83( 2015.12掲載)

 『観察の記録六〇年――秘蔵写真が語る自然のふしぎ――  (矢島稔、平凡社、2014.4)

  83_kansatsuno.jpg

●「写真はその人の思想の結晶」

 日本動物学会から動物学教育賞を授与された記念の出版とあって、本作りが上品で美しい(装幀・本文デザイン/鷲巣隆・木高あすよ)。 A5判、1ページ43字19行、ワタリ3センチ。正統的な本作りで読みやすい。

 1953年(昭和28)に接写のできる一眼レフカメラを購入したという。そうとう高価だったのではないか。 「写真はその人の思想の結晶だ」という矢島にとっては何物にも代えがたいもので、手に入れたときの喜びが伝わってくる。 矢島の観察写真は、接写レンズの入手から始まる。

 わたくしごとになるが、ああ、おれも接写レンズがほしいなあとしばしばおもう。 いや、と同時に入手しても使いようがないともおもう。わたしは全身麻痺の身でなんとか写真を撮る方法を編み出した。 簡単にいえば車椅子に三脚をのせて、シャッターはリモートコードで切るというものだが、下半身がカメラよりずっと前に伸びているので、 花にせよ虫にせよ、たとえ動かないものでもカメラを被写体の間近に持っていくことは不可能なのだ。

 矢島は1930年東京府豊多摩郡野方町(現中野区)生まれ。おお、ご近所ではないか。東京学芸大学で昆虫学を学ぶ。 その後、都立多摩動物公園の昆虫園の開設を皮切りに、さまざまな動物・昆虫関係の要職を歴任、NHKラジオの「夏休み子ども科学電話相談」の回答者までしている。 昆虫一筋の温厚な学者で、内容はもちろん昆虫の話ばかり、俗っぽい話など出てこない。 だが、人生の集大成としてとりくんだ「ぐんま昆虫の森」の開設にあたって、東大の教授になったばかりの設計担当者安藤忠雄氏が矢島の意見をいっこうに 聞き入れようとせずに、矢島が60年かかって集めた1万2000冊を寄贈した図書室は、天井を平らなガラスで覆ったため本の日焼けがはなはだしく、 あまつさえほうぼうで雨漏りが始まるしまつ。こんな話をおおやけにするとは、安藤氏の傲岸不遜ぶりによほど腹を据えかねたとみえる。

 興味深い昆虫の生態写真を紹介する本はいまでは珍しくないが、矢島が青春期を送った終戦直後にはエコロジーの考え方や昆虫そのものへの関心を持つひとも少なく、 こういうことを学ぶにはどうしたらいいかと悩んだ。《東京でこうした内容について学べるところを探してみると、 わたしの最初の恩師である安立綱光(アダチツナミツ)先生のおられた東京農業大学があるだけで、あとは農薬や殺虫剤の会社に就職できる農学部の応用昆虫学教室しかなかった。 しかし、たまたま前に質問に行った文部省の教育研究所におられた古川晴男さんが東京学芸大学の理科の教授として就任されたことを知った。 そこで同大学に入学し、古川教室の一員になった。》

 なぜこの一節を引いたか。いまこのような動機で大学を選ぶ者がいるだろうか。たいていは就職とその先の生活の安定を考え、 おのれのヘンサチがこれくらいだから、まあこんなとこかなといって決めるのではないか。矢島の実家が裕福だったのかもしれない。 それにしても学問一筋で進路を決定している。こういうひとでなければ偉業を達成することはできないだろう。

●農薬で急速に悪化する自然環境

 タガメのオスはかいがいしい。メスは交尾後、水面から10センチぐらいの高さの水草に卵を100個ぐらい固めて産むが、すぐにほかの場所に移動する (矢島は書いていないが、きっとほかのオスと交わりに行くのだとわたしはおもう)。 《ところが交尾したオスは、産卵された杭や水草の水中の根元でじっと動かない。新しい空気を吸うときだけは水面まで上昇し、腹端を水上に出して呼吸をする。 そして、夕方から夜の間は、杭や水草を登って卵の上に体をかぶせ、卵が乾かないように湿り気を与えながら卵を守る行動を取る。》

 ほんとうに矢島が述べたいのは生態についてではない。昭和20年代には都内の西多摩地方にはいたタガメやタイコウチが、 昭和30年代から使われだした農薬のせいでホタル、ゲンゴロウなどとともに姿を消してしまったという事実だ。 さらに深く読めば、単にむかしはよかったと懐旧するだけではなく、むかしはむかしで昆虫好きが昆虫を殺す会社に就職せざるを得なかったという 矛盾を指摘する態度も忘れていないことがわかる。

●日高先生にギナンドロモルフを質問

 1968年1月、いつものように多摩動物公園の蝶の温室へ行き飼育器をのぞくと、ナガサキアゲハのオスが羽化したばかりだった。 「またオスですよ」担当者は卵のとれないオスだとがっかりする。ところがよく見ると、片側の翅にメス特有の白い斑文がある。 まぎれもないギナンドロモルフだった。

