T 頸髄損傷者の立場で読む
さあまたやっかいな本を選んでしまったものだ。だが、本欄の数少ない頸髄損傷の読者からこの本を取り上げるようリクエストがあったからには、期待に応えざるを得ない。となれば頸髄損傷者の立場から読むということになる。
わたしは肉体という名の世界最小の独房に閉じ込められた意識に過ぎない。全身麻痺とはそういうことだ。この本を地獄のような強制収容所に閉じこめられたひとびとと、頸髄損傷のひとびとの人生とを対比しながら読んでみたいと思った。もとより苛酷の度は較べようもない。強制収容所のユダヤ人は殲滅の方針のもとで日々虐待されている。それにくらべればわれわれ日本の重度障害者は、世界屈指の福祉国家のなかで手篤い保護のもとにくらしているとヒニクでなくいってよいのだから。現在使用中の車椅子は170万円するが、自己負担は数万円ですんだ。こんな国がほかにいくつあるだろう。電動車椅子を使えば独房ごと移動できる。それでもわたしは、ああ、あの事故のとき死んでいればこんな苦痛を味わわなくてもすんだのにとおもうことが一再ならずあった。これからもあるだろう。
●新版出版の意義
著者は1905年ウィーン生まれの心理学者。1941年結婚したが、1942年ユダヤ人であるという理由だけで新妻ともども強制収容所に放り込まれる。そこから1945年に解放されるまでの獄中記録だ。本書には『夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録―― 』(霜山徳爾訳、みすず書房、1956.8)という旧版がある。
新版はなぜ副題を外したのだろう。「夜と霧」ではどんな本かわからない。もう誰でも知っている有名な本だから外したのか。それでは新しい若い読者を開拓しようとして新訳を出した動機と矛盾するのではないか。新版によれば、邦題の意味を《夜陰に乗じ、霧にまぎれて人びとがいずこともなく連れ去られ、消え去った歴史的事実を表現する言い回しだ。》と断言するが、本来これは『夜と霧』というタイトルをつけた旧版の担当編集者か霜山がいうべきことだろう。原題はまったく別の意味なのだから。
1919年生まれの霜山はまだ存命で、新版にも「旧版訳者のことば」という一文を寄せている。30歳の時「西ドイツ政府留学生」に選ばれ渡独、本書と出会い、ウィーン在住の著者を訪ね翻訳の許諾を得たいきさつなどを語る。こんなことされたら1948年生まれの池田は、いかに『世界がもし100人の村だったら』とか『ソフィーの世界』のようなベストセラーの訳者でも、平身低頭しヨイショし、《僭越は百も承知で改訳をお引き受けした。》といわざるを得ない。
●油断した新版
新たに訳出した最も説得力ある理由は、《霜山氏が準拠した一九四七年刊の旧版とこのたび訳出した一九七七年刊の新版では、かなりの異同があったからだ。》たとえば旧版には多出した「モラル」ということばが、ほとんど姿を消している。収容所解放直後に書かれたものを、時をおいて眺めなおしたとき、フランクルはモラルより精神医学を重視すべきだと考えたからだろうと池田はいう。さらなるちがいは、旧版にはつかわれてなかった「ユダヤ人」「ユダヤ教」ということばがつかわれていること。その理由を池田は、《一民族の悲劇ではなく、人類そのものの悲劇として、自己の体験を提示したかったのだろう。》と推測する。背景にはアラブ・イスラエル間の中東戦争がからんでいるようだ。戦闘を激化させるのではなく、収容所解放時に示された収容所長に対する《憎悪や復讐に走らず、他者を公正にもてなした「ユダヤ人収容者たち」を登場させたかったのだ。》とにかく霜山の訳を新しく翻訳しなおしたのではない、新版が出たからそれを訳したといいたいわけだ。翻訳界もタイヘンだよ。
『画文集 炭鉱に生きる』(「障害老人乱読日記」bT3)の新旧装幀比較でもそうだったが、このたびも旧版はモノクロ写真をつかった深刻そうな装丁。新版はやや暗めのトーンではあるが旧版にくらべればずっと若い女性でも手に取りやすそうなカラー装丁だ。前述したように新版には暗そうなサブタイトルもない。

旧版には、おそらく霜山が書いたと思われる「解説」が2段組で70ページも付いており、巻末には残虐な「写真と図版」がたっぷり掲載されている。新版にはない。要するに新版にはサブタイトルも長文の解説も残虐写真もない。そんなことは旧版によって世にあまねく知られたことなのだから、わざわざ新版でくりかえすこともなかろうというのがみすず書房のココロなのだろう。
