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 『イラン人は面白すぎる!』 (エマミ・シュン・サラミ、光文社新書、2012.4)

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●ペルシャ帝国の誇りがイランを支える

 イラン抜きにイスラム教を語るのは片手落ちだ。イランはイスラム教国ではあるけれども、アラブではない。 なぜならアラビア語でなくペルシャ語を話すからだ。正倉院御物からペルシャ渡来の宝物が出てくるところをみれば、 ペルシャにもまた隊商を組む商人としてシルクロードを往復したノマドもいたのだろうが、基本的には古くからつづく国民国家としての性格が色濃かったのだろう。

 ところで中東地域をながめたばあい、ほとんどがイスラム教国であるのに、なぜアラブとペルシャの違いがあるのかいままでわからなかったが、本書でその謎が解けた。 一説にムハンマドの死後、8世紀当時《アラブ民族から侵攻を受けていたペルシャ民族だが、遊牧民族のアラブ民族を小バカにしていたため、 アラブに支配されるのを許せなかった。彼らはペルセポリスなど素晴らしい文明を持つペルシャ帝国をつくった民族というプライドを持っていたからだ。》 要するに国民国家はノマドを小バカにしており、ノマドに飲み込まれることなど許せなかったのだ。

 ペルシャ帝国は、アレクサンダー大王や十字軍に滅ぼされた歴史を持つ。ペルシャとアラブは、ヨーロッパ、モンゴル帝国、オスマントルコにも蹂躙された。 その後もアラブは英仏に分断され、パレスチナの地に異教国イスラエルを建国されてしまった。 《それでもイラン人には、ペルシャ帝国という心の奥底で輝き続ける誇りを支えにできたが、アラブには唯一、預言者ムハンマドが兵を率い、 ペルシャ、トルコ、アフリカなどに侵攻し、イスラム教を広めていった歴史しかない。》

 世界遺産をたくさん持つイラン人はよほどペルシャ帝国が誇らしいらしく、こんなことをいう。 《エジプトこそピラミッド、スフィンクスなどのエジプト文明があるものの、中東アジアのアラブ諸国にはそれがない。 四度にわたるイスラエル、アラブの中東戦争で、リーダーシップをとるエジプトとその他アラブの足並みが最終的にそろわなかったのは、 文明的なコンプレックスも原因のひとつだと思う。》斬新な意見だ。前掲書『一神教と国家』で中田は、民衆はイスラーム世界を統一しようとしているにもかかわらず、 イスラーム世界の支配層である湾岸の王政諸国が既得権を守るため分裂の恒久化を図っているからだと分析している。まあ両方だろうな。

●ジョーク好きの愉快な国民

 イスラム教を国別に分けると、シーア派は、イラン、アゼルバイジャン、レバノンの3ヶ国のみ(面積でいえばほとんどイランだけ)。 あとはみんなスンニ派だ。これではスンニ派対シーア派は9対1になる。なぜシーア派がそんなに少ないのか。 スンニ派が優秀な指導者であれば出自を問わないのに対し、シーア派がムハンマドの血脈を継ぐ者でなければイマーム(最高指導者)として戴かないからだ。 厳格なのだ。1979年ごろの「イラン革命」で最高指導者になったホメイニ師は、いかにも頑固で謹厳実直そうでコワイ顔してたもんなあ。 革命で逐われたパーレビ国王、ラフマディネジャド前大統領も強面だった。ではイランはシーア派でガチガチのうるさい国かといえば、著者エマミによれば、 国民はテキトーにやっている愉快な国なのだ。

 そういえば「障害中年乱読日記」bR0『イラン・ジョーク集――笑いは世界をつなぐ――』の著者モクタリ・ダヴィッドも、 「イランでは人が集まれば必ず誰かがジョークを言い、雰囲気を明るくする」と述べていた。

 著者は1980年、イランのテヘランに生まれ、10歳で来日。東海大学中退後、吉本興業で漫才コンビ「デスペラード」結成。 帯に「笑って学べるイスラム読本」とある。前掲『一神教と国家』よりずっとおもしろい。 この本をきっかけにイスラム文化やイスラム教徒に抱くネガティブなイメージを少しでも和らげてほしいというのが著者の願いだから、 ことさらテキトーで愉快な面を強調しているのかもしれない。

