70(2014.11掲載)

 『夜と霧(新版)』

(10月号からの続き)

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U ユーモアは魂の武器ではあるが

●「反応の第2段階」は感情の消滅

 収容所に入れられたショック段階を過ぎると、つぎに来るのは感動の消滅であるという。身も世もなくなるほど被収容者をさいなんだ家族に会いたいという思いは消え、便所掃除や汲み取りで汚れることなどなんとも思わなくなる。汚れを拭き取ろうとすれば「上品ぶるんじゃねえよ」とばかりカポーの一撃が飛んでくるからだ。ほかのグループがサディスティックに棍棒で殴られ、何時間も糞尿のなかを行進させられる姿は、はじめのうちは正視に耐えなくても、「反応の第2段階」にはいれば、《無関心に、なにも感じずにながめていられる。心に小波(サザナミ)ひとつたてずに。》

 診療所に12歳の少年が運び込まれたときもそうだった。《靴がなかったために、はだしで雪のなかに何時間も点呼で立たされたうえに、一日じゅう所外労働につかなければならなかった。その足指は凍傷にかかり、診療所の医師は壊死して黒ずんだ足指をピンセットで付け根から抜いた。それを被収容者たちは平然とながめていた。嫌悪も恐怖も同情も憤りも、見つめる被収容者からはいっさい感じられなかった。苦しむ人間、病人、瀕死の人間、死者。これらはすべて、数週間を収容所で生きた者には見なれた光景になってしまい、心が麻痺してしまったのだ。》

 殴られつづけるとなにも感じなくなるようだ。本書では「不感無覚」ということばが使われている。青木の造語だろう。《この不感無覚は、被収容者の心をとっさに囲う、なくてはならない盾なのだ。なぜなら収容所ではとにかくよく殴られたからだ。まるで理由にならないことで、あるいはまったく理由もなく。》

●「人間はなにごとにも慣れる存在」

 つぎのような観察はおもしろい。《新入りのひとりであるわたしは、医学者として、とにかくあることを学んだ。教科書は嘘八百だ、ということを。たとえば、どこかにこんなことが書いてあった。人間は睡眠をとらなければ何時間だか以上はもちこたえられない。まったくのでたらめだ。わたしも、あれこれのことはできないとか、させられてはならないとか、思いこんでいた。人は「もしも……でなければ」眠れない、「……がなくては」生きられない。》これらの常識にフランクルは異をとなえるのだ。《アウシュヴィッツでの第一夜、わたしは三段「ベッド」で寝た。一段(縦が二メートル、幅が二・五メートルほど)の、むき出しの板敷きに九人が横になった。(中略)言うまでもなく、わたしたちは横向きにびっしりと体を押しつけあって寝なければならなかった。》糞まみれの靴を枕にしている者もいた。こんなありさまでも、眠りは意識を失い、状況の苦しさを忘れさせてくれた、というのが教科書嘘八百説の一例。

 歯なんか磨かなくても、ビタミン不足でも、歯茎は栄養状態の良かったころより健康になり、半年間同じシャツを着た切り雀で体を洗うこともなく土木作業をさせられても、傷口は化膿しなかった。《人間はなにごとにも慣れる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しかったかを思わずにはいられない。人間はなにごとにも慣れることができるというが、それは本当か、ほんとうならそれはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。だが、どのように、とは問わないでほしい……。》

 最後の一句は何をいいたいのかわからない。以前はかすかな物音にも目がさえて眠れなかった者が、すし詰め状態でとなりの被収容者に大いびきをかかれても横になったとたんにぐっすり寝入ってしまった、というのだが、その背景に極度の疲労があることを見のがしてはならないだろう。「どのように」というのは、極限状況に追い込まれればという条件を指しているのではないか。