そんなココロが池田にも担当編集者にもあったからだろう、しょっぱなからたいへんなミスをおかしてしまった。ミスでなければ不親切。本文2ページめにいきなり「カポー」という単語が出てくるのだが、これがなんのことやらわからない。読み進めていけばその重要性がほの見えてくるのだが、とりあえず意味がわからない。そこで念のため旧版を参照すると――。初出の「カポー」には「囚人を取締るため囚人の中より選ばれた者」という訳者注が、おお懐かしの6ポ割り注で付されている。
●被収容者どうしの戦い
強制収容所に入れられたユダヤ人は、遅かれ早かれ殺されることになる。それでも被収容者のあいだには、生きのびるための苛酷なたたかいの嵐が吹き荒れていた。「近く一定数の被収容者がべつの収容所に移送されるらしい」と聞いたとする。《わたしたちは、それはまやかしだ、と考える。なぜなら当然、その移送とは「ガス室送り」だと、選ばれるのは病人や衰弱した人びとで労働に適さない被収容者が、ガス室と火葬場をそなえた中央の大きな収容所で抹殺されるために淘汰されるのだ、と憶測するからだ。》
「選ばれるのは病人や衰弱した人びとで労働に適さない被収容者」ということばはわたしの胸を刺す。じっさい重度障害者など強制収容所に送られる前に処分されていた。ドイツでは第1次世界大戦前から優生学がひろく認知されていた。ということは「社会の穀潰し」は抹殺せざるを得ないという思いが国民の常識だったということだ。1910年代から劣等分子の断種や治癒不能の病人を安楽死させていた。ナチ党の権力掌握後は「民族の血を純粋に保つ」という名目で遺伝病や精神病のひとを安楽死させた。これらのひとを養っていくには税金をたくさんつかわなければならないという点が強調された。
「劣等分子や治癒不能の病人」といえば、各種障害者や認知症老人を連想する。日本ではいま認知症老人が急増し毎年1兆円ずつその対策予算が増えているという。どうにかしなければならないがどうにも妙案は浮かばない。為政者はひそかに安楽死法を練っているのではないかとわたしは疑っている。いや、為政者もみなじじいだから、自分や自分の家族が認知症になったときのことも計算しているはず。となると、あとはカネしだいか。いやいや、ほんとうならこの事態をきっかけに健常者のひとりひとりが少しずつ犠牲的親切心を発揮して弱き者を助ける暖かい社会が出現すればいいのだ。日本民族なら必ずできる。
●「いい人は帰ってこなかった」
仲間を犠牲にすることによって生きのびたユダヤ人カポーが、本書のテーマの一つかもしれない。被収容者は番号だけで呼ばれた。だからなんとか自分の番号以外のものを移送団(=ガス室)に送り込もうとした。被収容者の中でも特別サディスティックで盗みも暴力もまったく平気になってしまって、要するにナチスの手下になることによってカポーは生きのびた。フランクルは断言する。「いい人は帰ってこなかった」と。しかしこれほど重要なフレーズを、わたしの力量不足とはいえ、こんなに軽く要約しては申し訳ないので、より重々しい訳の旧版に当たってみた。以下のとおり。
《カポーになることはいわば一種の逆の選抜であり、最も残酷な人間のみ(もちろん幸いなことに例外もあったが、それを除外すれば)が、この役目に用いられたのである。しかし親衛隊員によって行われたこの積極的な選抜の他に、なおいわば消極的な選抜があった。すなわち多年収容所で過ごし、一つの収容所から他の収容所へと、結局は一ダースもの収容所を廻ってきた囚人の中には、この生存のための苦しい闘いにおいて、良心なく、暴力、竊盗(セットウ)、その他不正な手段を平気で用い、それどころか同僚を売ることさえひるまなかった人々がいたのである。まったく幾多の幸福な偶然、あるいは――そう呼びたいならば――神の奇蹟によって、生命を全うして帰ってきたわれわれすべては、その事を知っており、次のように安んじて言いうるのである。すなわち最もよき人々は帰ってこなかった。》
フランクルは生きのびた自分のことをどう捉えていたのだろう。あらゆる大虐殺場面あるいは大事故で生き残った者が、たとえ幼児でも必ず自責の念にかられるものだというのは、現在の心理学の常識なのだが。
