車椅子は群衆の中にまぎれこめない。どうしたって目立ってしまう。中途障害者はそれがいやで家に閉じこもりがちになる。最近でこそヘルパーに車椅子を押されて町なかを行く老人がふえたが、わたしがひとりで外出する決心を固めた1980年代の終わりには、外で車椅子を見かけることはほとんどなかった。なぜひとりででかけたか(出かけるといっても半径1.5キロメートル程度のことだが)。詳しくは次の節で述べたい。
《苦しみをともにする仲間と四六時中群れて、日常のこまごまとしたことを常にすべて共有していると、この耐えざる強制的な集団からほんのいっときでいいから逃れたいという、あらがいがたい衝動がわきおこることは、よく知られた事実だ。ひとりになって思いにふけりたいという、心からの渇望、ささやかな孤独に包まれたいという渇望がわきおこるのだ。》アウシュビッツからガス室のないバイエルン地方の病囚収容所に移送され、ようやく医師として働けるようになると、人間らしい欲望が頭をもたげてくる。さいわい病棟の裏手に死体を放り込んでおく仮設テントがあった。《バイエルンの田舎の広びろとした花咲く緑の牧草地や、青くかすむ遠い丘陵をながめたものだ。そして憧れを追い、愛する妻がいるとおぼしい北や東北の方向に思いを馳せるのだが、そこには不気味なかたちの雲が認められるだけだった。》
美しいバイエルンの風景とともに描かれる妻への憧憬のあとに、なぜ《不気味なかたちの雲が認められるだけだった。》という不吉な文章を付け加えたのかわかるだろうか。解放後この本を書いたとき、妻がすでに死んでいることを知っていたからだ。その暗示として書いているのだ。このてはわたしも処女作でつかったが、詳細には触れまい。自慢話と受けとられかねないから。
●自立と孤独
このひとりになりたいという気持ちは、全介助の身体障害者にはよくわかる。頸損歌人の故中島虎彦氏の短歌にもこの心が詠われていた。「すみませんありがとうの日暮らしにすこし疲れて野道までくる」という歌だ。わたしも散歩に行くときはいつもひとりだ。初対面のひとはそれを聞くといつも驚く。危険なこともある。不便なこともある。しかし全介助で常にそばに介助者がいなければ生きていけないからこそ、たまにはひとりの時間を過ごしたいのだ。
そしてもう一つひとりで出かける理由がある。連綿とつづいた「措置」の時代、すなわち障害者を弱者として行政がすべてを決定するという時代から、2005年、「障害者自立支援法」という法律が成立し、障害者が主体性を持って日常生活および社会生活を送れるようにするという時代に変わった。とたんに世間の流れが反転した。障害者は主体性を持って自立しなければならぬ! 社会参加しなければならぬ! できれば納税者になること!
そこで従順な小市民であるわたしは、介助用車椅子をボランティアに押してもらい床屋へ行っていたのを、ヘッドレストの取れる電動車椅子を新調し、ひとりで床屋へ行くようにした。またたとえばひとりでスタバに入った。これはじつに勇気のいることだった。夏、阿佐ヶ谷駅近辺まで出かけるとのどが渇くし暑くてたまらない。自動販売機はそこら中にあるが、ひとりでは飲めない。車椅子の背後につけたリュックに水筒を入れ、そこから伸ばしたシリコンチューブを口元にセットするという方法もあるが、気が進まなかった。
スタバの前を行きつ戻りつし、「ま、いいや、今度にしよう」と帰ったことが何度あったことか。混んだ店の中に大きな電動車椅子で入っていって、もしいやな顔をされたらどうしようとおそれたのだ。仏頂面のケアほど心の冷えるものはない。ある日おもいきって入るとかわいい女の子が愛想良く出迎えてくれ、アイスコーヒーを飲ませてくれた。ストローでチュルチュルと一気に飲んでそそくさと店を出たが、この日の体験は大きな自信となった。これぞ自立ではないか。これぞフランクルのいう《主体性をもった存在》の証ではないか。
ところがだ。これまで個別の介護事業所としか交渉してこなかったのが、65歳になって介護保険の適用者になったとたん、ある日わが家で「全体会議」というものが開かれて、ケアマネ数人、各介護事業所の責任者、ヘルパーなどが集まり、全部で10人ぐらい来宅しただろうか、その場で「要介護度5でひとりの外出はまかりならん」と申し渡された。自立支援法の時代は良かったではないかと反論したが、その時代もほんとうはダメだったのだといわれた。それでは「自立」支援の精神に反するのではないか。勇をふるってスタバに入ったり、ひとりでスーパーマーケットなどの店に行き、ほかの客にかごを膝の上にのせてもらったり、品物をかごに入れてもらったり、レジでウエストポーチの中に財布が入っているからそこから金を取ってくれと頼んだりして、みんなに親切にされた行動は、あっけなく否定され、終焉を迎えた。あとはヘルパーに車椅子を押されて外出するヨボヨボなじじいになる日を待つしかない。これぞ国の思い描く介護保険の姿なのだ。そんな政治思想で「毎年老人介護費が1兆円ずつ増えていくから消費税を上げる」などと甘ったれた愚痴をこぼすんじゃねえよ。
