90(2016.7掲載)

 『ある小さなスズメの記録――人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクラレンスの生涯――
 
(クレア・キップス著、梨木香歩訳、文藝春秋)原題 Sold for a Farthing

  90_aruchiisanasuzume.jpg"

 口でページをめくるわたしは小さな文庫本が読みにくいので、できれば単行本で読みたい。 この本が届いたときには驚いた。いまどきB6判箱入り上製なのだもの。ボール箱ではあるけれど、文庫本ふぜいとは風格が違う。 ひょっとしたら児童書を意識しているのかもしれない。

 原題の意味は「無価値なもの」だろうか。一見無価値なように見えても価値のあるものが存在するといいたいのだ。 とにかく暖かくいとおしく、心おちつく本だ。著者は1890〜1976。ピアニスト。本書は1953年刊、大ベストセラーとなりヨーロッパを中心に各国で翻訳された。 訳者は児童文学作家。『西の魔女が死んだ』など著書多数。

●畸形の小スズメを拾って

 ある朝玄関を出ようとして、足もとに瀕死の小スズメが落ちていたら、あなたはどうするだろうか。 気の毒には思うがどう対処してよいかわからず、木の根方にそっと寄せておくしかないのではなかろうか。

 第2次世界大戦中のロンドン、ドイツ軍の爆撃がつづく7月の朝、一人暮らしの寡婦クレアは玄関先で不具の小スズメを見つける。 足と翼に障害があったため巣から落とされたようだ。もう冷たくなっていた瀕死の小スズメをクレアはいかにして生き返らせたか。 炉辺にすわりつづけ、暖かいフランネルに包み、 《やわらかなくちばしを何とか開くことにこぎつけると、使い古しのマッチの軸をそっと差し入れて開けたままの状態を固定し(中略)数分ごと、 小さなのどに温かいミルクを一滴垂らし込んだ。》おお、そうすればいいのか。知識があったのかどうかわからないが、これで第一の危機は乗り越えた。

 その日からかあるいはしばらく経ってからかクレアは小スズメ日記を付けはじめたようだ。時系列で物語は進行していく。 本書に関してはあまり小細工をせず物語を素直になぞることにしよう。

 翌朝には死んでしまうだろうと思っていた小スズメは、《もしも細いヘアピンがさえずることができるとしたら、 こんなふうではないかと思われるような声》で朝食をねだりつづけていた。うまい比喩だ。 イギリス文学の伝統を感じさせる(とかいって、読んだことないけど。だが主人公をクラレンスと表記すること少なく、 たいてい小スズメと乾いた表現を採用しているところなど、そんな気がするのだ)。3日めには目が開き、初めて見たクレアを親と認識する。 《彼は私の枕の上に置いた古い毛皮の手袋の中で眠り、夜明けにはチュンチュン騒いで私の髪の毛を引っ張って起こしては、朝食をせがむのだった。》 ああなんてうらやましい状況だろう。わたしにできるのは、せいぜい窓辺に野鳥の餌と水を置いてくれるようヘルパーに頼むことだけだ。

 飛べるようになったら外へ放してやるつもりだったが、右の翼に欠陥があった。 この曲がった羽は換羽のたびに目立たなくなり、4歳のころには部屋の端から端まで飛ぶことができるようになった。 11歳になるころにはほとんどそれと分からなくなってしまった。《このことは、私に言わせれば、残念なことであった。 というのも、あの曲がった羽こそが、彼を他の鳥たちの中で際立った存在にしていたからである。 十分な勇気と強い個性があれば、畸形もまた一つの特性となりうるのだった。》ここは諸手を挙げて賛成するにはためらいがある。 たしかにいまはなき「こびとプロレス」も乙武洋匡氏も、クレアのいうことがあてはまるが、当人にしてみれば畸形を心の底から喜べるものかどうか……。 少なくともあたしゃそんな個性はいらない。

 クレアは防空監視所の仕事をしていたので、スズメを鉢に入れて出勤した。すこし成長してからは籠で飼った。 《一日のうちで最も楽しいのは、早朝、私が彼の籠から覆いを取って、出てきた彼が――浮き浮きチュンチュンおしゃべりしながら――、 トーストと紅茶のお相伴にあずかろうと私のベッドへ登ってくるときだった。彼は牛乳が好きでとてもたくさん飲んだ。》 ほかの野鳥もミルクを好むとクレアは報告している。初耳。こんどやってみよう。

