78( 2015.7掲載)

 『遺体――震災、津波の果てに――(石井光太、新潮社、2011.10)

  78_itai.jpg

 津波が引いたあとの唐桑村の浜辺に家族を捜しに来た少女が、巡査らしき男に指し示しているのは、砂から突き出た両脚。 胴体は砂中に埋まっている。脚だけで家族とわかったのだろうか。また広田村では海に流された溺死者を漁民が地引き網で引きあげている。 50余人の死体が上がった。――これはともに『三陸海岸大津波』(吉村昭、文春文庫、2004.3)に掲載された明治29年の宮城県の惨状を伝える当時の報道画だ。 新聞や雑誌に写真を掲載する技術がなかったころの手段だが、よけいなものを捨象した絵のほうが状況がわかりやすく、迫力が出るともいえる。

●真の復興とは膨大な死を認め血肉化すること

 石井は、2011年3月14日にいち早く宮城県に駆けつけ、2ヶ月半を被災地で過ごした。 当然上記のような地獄絵図を連日目撃してそのようすをレポートした本だろうとおもったが、そうではなかった。

 目撃したことは目撃したのだ。同じような光景を。《最初は、福島、宮城、岩手の沿岸の町を回り、そこでくりひろげられる惨劇を目撃することになった。 幼いわが子の遺体を抱きしめて棒立ちになっている二十代の母親、海辺でちぎれた腕を見つけて「ここに手があります!」と叫んでいるお年寄り、 流された車の中に親の遺体を見つけて必死になってドアをこじ開けようとしている若い男性、傾いた松の木の枝にぶら下がった母親の亡骸を見つけた小学生ぐらいの少年 ……目に飛び込んでくるものは、怖じ気をふるいたくなるような死に関する光景ばかりだった。》

 石井は毎日被災地の惨状を目にするにつれ、日本人はこの先どうやってこれだけのひとびとが惨死したという事実を受け入れていくのだろうと考えるようになった。 《震災後間もなく、メディアは示し合わせたかのように一斉に「復興」の狼煙を上げはじめた。 だが、現地にいる身としては、被災地にいる人々がこの数え切れないほどの死を認め、血肉化する覚悟を決めない限りそれはあり得ないと思っていた。》 復興とは単に家屋や道路がもとどおりになることではなく、《人間がそこで起きた悲劇を受け入れ、 それを一生十字架のように背負って生きていく決意を固めてはじめて進むものなのだ。》とおもいいたる。 それほど現地のひとびとは眼前で起こったことをいつまでたっても受け入れることができなかったのだ。

●安置所をめぐる3週間に焦点

 ひとりで取材するにはあまりにも対象地域が広すぎて手におえないという物理的側面もあったのではないか。 おそらく石井はエクリチュールにとまどったにちがいない。ひとりで被災地をさまよい歩いても、災害の“芯”のようなものはつかみがたいと感じたのだろう。 《現実というのは立ち位置によって見える光景が大きく異なるが、複数の目線を置くことで、 人々がこの膨大な死にどう向き合っていったかということをつたえようと試みた。》 《本書では、それらの証言を私の視点で構成することで釜石の安置所をめぐる三週間の出来事を主に描いたつもりだ。》 「複数の目線」を「私の視点」で構成するとはどういう意味だろう。何人かの取材をまとめたという意味に取れる。

 念のため……。エクリチュールということばは、ふつう「文体」というふうに訳されるが、「です・ます・である」のような語尾のちがいを指すことばではない。 「表現形式」が最も原義に近いのではないか。世界をいかなるかたちで捉えるか、その形式を指す。 全能視点(神の視点)と個人視点に大別できる。日記体・書簡体などは個人視点だが、 その出来事にかかわるひとびとの日記や書簡を複数集めれば集めるほど全能視点に近づいていく。

 たとえばフランスの小説で、感情表現いっさいなく、ある男の出納簿を延々と書き連ねていくエクリチュールがあった。 何にいくら使ったかという出金の推移で男がある娘に恋をし、女房にばれてさんざんな目に遭うというストーリーを表現していた。 エクリチュールにおいて最も肝要なのは視点だ。

 かくて石井は、人口4万人の釜石市の遺体安置所(廃校になっていた二中の体育館)で展開する光景を記録しようと心に決める。 3月中旬に入ったものの、このころは混乱を極め、遺体安置所の関係者に取材できるようになったのは4月に入ってからだという。

 視線の提供者は主に民生委員の千葉淳、釜石医師会会長の小泉嘉明、岩手県歯科医師会常務理事の西郷慶悦。 そのほかに釜石市職員、消防団員、陸上自衛隊員、海上保安部員。わけても元葬儀社社員千葉の視点を多用する。なぜか。

 《三月十一日以降、釜石のマチはどこまでも瓦礫が積み重なる廃墟となり、ヘドロをかぶった死屍が累々と横たわっていた。 民家に頭をつっこんで死んでいる女性、電信柱にしがみつきながら死後硬直している男性、尖った材が顔に突き刺さったまま仰向けになって転がっている老人。 風の強い日も、雪の降りつもる日も、遺体は何日間も静かに同じ場所でかたまったままだった。》 これは遺体捜索を命じられた釜石市職員松岡公造の視点による文章だ。いうまでもなく執筆したのは石井だが、 全能視点ではない個人視点を多く集めることで出来事の全体像を把握しようとする手法を石井は採用した。

