67(2014.8掲載)

 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し――ソープの帝王鈴木正雄伝――

(木谷恭介、光文社、2012.8)

(7月号からのつづき)

   66_koshutoire.jpg

U 鈴木正雄小伝

●奇妙なタイトルの意味は?

 鈴木は妾の子。昭和初期には珍しくない。 市川房枝が吉田首相に「あんたは妾を何人も持っているようだがけしからん」といったところ、 吉田は「あの女性たちはたとえば軍馬でいうなら廃馬である。それを丁重にめんどうを見てなにが悪い」と答弁した、 そんな時代だ。それにしてもはぐらかしのうまいこと。

 父親は戦争で財を築き、戦争ですべてを失い、最後は割腹自殺。 鈴木、開成中学1年の時。開成中学といえば押しも押されもせぬ名門校。 母ひとり、子ども5人は一気に極貧に追い込まれたが、母親が偉かったのか、開成中学卒業後、私立巣鴨商業に進学させてくれた。 だが鈴木は生活のためアルバイト三昧。

 《そんなアルバイトのなかで忘れられないアルバイトといえば、荒川区の便所掃除です。 このときの経験は、その後のわたしの人生に大きな影響を与えてくれました。》 大空襲の日までお坊ちゃん暮らしだった少年が、ひとさまの汚した便所を洗う。 《今のような水洗トイレではなく、くみ取り式の便所ですから、夏など大変な悪臭で便所にいるだけでも気絶しそうになります。》

 便所掃除ができれば何でも我慢できると鈴木はいう。この経験が鈴木の精神修養になった。 商売成功後、松戸市の公園に公衆便所を寄付し、便所掃除を自分の日課とした。 このとき、問題を先送りしてはいけないという教訓を得る。《掃除を終えたら、安心せずにもう一度振り返る。 /さっき掃除したばかりの場所が、もう汚れていたりする。(中略)汚れた便所を前にして腕を組み、どうしたら汚されないかとか、 どうしたら汚れないかを考える前に、まず目の前の汚れている場所を掃除することです。 /問題解決策を考えるのは、それからで十分だということを忘れている人が多いようです。》――で、 肝に銘じていることばが「公衆トイレと人生は 後を向いたら やりなおし」なのだそうだが、 トイレはともかく人生がわからない。振り返って気になることがあったらすぐにやりなおせという意味だろうか。

 中学も高校もアルバイト三昧の日々だったが、《何でもやっていくうちに、あの究極の貧しさのなかでは、 人間は事の善し悪しや、合法とか違法というのではなく、生きていくためには何でもする、ということを知りました。》 こちらのほうはよくわかる。「障害老人乱読日記」bS2『絶対貧困――世界最貧民の目線――』 (石井光太、光文社、2009.3)に見たとおりだ。最後に述べるが、あくまでも「生きていくためには」という但し書きがつく。

●遊びの最終目的はセックス

 朝鮮特需で景気が良くなると、浅草・上野界隈の花街もたいへんなにぎわいを見せるようになる。 アシは人力車だ。高校生の鈴木は人力車を始めるのだが、このあたりからめきめきと商才をあらわしはじめる。 「駅付け、ホテル付けといったタクシー乗り場で客待ちをするのは最低」だと気づく。ではどうしたか。 花街に遊びに行く客を運ぶのではなく、お座敷に呼ばれる芸者を置屋から料亭に運ぶことに目を付けたのだ。 《なぜなら、当時の芸者さんは日本髪を結っていましたから、せっかく結った髷が引っかかってしまう天井の低いタクシーを嫌い、 移動は人力車専門でした。》

 出入りの激しい業界で、ひとがやめて余った人力車をつぎつぎ買い取り、いっぱしの親方になってしまう。 人力車は、芸者や男客から大人の世界の話を聞ける、じつにたのしい商売だったという。 《仕事の合間にお客さんの話を聞いているうちに、要するに、男は芸者遊びをしにきても、最後はセックスを求めて、 そういう店に行くことを知るわけです。》いまから見るとずいぶん奥手だが、当時の高校生はそんなものだったのだろうか。