 どれほどの極限状態であるかを示す一節を引いてみたい。フランクルが「発疹チフス病棟」に入っていたときのことだ。まわりじゅうが高熱を発し、瞻妄(センモウ)状態にある患者ばかり。ひとり亡くなると「看護人」は《死体の足をつかみ、右にも左にも五十人の高熱を発している人びとが横たわっている板敷きのあいだの狭い通路に転げ落とし、でこぼこの土の床を棟の入り口まで引きずっていった。外に出るには階段を二段、上がるのだが、これがわたしたち慢性的飢餓状態にあり衰弱しきっている者にとっては大問題だった。何ヵ月も収容所で過ごした今、わたしたちはみな、両手で柱にすがって体を引きあげないと、足の力だけでは自分の体重を二十センチだけ二回持ち上げることなど、とっくにできなくなっていた。》

 最後のころの食事は、日に1回与えられる水としかいえないようなスープと、人をばかにしたようなちっぽけなパンで、それに「おまけ」として20グラムのマーガリンや粗悪なソーセージの一切れなど。《皮下脂肪の最後の最後までを消費してしまうと、わたしたちは骸骨が皮をかぶって、そのうえからちょっとぼろをまとったようなありさまになった。すると、体が自分自身をむさぼりはじめたのがよくわかる。有機体がおのれのタンパク質を食らうのだ。筋肉組織が消えていった。》これほどの極限状況に追い込まれれば、いかに劣悪な環境でも眠りに就くことができるだろう。ほとんど死んでいるのだから。「人間はなにごとにも慣れる存在だ」というドストエフスキーのことばを文字どおり受けとめてはならない。

 そもそもドストエフスキーのことばがフランクルに感銘を与えるためには、ドスト氏がフランクルと同程度、いやそれ以上の苦難に遭っている必要がある。ドスト氏の人生はいかなるものであったか。たしかに空想的社会主義サークルにはいった廉で5年間シベリアに流された。そのときの体験が上記の格言を産んだのだろうが、それ以外は処女作から大当たりをとり、数々の超大作をものしている。つまりそれだけ生活にゆとりがあったのだ。生涯貧乏だったといっても博打癖が原因だからね。

 ひるがえってわたしたち頸損の置かれた肉体的状況はどうか。ひとそれぞれであるから一般論は述べられない。個人的な事情を書く。C5の四肢体幹麻痺、全介助の身だ。全介助というのは食事から排泄までなにもかもひとに頼るということ。小指いっぽんうごかない。皮膚感覚がないから肩甲骨から下は針で刺されても感じない。そのくせ背中と腕には激痛がある。深部感覚というのだろうか。背中になにかが当たっているだけで苦しい。車椅子の背もたれにもたれても痛ければ、最新式のエアマットを敷いたベッドに寝ても、仰臥位なら2時間が限度だ。そこで比較的痛みの少ない右側臥位で寝るのだが、やはり下敷きになった腕や腰は痛くなり、どういうわけかなんのプレッシャーもかけていない左側も痛くなる。極度の疲労があればすし詰めでも糞まみれでもひとは眠れる、要するに慣れだという意見にわたしは異を唱えたい。頸髄損傷者の耐えがたい痛みは一晩に何度もあなたを起こすだろうと。この痛みを軽減するのにどれほどの工夫を凝らしたかしれない。ペインクリニックといって患部にキシロカインを注射する方法もすがる思いで2年ほど試したが、効果はなかった。「人間はなにごとにも慣れる存在だ」などと気軽にいってほしくない。

 体位交換は一晩に何度も頼まなければならない。介助者も疲労が蓄積してくる。妻は特に精神科で処方された睡眠薬を大量に飲んでいたから、ただでさえぐあいの悪い精神状態がさらに悪化し、次第に家を空けるようになった。夜は深夜営業の飲食店に行ってタバコを吹かして時間をつぶし、昼は行く先も告げず外出して夜まで帰らず、そしてしばしば旅に出た。家にいない隙を狙って当初通っていた代々木病院精神科の妻の主治医に電話をかけ、いくつか質問をした。

