節。《「三〇年前の日本は山と川がほんとうによかったんだ。
それをほとんどダメにしてしまった。日本の建設省、いまの国土交通省や農林水産省、
そういう役所がダムを造り、山の雑木を切って、みんなスギにしてしまった。これは大失敗だった。
スギは根が浅くて全然水を溜められないんだ。そのために日本中の川で水が少なくなり、栄養分がなくなって、魚が減っている」》
日本のダム行政を概観してみる。1937年に日中戦争が始まると、治山治水に回す金はなくなり、日本中の山から木を切り出した。
もちろん植林をする余裕などない。1945年敗戦、日本の山は雨を吸収する力がなく、
少し大きい台風がくると下流域はひどい水害に見舞われた。《この水害を止めるためにはダムしかない、
と当時の建設省は主張した。そのころの日本人は純朴で為政者を信じていたから、ダムさえ造れば洪水はなくなると思いこんだ。
そして日本中の川という川にダムを造った。それから五〇年、ダムによって日本の川や海の様相がすっかり変わり、衰弱し、
魚がいなくなった。そのダムも二、三〇年すると土砂が溜まり、ヘドロを吐き出すので、日本中の川が濁ってきている。
(中略)そう断言できるのは、ぼくが日本のほとんどの川に潜って魚を捕り、川底まで見ているからだ。》
《「自然に優しい」なんて、自然に酷(ヒド)いことをするやつほど声高にいうものだ。
/熊本の川辺川(カワベガワ)ダムが造られている時、当時の建設省は地元の新聞に年五回、
合計五〇〇〇万円の全面広告を出して、「私たちは地球に優しいダムづくりをしています」と宣伝した。
その見返りとして、その新聞社はダムに反対する住民の報道をベタ記事で小さく扱った。
一方、全国紙では三面で大きく載せた。そして工事現場の道路脇にずらりと花を植えたプランターを並べた。
あれが彼らの地球に優しいダムづくりなのだろう。》プランターというのが姑息。
どうせレンタルだから撮影が終わったらさっさと撤去するのだ。
川の学校でいままで釣りをしたことのある子は手を挙げろというと、まばらに手が挙がるのだが、
みんなルアーだ。釣り業界が儲かるルアー釣りをはやらせた。数十年前にキャッチ&リリースという思想が輸入されたころから、
日本人の生命観がぐらつきはじめたと野田は見ている。アウトドアをする連中が、濡れたり汚れたりするのを嫌うようになった。
キャッチ&リリース派を野田はほとんど軽蔑している。
《ある川で釣り師に出会った。彼は釣り上げたブラックバスをその場で放していた。
彼の手元を見ると、ルアーは三本フックだし、そのフックの返しも削り取ってない。
先進国では、ルアーは一本フックで、魚をなるべく傷つけないようにフックの返しは削って釣る。
ぼくの目の前でブラックバスを釣り上げた男は、三本フックのルアーで引き裂かれた魚の口の中に消毒スプレーをかけ、
リリースした。/「こういうところを子供に見せて、命の大切さを教えたいのです」/お笑いである。》
野田はべつの著書で、こうやってリリースされた魚は、口のまわりがブヨブヨになり餌が食えずに衰弱死すると書いていた。
人間でいえば口じゅうアフター性口内炎になるような感じだろうか。うう、おそろしや。
●「川の学校」をつくった動機
以前、流れのゆるやかな四万十川の小学校でカヌー教室をやったときのことだ。
《川幅一〇メートルの流れの中に、母親がずらりと二〇メートル間隔で立ち、膝まで川に入って見張ったのである。
子供の一人がぼくにいった。/「うちの母さんは子離れしちょらんき、困ります」
/ゴールについて子供たちが川ではしゃいで泳いでいると、教頭がやってきて厳しくダメだと叱った。》
教頭は自分が25メートルしか泳げないので、だれかが溺れたとき助けられないという理由だ。
《こういう教師が多いのだ。生徒を小さく管理することだけを考え、生徒を解放することは考えたこともないのだろう。
これが日本で一番自然の美しい風景の中にある小学校の話だ。実にもったいない。》この川ガキ養成講座で遊んでいる最中に、
