80( 2015.9掲載)

 『ランドセル俳人の五・七・五――いじめられ行きたし行けぬ春の雨――(小林凜、ブックマン社、2013.4)

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 まことに心苦しいが、苦情から述べさせてもらいたい。作者に関する苦情ではない。小林少年は小学生にしてすでに堂々たる俳人だ。

 新聞広告でタイトルのわきに代表作のようにして「扇風機あああああああおおおおお」という句が載っていた。 これでイチコロ、購入を即決。この句が本文のどんなコンテクスト(流れ)の中に出てくるのか楽しみにしていたが、ついに姿を現さなかった。これがひとつ。

 ページを開いてすぐ、少年を取り上げた朝日新聞の記事が見開きで掲載されている。単なる写真版でなく、記事のスクラップを本にテープで貼り付けた意匠だ。 しゃれたくふうといっていい。ところがこれが読めない。本はA5判で十分なスペースがあるのに、なぜか写真版を縮小している。 おまけに見開き写真中央部が本のノドぎりぎりに寄せてあるし、開きの悪い造本だから肝心の記事が読めない。 おそらく外注のデザイナーが本作りのイロハを知らなかったのだろう。デザイナーは見てくれ優先で、本が読まれるものであることを二の次にしがちだ。 それをチェックできなかった編集担当者ともども未熟であったといわざるを得ない。

●いじめの犯人は教師だった

 2001年、大阪生。未熟児で生まれたため身体虚弱な小林は、小学校入学から永続的な不登校(簡単にいえば退学)を決めた5年生まで激しいいじめを受けた。

 断続的不登校の時期は、毎日のように野山に出て、俳句を作った。「冬蜘蛛が糸にからまる受難かな」8歳のときに作った句だという。 自然豊かな土地に住んでいるのだろう。だからといってその土地に住む少年が皆このレベルの句を詠めるわけではない。 親や祖父母が俳句を教えたことはなく、テレビや絵本で俳句と出会ったというから天性の才能はいうまでもないが、おもうに孤独が幸いしたのではなかろうか。 わたしはファーブルを連想した。

 いじめにかぎらず、病気や障害をかかえた日本人のなかには俳句や短歌を始めるひとが多い。 ひとりきりになって内省的になる機会が多くなるからだろう。

 わたしはテレビで児童虐待のニュースが流れると、いたたまれなくなってチャンネルを変えてしまう。むかしは連れ子が虐待された。 オスライオンは母子の群れを乗っ取ると、前のオスが産ませた子どもを殺してしまう。授乳中のメスは交尾せず、それでは自分の遺伝子が残せないからだとされる。 連れ子の虐待もそのたぐいだろうが、最近は実の親が虐待するから、ほんとうに異常な世の中になってしまった。

 それはともかく、入学した小林少年に対する同級生の虐待は心胆を寒からしめるほどのものだ。 母親の手記−−。《入学して一週間目。突然後ろから突き飛ばされて左顔面強打。目が開けられないほどの腫脹。 凜にとって頭部の打撲は命取り。入学前に、「頭部の打撲は必ず家庭連絡を」と書類にも記載して頼んでおいたにもかかわらず、 家族が知ったのは下校時、痛々しい顔面を見た時だった。担任の女性教師は即座に「一人でこけました」と言ったが、 凜は「違うよ、後ろから誰かに突き飛ばされた」と主張した。》女の子が職員室に先生を呼びに行った。 クラスの女の子が優しいのは唯一の救いだ。しかし担任の先生はお茶を濁した。

 教師の対応が不可解だ。いつもこうなのだ。同級生〇〇に突き飛ばされて椅子の角に腰を打ち付け、横腹に真っ青な皮下出血を作ってきた時は、 証拠写真を撮って担任に示したが、《五日も経ってから、いままで凜がいじめられたことのない大人しい子の名前を電話で告げてきた。 「本人も認めています。他の子どもたちも証言しています」。》小林少年は犯人を知っている。 「あの子ではない」といいはっても、無実の子どもの冤罪が晴れることはなかった。

 いくらいじめを訴えても、先生は「してない、してない」と否定する。それも学校ぐるみでだ。 「凜太郎さんも鉛筆を落としたり、時間割を教えてもらったり、周りに迷惑をかけてます」やんぬるかな。 本書にそのいきさつは出てこないが、普通学級でなく特別支援学級もしくは特別支援学校への入学を勧めたのではないか。 要するに身体障害児が普通学校に入学するのが不愉快だったのだろう。事実「障害者は学校に来るな」とある生徒にいわれ笑いものになっている。 生徒の発言は教師の発言の反映だ。いじめの犯人は学校だったのだ。

 小林少年の通った小学校の名は、どこにも記されていない。唯一、前掲朝日新聞の記事に、大阪府岸和田市の小学校とあるのがヒントだろう。 ダンジリで有名な岸和田では息子がけんかに負けて帰ってくると、父親が玄関で仁王立ちになり「勝つまで帰ってくるな」といって家に入れない土地柄だときいた。 ついでに「下駄を後ろに隠し持って、相手が出てきたらいきなり下駄でぶちかませ」と作戦を授けるという。 下駄ということばが古くさいから、いまはそんな教育はしていないかもしれないが、いやいや土地柄というのは案外変わらないものだ。 新聞記事をわざと読みにくくしてあるのも、岸和田という地名をできることなら出したくなかったためかもしれない。

●句作について

 わたしに俳句を論じる資格はない。まるで才能がない。高校3年生の夏休みの宿題で作った句が、「盆踊りオバQ音頭ばかりだな」これだ。 同級生たちはみんなみごとな作品を作っていた。メンボクない……。

 そこへいくと小林は、《春嵐賢治のコートなびかせて−−嵐のような日、コートの襟を立てて歩いていると、宮沢賢治のコート姿の写真を思い出しました。(10歳)》 10歳で宮沢賢治に目をとめ、なおかつ少し自己陶酔にひたっている。

 3年生のとき「紅葉で神が染めたる天地かな」という句で「朝日俳壇」に初入選。4年生で2回入選。「朝日子ども新聞」ではない。 「朝日俳壇」はここに載ったら親戚一同を集めて入選祝いをするといわれている、それほどの舞台なのだ。 ところが祖母の回想によれば、《その俳句を彼の成長の証として学校に持って行ったのに、一笑に付された》そうだ。無教養きわまりない教師たち。

 俳句脳、短歌脳というものがあるとわたしはおもっている。俳句脳のひとは何でも5・7・5で表現してしまうし、短歌脳のひとは何を見ても短歌が口をついて出る。 与謝野鉄幹が夏目漱石の葬式の一部始終をすべて短歌で述べているのを見たときそう確信した。 小林少年の俳句脳は、幼き日カルタで見た蕪村の「月は東に日は西に」がきっかけだったという。