79( 2015.8掲載)

 『遺体――震災、津波の果てに――(石井光太、新潮社、2011.10)

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(7月号からの続き)

●自衛隊員も辛いのは同じ

 秋田第二十一普通科連隊指揮官の橋口鉄太郎は、26歳、部下数十名をたばね、3月11日夜9時に駐屯地を出発、翌朝6時に釜石市内の甲子中学校に到着、 徒歩で被災地にはいった。自衛隊員も震えだすほどの惨状だった。《陽が落ちると、自衛隊員たちは作業を終え、拠点となっている甲子中にもどった。 校庭には数人が寝泊まりできる天幕がいくつも立てられており、そこで配られた食事を食糧難で困っている地元の人に見られないように隠れて胃に流し込む。》 心苦しいけれども、それを地元民に分けていたのでは救助活動ができない。

 ふだんならすぐに寝付く隊員も、寝返りを打ったり歩き回ったりしている。 《鉄太郎はそうしたことに気がつき、疲れた体に鞭を打って天幕を訪れ、隊員たち一人一人に声をかけたり、隅に呼んで胸にしまい込んだ鬱憤を吐き出させたりした。 これだけの惨劇を目の当たりにしたことで、部下たちが精神的に不安定になっていないか小隊長として気を配る必要があった。》

 3日め、度重なる津波警報にくわえて放射能警報が発令され、屋内退避が命じられた。 《福島第一原子力発電所で一号機につづいて三号機までも建屋が爆発し、放射能が釜石の被災地まで届くという情報が入ったのである。 一日に何度も放射能だの津波だのといわれて逃げ回らなければならない。》警報が出ればチェーンソーなどをかかえたまま瓦礫の上をはいつくばって逃げる。 たとえじっさいに来た津波が数センチのものであってもだ。そのかんにも遺体収容の要請は続々と入ってくる。放っておくわけにはいかない。 あと少しで掘り出せるのに、日没が迫っているため小隊長としては、はやる隊員に撤収命令を出さなければならない。

●救助にくる消防隊員も被災者

 むかしわが家に来てくれていたボランティアのひとりに消防隊員がいた。日々の訓練をしのばせる体脂肪5%ぐらいの寡黙な青年だった。 あるとき彼がいうには、どんなに早く駆けつけても、火元のひとは「おせえじゃねえか馬鹿野郎!」と怒鳴ると、目に涙をうっすらと浮かべて嘆いた。

 被災地ではおそらくこういった情景が無数にくりひろげられたにちがいない。 釜石消防署の磯田照美が岩手県鵜住居(ウノスマイ)町にはいったのは、水が引いた3月15日だった。 住民は素手で瓦礫をどかしたり、倒れた車を起こしたりして肉親の遺体を探していた。 消防署員を見つけると、ここにうちのばあちゃんが埋まっているかもしれない、頼むからそっちの作業は後回しにしてこっちをやってくれと訴える。 瓦礫の量は膨大で、なおかつ重機は1台もない。

 《家族たちは要望が通らないとわかると、その不満を隊員たちにぶつけてくることがあった。 「なんで今になって来るんだよ! 遅すぎるよ。すぐに来てくれたら、娘は死ななくて済んだのに! どうしてくれるんだ」》

 《だが、磯田ばかりでなく、他の多くの隊員たちも実家が流されていたり、肉親や知り合いの行方がわからぬままだったりした。 みんな自分の家庭のことを後回しにして、鵜住居町に救助に入っている。にもかかわらず、地元の住民から八つ当たりのように不平や不満をぶつけられると、 これ以上何をしろというのだという空しさが胸に去来するのだった。》

●火葬にこだわる日本人

 市は身元不明遺体を土葬する方針を固めた。それも仮埋葬だ。数年後掘り返して本葬をおこなう。とたんに大勢の家族が安置所に押しかけるようになった。 「なんとかうちの人を早めに火葬にしてもらうことはできないでしょうか」

 《千葉は入り口に立ち、ある懸念を抱きながらその様子を見守っていた。 震災から十日ぐらい経ったせいで、被災地から運び込まれる遺体には損傷の激しいものが多くなっていた。 瓦礫に押しつぶされたり、海水の溜まりに浸って腐ったりして、見るも無惨な姿になっている。 以前若いボランティアが働かせてくれとやって来たこともあったが、みんなそれを目にした途端に逃げ帰ってしまうほどだった。》 《変わり果てた悲惨な姿は、家族が大切に抱いている生前の美しい面影を破壊してしまうことがある。特に幼い子供にとっては大きなショックだろう。 そこで原形をとどめていないような遺体については、事情を説明して最初は顔写真だけで確認してもらうことにした。》

