94(2016.11掲載)

 『智惠子抄』
 
(高村光太郎、龍星閣、1972.11)

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●すばらしい本づくり

 もしいま『智恵子抄』を買おうとすると、新潮文庫で464円。安いものだが、文庫本は苦手だからアマゾンで検索してみると、中古品が600円、 配送料込みで857円で入手できた。被せ蓋入りの上製本で、箱は変色しているが、中身は新品同様。表紙は布装で、 すっかりくるまれているので背もまったく日焼けなし。もちろん糸かがりだから開きかたも気持ちいいこと。 大もうけした感じ。ただ古本の宿命だが、紙魚がちょっとね。

 さて読了後いま一度アマゾンを検索したら、別の古本屋だったが2800円近くになっていた。 おまけに「マーケットプレイス」(アマゾンの軒先を借りた店子)の出店数が激減していた。いまでもこんな本を読むお客がいるんだなと察して、 業界が一斉に反応したと見るのは穿ちすぎか。

 巻末に「編集者附記 澤田伊四郎」というタイトルで龍星閣主人が本書上梓に至るまでの追想を書いているのも良い。 わたしはかねてから、その本がどういういきさつで世に出たのかということを編集者が巻末に記すべきだと主張している。 まえがきは著者、あとがきは編集者。

●あどけなくない「あどけない話」

 わたしと先妻は高校の同級生だった。『上の空』を上梓したときは多くの同期生が読んでくれたようだ。 地元の高校だから彼らが路上かなにかでたまたま出会うと、「読んだ?」で話が通じたと後に聞いた。 やはり同級生だったM君がある夜訪ねてきてくれた。M君とは生徒会でともに副会長を担当した仲でもある。 文中の「妻は絶望の黒い沼に向かって茫然と歩きだした。私はそれを抱き留めることができない。 気配を察知し、ベッドの中からあらん限りの声で呼びもどすというもどかしいいとなみを幾度くりかえしたことだろう。」 という一文にただならぬ窮状を察知して駆けつけてくれたのだ。わたしたち夫婦の共通の友人だった。先妻は来訪を喜び歓待した。 「なんだ、けっこう明るく暮らしてるじゃないか」とあっけにとられたようなことをいった。日常の実態を知らないから無理もない。

 それからもたびたび来宅し、わたしにパソコンを教えてくれたりした。 身動きできないわたしに代わって小金井公園などに「いいか?」とわたしの承諾を得たうえで妻を連れ出してくれた。妻は大喜びだ。

 あるときM君は、「おまえ『智恵子抄』を読んだことがあるか」とたずねた。「ない」とだけ答えたが、心中は穏やかでなかった。 読んだことはなくても、要するに狂妻を歌った詩集であることぐらいは知っていた。 わたしはそれまで一時的な惑乱のなかにいるだけで、いずれもとの妻にもどるだろうと期待していた。 そうか、もう狂っているのか……。M君は東大出の冷静で頭脳明晰な男だ。幾度かの外出と会話でそれを確信したのだろう。 そうでなければそんな質問はできない。

 先妻が死んで20余年。ようやく『智恵子抄』を読むきっかけになったのは、ある日テレビに映った安達太良山の写真だった (光太郎は阿多多羅山と表記している)。全山綾錦に紅葉した安達太良山のうえに広がる空は、真っ青だった。 これにくらべたら確かに東京の空は本当の空ではない。世間には『智恵子抄』を論じた先達の論考が無数にあるだろう。 それらのひとつだに読んだことのないわたしが屋上屋を重ねる必要はないだろうが、わたしにはわたしなりのやむにやまれぬ思いがある。

 詩集中最も有名なのは「あどけない話」だろうが、わたしはまず真っ先にこのタイトルに反発をおぼえた。

   「あどけない話」

  智恵子は東京に空が無いという、
  ほんとの空が見たいという。
  私は驚いて空を見る。
  桜若葉の間に在るのは、
  切っても切れない
  むかしなじみのきれいな空だ。
  どんよりけむる地平のぼかしは
  うすもも色の朝のしめりだ。
  智恵子は遠くを見ながら言う。
  阿多多羅山(アタタラヤマ)の山の上に
  毎日出ている青い空が
  智恵子のほんとの空だという。
  あどけない空の話である。