●遺体がなければ納得できない

 遺体安置所で無数の遺体を目にした歯科医の勝ですら、津波から10日たってもそれが本当にあったことなのかどうかいつまでたっても信じられない。 「おれは現実主義者だから、頭では明男の死を認めている。けど、遺体があがらない限り、心でそれを納得することがどうもできなくてね。 釜石にはそういう遺体がまだ多くて、家族とか友人はみな同じ気持ちでいると思う」と釜石市の海鮮居酒屋で焼酎のボトルを空けながらつぶやいた。 石井も同席している。刺身の大皿にはウニだけがない。この近辺では、ウニは溺死体の腐肉を食らうといわれているからだ。 《隣の席にいた貴子はビールを一口飲んで言った。/「明男さんのことは、私もまだ心に引っかかったまま。 遺体が上がって手を合わせる対象ができれば納得いくと思う。でも、そうじゃないと区切りがつかないんです。」》

 勝はいう。《「俺は歯というモノに向き合ってはいたが、安置所に来ていた家族の力にはあまりなれなかった。 直接何かをするということはできなかった。あそこで泣いている家族を支えていたのは、安置所の管理者とか葬儀社の社員、寺院の住職といった人たちだろう。 彼らが泣きじゃくる家族を慰め、供養や埋葬に奔走していた。」》

 「力になれなかった」のは謙遜であり、勝は歯型を取るだけでなく、ほかの先生の協力を得るために車を走らせ、 ときには遠方の店まで赤ちゃんのおむつを買いに行ったりした。だがそこにいた者は、《未曾有の惨状を目にしたからこそ、 もっと自分にできることはなかったか、と懊悩せずにはいられないのだ。》

●実用書として読む

 未曾有の災害だから、いや未曾有ではなくじつは数十年ごとにくりかえされている惨害なのだが、 伊勢神宮の遷宮のように注意深く記録を取って20年ごとに伝承しなければ、いかなる大災害も忘れ去られ、 ひとびとはまるで天地開闢以来の大災害のように慌てふためき、一から対策を立てなければならない。

 旧二中の体育館には毎日毎日遺体が運ばれてくる。どれだけ運ばれてくるかわからないから釜石市も対策のたてようがない。 遺族も家族の遺体を求めて続々と詰めかける。たとえ見つかっても医師の検案書ができなければ遺体を動かすことはできない。 医師は足りない。歯形を確認する歯医者も足りない。DNA検査をする検査課などまだ姿もない。釜石警察署には鑑識課がない。県警に応援を頼む。

 《床に敷かれたブルーシートには、二十体以上の遺体が蓑虫のように毛布にくるまれ一列に並んでいた。 隅で警察官が新しく届いた遺体の服をハサミで切ったり、ポケットから財布や免許証を出して調べたりしている。 二、三十人いるのに物音ひとつしない。遺体からこぼれ落ちた砂が足元に散乱して、うっすらと潮と下水のまじった悪臭が漂う。 死後硬直がはじまっているらしく、毛布の端や、納体袋のチャックからねじれたいくつかの手足が突き出している。》日にちがたつにつれ、これに腐臭が加わる。

 わたしは本書を読みはじめたものの、読みとおす自信がなかった。これほど陰惨で暗い本を読んだことがない。 もちろんユーモアのかけらもない。どうしよう……抛げてしまおうか。

 こんなとき現場を仕切れるのは、だれあろう葬儀社の社員だ。民生委員の千葉淳は元葬儀社の社員だった。 市長はさっそく千葉に安置所の采配を依頼する。このひとが素晴らしい働きをする。 もちろん医師・市職員・消防団員・陸上自衛隊員・海上保安部員もそれぞれの立場で精一杯の働きをするのだが、 遺族の心を軽くしてやるにはまた特殊な経験と技術がいるのだ。わたしは本書を実用書として読むことに決めた。 来るべき首都直下型地震では東日本大震災以上の遺体が散乱するのだ。そのとき自分にできるのは何か。 わたしはすでに遺体のがわにいるだろうが、この一文がなにがしかの働きをすることを祈って書きとどめたい。

●死後硬直のなおしかた

 死後硬直は、筋肉をもみほぐしながら伸ばす。《たとえば腕が曲がっているときは遺体の横に膝をついて、右手で関節の筋肉を揉み、左手で伸ばす。 あるいは口が開いているときは、顎の筋肉を左右交互にさすりながら下顎から持ち上げるように閉じていく。 五分も十分もそれをつづけると、ゆっくりとだが筋肉がほぐれて、固まっていた腕や顎がもとにもどるのだ。》

 逆に、押し寄せる濁流を飲むまいとしたのか、しっかりと口を締めたまま死後硬直している者は、開口器をつかっても頑として口を開かない。 金属製の舌圧子を歯の隙間に入れ、ねじるように少しずつ力を加え、3、4ミリひろげた。 ……こんなときは蒸しタオルで顎をじゅうぶん温めながら少しずつ開いていくといいのではないか。 わたしが顎関節症で顎があかなくなったとき、歯科医が教えてくれた方法だ。もっとも体育館の遺体安置所で蒸しタオルを手に入れるのは困難だろうが。

 遺体は、死後5日で死後硬直がゆるみはじめる。《脂肪の多い女性から順に柔らかくなりだし、筋肉質の男性でも少しずつだが顎が動くようになった。》

 死後硬直をゆるめるときにもうひとつ大切なことがある。ことばだ。《「ちょっとつらいだろうけど頑張ってくれな。 そうだ、もうちょっとだ」/すると、遺体は言うことを聞くかのように手足を伸ばす。》これはどう解釈したらいいのだろう。 おそらく声をかけなくても手足は伸びるのだろう。むしろ声をかけるがわの心をほぐすことに重点があるのではないか。 納体袋に収まりきれないほど硬直してしまった遺体を見るより、まっすぐ収まっている遺体を見るほうが、どれだけ遺族の心は安まるだろう。(つづく)