 日本人はイスラム教徒というとアルカイダやのような恐ろしい集団を思い浮かべるが、彼らは日本でいえばオウム真理教のようなもので、 ふつうのイスラム教徒からは嫌われているという。《お笑いライブでは、アルカイダをいじるとお客さんによくウケる。 そんなとき、イラン人全体がアルカイダのような過激な人たちだと思われていることをしみじみと実感する。》逆にイラン人は日本人が大好き。 イランで「おしん」が放映されたときは視聴率90%、世論調査で大統領になってほしいひとでは泉ピン子が上位にランクインしたそうだ。

●度しがたいイスラム教の女性蔑視

 前掲書と異なり、イスラム世界を観念でなく日常としてとらえている。それだけに生々しい。 前掲書の中田はきれいごとしかいっていないと感じさせるほどだ。たとえばイスラム教で女性蔑視がはなはだしいのは事実のようだ。 女性に教育はいらないというのでマララ・ユスフザイさんが銃撃されたのはまだ記憶に新しい。これはひとえに『コーラン』に責任がある。

 『コーラン』に曰く、女性は男性をたぶらかす危険な存在、天国では美しい処女がかしずいてくれる(処女となにをするのだ)、 女は欲深く恩知らず、地獄を見渡すと、いたのはほとんど女だった……。 中田によれば、『クルアーン』は、すべてムハンマドが直接アッラーから授かった教義であるとのこと。 よっぽどアッラーは天国で女にひどい目に遭わされたのだろう。ただし著者エマミにいわせると、イスラム男性は決して女性を差別したりしない。 むしろ女性はか弱き存在であり、手厚く守るのが男の使命だとおもっている。あたりまえだ。男といえども女性から生まれるのだ。

 しかしエマミがどう思おうと、シャリア法(イスラム刑法)は処女信仰が非常に強く、それは文化だからかまわないとしても、 男女関係においては女性は理不尽な状態に置かれている。《僕がイランにいた頃、近所に住む一七歳の少女が襲ってきた強盗と取っ組み合いになり、 少女が強盗を川に突き落として死なせるという事件があった。/この場合、日本では正当防衛が成立し、彼女は罪に問われないだろう。 しかし悲しいことに、イランに生まれてしまった彼女は、死刑を宣告されてしまったのである。》 2004年には16歳の少女が51歳の男に性的暴行を受け、男は死刑になったが、被害者の少女も姦通罪で死刑判決を受けた。 ことほどさように男尊女卑がはなはだしい。

 しかし、90年代までは女性の進学には強い風当たりもあったが、いまや大学進学者の半数以上は女性であるとのこと。

●イスラム女性は目で殺す

 女性をすっぽりと覆う布をイランではチャドルと呼ぶ。特に顔を隠す部分をベールと呼ぶ。 外出するときは必ずチャドルで全身を覆わなければならないが、たまたま突風でベールがはがれたときには半狂乱になるという。 イラン女性にとって「スカーフを取ることは下着を脱ぐことと一緒」なのだ。

 そのわりにイスラム女性はひとと会話するとき決して目をそらさない。 《イスラム女性にとって、目は自由に自分を表現することができる唯一の手段なのだ。 流し目、上目づかい、ウルウル濡れた目(僕はチワワ目と呼んでいる)など、目の動きだけで男を悩殺するテクニックを何種類も本能的に身につけている。 (中略)さらに驚くことに、イランのランジェリーショップには、ストリッパーでも尻込みしてしまうようなド派手な下着がたくさん置いてある。 観光客が面白がって購入するようなシロモノだが、一般女性に飛ぶように売れているらしい。 あえてセクシーな下着を身につけることによって内面の情欲を外に放つことができ、チャドルの上から見ても、身体の線が女性らしく丸みを帯びるからだという。》 イスラム女性は目で殺す−−いまおもいついた格言だ。

 恋愛禁止、婚前交渉禁止のイスラム社会において(デートはおろか、独身男女が雑談しただけで逮捕されてしまう)、 初めて女性と結ばれるときは人生至福の時だ。だが、「ハッピーエンドとは、ベールをめくった瞬間死ぬことだ」ということわざもあるらしい。 解釈の困難なことわざだ(笑)。

●イラン人の礼拝は1日3回

 イスラム教にはシャリア法という道徳規範がある。道徳規範というより刑法に近いもののようだ。喜捨・礼拝・証言・巡礼・断食がそれ。 礼拝については日本人も広く知るようになった。1日に5回メッカのほうを向いてするのだが、イラン人の大半を占めるシーア派は1日3回でいいのだそうだ。 初めて聞いた。日本ではイスラム教徒の9割を占めるスンニ派のことしか報道されていないのだ。 しかもまじめにお祈りしているイラン人はあまりいないというからこれまたびっくり。著者の父親は「わたしはいま非常に体調が悪い。 こんな体調で神に祈るのはかえって失礼だ」といってお祈りをサボっていたそうだ。 「地面アレルギー」を口実にする奴もいて、しかしそんなテキトーな大人のほうが子どもには好かれる。そりゃそうだろう。

