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 『平身傾聴裏街道戦後史 色の道商売往来』 (小沢昭一・永六輔、ちくま文庫、2007.5)

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 昭和42年(1967)から2年間「アサヒ芸能」誌上でおこなわれた、小沢昭一によるエロ事師対談(まとめ=永六輔)。 1972年4月『陰学探険』として創樹社から出版され、その後だいぶ時を経て上下2巻 (下巻は『平身傾聴裏街道戦後史 遊びの道巡礼』)として出版された。 「アサヒ芸能」誌上ではそれ以前に吉行淳之介と長部日出雄による同様のエロ事師インタビューが連載されていたが、 単行本化はされていないようだ。

 各対談のあとには「六輔・陰学エッセイ」が付されている。

●米兵の防波堤となった女たちの二十四時
  ――敗戦直後の進駐軍用慰安婦の実態について――

 上記のタイトルだけ見れば、社会学者の書いた論文のようにも思える。 だがこれは本書第2部「にっぽん陰流戦後史」の冒頭の対談につけられた小見出しだ。 対談相手は、終戦直後の進駐軍特殊慰安施設協会(RAA)の創立メンバー。 RAAはRecreation and Amusement Assosiationの略。

 《小沢 多い女性だと何人くらいまで相手にしたんですか。
鏑木 多いのは最高二十人ぐらい。でも、一回やって、また並んでやるやつが多かったな。
小沢 先ほどは失礼しましたって……(笑)。
鏑木 それでも女が足りないから、あぶれた兵隊が暴れまわるんですよ。寒いのにガラスは破る、ふとんは持ってっちゃう。 しまいには広間で仕切りなしでゴロゴロ抱きあっている。それでもやさしいですね、自分の上着を脱いで女に着せている。 てめえはカゼをひいてハックション、ハックションやってる(笑)。》

 強姦犯は論外だが、総じてパンパンは米兵の優しさに惚れている。 それについては『日本人の戦争――作家の日記を読む――』(ドナルド・キーン著、角地幸男訳、文藝春秋、2009.7) をとりあげたさい、高見順の文章を引いて触れた。 鏑木なども、「君らの父なり兄なりが戦地で戦って死んだり、また生き残りの勇士が続々これから帰ってくる。 その手前、君たちが外で米兵と連れ立って歩くようなことをすると刺激するから、それをよく気をつけてくれ。 こう言ったんだけど、なにしろ親切でしょう。今まで日本のおなごであんな親切にあったことは初めてだ。」 むかしの日本の男はよほど女を足蹴にしていたのだろう。

 《小沢 外人のモノはでかいということになっているので、あのでかいので一日二十人もピストルやられちゃあ、 こわれやしないですかね。
鏑木 こわれますね。女の顔がもうふつうの色をしてないもの。
小沢 まさしく荒波の防波堤になっちゃったわけですね。》

 『昭和史』(半藤一利、平凡社)の下巻のほうに、 米兵の初上陸に間に合うように大森あたりに特殊慰安施設をつくったと書いてあるのを読んだとき、 わたしは、まあこんなことばかり手回しがよくてとたまげた。 前掲『日本人の戦争――作家の日記を読む――』のなかではやはり高見順が、 こんな屈辱的な政策は中国でも朝鮮でも見たことがなかったと悲憤慷慨している。

 だが、相手は死闘をくりかえしたうえで勝利をつかみ敗戦国に乗り込んできた荒くれ者だ。 まともな紳士だって食欲と性欲は満たさざるを得ない。 まして「鬼畜」だ。素直に従わなければ良家の婦女子を強姦するにきまっていると日本政府が考えたのは無理もない。 自分たちも大陸でさんざんやってきたことだ。

 『戦争が遺したもの――鶴見俊輔に戦後世代が聞く――』(鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二、新曜社)で鶴見は、 ジャカルタの海軍武官府の軍属として勤務していたころ、慰安所の建設に奔走したと告白している。 日本人が国内に米軍用の特殊慰安所をつくったのはやむを得なかった。売春が合法の時代だ。 むしろ賢明であったといってもいい。ちなみに8月30日の米軍上陸に間に合わず、開店は9月10日になったのだが、 この10日間で神奈川県では1336件の強姦事件が発生したと「ウィキペディア」にはある。 強姦は警察に訴えにくい。実態はその10倍ぐらいではないか。

 8月15日の二日後には、料理飲食組合代表、芸妓組合代表、吉原の貸座敷組合、お女郎屋の代表、 アイマイ屋などすべての接客業者が警視庁に呼ばれた。みんな及び腰だった。寝たあと拭く紙1枚ないんだもの。 それはなんとかするから頼むと、警視総監は頭を下げたそうだ。 やむを得ず21人の代表は宮城前広場で指を切り盃に血を集め飲み交わした。 まわりでは50人ほどが腹切りをやって死んでいる。 売春経営にしても当時はまなじりを決してやったのだ。誰がこれを笑えよう。