「立ってる者は親でも使え」ならぬ「誰でも使え」という考えの深層には−−これはすでに拙著に書いたことだが−−、国立リハビリテーションセンター病院の精神科医師のことばがある。つぎの診察日を決めるとき、わたしが「その日はリハビリがあるから……」とためらうと、「みなさんリハビリの意味を誤解している。リハビリというのはあなたがいま乗っているストレッチャーのままデパートにひとりで置き去りにされたとき、自力で無事に自宅に帰り着くことです」といわれた。そのときは意味がわからなかったが、これこそフランクルのいう「主体性」を如実にあらわした言葉なのだということにいまさらながら気づく。
●人間の真価は収容所生活でこそ発揮される
いよいよ話は佳境にはいってきた。《人間は、生物学的、心理学的、社会学的と、なんであれさまざまな制約や条件の産物でしかないというのは本当か、すなわち、人間は体質や性質や社会的状況がおりなす偶然の産物以外のなにものでもないのか、と。》と述べたうえでそれを否定する。《感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ「わたし」を見失わなかった英雄的な人の例はぽつぽつと見受けられた。》ぽつぽつだけどいるんだよ。《収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。》これは否応なく全身麻痺の身の上になった頸髄損傷者に通じる話ではないだろうか。
逆に収容所で人間として破綻したひとは、追憶ばかりしている。《未来の目的によりどころを持たないからだ。》現前する現実を見くびっていると、現実に真正面から向き合うきっかけがあっても、それを見失ってしまうという。《このような人間は、苛酷きわまる外的条件が人間の内的成長をうながすことがある、ということを忘れている。》さてここからきびしいお言葉。《「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」/けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。》
収容所を出たあとにおのれの真価を発揮するときが来るというのではなく、収容所の中で堅固に主体性を持ちつづけた者のみが内面の勝利を勝ちうるのだとフランクルはくりかえす。発語と引替えに呼吸器をつけることによって生の存続を図ることを決断したALSのひとたちは頸髄損傷者より過酷な条件に置かれているが、にもかかわらず自ら介護事業所を興して他のALSを助けているひとも多い。頸髄損傷者は以前から「ピアサポート」とというかたちで同様な事業をおこなっている。一生「独房」の中にいても内面的勝利を勝ちうることはできるのだ。
《強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。》これを読んでもうひとりの英雄、C1損傷の山口さんを思い出した。C1というのは最重度で、もうこの上は延髄しかない。横断歩道で信号待ちをしていたら暴走車に跳ねられた。もともと身体強健なひとではあったが、人工呼吸器は免れなかった。国際会議をコーディネートする仕事に就いていただけあって、英語ができ、まあ英語ができるひとなど珍しくないが、なんと山口さんは入院中のベッドの上でクリストファー・リーブの頸髄損傷体験記『STILL ME』という新刊本の抄訳を「はがき通信」に投稿してきた。奥さんと会話するのにメールを使うと聞いて頭のいいひとだと感じた。その後もたびたび「はがき通信」に投稿してきた。
特に印象に残る彼のことばは「障害者は主体性を取り戻せ」というものだった。たとえば退院に当たって人工呼吸器の業者が病床まで説明に来たとしよう。業者は医者や家族に向かって説明を始める。「使うのはおれだ、おれに説明しろ」と怒りとともにアピールしたという。このことばには勇気づけられたものだ。
●希望は免疫を強化する
自己放棄と未来の喪失は死をまねく。かつては著名な作曲家兼台本作者だったF氏は、医師であるフランクルにこんな話を打ち明けた。夢で自分が3月30日に解放されるという声を聞いた。Fは正夢だと信じていたが、《夢のお告げの日が近づくのに、収容所に入ってくる軍事情報によると、戦況が三月中に私たちを解放する見込みはどんどん薄れていった。すると、三月二九日、Fは突然高熱を発して倒れた。そして三月三十日、戦いと苦しみが「彼にとって」終わるであろうとお告げが言った日に、Fは重篤な瞻妄状態におちいり、意識を失った……三月三一日、Fは死んだ。死因は発疹チフスだった。/勇気と希望、あるいはその喪失といった情調と、肉体の免疫性の状態のあいだに、どのような関係がひそんでいるのかを知る者は、希望と勇気を一瞬にして失うことがどれほど致命的かということも熟知している。》
