86( 2016.3掲載)

 『言わなければよかったのに日記』 (深沢七郎、中央公論、1958)

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(2月号からの続き)

●母の最期

 深沢は35歳でなくした母の最期についてこう語っている。

 《母は七十二で死んだのだが、もと笛吹川の川底だった河原に隠居所を作って住んでいた。私も疎開していた時で、そこに一緒にいた。 肝臓癌だったが、病名を知らせる勇気がなくて教えなかった。十月十六日に死んだのだが、九月十八日の彼岸の入りの日に、
「わしが変った姿になっても、泣いたりしてはダメだよ」
と、母自身から云い渡されて、あの時は途方にくれてしまった。
 彼岸中に雨が降って、私が蒔いた菜の種が、
 「イッパイ、揃って芽が出てきたよ」
 と云うと、
 「見たいよう」
 と云うのである。縁側から私の背におぶさって菜のところまで行ったが、私の背中は火を負ぶっているように熱かった。
 「おっかさん、苦しくはないけ」
 と云って、苦しいのを我慢していると思ったので帰ろうとすると、母は背の方から私の目の前に見せるように手を出して、前へ前へと手を振った。 こんな苦しい思いをしても見たいのかと指図されるままに私はもっと前へ前へと進んだ。
 こんなことを書くのは、なんだか恥かしいけど、楢山節考で、山へ行ったおりんがものも云わず前へ前へと手を振るところはあの時のおっかさんと同じだ。
 あの小説がベストセラーになって、親しい人から、
 「おっかさんが生きていたら」
 と、よく云われた。ボクはそのたびにソッポを向いてしまうのだ。そうして、わけのわからないような返事をしてしてしまうのだ。
 この一番憎らしい言葉を、どうして、みんな、ボクに云うのだろう。どうしてもできないことを、ボクにさせようと苦しめるのだ。 私は、云われるたびに、その人たちを残酷な人だと思う。》母を亡くしたのは1949年、『楢山節考』が中央公論新人賞を受賞したのは1956年のこと。

●江戸庶民の恋文

 「江戸風ポルカ」という一文に、江戸の庶民のラブレターの話が出てくる。男女とも文字が書けないという前提だが、江戸地方の識字率は世界一だったはず。 幕末の識字率は、全国平均で男子43%、女子10%、都会に限れば80%だったとネットにはある。でもここでは深沢が書いていることをそのまま紹介しよう。

 《ラブレターのことを昔はフミと云って、女からフミを貰えば昔はたいへんな名誉でございました。 もっとも、貰う方もやる方も無筆と云って字の書けない者と読めない者同士のやりとりでした。》出すのは女と決まっている。 細長く折ったフミをへの字に結んですれちがいざまに男の袂に投げ入れる。フミを出すほうももらうほうも文字の読める者に頼むのだが、中身などどうでもよい。
 ♪見捨てられたか八重山ぶき
 ♪うるわし牡丹のある故に
 ちょっとすねたような内容にする。もらったほうはもちろん有頂天でみんなに触れ歩く。

 女の次の一手は、
 ♪今夜来るかと、み山の奥の山百合は
 ♪そよ吹くお風に待つばかり

 《と書きます、つまり、今夜からは来るか来るかと待っているが来ないのに決まっていますよ、妾はお恨みしていますよ、というわけでございます。 まだ、なんにも相手の男の反応がわからないのに、こんな風にきめてしまうのですが、これがなかなか色ッぽいものでございます。 これでフミは終りでございますが、おしまいに「御存知より」と書きます。自分の名など書きません、フミをやるときに、 わかるようにやりますから名前など書く必要がないのでございます。また、はっきりと名前など書いてあるのはドギツイもので、 貰った方でもうんざりしてしまいます。そこのところが昔の人は呼吸がうまかったのでございました。》