 飼い主が出かけたあとペットがどうしているかは鳥に限らず犬猫でも気になるものだ。窓から覗いてみると、寂しがらずに、 食べ物やおもちゃで自分を慰めたり、ヘアピン、トランプの札などで遊んでいた。帰ってきたと知るやそれはもうおおさわぎ。

●戦時中の英国民を慰問

 クレアの家に爆弾が落ちた。あたりの状況がはっきりしてくると、《落ち着き払ったようすの彼が――見たところ無傷で――ブランコに乗っているのが分かった。》 ブランコは買い与えた90センチ立方の鳥籠の中の丸屋根から下がっていた。

 ペットに危険は付きもの。《ある朝、恐ろしい瞬間を目撃した。この部屋のドアが半開きになっており、猫が鳥籠の横に座って、じっと中に狙いを定めていたのだ。 スズメは全く動かずに、鳥籠の中で、一番捕食者に近いところの隅の床の上に立っていた。 有り難いことに、周りをぐるりとガラス片で守られており、彼がそこにいる限り、それが猫との間の有効なバリヤーになっていた。 さすがに私も、彼がその唯一安全な場所を意識して選ぶほどの知性を持っていたと主張するつもりはない。 それはたまたま運が良かったということなのだろう。》いやどうだかわからない。その後彼が示すさまざまな才能の片鱗をあらわしているのかもしれない。

 ちなみに水浴びについても記しておきたい。《十一歳になるまで、彼は一日も、いや、一瞬でさえ病気であったことはなかった。 彼は小さいながらも逞しく、冷水浴を日課としていた。》健康で賢かったからこそ一冊のたのしい本が書けたのだ。

 クレアはロンドンの貧民街の救援要員になる。連日の攻撃に対して男たちは勇敢に戦ったが、敵の攻撃が一段落すると退屈のあまり士気が衰えてしまう。 そのときスズメに芸を教えてみんなを慰問しようというアイデアがひらめく。 《彼は驚くほどやすやすと、しかもあっという間にそれを自分のものにした。》特に休養センターの子どもたちには大歓迎される。 作者は《あの過酷な月日を、彼ほど忠実に、そして着実に、自分の国に仕えたスズメは、未だかつて一羽もいなかっただろうと、 私は心の底からの誠を持って言うことができる。》と胸を張る。

 このあたりから写真が入り始める。じつは彼の晩年になって、著者はいくら記録を書いても決定的な証拠写真抜きでは説得力に欠けると思い至る(遅いよ!)。 地元のプロカメラマンふたりを自宅に呼び、さまざまな場面を撮影させるのだが、スズメは撮影をまったく恐れなかった。 カメラ・三脚・照明、どれひとつ怖がることなく、何を要求されても熱心にそれに応じようとした。逆の見方をすれば、すべて経験してきた芸だったからではなかろうか。

 最も喝采を博した芸「防空壕」の写真が載っている。 左手を丸くして上を向けておき「サイレンだ!」というだけでにわかづくりの防空壕のなかに飛び込んでくるので右手でふたをしてやる。 《数分の間じっとしているが、しばらくすると、警報解除のサイレンはまだ鳴らないの? と言わんばかりに、頭だけちょんと突き出して辺りを窺うのだった。》 特に恐怖と退屈にさいなまれている小さな子どもたちには好評で、自分もさせてもらうため列をつくった。 芸の仕込みは単純。好物の麻の実を左手の中に入れておき、彼をすわらせるだけだったのだが、著者の着想がすばらしい。

●近所の野鳥も聴きに来る歌声

 クラレンスには音楽の才能もあった。スズメに歌が教えられるとは信じがたいことだが、 1941年1月、生後6ヶ月のときにピアニストのクレアが肩に雀を止まらせてグランドピアノに向かい1時間以上弾いて聞かせた。 《彼はほとんど最初の日から、音楽に反応し、興奮している様子を見せた。》 そのうちターンやトリルもできるようになった(ターンやトリルには訳注が付いているが、わたしにそれを理解する能力がない)。 《全てのけものや鳥たちには知性が潜んでおり、人間から与えられる愛情や友情の絆の強さによって、差はあるにしても、それを伸ばしていけるということである。》 と断言している。ここでさらに愉快なことについて触れている。