 光太郎は2つの点で読者をあざむいているとわたしは見た。1つ。あどけなくなんかない。智恵子は事実を述べているのだ。 この詩には出てこないが、おそらく夜空の清濁も智恵子の心のなかにはあったにちがいない。 2つ。詩の掲載順から見ると、智恵子発狂前の穏やかな日々の光景のように見える。 だがおそらく変調を来たした後に書いたものを手前に移動したのだろう。なぜか。妻には先天的な精神疾患があったといいたいのだ。

●意外に多い性交描写

 ことわっておくがわたしはまったく散文的な男で、詩心などこれっぽちもない。 まして相手は散文詩とはいえ旧字旧仮名で(たいへん情けないが、引用は新字新仮名にさせていただいた)、 なにしろ詩であるから直接的なものいいをしない。だから半分も理解できなかった。でもまあ、交際中のラブレターのようなものから結婚生活、 そして狂ってしまった晩年の智恵子に対する哀切の念のような流れになっているらしいということはつかめた。

 意外だったのは性交描写が多いことだ。無論、下品なものではない。あくまでも詩だ。 「僕等」という詩あたりから肉の喜びが歌い上げられていく。それらしき詩のそれらしき部分を抜書きする (オビの惹句に「『智恵子抄』は永い間、結婚祝いのおくりものとして感謝されてきました。」とあるのは意外。 嫁入り前の娘に母親が贈ったという枕絵のようなものだろうか。まあご覧あれ)。

   「僕等」

  あなたのせっぷんは僕にうるおいを与え
  あなたの抱擁は僕に極甚(ゴクジン)の地味を与える
  あなたの冷たい手足
  あなたの重たく まろいからだ
  あなたの燐光のような皮膚
  その四肢胴体をつらぬく生きものの力
  此等はみな僕の最良のいのちの糧となるものだ

 つづけて「愛の嘆美」

  底の知れない肉体の欲は
  あげ潮どきのおそろしいちから――
  なおも燃え立つ汗ばんだ火に
  火龍(サラマンダラ)はてんてんと躍る

 このあとにも延々と性交描写がつづく。さてここでわからんのはサラマンダラだが、文字どおり火のように燃えるドラゴンなのだろう。 衒学的なルビを振るからわかりにくくなるのであって、「火龍」だけのほうがわかりやすい。「てんてん」はわかるだろうか。 わたしが子どものころ町内の子らとわけもわからず歌っていた戯れ歌の一節に、だれそれのぐあいが悪くなって、「医者呼んでみたら、 ろくろくちんぼがてーんてん」というのがあった(昭和30年代の名古屋のこと)。いまあらためて考えてみると、 「ろくろく」は「ろくろっ首」のろくろく、「てんてん」は中身のふくれあがったものが表面をてらてらと輝かせている状態と察せられる。 『語源でわかった!英単語記憶術』(山並陞一、文春新書)には、「 ten(張る)は、太鼓の皮を張って音を調べること」とある。 要するに光太郎は猛り狂うほどの勃起のさまを形容したのだ。

   「晩餐」

  われらの晩餐は
  嵐よりも烈しい力を帯び
  われらの食後の倦怠は
  不思議な肉欲をめざましめて
  豪雨の中に燃え上がる

 はげしい性交の背景にはしばしば豪雨や暴風が使われている。これを文学的演出という。

 のちに引用する「千鳥と遊ぶ智恵子」の舞台でのことだろう、《君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまったく子供であった。 しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間に在るのではないかという予感をふと感じた。 彼女は実によく均整がとれていた。》運命のつながりがどうとかという部分は文章を曖昧にするためのレトリックであり、 心は童女、体は大人という光太郎の嗜好を垣間見せるものを見て金龍が暴れたといいたかったに過ぎない。 長年夫婦の交わりがなかったと推察させる一節。智恵子が拒否したのだろう。幼児帰りしていたとしても性交を拒否する理由にはならない。 なにかほかに理由があったとしかおもえない。それは何か。
(つづく)