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 『昭和風雲録――安藤昇の戦後ヤクザ史――(安藤昇、KKベストブック、2012.12)

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 向谷匡史(ムカイダニタダシ、1950年生)による安藤への12回におよぶインタビュー。向谷の名前は目次の最後に添えられているだけだが、 「障害中年乱読日記」bQ(2003.7)でとりあげた『ヤクザの実践心理学』の著者であることはすぐに思い出した。

 1926年(大正15)生まれの安藤は、本書刊行時には86だ。 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し――ソープの帝王鈴木正雄伝――』(木谷恭介、光文社、2012.8) の鈴木正雄も聞き手の木谷恭介もともに80をこえていた。みんな遺言書のつもりだろう。

●安藤昇ふたつの謎

 向谷は書く。《十九歳で特攻隊に志願したとき、「人生は終わった」と覚悟したという。 /終戦を迎えて生き残ったとき、「あとの人生は余録だ」と思ったという。》 安藤には特攻帰り特有のニヒリズムと、生まれ持ったダンディズム、そして上に立つ者としての親分肌と企画力がある。本書を読んでそう感じた。

 特攻帰りの安藤がぐれん隊として頭角をあらわし、昭和39年に組を解散するまでの回顧録。 大きな疑問が二つある。安藤の出自が語られていないこと。ぐれん隊の頭目をやりながら法政大学にも入学している。 敗戦直後のどさくさまぎれだから入学は簡単だろうが、入学金は誰が出したのだろう。まあエンディングノートにも記したくないことはある。 それと、安藤組をあっさり解散してしまったこと。ヤクザの構成員は、 ほとんどが被差別部落周辺の者であることを「障害中年乱読日記」bV『近代ヤクザ肯定論――山口組の90年――』(宮崎学、筑摩書房)は教えてくれた。 職に就けなければヤクザになって糊口をしのぐほかない。だから組が解散したら行くところがない。簡単に解散などできないはずなのだ。

●「光は新宿より」

 終戦直後の米は配給制で、1人1日2合1勺(約300グラム)、それも遅配・欠配つづき。 《安藤 誰もが街を徘徊して食べ物を漁っていた。痩(コ)けた頬に眼をギョロつかせてさ。芋のツルから大根のシッポ、菜っ葉の切れ端……。 口に入るものは何でも食べた。》今なら副食が主体で主食の米は1日1合も食べないが、かつて主食といったらほんとうにそれしか食わなかった。 宮沢賢治は「雨ニモマケズ」のなかで、清貧生活の食事の象徴として「一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ」と記している。

 焼け落ちて廃墟と化した新宿の街にヤクザがひしめき、シノギをしていた。当時ヤクザどうしの「出入り」は刑期が安く、殺人で懲役4年。 「第3国人=戦勝国民」が武装する一方、警察は武器を制限され力がなく、ヤクザと警察は持ちつ持たれつだった。 新宿は、安田組・尾津組・野原組・和田組・博労会河野一家・分家前田組・博徒小金井一家・極東組、 《これらヤクザに愚連隊、不良少年、さらに新興の外国人グループが混じるんだから、ヤクザ戦国時代。死人が出るのも当たり前だな。》 安藤は記憶力がよく、企画力・洞察力も優れていることが本書を読みすすめるとわかってくる。

 安藤はぐれん隊から出発している。昭和20年、109部隊から復員した彼は、むかしの不良仲間たちと新宿、銀座、渋谷などを毎日流して歩いた。 当時流行のトップズボンに、上着は肩幅広く、胴を絞り、靴も米軍流れのピカピカのやつを仕入れた (のちに勢力拡大にともなって階級もわかるような制服を作っている)。そして喧嘩にあけくれた。武器は日本刀や米軍横流しの軍用拳銃。 《安藤 勝てば監獄、負ければ地獄で、どっちに転んでもロクなことはないが、やるしかない。》

 《――愚連隊は、博徒やテキヤのような正業を持ちません。シノギはどうされていたんですか?
  安藤 進駐軍物資の横流しから用心棒まで、金になることは何でもやった。この世界は「力」が信用だから、ケンカは絶対に勝たなくちゃいけない。 だけど、拳銃一丁買うにも金がいるからね。経済力がなくちゃ、ケンカにも勝てない。 だから稼ぐことも、ケンカのうちってことだ。》ところで「正業」は「堅気の職業」の意だから、ここは「生業(ナリワイ)」とすべきではないか。