近所の鳥も見学に来たのだ。《容易に想像されることかもしれないが、この若い音楽家は、すぐに近隣の野鳥たちの注目を浴び始めた。 私はよく植え込みの中に隠れて、彼らが私のスズメの部屋の窓のところまで飛んでくるのを観察したものである。 一羽で、ときには二羽、三羽と連れ立って窓枠に立ち、明らかに驚いた様子で、互いに押し合いながら中を見つめていた。 もし鳥が噂話にふけることがあるなら、さぞかし、藪の中や屋根の上で、かしましくしゃべっていたに違いない。》 おそらくこれはクラレンスに限ったことだろう。「障害老人乱読日記」bP1『もの思う鳥たち――鳥類の知られざる人間性――』 にも驚くべき才能を持った鳥たちが出てくるが、鳥類のすべてにそのような才能があるとはおもえなかった。人間に天才がいるように、鳥にも天才がいるのだ。

●臨終の床まで意識清明

 爆撃から逃げまわるように各地を転々とする。どこへ行ってもスズメは平常心。敵機に機銃掃射を受けたとき、《誰かが「伏せろ、伏せるんだ!」と、 どなったのが聞こえた。私はとっさに、そのとき後ろにあった塀の前の地面に鳥籠を置き、それに被さるようにして屈みこんだ。 危険はあっという間に過ぎ去り、飛行機は見えなくなった。スズメはやはり平常心を失わず、私たちは安全に家に帰り着いた。》 飼い主に全幅の信頼を置いているから、外界でなにが起きようが気にならないのだろう。

 スズメはどれくらい生きるものなのだろう。11歳の誕生日を過ぎたころから足が弱りはじめ、夜中に止まり木から落ちたり、水浴びのあとで倒れるようになった。 脳卒中のようだった。からだの部分的なマヒが始まった。ブランコまで上がれなくなった。 《野鳥は危険に遭ったとき、高く飛んで高い木の枝や屋根の上を目指す。そこは彼らにより確かな安全性だけでなく、 彼らを脅かしている根拠となるものを発見するための、観察場所を提供するからである。野鳥がもうその場所へ到達できなくなったとき、 彼らは自らの最期が近いことを知る、という。》ブランコに止まることに執着するスズメのために低めの鳥籠に取り替えてやる。

 鳥の専門医に診せると、便秘や腫瘍も患っていた。視力は落ち、羽がごっそりと抜けた。 医師は最後の手段として「シャンパンを試してみよう」といった。スズメはティースプーン1杯のシャンパンをむさぼるように飲み、 《そしてつぎの朝――酒神バッカスの全信者諸兄よ、記しおかれよ――彼の容体は間違いなく快方に向かっていたのである。》

 死に水はシャンパンにしよう。そのためには自宅で死なねばならぬ。集まってくれた者たちと「臨終に乾杯!」とグラスをあおるのだ。 で、急に元気になっちゃって家族や友人をとまどわせるのだ。愉快愉快。

 とはいえ最期のときが近づいてきているようだった。止まり木に止まることも飛ぶこともできなくなった。 肉体の衰えに屈することなく雀の精神力は以前にも増して強くなっていった。 《彼は止まり木に止まることはできなくなっていたが、生まれて初めて、自分の変形した足を手のように使って、餌つぼを固定し、そこから餌を食べた。 (中略)これは特筆すべき発達であり、このような老齢の鳥にも知的な力があるという証拠になるのである。》 スズメがみんなこれほど賢いとはおもえないが、みずから食生活にも気をつかい、与えられた贅沢なメニューから、消化の悪いものを除外し、 牛乳に浸したパンややわらかい果物だけを選んだ。それでも2度と歌うことはなかった。 《彼の一生は、いわば何にも煩わされることのない、穏やかな小春日和に到達したのだ。》

 《私のスズメはこの小さな本が書かれて後、四ヶ月後の一九五二年、八月二十三日に死んだ。 (中略)十二年と七週と四日の間を生き抜き、最期まで勇敢で、聡明で、意識ははっきりとしていた。死因は、極度の老衰であった。》