強制収容所の医長は本例と符合する話を折に触れていっていた。1944年のクリスマスと45年の新年のあいだに、特段の理由もないのにかつてないほどの死者が出た。クリスマスには家に帰れるという素朴な希望にすがっていた被収容者は、それがかなえられなかったことにより落胆と失望に打ちひしがれたのが原因だろうというのが医長の見解だった(この文を読んで、ユダヤ教徒にとってもクリスマスが重要な行事であることを知った)。
2010年8月、チリの鉱山で落盤事故が起こり数十名の作業員が閉じこめられたとき、地下600メートルの深さゆえに救出が危ぶまれたにもかかわらず、大統領はクリスマスまでには救出すると言明した。その見通しがあったのかどうかは不明だが、じっさいには10月に救出され、大統領の株はおおいに上がったのだった。
《強制収容所の人間を奮い立たせるには、まず未来に目的を持たせなければならなかった。》生きる目的を見いだせない者は、あっというまに崩れていった。《あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのはきまってこんな言葉だ。/「生きていることにもうなんにも期待がもてない」/こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。》重度障害者になって一度もそんなことを考えたことがないひとなどいないだろう。
ようやくすこしわかってきた。つぎのことばでわたしは得心がいった。「生きていることにもうなんにも期待がもてない」と例のことばを口にする被収容者がふたりいた。フランクルはこのふたりに《生きることは彼らからなにかを期待している、(評者注:こなれない日本語だ。「人生は彼らになにかを期待している」としたほうがわかりやすいのではないか)生きていれば未来に彼らを待っているなにかがある、ということを伝えることに成功した。》ひとりには父を待つ子供がいた。もうひとりは研究者で、あるテーマの本を数巻上梓していたが、まだ未完結だった。《この仕事が彼を待ちわびていたのだ。(中略)自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。》
●苦しむことも生きることの一部
さあここからわれわれ頸損をはげまし力づけてくれるようなことばが続々とつづく。《被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに閉め出されていた。しかし、行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。》
生きることに意味があるなら、苦しむことにも意味があるとフランクルはいう。わたしにいわせればどだい苦しみのない人生などない。道行くひとはみな何気なく生きているようでいて、じつは他人にはうかがい知れぬ苦悩を抱えているのだ。苦しみのない人生などない。苦しみあってこその人生だと覚悟を固めること、これも楽に生きる方法の一つだとわたしはおもう。
しかしですなあ。人生に死があるのは当たり前だが、なるべくなら苦悩とは無縁でいたい。いやな思い出を書く。ある日、朝から出かけた妻は、夜、それも深夜、電気を消してわたしがすでにベッドに寝ているところへ、精神病院の若い患者仲間を男女あわせて4、5人引き連れて帰宅した。わたしは音だけで判断している。精神科の待合室というのは悩みをかかえたひとが集まるところだから、すぐに仲良くなってしまう。中には仲良くなりすぎるカップルも出てくる。隣室の台所でたのしそうに宴会を始める。密やかにではない。一家の主には一言の挨拶もない。ふつうの家庭なら怒鳴りつけるところだろうがそうもいかない。みな心を病んだひとたちだ。いらいらしながら宴会の終わりを待つしかない。宴果ててのち、2階の娘と息子の部屋に男女わかれて就寝したとあとで聞いた。翌朝男ともだちに妻がわたしの電気カミソリを使わせている。これにはさすがに温厚なわたしも腹を立てた。もし夫婦の障害・健常の立場が逆で、わたしが女ともだちを連れてきて女房の口紅を貸したら、女房は逆上してまた救急車騒ぎを起こすにちがいないとおもった。だからだまっていた。この苦悩がわかるだろうか。まあ、いい苦悩訓練をさせてもらったとおもうことにしよう。
そして……。ある朝収容所の門に白旗が揚がった。ナチスは敗れ、被収容者はすべて解放されたのだ。ああよかった。わたしもようやくこの難解な書物から解放されるときが来た(笑)。《収容所のゲートから外の世界へとおずおずと第一歩を踏み出した。号令も響かない。鉄拳や足蹴りを恐れて身をちぢこませることもない。ああ、それどころか、収容所監視兵のひとりに至っては、煙草を差し出したのだ。わたしたちは監視兵たちをにわかに判別できなかった。手回しよく、いつのまにか平服に着替えていたからだ。》オチがついたようだ。