 安藤たちは、渋谷でおおっぴらに賭場を開く台湾人徐可連の用心棒をした。そのため中国人ギャングと日本のヤクザ両方から狙われていた。 ぐれん隊として名を上げれば、用心棒などのシノギが舞い込んでくるが、常に危険ととなりあわせの日々。横浜の陳というギャングが徐の事務所に乗り込んできた。 駆けつけた安藤はブローニングで陳の足を撃ち抜き、生かしておくとあとあとめんどうなことになると見て殺そうとしたら、徐が殺さないでくれといいだす。 しかたないのでアパートに監禁し、治療してやる。弾は貫通していたから助かった。陳は口を真一文字に結んで痛いともありがとうともいわない。

 《安藤 そこで、きちんと話をしてみた。あんたを撃ったのは俺の仕事だからだ。徐を護ると約束したからこれからもそうしなければならないと、 一語ずつ区切りながら噛んで含めるように話した。
 ――どうして、きちんと話してみる気になったんですか?
 安藤 中国人だからだ。これが日本のヤクザなら力で押さえ込むしかないけど、中国人は信義にあつくて、嘘をつかない国民なんだ。》

 陳は約束を守った。……意外。われわれは日本のマスコミが流す中国人像に洗脳されているのかもしれない。多くの第3国人と生身でやり合ってきた安藤の言葉だ。 一目置いてもいいのではないか。

 《――テキヤのマーケットは不法占拠ですね。尾津組長は「光は新宿より」という宣伝文句で、よしず張りの尾津マーケットを開店した。 これが最初と言われています。》テキヤは露天商のこと。一千万人が餓死するといわれた時代だったからテキヤは儲かった。 《安藤 博徒が勢力を伸ばすのは昭和三十年代以降。日本が高度経済成長に向けて助走をし始め、社会が豊かになってからだ。》 食うや食わずのころは露天商の時代、すこし余裕が出てくると博徒の時代。歴史を概観する能力がある。

●ぐれん隊からヤクザへ

 用心棒で食えなくなると、進駐軍物資の横流しをはじめる。PXに勤務するヘンリー山田と組んだり、女たちをつかって色じかけで米兵に物資を調達させ、 銀座3丁目に偽装開店したハリウッドという洋品店を根城に荒っぽい商売をした。もちろんシノギをめぐってケンカは絶えない。 銀座で戦勝国民の蔡に不意打ちにあい、左頬を30針縫う傷を負う。 「男の顔は履歴書」という大宅壮一の名言は安藤のことをいったものだ。のちに蔡は斬殺される。

 昭和27年、渋谷に「東興業」を設立。安藤組の誕生だ。〇にAのバッジをつくって組員に配布、300では足りなかった。 幹部は13名。準幹部以上は、制服としてグレーのベネッションに黒ネクタイを着用。不良少年上がりの安藤はオシャレだった。 めんどうな興業を表看板にしたのは、賭博という裏稼業をカムフラージュするためだった。

 渋谷に本拠を構えたのは、「駅の位置を底辺としたすり鉢状の街なので押さえやすい」からだとのこと。戦国武将のようなことをいう。 拳銃は米軍用の45口径に統一、同じ型なら弾倉も弾も融通しあえる。《安藤 抗争やって負ければ、そのときから組はなくなってしまう。 「弱肉強食」って漢字で書けばたったの四文字だけど、命がけの毎日だ。(中略)あの時代、これだけ武装した組織はなかったんじゃないかな。》 話の随所で知略を感じさせる男だ。

 家族のために渋谷の栄通に「アトム」というバーを開店。《安藤 俺は組員から「上納金」を取ってなかった。 だから、俺にもしものことがあったら家族が困る。そいでやったんだ。》ヤクザの親分が上納金を取らないとはどういうことなのかわたしにはわからない。 会社組織にしたのだろうか。「武闘派と頭脳派とがうまく融合した組織になった」というが、表ビジネスのほうはうまくいかず、やはり博打に重点を置くようになる。 戦後の日本はなんでもかでもアメリカ万歳であることに目を付け、今までのようなチンチロリンではなく、日本初のポーカー賭博を導入。 本場のカジノと同じ雰囲気にして、一流の芸能人などを客とした。

●息詰まる尾津組長との“掛け合い”

 昭和25年にはじまった朝鮮動乱により日本経済は潤い、ヤクザも「ヤクザ戦国時代」に入っていく。 東興業は、テキヤ武田組と渋谷の覇権を争う。ヤクザ組織に共存共栄は不可能かと問われた安藤はこう答える。 《安藤 それはやくざだけじゃなく、企業でも国でも共存共栄というのはあり得ない。企業だってシェア争いにシノギを削っている。 M&Aと言えば聞こえはいいが、要するに乗っ取りじゃないか。国際社会だって、米・ロ・中が戦争しないのは共存共栄という発想じゃなく、 パワー・オブ・バランス――つまり、力が均衡して、お互いが戦争を仕掛けないでいるに過ぎない。》 わたしはかねてから弁の立つヤクザにマスコミで世の中のもろもろを語らせたら本音丸出しの番組になるのではないかと期待している。