 あまりにも変色してしまった母親の体を見て、せめて顔だけでも化粧をしてくれないかと頼む娘がいた。 千葉は納棺師ではなかったが、葬儀社に勤めていたとき死に化粧をした経験を持つ。 ファンデーションを塗る前になるべく厚くクリームを塗るのがコツのようだ。

 釜石市長は八方手を尽くして近隣都市の火葬場を貸してくれるように頼みこんだ。 同時に連日防災行政無線のスピーカーに向かって、3月25日から身元不明者と引き取り手のない遺体を土葬にすると告げた。 すると数日間で遺体の85パーセントの身元が明らかになった。家にこもっている高齢者にも告知できたからだろうと石井は分析している。 確かに文書が回ってきても眼鏡をなくした者には伝わらない。媒体には細心の注意を払わなければならないことはいうまでもないが、 「土葬にする」という実感がわいて慌てたという面もあるのではないか。日本人はつくづく土葬がいやなのだ。

 5月18日、旧二中の安置所は閉鎖されることになった。石井も立ち会った。日蓮宗の若い副住職が読経を始める。 《初めのうち副住職は型通りにお経を読んでいたが、切り火を取り出して打ち始めた直後に、声をつまらせた。 見ると、真っ赤になった目から涙があふれて頬を伝っている。袈裟の袖で目尻を拭って先をつづけようとするが、声が震えてうまくつづかない。》 嗚咽は最後まで止まらなかった。

 最後まで身元のわからない遺体は、共同墓地で永代供養をされることになった。どうしてこれほどまでに日本人は火葬に執着するのか。 不思議なほどだ。火葬は仏教の伝来とともにひろまったらしい。もっと古くからあるという説もあるが、明治政府が神仏分離令で火葬を禁じたことは、 仏教渡来以前の神道では土葬だったということだろう。すくなくとも明治前後のひとはそう考えていたわけだ。

 釜石には3つの葬儀社があった。ふだんはライバル社だが3社は協力して棺の確保に努めようとしたものの、最大の葬儀社は被災してたすけにならない。 2社だけで死者3000人を火葬しなければならない。それまで遺体を保存するためのドライアイスがない。 《通常、遺体の保存につかうドライアイスの量は、一体当たり十キロだ。三百体だとしたら三トン。三千体だとしたら三十トン必要になる。》 電話もつながらない状況では連絡も取り合えない。

 旧二中の体育館にはすこしずつ桐棺が並び始めていた。毎日のように肉親の顔を見に来る家族にしてみれば、 遺体がビニール製の納体袋に入っているより真新しい棺に収められているほうが気持ちが楽になるはずだ。 《しかし、いつになっても釜石斎場の火葬場が運転を再開する兆しはなかった。震災直後から火葬場はベルトの故障、燃料の不足、 電気の停止といった三つの問題から機能停止に陥っているにもかかわらず、遺体は毎日何十体も掘り出されていたため、 旧二中につづいて紀州造林や旧小佐野市といった新しい安置所までが設置されていた。 このまま遺体を置きっぱなしにしていればいっぺんに腐りはじめることになる。》

 やっと火葬が再開されたものの、釜石斎場で焼くことができるのは1日4、5体に過ぎないと判明。 安置所で《あまりに膨れ上がっていった遺体の数は、関係者から遺体に払うべき敬意というものを少しずつ奪い去っていった。》 故人の名前をおぼえきれずに番号だけで呼ぶ者もあれば、遺体を土足でまたいだり、笑い話をする者も出てきた。《モノとしてしか感じられなくなったのだ。》

●あの世がなければ生きられない

 そんななか、千葉は朝早く二中をおとずれて夜気で冷たくなった遺体の一体ずつに声をかけていった。 妊婦にはこう声をかけた。「おなかの中にいた赤ちゃんは寒くなかったんじゃないかな。この子はとっても感謝しているはずだよ。 天国へ逝ったら、今度こそ無事におなかの赤ちゃんを産んであげるんだよ。暖かいところで、のびのびと育ててあげようよ。 そしていつか僕がそっちに行ったときに大きくなった赤ちゃんを見せておくれ」