 翌日には銀座の電車通りにに「ダンサー五千人募集、芸者五千人募集」と大書した。 当時警察署長の月給が150円のところ、女の子には350円払った。 慰安施設であることは知っていましたかという小沢の質問に、鏑木は「給料が高くて、メシを食わせて、 着物も化粧品も支給するんですから、覚悟はしてましたね。 それをトラックに乗せて大森六検、大森海岸の残った料亭を全部買いましたから、あすこへ持っていって、 お湯に入れて……。一方、着物なんかは三越、白木屋の残ったものを全部押えちゃった。 化粧品は資生堂の倉庫をみんな押えた。」これほど詳しい事情を書いた資料はないのではないか。 残念ながらわたしには「六検」がわからない。第6検査所の略なら、もともと売春街だったのかもしれない。

 さらに裏事情を掘り下げると――。
 当初はマッカーサーが厚木に来る8月30日までに間に合わせろというのが政府の要請だったが、施設がない。 そこで日本橋三越を接収して「飲む、打つ、買うのそろったアミューズメント・センター」にしようとしたところ、 警視庁のほうからそのへんの婦女子がみんなやられちゃうから散らかしてくれと要請され、 それで大森、箱根の強羅ホテル、熱海の観光閣、立川、三鷹、福生などに分散したとのこと。

 進駐軍の高官、たとえばマッカーサーやホイットニーの接待には、 大倉別荘(川奈ホテルのことか)の陛下がおいでになった部屋を使用。 小沢の「一説に、いまやもうまぼろしといわれるような某大女優が、マッカーサーの人身御供に捧げられたということが、 いまだにくすぶっているんですが、そういうことはあり得ることでしょうかね」と原節子伝説について聞く。 鏑木は「マッカーサーというのはなかなかむずかしい男でしたから、 われわれに関するかぎりではあり得ないことでしょうな」といなす。べつのルートならあり得ると臭わせているのか。

 《鏑木 やはり、相当の防壁になったということは事実でしょうね。あれがなかったら、どんな結果になっているか……。 そりゃ性の欲求なんてものは、はげしいですからな。しかも、あんなすさんだやつに……。 そんなのがなかったらたいへんだったでしょうよ。》

 永六輔《戦争とセックスという、国家的な極限状況と人間的なそれが重なった時の、なんというナマナマしさ。 しかし、婦人を守るために、婦人が防波堤になるというのは、女性における差別そのものである。》 高見順の悲憤慷慨には共感をおぼえるし、永六輔の論理には反論できない。 だが、被害を最小限にとどめるには進駐軍特殊慰安施設はやはり必要だったのではないかとかさねておもう。

 永の話は非常時から平時の現在に移る。
《RAAのような悲惨な背景こそないが、大手の商社では、外国人バイヤーのための手持ちの慰安婦をチャンと契約している。 商売繁盛に直結していることは、理の当然なのだ。もっとも最近は、ホモも多いから女性ばかりとは限らない。》 接待する側もたいへんだ。「おたくはどちらですか」なんてきけない。

 商売繁盛といえば、わたしがかつて中東関係の雑誌にかかわっていたころ、 ある石油会社のひとに話を聞いたことがある。快活な営業マンで楽しそうに、 当時テレビのニュース番組でよく見かける某国石油大臣の接待の話をしてくれた。 ふたりでソープへ行った、途中でソープ嬢を交換しておおいに喜ばれたということだった。 イスラム教徒に酒をふるまったという話は公開できないが、 一夫多妻の御国のかたに女性を世話したと話すのはかまわないんだろうなとおもうと同時に、 「個人的な信頼関係」を結ばないと商談も外交もうまくいかないという話の内実を知った思いがした。

●FBIなみの情報網と謙虚なインタビュー態度

 コールガールとの対談後の「六輔・陰学エッセイ」では《コールガールというと映画の中で逢っただけだし、 映画のなかではお化粧のくどい、身体の線のくずれかかったタイプを想像する。 それが大間違い。》清く、正しく、美しくの宝塚のようだという。

 いったいどうやってこういう女性をさがしてくるのか。
《およそゲストを探してくることに関する小沢さんのアンテナというか、情報網はFBIなみである。 悪友グループはもとより、一度でも逢ったことのある、その筋の人達との接触のこまめさには舌をまく。

 詳細な電話帳と地方別にわけられた名刺の束がその秘密で、 これは『日本の放浪芸』(ビクターレコード)にも大いに役立てられている。 /組織ならともかく、一個人が常にゲストを選べるという余裕をみせていたことが、 この対談の内容を豊富にした由縁であろう。》

《小沢昭一におけるインタビュー技術はまさに砂糖にくるんだ好奇心で、 ゲストに与える安心感とひきかえに、何から何まで聞き出そうという気迫に満ちている。》 砂糖とは、ときどきまじえる笑いのことだ。相手はその道の達人ばかりだから、つい小沢の自虐的なまぜっかえしが入る。 これがじつに場をなごませる。そこでさらに執拗な質問がつづくという寸法。 インタビューの態度はじつに謙虚なものであり、対談相手を心から尊敬していることが見て取れる。 「平身傾聴」とはうまいタイトルを付けた。(つづく)