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 『ぼくは眠れない』  (椎名誠、新潮新書、2014.12)

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●タフな男を演じていた椎名

 本書のタイトルを新聞広告で見て、意外の感に打たれた。椎名は若いころから遊びや仕事で日本各地ひいては世界各地を旅している。 ありきたりの観光旅行ではない。国内なら無人島を含む島々、海外なら秘境と呼べる場所にいどんでいる。 なんの本だったか、「とりあえず水平なところならどこでも眠れる」と豪語していたような気がする。 それくらい図太い神経の持ち主でなければ秘境の旅などできはしないだろう。

 それが70歳の今日に至るまで「35年間、不眠症。」とオビに大書してある。1980年にストアーズ社を辞めてからずうーっと不眠症ということになるではないか。 アウトドアでビールグビグビ、寝袋ひとつでどこでも寝られる頼もしい兄貴分だと信じてきたのに……。

 もう一つ意外におもった経験を書いておこう。ある年の冬、彼の奥さんが野菜でひな人形を作って「野菜びな展」という展覧会をした。 わたしが「在宅」になってまだ間もないころのことだ。介助用の車椅子を妻(先妻、以下同)が押し、 小学生の子ども2人が傘をさしかけるというような方法で氷雨降る新宿の会場に着いた。わたしがけがをする前から妻と奥さんは面識がある。 奥さんはわたしたちを見つけると駆け寄ってきてわたしの着ているごつくて硬いジャンパーを脱がせるのを手伝ってくれた。 なんのためらいもない自然な動作だった。「風邪を引いたらたいへん、椎名も(という表現だったかどうか定かではない) ああ見えてすぐにのどを腫らして熱を出すんですよ」といった。意外だった。わたしは若いころから椎名をずいぶん読んできたが、そんな弱みなど見せたことはなかった。 椎名はタフな男を演じていたのだ。

 本書ではこう告白している。サラリーマンのころは《ヘビースモーカーで、それがためか、ときどき喉を腫らせた。風邪っぽくなると症状はいつも喉に出てしまう。 扁桃腺炎である。これはかなりの確率で高熱が出る。》39度ぐらい出したようだ。

●2度もお見舞いをいただいたのは?

 1987年にけがをして、約1年入院した。いくつかの病院を回った。その間に椎名夫妻のお見舞いを2度受けた。 椎名が日本はいうに及ばず世界中を飛び回っていたころのことだ。病室の「100円テレビ」でビールのコマーシャルに出ているのを見た。 それほど多忙な彼が、なんでまた2度も見舞いに来てくれたのか。

 そもそもはわたしの妻が、雑誌に掲載された「岳物語」を単行本にするためワープロで電子化するというアルバイトを下請けの底辺としてしたことによる。 秘密保持のためか、著者名も書名も分からないコピー原稿を打ちこむのだが、あまりにもおもしろいので、 「ねえねえ、これ誰が書いたのかしら」といって原稿を持って来た。わたしはすぐにわかった。以来、妻は椎名に何通もファンレターを出していたし、 そのうち自分の精神状態が悪くなったことや、夫も引きずられるようにして具合が悪くなったこと、 ついには大けがを負ったことなどを知らせていたからだろうとボンヤリ推測した。

 1986年当時、わが家は都内の高島平団地に住んでいたのだが、妻は知合いに出会うのが苦痛で団地内の商店にも行けなくなった。 わかりやすくウツ病といっておこうか。それなら転地療養すれば好転するかとおもい三浦半島の金沢文庫に移った。ところが良くなるどころかまた入院してしまった。 高島平なら親戚もいたが、見知らぬ地でなんら支援の手もない。妻に何かと責められつづけたわたしも憂鬱になり、眠れなくなっていた。 そのころ椎名の最新刊『パタゴニア』を読んだ。重苦しい本だった。何が重苦しさの原因だったのか、本書『ぼくは眠れない』を読んでやっと分かった。 じつは椎名夫妻もわれわれと同じように心を病んでいたのだ。なぜ病んだのか。