 武田組との抗争はのっぴきならない状態まで高まってくる。これをどう収めたか。まさに息詰まるような展開だ。 本書の白眉といっていいだろう。武田組と決着を付けるハラは決めたが、総力戦になれば双方とも多くの犠牲者を出す。 死ぬか、長い懲役だ。他の組も漁夫の利を狙って虎視眈々としている。《安藤 それで尾津組長のところへ掛け合いに行くことにした。 尾津組長は武田組長の親分筋に当たるから、話(ナシ)をつけるなら尾津組長が手っ取り早いと考えたわけだ。 (中略)相手がどれほどの大親分だろうと、喧嘩になれば五分と五分だ。》掛け合いとは談判のこと。失敗したらメンツを失う命がけの行為だ。 このとき安藤29歳。この歳で大親分に掛け合いに行くことなど前代未聞だった。

 幹部の志賀日出也と背広のしたにホルスターを吊って拳銃2丁、6連発のスペアを4つ用意した。 《安藤 俺たちは生きて帰れないけど、尾津さんだって無事ってわけにはいかない。(中略)世間の人から見りゃ、 あんまり賢くは思わないだろうけど、やくざっていうのは断崖の小道を登っていくようなもんでね。 こうして一歩ずつ、頂上を仰ぎ見ながら命がけで登っていくんだ。》 朝6時、新宿歌舞伎町の尾津邸にマーキュリー・コンバーチブルで乗り付け、公衆電話の前で停車。 殺気だった安藤組組員の待機する事務所に、「入る前にもう一度電話するが、それから15分たって連絡がなかったら武田組に殴り込め」と指示。 10分以内に話を付けなければならない。

 「朝っぱらから申しわけありません。私、渋谷の安藤と申します。尾津組長ご在宅でしたら、ちょいと急ぎの用で出向いたとお伝えください。 勝手ですが急ぎます」尾津組の番頭は顔色ひとつ変えず「少々お待ちを」と奧へ引っ込む。以下は本書で最も気に入った部分なのでノーカットで引用したい。

 《――どう対応してくるか、緊張の一瞬ですね。しかも十五分以内に尾津邸を辞して事務所に電話しなければ抗争が始まる。
安藤 時間にして二、三分だったかな。着流しに半纏姿の尾津さんが姿を見せた。それも一人でね。貫禄というのか、さすが大親分だ。 だから俺も礼をつくして頭を下げて「お初にお目にかかります。私、渋谷の……」と改めて名乗ろうとしたら、「おお、かたいことは抜きだ。 さっ、お入り」――さっと制して、俺たちを応接間に通した。
 ――見事な呼吸ですね。
安藤 まったくだ。で、尾津さんに「なにか用かい?」とうながされて、「実は昨夜遅く武田組ともめまして、 ご縁続きのお宅様に掛け合いに参りました」と言ってから、息を殺して返事を待った。返事次第で、引き金を引かなくちゃならない。 ソファに坐っていると、両脇に吊った大きな拳銃がゴツゴツと当たるんだ。尾津さんが口を開くまで、ほんの数秒だったんだろうけど、ずいぶん長く感じたね。
「わかった」
 それが尾津さんの返事だった。
「どんな理由か俺にはとんとわからねえけど、武田には俺が呼びつけて話そう」
 と言った。
 だけど、具体的に何がどうなるのかわからない。だから、そのことを聞こうとしたら、
「わかった、わかってる。もう言うな、アッハッハ」
 笑い飛ばされて、話は終わった。
 ――貫目(カンメ)ってやつですか。
安藤 そうだね。で、若い衆に冷や酒を持って来させて、尾津さんが俺たちについでくれながら、 「俺のところへ二人で飛び込んできたお前さんたちの根性が気に入った。だけど安藤、これからは物騒なものは無しで遊びに来いよ」と言って笑った。》

 尾津としては、頬に大きな傷のある野郎が来ましたと報告を受けたら、子分に命じて安藤たちを痛めつけるか殺すかできたろう。 だがそれでは親分としての面目が立たない。二人きりで飛び込んできた根性が気に入ったというのも本音だろう。 話を呑まなければその場で射殺されるという計算も働いての即答だろうが、本書を読むとむかしのヤクザは男気というものを重視したのがわかる。 そこがシビレルんだなあ。いまの経済ヤクザにそれがあるのだろうか。