 ギナンドロモルフなんていう言葉は初めて聞いた。《同一個体の中にオスとメスが部分的にモザイク状にあることをいい、 日本では雌雄嵌合体(カンゴウタイ)と訳されている。》すぐに親しかった東京農工大学の日高敏隆氏のもとへ持参する。 《日高さんは内分泌学が専門だったので意見を聞くと、「昆虫には、性ホルモンが全身にひろがらずモザイク状になることが多い。 すると、体の部分にオスまたはメスの状態が現われるので、右脚はオスだが左脚はメスとか、翅の一部だけがオスといったことが起こる。 このナガサキアゲハは、体細胞の分裂初期に性染色体に異常が起こったため、体の正中線からはっきりオスとメスの違いが現われ、 左右の触覚の長さや複眼の曲率が違うようになったのだろう」ということであった。》

 日高先生、おなつかしや。わたしが早川書房でノンフィクション『虫の惑星』(単行本は1972年刊)を担当していたころ、 一、二度東京農工大の研究室にお邪魔したことがある。数人のお弟子さんで研究室はにぎやかだった。 いまでいうサファリシャツがハンガーに掛かっていた。ああ、こんなシャツを着て野山を駆け巡っておられるのだとおもうとうらやましくてしかたなかった。 すでに売れっ子翻訳者で、先生は学生・院生に章を分けて翻訳を分担させ、最終チェックをするという仕事のしかたをしておられた。 それは弟子を鍛えるためでもあるからいいのだが、昆虫以外のことはあまり気になさらない。 誰が訳したのか文中の詩の翻訳があまりにもまずいので、上司の許可を得たうえで手を入れた。翻訳書の編集担当者の主な任務は誤訳のチェックだ。 −−年寄りの文章はつい自慢話になってしまう(笑)。

●キリンも頸髄損傷に気をつけている

 脊椎動物の頸椎は、哺乳類、魚類を問わず皆7本だ。しかし首の長いキリンと短いカバでは頸髄損傷になる確率が違うのではないかと、 以前の拙著でおもしろ半分に書いた。本書を読んでそれが杞憂ではないことを知った。 立ったままの母親から2メートル近く落下して生まれるときが最も危ないようだ。生物全般に通暁した矢島はこの瞬間を心配している。 キリンの母親はいかにして安全に出産するか−−。矢島の文章の正確さとそこから生まれる感動をじかに味わってもらうため1節まるごと引用する。

 《アミメキリンの妊娠期間は四七〇日前後といわれている。多摩動物公園では、キリン一〇〇頭誕生祭というイベントを行なったことがあるほど、 たくさんのキリンが生まれた時期があった。動物の繁殖に成功するには、良いカップルがいることと、扱い方のうまい飼育担当者がいることが重要である。 個体どうしのトラブルを少なくしたりして、群れ全体に気配りのできる飼育担当者がいれば、成功する確率は高くなる。 どんな生きものにも個性があるし、なぜか気の合うものと合わないものに分かれてしまうのである。

 アミメキリンの出産の写真は、一九八六年(昭和六一)九月のもので、多摩動物公園のアフリカ園で撮影したものだ。 午後四時ごろ、メスの生殖口から子どもの前脚が二本出ているのを見つけ、すぐ産室に収容した。 時とともに前脚が全部出ると、続いて頭が出てきた(写真106・140ページ)。もちろん、まだ呼吸はしていない。 野生の動物は誰の手も借りずに出産するが、万一途中で予期せぬことが起こった場合を考え、獣医をはじめスタッフはいろいろな薬品や用具をそろえ、 万全を期してじっと進行を見守る。子どもの体は次第に出てきて、いよいよ一番幅の広い肩のところまで出てくる。 長い首が下に下がっているので、このまま落ちたら首が折れてしまうだろうと心配になった。

 ところが、ここで母親は尻尾をピンとのばし、体を前後に振りだした(写真107・140ページ)。 そして、子どもの首が自分の体の前に着きそうな瞬間に気張って、子どもを下に落とした。 こうすれば子どもは背中から地面に落ち、そのショックで息を始める。立ったまま長い首を少しも痛めずに産む方法を、メスはみんな知っているのである。 この出産は約三時間かかるが、担当の近藤さんはときどき同じ調子でキリンの名を呼ぶ。これは母親を安心させる効果がある。 目に見えない大切な飼育技術の一つにちがいない。

 母親は地上の子どもの体をていねいに舌でなめ、一五分くらいかかって、ぬるぬるしているものを取り除いた。 その間に子どもは意識がはっきりし、今、体をなめているのが母親だと分かるようになるのだろう。 約一〇分くらいで子どもは首全体を立て、はっきりと親は子を、子は親を互いに覚えるように見える(写真108・141ページ)。