 「手首を切ると心が楽になるというんですが、これはなぜなんでしょう」

 「わかりません」

 「妻はわたしのそばにいたいというんですけど、ひんぱんにでかけるんですよ」といったら、患者の心のゴミ捨て場である精神科医はひどくいらだたしそうに、

 「あんたもわからないひとだねえ。言葉より行動が真実だっていうことぐらい知らないんですか!」と怒鳴られてしまった。

 最後に通った都立松沢病院の主治医がまちがってふだんの3倍処方した薬を−−わたしは返却するよう説得したが、それを無視して−−飲んで永眠した。

●悪夢に苦しむひとにはどうすれば……

 《とにかく、あれは忘れられない。ある夜、隣で眠っていた仲間が何か恐ろしい悪夢にうなされて、声をあげてうめき、身をよじっているので目を覚ました。以前からわたしは、恐ろしい妄想や夢に苦しめられている人を見るに見かねるたちだった。そこで近づいて、悪夢に苦しんでいる哀れな仲間を起こそうとした。その瞬間、自分がしようとしたことに愕然として、揺り起こそうとさしのべた手を即座に引っこめた。そのとき思い知ったのだ、どんな夢も、最悪の夢でさえ、すんでのところで仲間の目を覚まして引きもどそうとした、収容所でわたしたちを取り巻いているこの現実にくらべたらまだましだ、と……。》(評者注:日本語が少しおかしい。「すんでのところで」から「引きもどそうとした、」は不要だ。)

 悪夢にうなされているひとにはどういう態度をとればいいのだろう。精神科からもらった大量の向精神薬やら安定剤やら睡眠薬などで一日中眠っていた妻は、いざ夜になってわたしが就寝準備にはいると目を覚まし、わたしやわたしの家族を攻撃する呪詛のことばを吐きつづけ、それに嫌気がさすとこんどは果てしない自虐を始め、疲れはてて明けがたに眠る。つぎにくるのは悪夢だ。薬で一日中ウトウトしているせいか夜もしょっちゅう悪夢に悩まされる。わたしは起こしたものかどうかさんざん迷ったあげく、あまりにも苦しそうなときは声をかける。「こんな悲しい夢を見た、こんな苦しい夢を見た」という愚痴をひとしきり聞いてやったあと、「でも夢でよかったじゃないか、現実じゃなくて」と慰めるのが精一杯だった。だがフランクルのいうように、彼女にとって最悪の夢でさえ現実にくらべたらまだましだったのだろうか。

●粗野と繊細、どちらが生きのびるか

 「内面への逃避」という一節で、フランクルはこんなことを述べている。《強制収容所に入れられた人間は、その外見だけでなく、内面生活も未熟な段階に引きずり下ろされたが、ほんのひとにぎりではあるにせよ、その感じやすさとはうらはらに収容所生活という困難な外的状況に苦しみながらも、精神にそれほどダメージを受けないことがままあったのだ。そうした人びとには、おぞましい世界から遠ざかり、精神の自由の国、ゆたかな内面へと立ちもどる道が開けていた。繊細な被収容者のほうが、粗野な人びとよりも収容所生活によく耐えたという逆説は、ここからしか説明できない。》

 ここから先がややアマイようにわたしには感じられる。いかに苛酷な状況に置かれようとも、妻の面影を想像すれば耐えられるというのだ。《人は内に秘めた愛する人の眼差しや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。》独身だったらどうするのか。仲の良い夫婦ばかりではあるまいにと茶々を入れたくなる。フランクル夫妻は新婚1年で引き裂かれた。すべてのひとにあてはまることではなかろう。

 日本人には西洋人の「愛」がわからないのだ。『逝きし日の俤』(「障害老人乱読日記」bR6)のなかで著者の渡辺は「当時(明治以前)の日本人には、男女間の性的牽引を精神的な愛に昇華させる、キリスト教的な観念は知られていなかった」とかたっていた。フランクルはユダヤ教の信徒であってキリスト教徒ではないのだが、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は同一神を信仰している分派であるに過ぎないから、同じ精神構造と見てさしつかえない。フランクルはそのうえ強制収容所にはいると性欲は消えると書いているから、純粋な愛、プラトニック・ラブに心を占められている状態なのだろう。ちなみに頸髄損傷者は消えない。