さらにいえば、当時のドイツ国民はみなユダヤ人の大量虐殺を知っていた。にもかかわらず虐殺反対のデモなど起こさず、いわば「三猿」を決め込み、敗戦後はヒトラーひとりのせいにして平和に暮らしたのだ。
いやな記憶がよみがえる。「この世で最も醜いもの、それは第2組合だ」と信じていた時期がある。最初に入社した早川書房の話だ。団体交渉のあと組合幹部が団交を総括し、それをガリ切りして翌朝ビラを会社に持参するというのが、団体交渉員の一員であったわたしの役目だった。だが徹夜してつくったビラを、翌朝会社の玄関で配ろうとすると、ニクミの幹部が見張っていて社員に受け取らぬよう圧力を加える。ニクミの若者に年長者がありもしない幼稚なデマゴギーを流しているのを耳にしたことも実際にある。団体交渉では経営側に組合つぶしの専門家が加わった。会社の近くで集会を開いていると、私服の刑事がうろうろした(初めて見る人物なのに私服だと分かるのはなぜなのだろう)。会社をクビになったあと、どこの出版社を受験しようとしても、面接でまず聞かれるのは「なぜ前の会社を辞めたのか」ということだった。嘘をつくのもいやだし、かといって真正直に答えれば不採用になるのはわかりきっている。ほんとうに苦しい時期だった。歳をとって、まあニクミのひとたちもニクミに入らざるを得ない事情があったのだろうと少しは寛容になったけれど、思いがけなくもカポーなどということばと出会うと、いやな記憶がフラッシュバックする。
●こころをまもるためのくふう
強制収容所に入れられた者が示す最初の反応は、「やけくそのユーモア」だという。やけくそのユーモアを強がりのユーモアといいかえることができるなら、わたしにも覚えがある。処女作『上の空』を読んだひとは,わたしに感想を述べるとき、「こんなこといっていいかどうかわからないんですが、おもしろかったというんでしょうか、電車のなかで読んで吹き出しました」といった。それはそうだろう、わたしは笑わそうと思って書いたことはあっても泣かせようとたくらんだことはない。しかしそういう感想を聞くたび、内心忸怩たるものがあった。わたしには執筆当時から「引かれ者の小唄」という意識があったからだ。
『上の空』執筆時(正確にいえばテレコあいての吹き込み時)、まだほとんど寝たきりで一日中体の痛みに耐えながら生きているというありさまなのに、当時の妻(先妻、以下同)は介護疲れと将来不安とそれに欲求不満のため入退院と自傷行為がエスカレートしていくというほぼ発狂状態で、子供はまだふたりとも小中学生、社会資源は少しずつ整っていき、多くのかたに支えられながらの家庭経営だったとはいえ、家の中があまり乱れていると、いくら献身的な家政婦やヘルパーでもすぐにやめてしまう。
手首なんか切ったって死ねやしないと悟った妻は、腕の内側をカッターで縦に引き裂いた(おそらく精神科の待合室で仕入れた知識だろう)。まわりを汚さないようにゴミ袋の中でやった。やりはしたものの苦痛に耐えきれなかったのか2階から降りてきた。わたしはそれまでにも救急車を何度呼んだかしれやしない。刺傷事件の可能性も考えて目つきの鋭い刑事も来る。
救急車には家族が同乗する規則になっている。わたしには不可能なことであり、息子はまだ幼すぎ、結局娘にそのお鉢が回っていくのだが、娘は頑として拒否した。母親の自傷行為は娘の小学生の時から始まっており、娘はうんざりして、そして悲しんでいたのだろう。中学生の時も高校生になってからも拒否した。娘は己を守るため次第に自分のまわりに見えない壁を築いていき、その壁をどんどん高くしていった。哀れだったが、わたしはなにもしてやれないだらしない父だった。そんななかで惨めなことなど書けやしない。ノンフィクションだから深刻な現実に触れざるを得ないものの、生来のお調子者でもあるから笑い話をちりばめた。だから「やけくそのユーモア」のほうはよく理解できる。
心のまわりに壁を築いていった娘は、後出の「不感無覚」を目指していたのだろう。一方息子のほうは、救急隊員や刑事が来るといつのまにか姿を消し、引き上げると1階のテレビの前にすわりこんでアニメか何かを見てケラケラと笑っていた。これもまた自分を正気に保つための幼い者なりの知恵であり、わたしもベッドの上からコントのオチ当てを競って、息子のそとにはみじんもあらわさない悲しみや動揺を和らげようと努めた。