 次に母親は前脚で子どもの体をそっと打って、立ち上がるように促す。脚の長い子どもは立ち上がるのも不安そうだが、 何度かひっくりかえりながらも歩けるように努力し、約一〇分くらいで歩けるようになる(写真109・141ページ)。

 結局、産み落とされてから三〇分後には、母親と歩いているのが普通である。 野生では出産は血の匂いがするので、少しでも早くその場を立ち去らないと危険である。 ときには、猛獣などに襲われ、子どもが食べられてしまうこともあるにちがいない。母親は子どもを急がせて、早く遠くに逃げる必要があるのだ。 飼育されていても、早く歩けとうながす行動は変わらない。》

 腹側から地面に落ちようと背側から落ちようと、子どもが頸髄を損傷する確率は一見同じようにおもえるが、前後に振られたばあい、 おそらく背側から落ちれば先に腰や背が地面に当たり、ワンクッション置いて首が地面に当たるから危険が少なくなるのだろう。

●高木毅復興大臣に想ふ(笑)

 そんなことにこだわるのは、いうまでもなく自分が頸髄を損傷したからだ。 1987年、都内の神経科医院(わかりやすくいえば精神病院)で持続睡眠療法を受けている最中にベランダから転落して頸髄損傷者になった。 どういう様子だったのか、大量の睡眠薬で睡眠もしくは亜睡眠状態に置かれていたので記憶がない。 もはや二十数年も前のことだから全身麻痺も背中の激痛も受け入れて新しい人生を目指す決意でいた。

 ところが2009年のサントリー「アラキドン酸」のTVCMにいきなり頭髪まんなか分けのヌメーとした顔が出てきた時は、 忘れたい人生の一コマがもろによみがえってきた。肩書きを見るとQ林大学医学部のK教授とある。 それを皮切りに、最近もテレビのコメンテーターなどをしているからいきなり眼前に現われる。ひどく不愉快。 Kはわたしの入院当時、アルバイト医ながら実質上わたしの治療に当たった。薬のさじ加減をした記録が残っている。 受傷後1年の入院を経て在宅になってから医院を告訴し、6年にわたる医療裁判をおこなった。Kが「訴外」になったのはアルバイトだったからだ。

 病院相手の裁判は、きわめて難しいといわれている。なぜなら医療訴訟には「3つの壁」すなわち専門性の壁、密室性の壁、封建制の壁があるからだ。 「専門性の壁」に対しては、医療訴訟に詳しい弁護士を中心に弁護団を結成したり、裁判における精神鑑定のベテラン逸見医師をわがほうの証言者として立てた。 持続睡眠療法は時代遅れの危険な療法だという驚くべき事実が明らかになった。

 「密室性の壁」(たとえば被告はわたしが無断離院をはかって転落したのだから医院に責任はないという)に対しては、 転落時わたしの付添婦をしていた女性をわがほうの証人として立てることに成功した。 彼女は長年この医院で働いてきて医院の実態をつぶさに見てきたひとだ。転落事故はこれまでにもたびたびあり、その対策も講じてきたが、 わたしのばあいには当院はそれを怠っていたと捨て身の証言してくれた。

 「封建制の壁」は医者どうしのかばい合いのこと。K医師は当然のこと医院側の証人として法廷に立った。 彼は私が転落事故を起こす直前のカルテに、「夜間せん妄著明」と自ら記載して、 私が持続睡眠療法で投与されていた薬の副作用でせん妄状態に陥っていることを知っていた。 それなのに、事故が起こった途端、わたしの異常行動の原因は投与した薬にはない、原告が精神分裂病だからだと証言した。 あっけにとられた。分裂病であるなら、持続睡眠療法などまったく無意味な治療法で、分裂病に対する治療をすべきだったことになる。 その点を追求されて、この医師は、証言台で立ち往生している。まだ統合失調症とはいわず、しかも不治の病とされていたころのことだ。 「専門性の壁」を利用しようとしたのだろう。人間、保身のためならなんとでもいうとおもい知った。 ところで逸見先生はわたしとは縁もゆかりもないかた。それが証言台に立ってくださるというので、わたしは感激して自筆の手紙を口で書いて差し上げた。 すると、「分裂病のひとにこんな首尾一貫した手紙は書けないので、これを証拠物件として提出すればいい」というご返事をいただいた。 封建制の壁などとは無縁な医師もいるということを医師の名誉のためにも付け加えておきたい。

 象牙の塔でひっそりと生きていればいいものを、テレビなどに出たがるものだからスキャンダルを暴かれることになる。 匿名にしてもらっただけありがたいとおもえ(笑)。あっぱれ教授に御出世なさった彼は、大臣に出世したばかりに過去のパンティ泥棒を暴かれたひとをおもわせる。 ……アア、いかんいかん、美しい本をたたえるはずだったのに、キタナイ結末になってしまった。