●「ユーモアのおと」の失敗

 ユーモアについて前回フランクルはおもに「やけくそのユーモア」について述べていた。今回はわたしの「魂の武器」としようとしてとりくんだユーモアが、とんだ墓穴を掘った体験について綴ってみたい。

 《ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにかなのだ。》ひとりの外科医と数週間ともにはたらいたとき、フランクルはこの仲間に、毎日ひとつは笑い話をつくろうと提案した。それもいつか解放されてふるさとに帰ったときに起こりうることを題材とする。《仲間たちも、似たような滑稽な未来図を描いてみせた。夕食に招かれた先で、スープが給仕されるとき、ついうっかりその家の奥さんに、作業現場で昼食時にカポーに言うように、豆が幾粒か、できればジャガイモの半切りがスープに入るよう、「底のほうから」お願いします、と言ってしまうんじゃないか、など。》

 《ユーモアへの意志、ものごとを洒落のめそうとする試みは、いわばまやかしだ。だとしても、それは生きるためのまやかしだ。収容所生活は極端なことばかりなので、苦しみの大小は問題ではないということをふまえたうえで、生きるためにはこのような姿勢もありうるのだ。》

 ウツ病は、ウツるからウツ病というのだとおもった時期がわたしにはある。妻の鬱病がいっこうに癒えず(ほんとうは強迫神経症だったようだが、わたしにその区別はつかない)、しだいにわたしも不眠の度をくわえ妻と同じ神経内科や精神科に通うようになった。そんななか「ユーモアのおと」というものを思いついた。最初のページにこう記した。「悲劇はいらない。この世が悲しみに満ちているのは自明の理だ。/そこへ悲劇を付加する必要はない。必要なのは笑いだ。誰だって日に一度は笑うはず。それをちょっと記録したらどうだろう――。1984.11.1 地下鉄車内にて」この時期通勤に利用していた地下鉄都営三田線の車中で書いたものとおもわれる。ちなみに妻のぐあいが本格的に悪くなりはじめたのが1985年。わたしがけがをしたのは1987年夏のことだ。

 雑誌や街中で見かけたのどかなものを拾っている。

 「ブスに二号はない」(ビックリハウスから)

 「有楽町駅前の宝くじ売り場で見かけた広告。“よく当たる 有楽町で買いましょう”クジ売り場のおばさんもバカにならない。(85.5.1)

 ところで皆さんご存じだろうか。妻が玄関口で帰宅した夫を出迎えハグしたりキスしたりするのは、ほかのメスの匂いが付着していないか確かめるためであることを。かいがいしい世話にも意味が隠されている。ある日帰宅すると、上着を脱がせて洋服ダンスに掛けようとしていた妻が、急に激しく泣き出した。「そんなことないっていって! うそだっていって!」と地団駄踏んで叫びながら。わたしには何のことやらさっぱりわからないから理由を尋ねても叫喚の理由をあかさない。長い時間をかけて聞き出したところによると、セビロの襟の裏に1本の長い女の毛が潜んでいたという。それではラッシュアワーの車中で付いたんじゃないのとはいえない。意図的な行為の結果といわざるを得ない。だが断じて身に覚えはない。やはり社内の女性のしわざだとしか考えられないが、恨みを買うようなことをした覚えはない。

 わたしの1年間の入院中にこのノートを見つけた妻は、退院後怒りを爆発させた。「この世が悲しみに満ちている」という記述で、遠回しに自分を責めていると受け取ったのだ。わたしの「生きるためのまやかし」はまったく通用しなかった。「ユーモアのおと」だけでなく日記のすべてを読み(日記・手紙など記録癖のあるひとには即刻シュレッダーを買うことを薦める)、退院後毎日のようにわたしを責めつづけた。特にわたしの浮気を自白させようとした。日記の中に証拠を見つけられなかった妻は検事のように執拗だった。浮気の定義が「婚外性交」だとしたら、おあいにくさま一度も経験がない。清い人間だったからではなく、単に後難を恐れたからにすぎないのだが。(つづく)