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 『藝人春秋』(水道橋博士、文藝春秋、2012.12)

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 お茶の水博士に一歩へりくだって水道橋博士、1962年生、本名小野正芳。ビートたけしにあこがれ明治大学に進学するも4日で退学。 玉袋筋太郎と漫才コンビ・浅草キッドを結成。

 キワモノはそれがはやっている時には大いに話題になるが、流行がすたれると顧みられることがない。 本書ではおもに雑誌「笑芸人」(白夜書房)に連載したもののなかからそのまんま東・堀江貴文・テリー伊藤・北野武・松本人志などをピックアップしている 。いわば平成芸人列伝といったところか。じつは10年も前に脱稿していたのだが、稲川淳二の章を含めるかどうか迷いに迷って10年が過ぎてしまったという。 そのせいか甲本ヒロト・石倉三郎・三又又三・苫米地英人など、今となっては顔も浮かばないような芸人も含まれていて、あまり読む気をそそられない。 悪いけどすっとばす。キワモノの宿命だ。

●オヤジ探しをするそのまんま東

 1957年生。1998年、渋谷のイメクラ店「年中夢中」で東についた女の子が年齢詐称の16歳であったため、淫行疑惑で事情聴取を受けた。 それだけで“年内自粛”の憂き目に。《不祥事が表面化すれば、タレントは自業自得と非難囂々、猛省と自粛と謝罪、 そして期限未定の謹慎を求められるのが昨今の芸能界の常である。》上岡龍太郎はこういって東をかばった。 「たまたま乗ったタクシーで運転手が2種免許を持ってないことで客が罪を問われているようなものだ」

 泥酔すると必ず目上の大物、大先輩にからんだ。たけし軍団の新年会でも“殿”にからみつづけ、容赦のないパンチを受けた。 東はのちにこう書いている。「僕はこれまでずっと、父というよりオヤジという部分の愛情に欠落し、飢えていたのだと思う。 師匠はそういう意味では理想の人であった。あの人の傍らにいたい、そしていつもオヤジを感じていたい。 (中略)昔、僕は師匠に12発も続けて殴られたことがある。原因は覚えていない。(中略)殴られる感覚と殴っている師匠の顔は今でもはっきり覚えている。 一発一発殴られながら、なぜか冷静に今まで僕は父に一度も殴られなかった理由について考えていた。」

 水道橋博士はこれを「父親探し」であると分析し、芸人のメンタリティーを明らかにする。ただしむかしの芸人の話だ。 《親を捨てて家出同然、勘当覚悟で、新たな父である師匠に弟子入りする。/「師弟」というシステムを経て芸人になった者たちのメンタリティーには、 かつて振り捨てたまま田舎に置いてきた肉親や家庭に対する慚愧(ザンキ)の念が深く宿る。》おのれ自身を反映させた分析にちがいない。 というのもこんな一節があるからだ。《撮影中盤、田舎で暮らすボクの父が脳出血で倒れた。/「お父さんが重体だ……」 /その一報を兄から知らされるとボクは狼狽した。/芸人生活を始めてから、ずっと親不孝を続けていたままのボクは、 台本通りに浅草の伝法院通りを歩きながらも涙が止まらなかった。/家出同然で芸人になったため、 一度もちゃんと話をすることもなかった父との空白の日々を思い起こすと、激しく慚愧の念にとらわれた。》

 そのまんま東の自伝小説『ゆっくり歩け、空を見ろ』にはこうある。“淫行疑惑”でタレント業を自粛していたある日、 「突然8歳の時、生き別れた父の面影が甦った。母を妾とし、破天荒な人生を歩んだ父、その生死すらわからないまま、年齢を重ねてしまった。 自分のDNAに巣食う放蕩の血脈を断ち切るため、俺は矢も楯もたまらず父親探しの旅に出た。“妾の子”といじめられた時、いつも励ましてくれた母の言葉、 『ゆっくり歩け、空を見ろ』を胸に抱きながら。」

 1999年、芸能活動自粛中に早稲田大学第二文学部社会人入試に合格。卒業後、早稲田大学政治経済学部政治学科に再入学。 早稲田の政経は文系では一番の難関だ。まず入りやすいところに入ってから有利な転部試験をねらったのだろう。 最終的な目標は政治家だ。宮崎県知事を経たのち2012年には「維新の会」から出馬、衆議院議員としてして当選したものの、 2013年には会派を離脱、議員を辞職してしまった。真意は知るべくもない。

●ジジイどもは堀江貴文に謝れ

 1972年生。《27歳で東証マザーズに上場を果たし30歳で資産60億円の長者に上りつめたIT業界の若き旗手。 鳴物入りのテレビ初登場であった。》2003年4月、テレビ朝日の深夜番組『ド・ナイト』出演時の話だ。 《ぼくが何より関心をもったのは事前に打ち合わせをした若いスタッフが「正直言って話を聞いているだけで頭に来ますよ!」と身を震わせ報告するほど、 その語り口調が生意気きわまりないという点だった。/それを聞き、猛獣使い芸人としての腕が鳴った。》

 2005年には「ライブドアvsニッポン放送&フジテレビ」問題にけりをつけ歴史的和解にもちこんだ、 ということはガッポリ和解金をふところにしたということだろう。ライブドアはニッポン放送がフジサンケイグループの筆頭株主である点に目を付け、 一気にマスコミ界の親分衆の仲間入りをはかったのだと当時わたしは感じた。M&Aとかそんなことは知らないが、 一つだけ鮮明におぼえているのは、ホリエモンがニッポン放送買収に当たって「ラジオとインターネットの融合」を唱えたことだ。 するとニッポン放送の「社員会」は――ウサンクサイ名前だとわたしの経験はささやく――、具体策を示せと反撥した。