それを禁止しようとする監視員が現れたことを『水惑星の旅』(椎名誠、新潮選書)は報告している。
膝より深いところに入ってはいけないというのだ。いまや日本中の川で川遊びが禁止された。
カヌーは「沈」するから危ないという見かたがあるが、野田にいわせればなんでもないことだ。
《数年前、球磨川(クマガワ)に遊びに行った時、台風のあとで川は増水して渦を巻いていた。
数人の仲間とカヌーで下り、半数が沈して渦に巻き込まれた。ぼくはこれまで五〇回ほど球磨川を下っていて、
何度も沈をして川底までよく知っている。川の水深はせいぜい一〇メートルで、渦に引き込まれても大したことはない。
くるくると体が回り、しばらくすると足が底にトンと着く。川底を蹴ればすぐに浮かび上がる。
われわれは子供の頃、台風のあとの増水した川で泳ぎ、小さな渦に巻き込まれるのを面白がってよく遊んでいた。》
渦によって10メートル引きずり込まれてもどうということはないと平然と語る。
子どものころから遊びでこれをやっていたら、たいていの水害に生き残れるのではないだろうか。
徳島のある大学の環境学の授業で、学生に吉野川で2泊3日のキャンプをさせたことがある。
誰ひとり川に入らず、日陰で横になっている。河原を歩かせれば足が痛いといい、テントを張らせればろくに張れず、
「こんなことをしても就活の役には立たない」といった。環境学専攻の学生だ。
できれば環境省にもぐりこみたいとねらっているにちがいない。野田は軟弱なグータラ学生に絶望し、
子どもに未来への希望をつなぐに至った。川遊びの楽しさを知らずに大人になり役人になると、
川を壊し、ダムを作り、河口堰をつくり、川をただの排水路にしてしまう。
野田はそれを長年のダム反対闘争から実感し、子どもに川遊びの楽しさを教えなければならないという結論に至ったようだ。
●学校を支えるひとびと
野田は2000年に鹿児島から徳島に移住して、第十堰可動堰建設反対運動に本腰を入れた。
移住してまで反対運動に身を入れるとは。あきれるほど柔軟かつ強靱なひとだ。
校長は野田だが、川の学校を実質的に動かしているのは、自動車部品工場のオーナー小畠夫妻。
数回の研修でスタッフを徹底的にきたえる。スタッフの多くは若い世代で、やはり川遊びになれていない。
川の学校のアイデアを出したのは、吉野川第十堰の可動堰化反対闘争のとき吉野川シンポジウムの代表だった姫野雅義。
日本のダム闘争は4〜50年かかる。《吉野川の整備局にきた国交省の役人が第十堰のダム化に反対する連中にいった言葉を思い出す。
/「われわれには時間も人材もお金もある。われわれは勝つ」/国交省はいまはひたすらおとなしくして死んだふりをして、
ダムに反対する老人たちが死ぬのを待てばいいのである。》だから若いダムファイターを育てる必要があるのだが、
青年も壮年も川で遊んだ経験がないからダムにも関心がない。
そのとき姫野はこう言った。「江戸時代に造られて、いまも立派に機能している第十堰を取り壊して、
まったく必要のない河口堰を大金をかけて新たに造る。これは誰が考えてもおかしい。
みんなで考えてみましょう」市民運動は盛り上がり、2010年、河口堰建設は中止になった。
故立松和平は「いまの日本の絶滅危惧種は川ガキだ」といった。
講師陣には夢枕獏、椎名誠、C・W・ニコル、モンベル会長辰野勇、
博報堂顧問川上裕などといった錚々たるメンバーをずらりと並べている。みんな手弁当だ。
栄養士もいて、キャンプにおける衛生管理に気を配る。
《川ガキがいない風景が淋しくて始めた「川の学校」だが、予想を超える結果・反響に驚いている。
/ただ子供を川に「放した」だけなのだが。/この三〇年、日本の川に関しては暗い話ばかりだったが、
「川の学校」を始めてから、少し希望が持てそうな気がしている。》
「放す」ためにどれほどの苦労・工夫があったことか。
◆S氏(60代男性)
野田を教えてくれたのは、カヌーが趣味のMさんで、かれこれ
20年くらい前かしら。
|