 話は少し本書とずれるが、困窮しきった者はあの世に救いを求めざるを得ないもののようだ。 これは「障害中年乱読日記」50『やわらかな心』(吉野秀雄、講談社文芸文庫)を読んだとき強く感じた。 吉野は妻はつ子がいまわのきわに漏らしたことば「あの世はないものだ」に対して、「あの世がないならば、わたしがあの世をこしらえよう、 そこで再び彼女に会うめあてがないとしたら、とてもこの世を生きていけるはずがない。――と、わたしはそうおもった。
   よしゑやし奈落迦(ナラカ)の火中(ホナカ)さぐるとも再び汝(ナレ)に逢はざらめはや
(中略)お前は否定する、それは正しいであろう、だがそれならば、おれは自力であの世をおし立て、それがたとえ地獄だとしても、 その地獄の火を掻き分けて会わずにはおかぬぞという歌である。」と激しく言い切っている。 「あの世がないならば、わたしがあの世をこしらえよう、そこで再び彼女に会うめあてがないとしたら、とてもこの世を生きていけるはずがない。」 という吉野の言葉は宗教の淵源を示している。いかんともしがたい現実に前をふさがれたとき、ひとは空想のなかに逃げこまざるを得ないのだ。

 千葉にいわせれば、《遺体は人に声をかけられるだけで人間としての尊厳を取りもどす。》とこうなる。 千葉が遺体の尊厳を特にたいせつにしたのにはそれなりの理由がある。 かつて葬儀社で働いていたころ、少子高齢化の進んだ港町では孤独死する老人を扱うことが多くなった。 《腐乱した遺体から蛆を一匹ずつピンセットで取り除いたあとに棺に納め、遺族がやってくるまで葬儀社のホールに何日も安置しなければならないこともあった。 (中略)手があく度に、町の近状やその日の出来事を語って聞かせる。 そうしていると穴だらけの変色した遺体が生前のように喜んだり、悲しんだりするように見えたのだ。》

 そこへ旧知の僧侶仙寿院の芝崎恵応が袈裟を着てはいってきた。千葉が遺体のひとりひとりについて説明をすませると、 市職員手作りの祭壇に向かって読経をはじめた。館内にいた者はすべて作業を中断し、一列に並んで供養に聞き入った。 恵応は必死に涙をこらえながら「南無妙法蓮華経」ととなえつづけた。

 このあたりはみんな日蓮宗なのだろう。これがもし東京直下型地震だったらこうはいかない。 主たる宗教は仏教もどきだろうが、それでも「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」に分かれるだけでなく、各家テンデバラバラな要求を出すだろうし、 クリスチャンもいればムスリムもいて、シーア派とスンニ派がもめたりしたり、そういえばインド人も多いからヒンドゥー教からも苦情が出るかもしれない。 土葬と火葬のちがいにいたっては、本国からも政府関係者が乗り込んできて大騒ぎだ。

●慰めのことばが発揮する大きな力

 釜石医師会会長小泉嘉明は、県警と相談して役割分担を決めた。警官は《運ばれてきた遺体から衣服を脱がし、体に付いた泥を丁寧に洗う。 津波で流された遺体はひどく汚れているため、身元確認の前に水で落とす必要があるのだ。》 納体袋には、発見場所・日時・性別・氏名などを細かく記した紙をつける。服のブランド、指輪の名前、髪の色、特に手術痕・入れ墨は丹念に調べる。

 医師は開口器、ミラー、ライトで遺体の口腔(コウコウ)を見て所見をいい、警官が書き取る。 歯の裏には喉まで黒い砂が詰まっている。ときどき警官がDNAの血液検査を依頼にくる。注射器と採血用容器(スピッツ)を用意する。 《警察官が渡すのは、十センチの長針がついた注射器だ。小泉はこれを受け取ると、遺体の胸の真ん中よりやや左の心臓に向かって突き刺し、血液を採取する。 人は死亡した時点で手足の血管の血が凝固してしまうため、心臓からしか採取することができない。ドロドロとしてどす黒い血液が注射器の中に入ってくる。》

 日に日に遺体はふえていく。探しに来た家族もひとりでは怖くて来られないから大挙して押し寄せる。 警官は入り口の受付に一日中すわって応対、壁には死亡者のリストが貼ってある。