 初耳だ。ほんとうだろうか。狭い共同体の中でなら成立しそうな話だが。さてフミをもらった男は「ヘン」を書く。 これも中の文句などはどうでもいい。《男と女がたのしんでいる絵を書いてやったりしたヘンもあったのでございますが、これが立派なヘンで、 いろよい返事でございました。つまり、「愛している」ということを現わしたものでございまして相手の女はまじめに受け取ったのでございます。》 幕末の江戸では春画は女子どもでもおおっぴらに眺めるものだったと「障害老人乱読日記」bR6、37、38の『逝きし世の面影――日本近代素描T――』 (渡辺京二、葦書房)が述べていたのをおもいだす。もっともケータイ社会の現代では会ったこともない男が女にヌード写真を送れと要求したり、 二人でむつみ合ったりしているところを男女合意のうえで撮影し、仲がこじれると男がネット上にばらまいたりするのだから江戸時代のほうがずっと健全だったといえる。 しかしなんだなあ、男のヘンが男女むつみ合う絵であったというのは、確かに渡辺のいうところの「当時の日本人にとって、男女とは相互に惚れ合うものだった。 つまり両者の関係を規定するのは性的結合だった」と符合する。でもわたしが知らないだけで、いまの若者はこれに近いことをしているような気もする。(=_=;)

 まあどこまで本当なのかわからないが、「廓風ポルカ」にはこんな話が載っている。 《昔は女を買いに行って、お金を払っても向うが「嫌だ」と云えばそのまま帰ってきたのでございます。泣き寝入りという奴でございます。 「金を返してくれ」なんては云いませんでした。これを「ふられた」と申します。ふられて帰っても、 もてて帰っても明日の朝になると近所中に知れてしまったものでございます。そうなると行く時にはおかみさんの方が一所懸命になってしまいます。 なるべく小綺麗にして、もてて帰って来るように応援するのでございます。ふられて帰ったりするとおかみさんまで恥をかくからでございます。 出がけにツノを立てて嫌味を云ったりなど決していたしません。》……どうだかなあ。深沢が結婚していたかどうかは知らないが、同棲していたことはあっただろう。 そんなときチクチクやられるものだからこんな話をでっち上げたのではないか。ただ、 たしかに「障害中年乱読日記」bS6『川柳のエロティシズム』(下山弘、新潮選書)などを読むと、下女に手を出したりするとおかみさんは嫌味をいうが、 亭主が廓に行くからどうのという川柳は見かけなかったような気がする。

●俗語のオベンキョ

 ときどきわたしの知らない古い俗語が出てくる。この手のものが好きなので意味を調べてみることにした。

 「うしろから見りゃ弁天さまよ、前にまわれば……」正宗白鳥が椅子に腰掛けて新聞を読む姿は、病人を看病する姿のようだったと観察するときに出てくる文句。 広辞苑には出てこない。ネットで調べると、「後ろ弁天、前不動」後ろから見るとあたかも弁天様のように美しいが、 前へ回ってみるとまるで不動明王のような怖い顔の女性だということです。−−とあった。「外面如菩薩、内心如夜叉」なら落語の本でおぼえた。

 「屁をひって尻つぼみ」これまでの人生で何度か出会ったことのあることわざだから、 これくらいなら広辞苑に載っているかと思って第6版の電子辞書を引いたが載ってない。だらしない辞書だ。しょうがない、ネットに頼る。 「失敗した後で、慌てて隠したり、取り繕うことのたとえ」とあった。

 「かったいのかさうらみ」おおこれは広辞苑に出ていた。「癩の瘡うらみ」(ウラミはウラヤミの訛)自分より少しでもよいものを見て羨むことのたとえ。 −−しかしこれでは少々不親切ではなかろうか。すこしでも差別用語を避けようとしてこんな定義になってしまったにちがいない。瘡は梅毒のかさぶたのことだろう。 「癩病のひとが梅毒のひとをうらやむこと」そこまでいわなければもはや通じない。

「スイが身を食う」底本刊行時は実存主義が流行語になっていた。だがその意味を知る者は少なかったようだ。 深沢もどういう意味なんだろうといろいろ探りを入れている。《(ハヽア、実存ということは、親にアイソをつかされて、乞食みたいになって、 ボーッとしていて、キタナイ身なりをしているのだ)と大体わかったような気がした。 (中略)実存というのはイロハカルタの「ラクあれば苦あり」とか「スイが身を食う」というのとおんなじらしい。》広辞苑にあり。 「粋が身を食う。花柳界や芸人社会の事情に通じて粋(イキ)がることは、ついにはその道に溺れて、身を滅ぼすこととなる。」