●異世界の奔流に巻き込まれ

 椎名が勤めていた会社は、流通業界の業界誌を扱う出版社のようだ。30代半ばで月刊誌の編集長をしながら出版部というものをつくった。 月刊誌も単行本も椎名の企画で、ともによく売れた。すご腕の編集者といっていいだろう。 特に『大型店イベント資料集』はいまの値段で1冊20万円ほどもするものを400部作ったらまたたくまに売れてしまった。 社長は喜んだが、専務や常務はやっかんだ。外部の出版社から『クレジットとキャッシュレス社会』という本を出したところ、やっかみはいっそう激しくなり、 『さらば国分寺書店のオババ』(情報センター出版局、1979)がベストセラーになるに及んで、退社せざるを得なくなる。

 最近のサラリーマン向け雑誌では不眠特集を組まれることが多いらしい。わたしはそれらの広告を見る機会も少ないのでよく知らないのだが、 不眠症とウツはセットで扱われているとのこと。気になるのは、不眠症が特に働き盛りの40代前後にふえているということ。 椎名は36歳で不眠症を発症した。わたしもやはり36歳だ。生物学的な理由は考えにくい。むしろそのころサラリーマンとしての会社における立場、 あるいは家庭における立場でなにかが起きるのではないだろうか。

 《気がつくと、ぼくは毎日夜更けにガバッと起きるようになっていた。》会社を辞めるあたりから不眠症が始まる。 当時はサラリーマンといえば正社員に決まっていたから、やはり気楽な稼業だった。額にかかわらず定期収入の存在は大きい。 会社を辞めてすぐFM東京のパーソナリティを引き受けたのも、それが4年契約だったからだ。ちなみに江藤淳のような売れっ子評論家でも、 大学教授の職を得たときは胸をなでおろしたという話を聞いたことがある。

 FMの音楽パーソナリティをやっていれば、出版界以外の有名人にも気をつかわなければならない。 《そしてその疲労をなんとか和らげるのが、仕事終りのサケであり、帰宅してからのサケであったが、それでも経済は安定成長期のまっさかりの頃である。 出版マスコミなどは夜十一時でも普通に働いているから、そんな時間に平気で自宅に電話をかけてくる。》 今では考えられないことだが、作家の住所・電話番号は、たとえば文藝春秋刊の『文藝手帳』にずらりと並んでいた。 手元の1986年版には椎名のそれも載っている。《あとで気がつくことになるのだが、ぼくがソトで飲んで遅くなって帰宅する日などは、 そういう電話を受けているのが妻であった。彼女はごく普通に対応していたようだが、保育士としての仕事が毎日あったから、 家事がすんだあとは彼女もクタクタに疲れている。そういうところに「はじめて電話しますが」などといっていろんな用件で夜中に電話が入ってくるのだった。 /そういう人の、やっぱり不作法な用件を妻は箇条書きにして僕の机の上に置いてくれていた。 /「なるほどこういう世界なのか」/だんだん、異世界の強引な流れに翻弄されていく自分と、家族たちを感じた。》 加えてアタマのおかしいストーカー女が椎名家に押しかけて家族をおびえさせた。

●『パタゴニア』の暗い記憶

 『パタゴニア――あるいは風とタンポポの物語り――』(情報センター出版局、1987.5)という旅行記は、1983年11月出立、 1987年3月脱稿。ずいぶんかかっている。執筆に難渋を極めたのだろう。書き手にとっても重苦しい内容だったのだろうが、 読むわたしにとっても重苦しい内容だった。わたしが「持続睡眠療法」を受けるためとある精神病院に入院したのが同年6月だから、 上梓されたものをすぐ入手したとみえる。

 椎名が奥さんの異変に気づいたのは、パタゴニア出発のわずか1週間前のことだった。どうしたんだと問いかけても返事もしない。 そこでつい「いったい何がどうしたんだ?!」と怒鳴ってしまう。《妻はそこではじめて僕の顔を見つめ、それから黙って涙だけ流した。》 奥さんはぼんやり窓の外を眺め「頭の中で電話の音がする」と低い声で言った。 そこで以前椎名がノイローゼになったとき奥さんに連れられていった中沢正夫医師のところへ、今度は椎名がつれていった。 妻がほとんど口をきかなくなり、いつも引きつったような表情をしていると訴えながら、椎名は「話しながら、何カ月もそういう変化に気づかなかったのは、 自分がここ数年、旅行ばかりしていてほとんど家にいなかったので、わかりようがなかったのだ、ということにも気がついた。」 だから風は椎名、タンポポは奥さんのことのようだ。(評者注:引用文は『ぼくは眠れない』のみ《 》でくくり、『パタゴニア』からの引用は「 」でくくった)