 巡礼期間になると、メッカ(サウジアラビア)のカアバ神殿には300万人以上のイスラム教徒が訪れる。 カアバ神殿の中央には「黒い石」と呼ばれる建物があり、巡礼者たちは石のまわりを7周する。毎年200人ぐらいが圧死するとのこと。 《また、巡礼経験者に聞いたところ、不特定多数の人間が接吻しているせいか、黒い石に顔を近づけるとすさまじい臭いがするらしい。 顔中ヒゲだらけのオヤジが舌を出してディープキスをしている姿を見て、かなり萎(ナ)えたとも言っていた。》 巡礼期間中は食べ物をいっさい口にしてはならないとも記されているが、いったい何日間のことなのだろう。イランからサウジまでは相当な距離だが。

 カアバ神殿での儀式3日間が終わると、つぎはアラファト山登山。毎年2000人以上の負傷者、300人前後の死者が出る。 巡礼経験者がまわりから一目置かれるのは当然のことだろう。

●真夏のラマダンは地獄絵図

 ラマダンはそうとう辛そうだ。昼時には腹の虫が鳴ってしかたがない。もっとも辛いのは日が落ちる寸前の16時過ぎ。至る所でけんかが始まる。 食べ物も飲み物もいっさい口にしてはいけない。特に水が辛い。《真夏にラマダン月が重なると、街中の人が「水〜、水〜」と叫び出し、 地獄絵図さながらの光景があちこちで展開されることになる。》ところがここにもイラン人は抜け道を見いだす。やたらと顔を洗う。プールへ行く。 プールの閉館時には水かさが3分の1に減っている。病人、妊婦、出産直後の女性、赤ちゃんなどはラマダンでも断食を免除される。 医者にマラリアの偽診断書を書いてもらって食いまくるひともいる。ばれて逮捕されたが。《しかし、宗教なんて矛盾だらけのものなのだ。 聖書やコーランといっても、一冊の本。それを大金持ち、貧乏人、権力者、奴隷、健常者、身体障害者、社長、じいさん、子ども……、 みんながみんな同じ解釈をするわけがない。》卓見だとおもう。

 ラマダンの意義は、
 1.断食をすることで、食べられる喜びを再認識する。
 2.満足に食べることができない貧しい人々への理解を深め、援助の意識を高める。
 3.煩悩を押さえるための忍耐力を養う。

 これを王族などの富裕階級がおこなえば有意義なことだ。貧乏人は一年中ラマダンのようなものではないのか。

●イランの酒事情――メッカよりサッポロ

 イランは1978年ごろの革命以前は、欧米色の濃いイスラム国家だったし、いままで見たようにエーカゲンというか根が明るい国民性だから、 けっこう酒も飲んでいたし、いまでも飲んでいる。革命後イランに行ったひとに聞いたら「白い石油」と呼んでいたとのこと。 うまい逃げ道だとその時はおもったが、いまでは日本帰りのイラン人は「夕焼けよりアサヒ」「ラクダよりキリン」「メッカよりサッポロ」といっているそうだ。

 《「コーランで禁止されているお酒を飲んで、罪悪感はないですか」/一度、酒飲みのイラン人にこう質問したところ、めちゃくちゃな答えが返ってきた。 /「酒もダメ、女も博打もダメ、なんでもかんでも禁止されているから危険な思想に走ってしまうひともいるじゃないか。 オレは危険なことをしない代わりに酒を飲んでもいいんだ!」》めちゃくちゃどころか、至極まっとうな意見だとおもう。 どこの国でも国民の欲望を適度にコントロールすることで秩序安寧を保っているのだ。砂漠のノマドが酒を飲んだら命にかかわるだろうが、 欧米風の国民国家になったイランではある程度認めるべきだろう。

 そういえば思い出した。若いころ中東関係の雑誌を担当していたとき、リビアの公使とレストランで会食したことがある。 公使はカンパリソーダを注文した。度数の低いものだからかまわないという妥協策だろう。家では何を飲んでいるか知らない。 ちなみに公使は白人だった。エスタブリッシュメントはおおかた白人で、バカンスには対岸のイタリアへ遊びに行くからカンパリになじみがあるのだろうとそのとき感じた。 あのひとはカダフィ亡き後どういう運命をたどったのだろう。