 人力車を始めて1年もたたないうちに、芸者を乗せて置屋と料理屋を往復するより、 男性客に女性を世話したほうが早いと気づく。《あの当時、鶯谷から吉原まで、 しもた屋で売春している家が千軒近くあったのではないでしょうか。》売春のほかにブルーフィルム、 白白ショー、白黒ショーなどもさかんな一大歓楽街だったようだ。

 こっそり行くのに人力車では目立つので、「輪タク」に商売がえ。 自転車のうしろに屋根付きのリヤカーをつけたものだというが、これが目立たないというのが不思議(笑)。 木谷の解説によれば、輪タクは無届け営業の店に案内するという目印であって、実際には徒歩や電車で行ったという。 そうだろうなあ。

 輪タク40台をかかえ一儲けした鈴木は、昭和29年21歳で女郎屋をはじめる。 《この時代の女郎屋というのは、当たり前ではないけれど、違法性があるわけでもなく、 認められていた仕事でしたから》さして抵抗もなくはじめた。 揚屋町の「ひでのや」というこの界隈のボスのところに母親とふたりで行って指導をあおぐ。

 ところが昭和33年4月1日から売春防止法が施行される。 今までまともななりわいだったものが犯罪になってしまう。 敗戦によって、今までシロだったものがクロになってしまうということを経験してきた身にも青天の霹靂だったという。

●刑務所に入らないコツ

 鈴木は80年の人生で10回逮捕され、3回の執行猶予を受けている。 しかし一度も刑務所に入ったことがない。その秘訣は大きくいって2つある。まず正直であること。 ソープをりっぱななりわいととらえ税金をきちんと支払う。 第2に、各国の要人の接待を政府筋からたのまれその重責を果たしていることだ。 迎賓館からパトカー先導でトルコ風呂までご案内したこともあるという。

 《二〇〇九年七月二日、大塚にあるわたしの自宅に四、五人の警視庁保安課の刑事が現れました。 /刑事の説明によると、「売春防止法」違反容疑で任意同行を求めるということでしたので、わたしはすぐに了承しました。 /一般の方のなかには、「無実なら、任意なんだから同行拒否すればいい」という人がいますが、 警察というのは任意同行と言いつつ、内ポケットに逮捕状を用意しているのです。 /任意同行を拒否して、その場で逮捕状を執行されれば手錠をかけられます。》 パトカーに乗せられることもなく、タクシーで警視庁にむかう。 そういうもんだったのか知らなかったなあとわたしは感心する。後ろ暗いひとは心得ておいたほうがいい。

 鈴木は警察や検察庁にずいぶん尽くしてきたという。 警察は大立ち回りの末に容疑者逮捕するとなると700万円以上の経費もかかるので(ソープランド摘発の年間予算は5000万円)、 鈴木のところに相談に来る。鈴木は警察の立場に立って容疑者に出頭するよう説得し、 警察には、逮捕でなく自首あつかいにしてやってくれと頼む。 《わたしたちの商売は、警察や世間様を敵に回してしまったら、長くやっていけない商売なんです。 /おかげさまでわたしがつくった「角海老グループ」は、 現在もソープランド三十二店舗を数える業界トップ企業になることができました。》 業界2位のソープランド・チェーン店で5軒程度というから、ブッちぎりのトップなのだ。

●フジヤマゲイシャの真意

 外国人があげる日本名物のひとつにフジヤマゲイシャがある。 てっきり富士山と芸者のことかと思っていたら、これは戦後GHQがはやらせた売春婦をさすことばなのだそうだ。 《戦後の日本は、戦勝国に対して何も言えなかった。日本を訪れた外国の役人は「昼の外交」を終えると、 当然のように「フジヤマゲイシャ」による「夜の外交」を求めてくるわけです。》 まじめな日本の役人は莫大な金を使って新橋や赤坂の芸者を上げて接待する。 《外国の要人は当然、目の前にいる芸者とセックスができると思っているけれど、 芸者には芸者としてのプライドがありますから、そう簡単にセックスなんかさせてもらえない。 /そこを何とかということで、お役人は芸者に対して、機密費の中から金を使って交渉したりもする。》と鈴木は当時をふりかえる。