 出発の朝、「一瞬僕の目に妻の視線がとまり、しかしそれは素早く空中に流れた。妻はまだ僕の目を見ようとはしなかったのだ。 彼女はそれからすばやく自転車に乗って家の前の細い道を走っていった。自転車に乗って去っていく妻の体が思いがけないほど小さく頼りなげに見えた。 曲がり角で妻は必死に決心したようにいきなり振り返った。そしてそのまま垣のむこうに消えていった。」夫にとってこんなにおそろしい瞬間があるだろうか。 このシーンは旅のあいだずっと椎名の頭から離れない。「帰ったら妻はもう生きてはいないのではないか、という恐れにおびえていた。」

 サンチアゴのホテルに着いて、「シャワーを浴びるために、トランクをあけた。すると、 トランクのまん中のあたりにひしゃげてつぶれたぼくの知らない薄黄色の花が二本入っていた。冬に咲く野の花のようだった。 一瞬呆然としたが、それは知らぬ間に妻が入れたものだ、ということがわかった。」 夫の無事を祈る気持ち、家に残された妻の心細さをひしひしと感じさせる場面だ。 「あの花は妻の別れの挨拶ではなかったのか、と考えるようになり、ぼくは嵐のリリエンタール号のベッドで、 時として絶叫したくなるほど不穏な気分になったりしたのだ。」そこまで思い詰めている。 これをはじめて読んだときは自分自身の精神状態が椎名と同じ、あるいはくりかえされる妻の自傷行為によってもっと悪化していたので、 黄色い花2本はひどく悲しく映った。

 帰国後、ご亭主はいたく反省して仕事の調整などをしたのか、奥さんは急速に元気を取り戻したようだ。 というのも1988年に2度目の見舞いをいただいたときには、念願のチベット旅行に行ってきたあとらしく、 チョモランマの頂上の形をした選りすぐりの石をおみやげにくださったからだ。

●不眠症を克服

 さてそろそろ椎名の不眠症とその克服法について語らねばならない。小説を書くのに難渋し、午前3時ぐらいには手書きの疲れが限界を知らせる。 《たいしたものは書いていないのだが、フル回転していた脳がひとり興奮しているようだった。 まあ考えてみれば、頭の中はいままで原稿用紙の上に必死に構築してきた「どこか別の世界」をまだ彷徨っているのだから、 電気のスイッチを切るように「さあ、次は眠りの世界ですよ!」などというふうに簡単には切り換えられない。》

 安眠法あるいは入眠法の要諦はここに尽きる。小説家にかぎらず受験生や研究者が深夜就寝寸前まで脳をフル回転させていれば必ず不眠症になる。 頭脳労働と睡眠のあいだに入浴とかアホなテレビとか、何かワンクッション置かなければいけない。 いやビカビカ光るテレビ画面も良くないから音楽のほうがいいかもしれない。

 酒の力を借りるのもまずいようだ。《「酒の眠りはうたかたで、酒はむしろ覚醒作用をする」ということをぼくはだいぶあとになって体と脳で理解していくのだが、 まだこの頃はわかっていない。》ウーン、医学的にはそうなのだろうが、ここんとこはちょっとイギありだな。 寝付きが悪い、あるいは夜中に目覚めてしまったとき、むかしならアルコールとタバコを持って書斎のオーディオの前にすわり、 ごついヘッドフォンをかぶってウィスキーのオンザロックを飲みながらジャズのレコードを聴いたものだ。 あれはあれでそうとうしあわせなひとときだったと、寝返りひとつ打てず、体の痛みに耐えているいまではおもう。

 奥さんに導かれ精神科に行き、デパスとユーロジンを処方される。デパスは内科でも出す軽い安定剤だ。わたしもずいぶん飲んだ。 ユーロジンは入眠剤。これがとてもよく効いたらしいのだが、なにしろ睡眠薬初心者だから「超早朝」に飲んで翌日の浮揚感のようなものを楽しむというでたらめをする。 わたしがけがをしたのはその半年後らしい。