●横井英樹事件でついえたアジア進出の夢

 だがしかし、ヤクザは正義に付くわけではない。 昭和33年、横井英樹が東急コンツェルン総帥の五島慶太と組んで東洋精糖乗っ取り事件を起こしたとき、 その1年前、白木屋事件で横井側についた安藤は一転、反横井として東洋精糖側についた。 《安藤 俺が東洋精糖側についたのは、武井さん(敬三)から頼まれたからだ。やくざは筋で身の処し方を決める。 (中略)横井と東洋精糖と、どっちが正しいかなんて関係ない。筋によっちゃ、味方にもなるし敵にもなる。 それが、やくざというものだ。》なんてえ話を聞くと、法治国家の安寧を乱す不逞の輩と断ぜざるを得ない。 しかもその手段たるや、株主総会の前に空から横井・五島を糾弾するビラを撒くというもので――アイデアマンであることは認めるが――、 その文面は「日本経済を攪乱し、社会を毒する魔王・五島慶太、その手先となって実業界を破壊する横井英樹の行為は、必ずや天誅を受くべし」。 正義を標榜するのだ。手段を問わずひたすら勝ちつづけることを宿命づけられたヤクザの姿がそこにある。

 安藤は賭博の胴元にこだわるような旧臘なヤクザではなく、常に未来を見据えている。 海外渡航のままならない昭和30年代、すでに表ビジネスでの海外進出を考えている。 そこへ久保田鉄鋼からラオスの工事を現地のゲリラから守ってほしいという商談が舞い込む。 この話はラオスの王様じきじきの要請で、じつは日本人の子種を求めているというもの。 《安藤 戦争中に日本人との間に出来た子供がとても優秀だから、日本人にはどんどん来て欲しいと、王様が言っているという説明だった。 要するに、ラオスの女とバンバンやってくれというわけだ。》

 「獲得形質は遺伝しない」という生物学の法則に反するような話だが、新しい血を入れたいという希望であるなら納得できる。 なぜなら、「障害中年乱読日記」bR0でとりあげた『ウッふん』(藤田紘一郎、講談社)に、藤田は1968年以来毎年インドネシアに調査に訪れているが、 山奥に調査に行ったとき、そこの酋長から同族結婚で村人が弱ってきているので新しい血を入れたい、 ついては村の娘の相手をしてくれないかと申し込まれたというエピソードを赤裸々に披露している。藤田は開けっぴろげな学問至上主義者だ。

 それはさておき、安藤にはこんなヴィジョンがあった。 《ラオスを本拠地にして、いち早くベトナムやタイに進出して、向こうのトップ連中とパイプを築けば、日本の政財界に力を持つことができる。 そうすれば、当時、右翼の首領だった児玉誉士夫さんを抑え、外国に影響力をもったフィクサーになれる。 そんな思いもあったんだ。》昭和33年にこれだけの絵図をかけるヤクザが何人いただろう。

 いや待てよ、アブナイアブナイ、たいへんな半可通ブリを露呈するところだった。 一般日本人の海外渡航が盛んになったのは1960年代後半からだから、 われわれはなんとなく東南アジアへ行くようになったのはつい最近のことだとおもいこんでいるが、戦争中は東南アジアを植民地としていたわけだから、 われらの父祖のほうがずっと詳しいはず。特に軍人は。詳しかったのは安藤に限らない。 生まれる前のことというのは、学校で教わるか専門書を読むかしなければとんだ赤っ恥を掻く。 ……だがこの構想も横井英樹襲撃事件で懲役をくらい、ついえてしまう。

 この事件の顛末もおもしろいが、所詮逃亡劇、いずれつかまる。どういうわけかさまざまなひとびとに助けられ、 被害者の横井英樹は「影の力」に安藤の減刑嘆願書まで書かされ、伊達秋男裁判長はこんな言葉で判決文を締めくくった。 「なお被告らは、最高学府に学び、良識もあり、行動力もある。これを悪用せず、勤めを終えた暁には、社会のために役立つような人間になってもらいたい」、 求刑12年のところ、判決は懲役8年。

 出所後、安藤組の若い者がつぎつぎに殺害され、その葬儀に郷里からで出てきたおふくろさんの嘆きを見るうち 《安藤 安藤組の看板を上げて十二年だけど、愚連隊時代から数えれば長い時代を俺は生き抜いてきた。義理だ面子だといって、血で血を洗う抗争だ。 命を落とした若い者もいれば、懲役に行った者もたくさんいる。それは果たして何だったんだろうかってね。 そんな思いにとらわれたんだ。》解散を決意。昭和39年12月9日、渋谷区代々木の区民会館で解散式。

 「しかし、いきなり解散では組員は困るんじゃないですか」と向谷は質す。 性粗暴にして懶惰な者がヤクザになるというより、ヤクザにしかなりようのない出自の者が多いということを知っているからだろう。 《安藤 うちの組は、いいところの息子が多かったからね。組を解散しても、もどる場所がある。それに俺がつくった組だ。俺の手で解散するさ。》 いいところの息子、大学出、もどる場所がある――ここに安藤組が組長の一存で解散できた秘密があるのではないだろうか。