 ところがいまや(まだ10年ほどしか経っていない)ラジオ各局はインターネットなしには成立しなくなっている。 たとえばむかしはラジオ番組が出したお題にたいしてリスナーはハガキで投稿し、1週間後にそれが読まれるというペースだった。 それがいまや10分前の放送にたいしてメールで反響がある。またラジオ各局はホームページを設け、ニッポン放送もご多分に漏れずそこに番組紹介はもちろん、 twitter, facebookのリンクというのかわたしにはよくわからないIT用語を掲載し、宝石・化粧品・包丁の通販などもおこなっている。 ホリエモンはあのときこうなると具体的な提言まではできなかったが、おおざっぱな指針は示していたことになる。 それこそ経営者の本分ではないか。「社員会」および放送界のジジイどもは不明をわびるべきだろう。

●稲川淳二はホンモノかもしれない

 1947年生。怪談話の第一人者といってもいい稲川の話を聞いて本気にするひとはあまりいないだろうが、じつはほんとうに奇妙な体験を何度もしている。 遺体を発見して警察に事情聴取を受けることなどふつうのひとはまず一生に一度も体験しない。ところが彼はこれまで5回も受けている。 たとえば学生のころ仲間数人と西伊豆の磯で夜釣りをしたとき、釣れないものだから仲間は帰ってしまい、自分は岩に寝ころがって眠ってしまった。 朝がた濃い霧のなかで「おーい、おーい」というおまわりさんの声に目覚めた。その拍子にサンダルを海中に落としてしまい、 あわてて潜って拾い上げ水上に首を出したら海藻が顔にまとわりつく。すると目の前のおまわりさんがまっ青になってガタガタ震えている。

「ワタシ、心中水死体の男女の間から顔を出していたんです。」

 桑沢デザイン研究所出身で、さまざまな分野のデザインで実績を上げ、通産省選定グッドデザイン賞まで受賞している。 テレビ業界に出入りしているうちタレントとしての才能を見出され、「芸能界一のいじめられっこ」になっていく。 《「4千匹のマムシがうごめくプールで個人メドレー」などなど――テリー伊藤演出によるリアル・シミュレーションの企画はいまやバラエティ番組の王道だが、 稲川さんこそが、いじめられ、いたぶられ、体当たりリアクション芸の先駆者なのだ。》 《どんな非常事態、絶体絶命の窮地にも、/「いやいやいやいや、どーも、どーも」と相手に擦り寄り「悲惨だなぁ悲惨だなぁ」の泣き顔で訴え同情を誘い、 そして「喜んでいただけましたでしょうか?」と最後に笑顔で締めるのが稲川淳二必殺パターン、黄金芸のおきまりであった。》

 稲川淳二の章を収録するかどうか迷って出版が10年遅れたと冒頭に書いた。稲川にはクルゾン病という先天性の重度障害児がいる。 そのことは2002年日本テレビの深夜番組「マスクマン!」で本人の口から明らかにされ、「笑芸人」2002年冬号にも掲載されている。 だが視聴者の少ない深夜番組や読者の少ない雑誌と大出版社の単行本では反響のスケールがちがう。 水道橋博士に出版を決意させたのは、2012年5月の朝日新聞に稲川本人がインタビューでわが子のことを語っているのを見たからだ。

 「マスクマン!」の収録中、稲川はこんな告白をした。「実は15年前に、仕事とは関係ないところで、とてもイヤなことを当てられたことがあるんですよ。 自分より辛いことね。……子供のことですよ。海外の霊能力者から予言されたんですよ。(中略)まだ生まれてくる前の息子が『重病で生まれてくる』って……」

 わたしはこのての話はまったく信じないほうだが、これを読んでどうも稲川淳二は特殊なひとで、 世の中には特殊なひとが少なからずいるのかもしれないと考えるようになった。

 重度障害児の誕生で家庭は一気に崩れていく。 《クルゾン病とは、頭蓋骨の割れ目が早期に閉じることで脳の成長に変調を来たし顔が変形したり、脳障害、失明を引き起こすという難病中の難病である。》 生後4ヶ月で手術を受け、2歳ごろから学園に通うようになる。母親は病院には泊まり込み、学園には毎日様子を見にいくという生活で、すっかり疲れはててしまう。 「外で、お笑いをやって帰ってきた人間にとって、家で女房のつらい顔を見るというのも切ないものなんです。 ワガママだと言われるかもしれないけど、ワタシだって家では、ほっとしたい。だったらいっそ一人で暮らしたほうがいい……。」別居することになった。

 「この子を生かすって大変でしたよ。ほんとうに子供を殺そうと思いましたからね。 (中略)手術が終わって、エレベーターから子供のベッドが、すーっと出てきたんです。点滴がダーっと下ってるんですよ。 まだ生まれて間もないのに、口だけが出て、あとは全部包帯なんです。体という体には全部管が刺さってるんです。 それを見た瞬間、ワタシね、泣いたな。俺は最低な父親だって、こんなに必死で生きて、こんなに頑張ってる子供を、俺は殺そうと思ったんですから。」 子どもを乗せたベッドが遠ざかっていく廊下に向かって、「ユキ! とうちゃんだぞッ、俺はお前のとうちゃんだぞ!」とどなった。 現在は障害者問題を中心に講演活動やボランティア活動をおこなっている。

   しかし重度障害の子どもがいることをなぜ隠さなければならないのだろう。稲川の芸を見ていてもお客が笑えないからだろうか。 水道橋博士もひとこと出版のことを相談すれば、稲川はもっと早くわが子のことを公表して気が楽になり、かつ仕事の幅も広がったかも知れない。 本書も10年前なら何倍も売れただろう。