 ここでページをめくったとたん拙著からの引用文が出てきたので驚いた。不眠症の恐ろしさを強調するためだろう。 《リハビリ方針が落ちついた頃にお見舞いに行ったが、結局寝たきりのままで本当に何もできなかった。 見る、聞く、話す、という知覚表現と対応がやっとで、状況は厳しかった。》いつ見舞いに行くべきかタイミングを計っていたのだ。 国立リハビリテーションセンター病院に入院し――ハロー・ベストが取れたころだろうか――リハビリが始まったと妻から聞いて、 もうそろそろ良かろうとおもって来てくれたのだろう。だがわたしはピクリとも動かなかった。

●よく眠れた経験

 「35年間、不眠症。」とはいっても、当然ここちよく眠れたこともあって、それはどんなときだったのかということについても 「心安らかに寝られる場所は」という章でいくつか記している。カギは《同じような状態になっている人がまわりに沢山いる、 というのも“寝られるなにか”の条件にかなっているいるのかもしれない。》たとえば電車の中。眠っていられるのは日本に限られるようだが。 たとえば数人の仲間と大きなテントの中で狭い寝袋に入っていると安心してぐっすり寝入ってしまうが、 これはセイウチが数百頭身を接して集団睡眠しているのと同じ安心感によるものだと考察している。 《寝袋に入って狭いところでぎゅうぎゅうになっている様子はセイウチとさして変わらないかもしれない。》

 カナダの北極圏を夏に旅したときは、《ツンドラの上の氷が融けてそこから常に蚊が羽化しているわけだから蚊の煙幕攻撃だった。》 どんなにすばやくテントに入っても最低100匹は自分と一緒に入り込む。飯はイヌイットが釣ったトラウトのパンがゆだが、 顔や手は蚊に刺されまくる上に、鍋の中にも蚊がどっさり落ちてピクピクやっている。そんなことを気にしている余裕はないから、 かまわず食ってしまう。一夏で2000匹ぐらいの蚊を食った計算になるという。 《面白いことに、この蚊に包囲されたテントでは思いのほかよく眠れた。そこまで来るのにそうとう疲れていた、ということもあるのだろうが、 人間はあまりにも環境の異常なところでは精神が驚嘆し、ついで諦めてしまってあとは現実逃避、自己逃避の延長で「寝るしかない」と思うのかもしれない。》

 ついでこんな秘話も明かす。《若い頃、街の喧嘩でちょっと相手に怪我をさせてしまったので逮捕、留置されたことがあった。 小さな房には先住の自動車泥棒と詐欺師がいたが、ここでも三日間けっこうよく眠れてしまった。本来は拘束されていたり、閉じ込められてしまった場合、 不安が先にたってなかなか寝られないのではないかと思っていたが、そうでもないのである。》

 途上国には「不眠症」など存在しないという体験的考察も開陳している。 バリ島の「ケチャ」や「ガムラン」の軽い音だけを静かにBGMとして流しているホテルの夜は心地よかった。 《ぼくはここにいるあいだ毎晩、眠るためのクスリなど飲まずにごく普通に柔らかい眠りに入っていった。 /よく眠れたのは、それなりの取材仕事があったので毎日あちこち動き回っていたし昼は白砂の広がる海浜レストランで、 波の音を聞き太陽の光を浴びながら冷たいビールとともに簡単な昼飯を摂っていたからだろう。 太陽の光は睡眠物質であるメラトニンを脳内に作る。(中略)ぼくはかなり世界各地の田舎を旅しているが、 途上国には「不眠症」など存在していないのだろうなあ、というのを体験的に知っている。 村人が暇そうにして涼み台の上に集まってボンヤリ話している風景はまことに羨ましい。》 《モンゴルは何度も旅した土地だが、ゲル(遊牧民の組み立て式移動家屋、白い半球形をしている)の中では常によく眠れた。 特に風が丸いゲルの壁をさらさら流れていく音が上質の素晴らしい睡眠に誘ってくれていたような気がする。》 非文明的な環境の中で単純な反復音を聞きながら横になるのがいいようだ。

 いまは睡眠薬を毛嫌いせずに共存している。落語のCDを聞きながら寝床に付くと、睡眠薬など飲まなくても知らないうちに眠り込んでしまうという。 そういえば国リハに初めて見舞いを受けたとき、落語のテープをどっさり持って来てくれた。 寝たきり患者の暇つぶし用だとわたしはうけとったが、不眠症がもとのけがだと聞いた彼は、結局はそこにたどりつくと予感していたのかもしれない。