救急病院で何十針か縫った妻は夜ひとりで帰ってきた。救急車は運んでくれても自宅まで送ってはくれない。深夜わたしは体位交換をしなければならない。担い手は妻と決まっている。娘にやらせようかといっても妻は肯んじない。自分が死にぞこなった責任を娘に押しつけるわけにはいかないという程度の正気はまだ残っており、縫ったばかりの腕をわたしの腰の下に入れて体を引くから傷口が開く。うめき声を漏らしながら体位交換を終える。させたくはないけれどもさせなけれはならないわたしもまた地獄だった。強制収容所に等しい「生き地獄」だったといっても許されるのではないか。
●在宅生活の憎しみと愛情
わたしは自身の体による自身への疼痛攻撃と妻の攻撃を除けば、他人に殴られるような体験をしたことはない。幸か不幸か、わたしのばあいはけがによる煩悶の期間は短かった。「いつごろ障害を受容しましたか」などと卒論の下調べなどに来た学生に質問されたものだ。「障害の受容ってどういうことですか」教科書に載っていることばで質問するから、わたしも意地悪になる。「ご自分の障害を受け入れることです……」単語を変えただけだ。「そうですねえ、一生こういう体だということは入院中に悟りましたから数ヶ月といったところかな。でも今だって障害は個性だなんていう意見には与しませんよ。そんな個性いらないもの」フランクルの意見と異なり、おのれの苦痛には未だ無関心ではいられない。体は四六時中痛い。眠っているあいだは痛くないが、目覚めるときはいつも苦痛とともに、つまり痛みで目が覚めるのだ。痛みは苦痛の筆頭だが、全身麻痺の苦痛など数え上げたらきりがない。
けがをした1987年当時、重度障害者は山奥の病院や施設で一生を過ごすものとされていた。妻が心を病んでからの数年間を見つづけてきたわたしは、とても「在宅」生活など及ばないと判断し、「おれは一生病院暮らしでいいんだよ」といったが、妻は「家族は一緒にくらすもの」という信念を曲げずに、つらぬいた。ひとりでわたしの勤務していた会社に乗り込んで退職金の前借りを申し込んだと聞いたときはあきれた。もともと前向きな行動力の所有者だったから、頼もしくさえおもえた。ひょっとしたらこれを機会に元気になってくれるかもしれないという楽観に賭けてみた。入院中に建てたバリアフリー住宅に移ってからは、家事は住込みの家政婦、介護は妻という方式をとった。
だがしょせん自分が見通しのアマイ男であることを再認識する結果に終わった。新築の家に移ったその翌日から、痛罵と怨嗟の声がいつ果てるともなくつづいた。介護も半年ほどでおもうようにならなくなった。これでは在宅生活の実現もわたしやわたしの家族に対する恨みを晴らすための口実だったのかと後悔した。具体例は書きたくない。あまりにもおぞましいから。
いや、そういってしまってはいまは亡き妻に対してむごすぎる評価だと書きながらあることを思い出して反省した。先に述べたようにむかしは重度障害者や痴呆老人には人権など認められていなかった。在宅生活に入ってパソコンで頸髄損傷者と情報交換などをするようになってから知ったことだが−−。同族経営の施設で個室に放置されて死んだ頸髄損傷者もいると聞いた。知的障害者や痴呆症の老人は文句をいわないが、頸髄損傷者は首から上は健常なので苦情をいう。疎んぜられ夏場2〜3日個室に放置される。すると、褥瘡からくる敗血症か尿路感染からくる腎盂腎炎であっけなく死んでしまうのだ。おそらく「水をくれえ、水をくれえ!」と叫びつづけながら。同族経営だから世間に漏れることはない。そういう施設は家族の面会やボランティアの手伝いも嫌ったと聞く。これなどはまさにアウシュビッツ以上の苦痛といっていいだろう。わたしは危うく死者の仲間入りをしかけたのだ。それを食い止め、暗鬱な紆余曲折はあったものの、わたしを現在の比較的しあわせな人生に導くきっかけをつくってくれたのもまた亡き妻であったのだ。感謝しなければならない。(つづく)
◆S氏(60代男性)
しかし、この二回分の内容は重いね。
原本の引用紹介も、大兄の述懐も。
深々と、痛切。
しかし、変な話しだけど、少し元気が湧いた。
◆K氏(70代男性)
藤川様、フランクルの夜と霧の評、大変な迫力で次月号が
大変楽しみです。今回、読者評を見る事が出来、これも読み応えがありました。
実は先週末から又、入院(情けない!)携帯で見ているのでちょっと見辛いのですが・・
・ひき込まれました。