 売春防止法のないころのことだから犯罪でもなんでもない。 かしこい役人はすぐに、夜の外交にはその道の専門家が必要だということに気づき、鈴木のもとに協力を求めてくる。 できたばかりの高速道路をパトカー先導で千葉の店まで連れて行く。 要人相手だからお店は「貸し切り」状態。いくら官房機密費から出るといっても、総額を要求するわけにもいかず、 そこにアウンの呼吸というものが生まれる。刑務所にはいるわけがない。

●「戻り」が商売のコツ

 公営ギャンブルは冷たいもので、帰りはすってんてんになって「オケラ街道」をとぼとぼ歩くことになるが、 むかしのヤクザは、せっかく賭場に来てくれたお客さんが博打で負けて家に帰れないということがないように、 一定の割合でお金を返したそうだ。 《いまでも気の利いた料亭に行けば、帰りにお土産を持たせてくれますが、あれも一種の戻りです。》

 歴代の総理も遊びに来たという先代の「角海老」に鈴木が出入りしていたころ、 角海老は人形町の鯛焼きの箱詰めをみやげに持たせた。 《商売というものは時代とともに変化するものですが、あの時代には、ヤクザでも料理屋でも、 女郎屋でもお客様に対して「戻り」という感覚を持っているのが当たり前でした。 わたしは、商売にとってそれが一番大切なことだと思います。》角海老はタクシーが客を連れてくると、 運転手にライターをわたし、「ご苦労さんです、またお願いします」といって頭を下げる。 ほかの店では鼻も引っかけない。こういう気遣いで商売に差がつくのだ。 それはそうにしても、亭主が毎度毎度おみやげに鯛焼きの箱詰めを持って帰ったら女房にばれやしないか。

 鈴木はこの商売に誇りを持っている。売春を是か非でとらえれば、是ととらえている。 この業界は、大学まで行って何不自由なく育ってきた女性が来るところではない。 なんらかの事情や問題をかかえ――当然それはカネだろう――それを解決するためにやってくる。 《女の子たちにしても、この業界から足を洗ってすこしでも良い人生を送ってもらって、 「昔はこの店に世話になったんだな」なんてこと思ってもらえればと思ってやってきたんです。 そのためには「あくどいこと」を絶対にやっちゃいけないんです。》女の子のピンはねをすることは道義上許せないとまでいう。 角海老では福利厚生制度や社会保険もあれば退職金もある。 正業だと信じてやってきたからこそ60年つづいてきた。 《利益に対して納付しなければいけない税金は、きちんと納めているビジネスです。》 《いまから十九年前ですが、わたしは税務署の指導通りに納税していましたから、年額にして十七億円、 一日に換算すれば四百七十万円、税率にして八十六・二%ですよ。》

 「不良外国人とヤクザには絶対負けない」これも鈴木の信念の一つ。 ソープとパチンコの経営者の大半は在日外国人。これがあくどいそうだ。

 「金もうけなら、今が一番」と鈴木はいう。織田信長も豊臣秀吉も下克上の戦国時代だから、のしあがることができた。 江戸時代のように平和なときは、既成の権力ががっしり利権を握っているから、つけ込む余地がない。 そういう意味でいえば、いまは大企業が倒産したり、外国に買収されたりする混沌とした時代。 《こういうときには、アイデアひとつでのしあがることが可能なんです。 /その意味では、戦後の混乱期に青年だったわたしは幸せだったと思いますね。》

 《ぼくはすでに八十四歳。鈴木さんも八十歳。ふたりが共同で戦後の性風俗史を書き残すことができるのは、 今回が最後のチャンスといえます。》という木谷恭介は、2012年12月死去、享年85。