 本人であることを確認すると、ほとんどの者が頭を抱えて崩れるようにその場にうずくまって声を上げる。 《市の職員たちはこうした遺族にどう接していいかわからず、数歩離れて見守ることしかできなかった。 しかし千葉だけは腰を引くことなく、遺族の隣に歩み寄って、手で顔を覆って泣いている人たちにやさしく言葉をかけた。 ある家族には次のように言った。/「つらいかもしれませんが、亡くなった方はご家族に迎えに来てもらえてとても喜んでいると思います。 急にお顔がやさしくなったような気がします。これからは毎日会いに来てあげてください。きっと故人の顔はもっと和らいでいきますから」》

 いかなる惨害においても生き残った者は必ずおのれを責めるものだ。 千葉のことばは科学的でもなければ論理的なものでもないが、それでも遺族の心をやわらかく慰めただろう。 はじめはとまどうだけだった市の職員も、千葉のことばを手本にして家族に話しかけるようになった。 それだけでなく、体育館の正面に金魚鉢で祭壇をもうけた。香炉の代用品だ。祭壇があると遺族は気が楽になる。

●慰めのことば、余録

 旧二中の遺体安置所は、遺体の腐敗を遅らせるため暖房を入れていなかった。 ――この一節を読んだとき、わたしは先妻の死を思い出した。本書とは関係のないことだが、いましばらくの追想をおゆるしいただきたい。

 1994年12月24日、ヘルパーが来る前だから朝9時前か、玄関の外に出た妻が自転車を倒しては起こそうとして、また倒していた。 強い眠剤や安定剤を一日中服用している妻はもうろうとしているのだ。 インターホンで2階の娘を呼び、「おーい、お母さんが自転車と格闘しているぞ」となるべくのんきな声で伝えた。 服薬量が尋常でないことを察知したからだ。高校最後の終業式を迎えた娘に心配をかけたくない。 駆け下りてきた娘は、「いいから、わたしがやるから」としばらく押し問答をしていたが、折良く出勤してきたヘルパーが妻をかかえて室内のベッドに寝かせた。 昼間はほとんど眠っていたから、部屋の一角をカーテンでおおい簡単なベッドルームをつくってやった。 たくさんのひとが出入りする我が家ではむき出しの寝姿を見せるわけにもいかなかった。娘は終業式に出かけた。

 娘も息子もクリスマスイブだから学校から帰ってくるとすぐに遊びに行って夜まで帰ってこなかった。 いつもならカーテンから出てきてトイレに行き、また横になってミカンを食べ煙草を吸うのに、その日は一日中出てこなかった。

 しだいに不吉な予感が胸の中で高じてきたが、ヘルパーもボランティアも帰って、ベッドに寝たきりになっているわたしにはどうしようもなかった。 夕刻帰宅した中3のせがれに「お母さん、息してるか」とたずねたところ、「わかんないけど体は温かい」とカーテンのなかから答えたので少し安心した。

 夜11時に友達を連れて娘が帰ってきた。妻の様子を見させると、「歯を食いしばって、口の横から血が出ている」といった。 悪い予感がさらに昂じた。胃洗浄をするような自傷行為はたびたびくりかえしていたが、いままでとはちがう。 枕もとのスピーカーホンにつながった環境制御装置を使って119を回した。消防と警察が同時に来たような記憶がある。 カーテンのなかでは妻の衣服をはさみで切り裂く音がした。

 カーテンから出てきた救急隊員は、「ご主人、奥様はもうお亡くなりになっています」と告げた。 「硬直の程度から見て、心肺機能が停止してからだいぶ時間がたっているようです」

 その瞬間、猛烈な悲しみがおそってきた。全身の毛穴から悲しみが吹き出すような……。 今日一日膨らみ続けた不安という風船に針を刺されたように、「ええっ!」という驚きの声が出た。 まさか……。わたしは嗚咽した。泣いていると娘が手でわたしの涙をぬぐいながら、「しょうがないよおとうさん、あきらめよ、もうしょうがないよ。 わたしもがんばるからさ」おちついたあかるい声ではあったが、顔を見ると、涙がひとすじながれていた。

 「体が温かいのはエアコンと電気毛布のせいです」あした都の監察医が来るので電気毛布はとって、エアコンはなるべく弱くするようにと注意を受けた。 最後に、「ご主人、どうか気を落とさずにお子さんたちと力を合わせ頑張ってください」と力強くいいのこして刑事も救急隊員も帰った。

 そのことばは、そういうばあいの常套句であったかもしれないが、わたしを勇気づけたのはたしかだった。